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藤原兼家とはどんな人かわかりやすく簡単に解説!【光る君へ】

皆さんは藤原兼家ふじわらかねいえを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 藤原兼家とは、藤原道長の父であり、摂政・関白・太政大臣を歴任した藤原氏繁栄の基礎をつくった人物
    2. 兼家は、娘の詮子を円融天皇に嫁がせて、生まれた一条天皇の外祖父・摂政として、権力を独占した
    3. 兼家は、兄・兼通や関白・藤原頼忠との権力闘争を勝ち抜き、娘を天皇の妃にするという、息子・道長が反映するための道筋を示した

この記事では藤原兼家を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は藤原兼家について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、藤原兼家に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

藤原兼家の人物像とその生涯

藤原兼家のプロフィール

藤原兼家
引用元Wikipediaより

【生没年】929年(延長7年)〜990年(正暦元年)

【出身氏族】藤原北家

【父】藤原師輔

【母】藤原盛子

【兄弟】藤原伊尹、藤原兼通、

【妻】藤原時姫、藤原道綱母

【子】藤原道長、藤原道兼、藤原道隆、藤原詮子、藤原道綱


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藤原兼家とはどんな人? – 基本情報の紹介

藤原兼家は、平安時代中期の公卿くぎょうであり、摂政・関白として権勢を振るった人物です。(公卿とは、お公家くげさんの中でも特に偉い人々のこと)

藤原北家出身。

右大臣・藤原師輔の三男でした。

摂政、関白、太政大臣などを歴任しています。