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北条氏康の家系図!子孫はアメリカのケネディ大統領が尊敬した名君?

皆さんは北条氏康ほうじょううじやすを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 北条氏康とは、上杉謙信・武田信玄・今川義元たちとの勢力争いを生き抜き、関東に勢力を広げた名将
    2. 氏康たち後北条氏と、源頼朝の妻・北条政子たち北条一族は、直接的関係はないらしい
    3. 氏康は、脳溢血など脳の病気が原因で亡くなった

関東一の戦国時代の大名として繁栄した北条家は、初代・北条早雲から約100年にわたって活躍した家です。

特に三代目・北条氏康は、武だけでなく領土の統治などの内政にも極めて優秀で、名君としてその名を歴史に刻んでいます。

後北条氏の繁栄から滅亡まで、五代100年にわたる家の歴史、そしてその血脈に関する情報を、くわしく解説していきます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

北条氏康の家系図

以下に北条氏康の家系図をご用意いたしました。

後北条氏の家系図
【家系図の引用等何卒ご遠慮くださいませ】


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北条家・五代それぞれの歴史を解説

戦国時代の北条家は、単に武力で領土を広げるだけではありませんでした。

戦極屈指の名将・上杉謙信や武田信玄との戦いを乗り越えながら、北条の名を天下に知らしめています。

さらには、先進的な領国の経営を行うなど、とても上手にその勢力を関東を中心にして拡大していきました。

北条家をひきいた五人の当主は、以下のとおりです。

  1. 北条早雲そううん(初代)
  2. 北条氏綱うじつな(二代)
  3. 北条氏康うじやす(三代)
  4. 北条氏政うじまさ(四代)
  5. 北条氏直うじなお(五代)

これら北条家五代を詳しく解説します。

初代・北条早雲

北条早雲は、京都の室町幕府につかえた高級官僚から戦国大名に昇りつめた名将です。

北条早雲
引用元Wikipediaより

北条早雲は、もともと伊勢新九郎いせしんくろう伊勢宗瑞いせそうずいという名前だったといわれており、生前に北条早雲と名乗ったことはありません。

おおよそ100年にわたり関東を支配した北条氏を興した謎めいた人物です。

室町幕府・征夷大将軍のすぐそばでつかえた人物だったとも言われており、その経歴には多くの謎があります。

早雲の姉は駿河国を支配する今川家に嫁いでいました。

早雲は、そんな今川家で起こった家督争いを仲裁し、姉とその子である今川氏親を支援します。


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甥・今川氏親を今川家の当主とし、自分は今川家の家臣となって、主家を守る役割を果たします。

このときの功績により、北条早雲は興国寺城という東海道から関東へつながる街道の要衝の城を与えられたといわれています。

同時に、関東の支配権を巡る山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立を背景に、伊豆の足利茶々丸あしかがちゃちゃまるを奇襲で討伐し、相模国(神奈川県)の小田原城を奪取します。

小田原城の攻略では、火牛かぎゅう攻めとして知られる【火のついたたいまつ角につけた牛の群れ】を敵に突撃させ、三崎城も攻略して相模国を制圧。

当時としては進歩的な領国経営を行い、納税システムの改革や戦国大名として初めての検地を行うなど、早雲は相模と伊豆の2カ国を支配する大名にのし上がりました。


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二代・北条氏綱

二代目・北条氏綱は、初代・早雲の息子であり、息子で三代目となる北条氏康を育てあげた名将です。

雷に驚いて隠れる臆病おくびょうな我が子・氏康を、叱るのではなく

「大将にはその用心深さが大切だ」

と、逆にはげましたエピソードは有名です。

北条氏綱
引用元ウィキペディアより

北条氏綱は小田原城を拠点とし、伊勢の姓から北条姓に改めるなど、北条氏の土台をつくりあげています。

氏綱は、その能力を遺憾なく発揮し、関東へ着実に勢力を拡大。

父・早雲が隠居すると、息子の氏綱が家督を継承。

北条氏は関東の大名にとっては異民族のような存在であり、氏綱は改姓することで外部から見ても執権北条氏の後継者であることを示し、また相模国の主として寺社の再建を行うことで、北条氏が相模を支配していることを宣伝する狙いもあったとされています。

北条と名乗った理由は、かつて鎌倉幕府・北条氏を関東から追い出した足利家の鎌倉公方へ対抗するためだったといわれています。

氏綱は今川義元や武田氏と対立し、駿河に侵攻(河東かとうの乱)しました。

当時、相模国の守護は扇谷上杉家であり、氏綱の妹が古河公方の足利晴氏に嫁いだことで、山内上杉憲政との二重の関東管領が誕生しました。

北条氏の領国は武蔵(埼玉)、駿河(静岡県中部)、下総(千葉県中部)など広範囲に及び、関東の主導的な地位を確立する過程となりました。

「義を守っての滅亡と、義を捨てての繁栄は、天地ほどの差がある。

義を捨てて一つ二つの国を手に入れても、天罰から逃れることはできないだろう」

と記された、北条氏綱公・五箇条の訓戒は、あまりにも有名です。

息子の氏康はこの訓戒を守り、娘婿の今川氏真を守るために、同盟者・今川を裏切った盟友・武田信玄を相手に戦っています。


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三代・北条氏康

武田信玄・今川義元と三国同盟を締結し、軍神・上杉謙信を相手に死闘を繰り返した名将です。

武田信玄や今川義元を相手に戦ったこともあり、戦上手でもありました。

氏康は幼い頃から臆病で、雷に驚いて隠れたり、武術の稽古を初めて見た時に驚いて気を失ったという逸話があります。

北条氏康
引用元ウィキペディアより

北条氏康は「相模の獅子しし」と称される武将であり、政治手腕に優れ、先進的な政策を実践するなど、領国で良政を行い、政略結婚を通じて関東の勢力を拡大させました。

領国では六角目安箱の設置や大規模な検地、税制改革を行い、家臣の軍役などの負担を把握し、領国支配の体制を整えました。

1541年に家督を継承し、当初対立していた今川家と、武田信玄の仲介により和解しました。

その後、氏康は「河越夜戦」でわずか8千の兵で夜襲を仕掛け、約8万の大軍に勝利し、扇谷上杉を滅ぼし、山内上杉氏を関東から排除して勢力を上野国まで広げました。

河越夜戦は

  • 織田信長の桶狭間の戦い
  • 毛利元就の厳島の戦い

と並び、日本三大奇襲と呼ばれています。

また、親戚関係にあった古河公方家の足利義氏に家督を譲り渡し、氏康が関東管領としての執権を務めます。

1554年には政略結婚を通じて今川氏、武田氏、北条氏が三国同盟を結成し(甲相駿三国同盟)、氏康は北条の領国を強化しました。


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四代・北条氏政

三代目・北条氏康の息子。豊臣秀吉の小田原合戦を招いてしまい、北条家の滅亡を決定づけてしまった人物。

暗君として評判が悪く、食事の際に、飯に汁を二度かけたことを父・氏康から

「日に三度食う飯にかける汁の量もはかれないのか」

と叱られた逸話は有名です。

しかし、氏政の代で北条家は最大版図を築きあげており、優秀な弟たちを使いこなした手腕は再評価されつつあります。

北条氏政
引用元ウィキペディアより

北条氏政は上杉氏や武田氏との攻防を繰り返しながら、関東の大部分を支配下に組み込むなど、北条氏の勢力を広げました。

氏政は父・氏康が隠居して家督を相続して以降、上杉謙信の関東侵攻や上野国・武蔵の国衆による小田原城への攻撃を撃退しました。

1568年には武田信玄が三国同盟を破棄して駿河に攻め込み、氏政は今川家へ援軍を送りました。

その後、翌年には上杉謙信と手を組み、関東管領としての地位を譲り、上野国も謙信に譲渡する代わりに弟を謙信の養子とする条件で、越相同盟を結びました。

父・氏康の死後、謙信との同盟を破棄し、武田家と再び同盟を結び(甲相同盟)、里見氏と和睦して下総・北上総を手中に収めました。

最終的には徳川家と同盟を結び、織田信長に従うことになりました。

しかし、その後の外交の失敗により、豊臣秀吉が小田原合戦を起こし、氏政は敗北。

氏政は責任を追及され、弟・氏照とともに切腹することになりました。


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五代・北条氏直

四代・北条氏政の子。戦国・後北条氏の五代目で、最後の当主。

徳川家康の娘婿。

若くして豊臣秀吉を相手に、小田原合戦を戦い抜いたものの、敗北し出家した。

北条氏直
引用元Wikipediaより

豊臣秀吉の小田原合戦を回避することができず、切腹するかわりに城内の兵士を助けてほしいと言って秀吉に降伏。

秀吉はその態度に感激し、氏直に刀を与えて褒めたといわれています。

北条氏直の時代には、北条家の影響力は増大していましたが、最終的には没落します。

氏直は父である氏政が引退すると、家督を継承しました。

1582年に武田家が甲越同盟を結び、再び対立が生じ、織田信長の協力を得て武田家を滅ぼしました。

しかし、信長が本能寺の変で亡くなると、乱世が訪れ領地の争奪戦が勃発し、氏直も徳川家との敵対関係(天正壬午てんしょうじんごの乱)が勃発します。

その後、織田信雄・信孝兄弟が調停に入り、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が統治し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで和睦し同盟が成立します。

1589年に真田家との領土紛争が激化し、北条家の家臣・猪俣邦憲が真田家の名胡桃なぐるみ城を攻撃して占拠します。(名胡桃事件)

この攻撃が惣無事令そうぶじれい違反であるとされ、小田原合戦が始まります(惣無事令は大名同士の私闘禁止命令つまり戦争禁止)。

そして北条家は豊臣秀吉に敗北しましたが、家康の娘である督姫の婿であったことから助命されました。

しかし、翌年には氏直は亡くなり、これにより北条家は戦国大名としての地位を喪失しました。

秀吉は、いずれ氏直を許し、伯耆ほうき国(鳥取県)を与えて大名として復帰させるつもりだったともいわれています。

北条家はその後、氏直の従兄弟いとこにあたる北条氏盛が、氏直の養子となって家督を相続し、狭山藩1万石となります。

狭山藩は、明治維新まで続いています。


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源頼朝の妻【北条政子】と【後北条氏】の関係とは?

北条政子たち北条一族と後北条氏のあいだには、これまでの説では、関係性は全くないと言われています。

北条氏康の正室である瑞渓院は、北条政子の家系と何らかの関連があるようです。

北条政子
引用元ウィキペディアより

一説によれば、氏康の正室は北条政子の父・北条時政の血を引く系統である可能性が指摘されています。

ただし、具体的な詳細な資料が乏しいため、確固たる関係性を断言することはできません。

有名な歴史学者・小和田哲男先生は、北条政子の北条一族と、後北条氏のあいだに関係はないと断言しておられました。


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なお、初代早雲の時代は伊勢氏を名乗っていましたが、2代目の氏綱が北条に改名しています。

この変更の理由については、鎌倉時代に相模国を支配していた北条氏の姓を名乗ることで、相模一帯を支配する正当性を主張する狙いがあったと考えられています。

後北条氏という呼称は、鎌倉時代の北条氏との区別のために「後」が付けられたものと考えられています。

後北条氏は、居城が小田原城であることから【小田原北条氏】とも呼ばれています。

ただし、北条政子は伊勢平氏・桓武平氏の血統を持っており、後北条氏もまた伊勢平氏を祖としていることから、血筋をさかのぼれば何らかの繋がりがある可能性があります。

→→→→→【北条政子の子孫】についてくわしくはこちら

→→→→→【北条政子の弟・北条義時の子孫】についてくわしくはこちら


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北条氏康と早川殿や上杉景虎は、どういう関係なの?

今川氏真の妻である早川殿や、上杉謙信の養子である上杉景虎は、ともに北条氏康の子供です。

北条氏、武田氏、今川氏は、甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを結んでおり、それには婚姻同盟も含まれていました。

北条氏康は、自らの娘である早川殿を、今川家12代当主・今川氏真に嫁がせることを決定します。

また、上杉景虎は、氏康の側近である遠山康光の妻の妹との間に生まれた子であり、北条三郎という名前で知られています。

上杉謙信と同盟を結んだ越相同盟の際に、上杉謙信から人質を差し出すことを条件とされ、氏康は息子の三郎を提供しました。


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謙信は、この三郎を大変かわいがり、自らの若い頃の名前である【景虎】と名乗らせたのでした。

景虎は、謙信の甥・上杉景勝と並んで、謙信の養子となっています。

その後、三郎は景虎として上杉謙信の姪(上杉景勝の姉)と結婚しています。

しかし、謙信の死後は、景勝と景虎が家督を巡って争うことになりました。(御館おたての乱

景虎は、景勝に敗北し、亡くなっています。

なお、甲相駿三国同盟や相越同盟の成立には、早川殿と上杉景虎が共に北条家の関東への影響力拡大に寄与した要素となりました。


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北条氏康の子孫

北条氏康の子孫は、現在も続いていますが、その中でも歴史にその名を刻んだ有名人と、現代の子孫をご紹介いたします。

吉良上野介きらこうずけのすけ

氏康の子孫のなかで有名なのは、【忠臣蔵】に登場する悪役・吉良上野介でしょう。

吉良上野介義央・松の廊下の刃傷事件
引用元Wikipediaより

吉良上野介の父、義冬の母親と父方の祖母は、今川家に嫁いだ早川殿の子孫であり、吉良上野介の父の母は武田信玄の系統の子孫でもあります。

→→→→→【早川殿の子孫】についてくわしくはこちら

彼女はまた、今川氏真と北条氏康の娘である早川殿の玄孫(孫の孫)にあたります。

北条家は江戸時代に狭山藩主として継続しました。

その家系は明治維新以降も続き、12代狭山藩主である北条氏恭うじゆきは子爵の地位に列せられました。

また、氏直には氏次という子がいたとする説もあり、その子が仙台藩の武士となり、桑島に改姓して存続したと伝えられています。

この子孫には、幕末の勤皇志士である桑島孟くわじまたけしがいます。【勤皇志士は、天皇に尽くし政治的な運動を支持した人々を指します】

余談ですが、吉良上野介の孫であり、養子でもあった吉良義周きらよしちかは、討ち入りの際に赤穂浪士たちを相手に奮闘。

その後、武士でありながら主君を守れなかったことを罪に問われ、諏訪湖近くの高島城に幽閉。

現在、諏訪大社・本宮の隣にある法華寺には、吉良義周の墓があります。

法華寺・吉良上野介の養子・吉良義周の墓

この吉良義周もまた、北条氏康の子孫にあたります。


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上杉鷹山うえすぎようざん

江戸時代、破綻寸前の上杉家・米沢藩の財政を再建した名君・上杉鷹山もまた、北条氏康の血を引く子孫です。

吉良上野介の息子が、上杉家へ養子入りし、その子孫にあたるのが上杉鷹山なのです。

「成せばなる 成さねばならぬ」

などの名言を残し、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが、もっとも尊敬する人物として、上杉鷹山の名前をあげたことで有名になりました。

あるとき米沢藩の領内で、年老いた女性の稲の刈り入れを手伝った若者いました。

女性は刈り入れが終わった後、その若者が住んでいるという場所へお礼に向かったところ、なんとその人物は上杉鷹山だったという逸話があります。

知能に障害のある妻を一生をかけて愛し、我が子に家督をゆずるわけでもなく、ただただ藩と領民のために尽くした名君だったといわれています。


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北条浩ほうじょうひろし

北条浩さんは、北条・狭山藩主家の子孫です。

1981年(昭和56年)に亡くなっておられます。

最後の狭山藩主・北条氏恭うじゆきの孫にあたる人物です。

公明党の参議院議員で、池田大作さんのあとを継いで、創価学会4代目会長をつとめました。

 

これは余談ですが、北条氏康と北関東の覇権をめぐって戦った戦国大名・宇都宮氏は、御堂関白みどうかんぱく藤原道長ふじわらみちなが】の兄・道兼みちかねの子孫であるといわれています。

→→→→→【藤原道長の兄・道兼の子孫】についてくわしくはこちら


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北条氏康とは、何した人なの?何がすごいのかを解説

北条氏康が何した人なのかというと、上杉謙信・武田信玄・今川義元などの名将たちと互角以上に戦い、関東に領土を広げた名将です

当時の東日本、関東甲信越および東海道には、日本の歴史にその名を刻む名将が、数多くいました。

  • 越後(新潟県)の上杉謙信
  • 甲斐(山梨県)の武田信玄
  • 駿河(静岡県)の今川義元
  • 三河(愛知県)の徳川家康
  • 尾張(愛知県)の織田信長

などなど。

北条氏康は、これら名将たちと、ときには同盟を結び、ときには死闘を演じながら、領地を関東に広げた名将なのです。

軍神と呼ばれた上杉謙信に10万の大軍団で小田原城を包囲されたとき、氏康はその猛攻を防ぎ切りました。

娘・早川殿の夫・今川氏真を保護するため、徳川家康と同盟して、戦国最強と呼ばれた武田信玄を、駿河から追い出すことに成功しています。

武田信玄が小田原城を包囲したときも、名将・信玄を寄せつけなかったといいます。

民を守り、信玄や謙信と互角に戦い、さらには領土まで拡大した名君。

それが北条氏康なのです。


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その他

北条氏康も使用した後北条氏の家紋

後北条氏の家紋は、三つ鱗みつうろこというものです。

後北条氏家紋「北条鱗」
引用元Wikipediaより

この「三つ鱗」は初代の執権北条氏が採用し、後の後北条氏もこれを模倣し、2代目氏綱から使用されています。

執権北条氏の「三つ鱗」は、大蛇や竜の鱗を表しており、北条政子の父である時政が江の島で子孫繁栄を祈願した夜、女性が現れ「あなたの子孫は日本を支配する」と語り、大蛇となって三枚の鱗を残して去ったという伝説に由来しています。

執権北条氏と後北条家の紋章にはわずかな違いがあり、執権北条氏のものは白い正三角形を含むものでしたが、後北条氏のものは黒い二等辺三角形を含むものでした。

北条氏家紋「三つ鱗」
引用元Wikipediaより


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忍者・風魔小太郎とは、どういう関係なの?

風魔小太郎と北条氏康は、部下と主君の関係です。

風魔小太郎は、北条家につかえていた忍者集団のボスなのです。

風魔小太郎は、テレビゲームやアニメ・漫画にもその名前が登場するほど、広く知れ渡っています。

その中で、風磨忍者の棟梁である風磨小太郎は、もっとも強力な戦国時代を代表する忍者として知られています。

1641年に書かれた仮名草紙や軍記物語「北条五代記」によれば、風魔小太郎は後北条氏の家臣で、氏直や氏政に仕える中で、「四盗」すなわち

  • 山賊
  • 海賊
  • 強盗
  • 窃盗

に近い存在として活躍していたようです。

風魔一族は、早雲がその優れた乗馬技術を評価し、北条家に仕えることから始まり、代々、北条家に仕える中で風魔一族の5代目が風魔小太郎として知られるようになりました。

彼らは夜闇に紛れて敵陣に奇襲を仕掛け、敵を混乱させる武力集団として活躍し、その役割は一般的な忍びとは異なっていたようです。

風魔小太郎は北条家の家臣であり、異なる特技を持つ武力集団のリーダーとして功績を上げました。


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北条氏康の最期と死因とは?

1571年10月3日、北条氏康は57歳で亡くなっています。

北条氏康の死因は、脳溢血などの脳の病気であると考えられています。

1570年の頃、氏康は脳血管に問題を抱えていたようです。

その結果、口調が不自由であり、言葉を発することもままなりませんでした。

我が子の区別すらつかず、食事では、食べたいものを指差すことしかできないほどだったといいます。

三増峠の戦いで有名な武田信玄の小田原城侵攻に対しても、その情報を理解することが難しくなるほどの後遺症が生じていたとのことです。

とはいえこの頃、氏康は出陣できる程度には回復していたといいます。

そして、1571年10月3日、氏康は小田原城で享年57歳で逝去されたと伝えられています。

この頃、氏康は宿敵・上杉謙信との同盟締結の交渉をしていたものの、失敗したため、敵対していた武田信玄との同盟を復活せよと、息子・氏政に遺言していたといいます。

氏康の死の直後、武田信玄と北条家の同盟が復活。

信玄はこの同盟を頼りにして、西上作戦せいじょうさくせんと呼ばれる織田信長との最終決戦に挑むことになるのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 北条氏康とは、上杉謙信・武田信玄・今川義元たちとの勢力争いを生き抜き、関東に勢力を広げた名将
  2. 氏康たち後北条氏と、源頼朝の妻・北条政子たち北条一族は、直接的関係はないらしい
  3. 氏康は、脳溢血など脳の病気が原因で亡くなった

以上となります。

北条氏康の家系は、戦国時代を代表する大名家として際立っていました。

初代早雲は、戦乱に巧みに対処し、最終的には戦国大名としての地位を築き上げました。

彼は今川氏、上杉氏、武田氏、徳川家との激しい戦闘や同盟形成を通じて関東地方での勢力を拡大しましたが、最終的には豊臣秀吉に敗れ、五代目の北条氏直の時代には戦国大名としての存在が消滅しました。

他の有名な大名に比べて影が薄いかもしれませんが、確かな実力を持つ戦国大名の家系であったことは言うまでもありません。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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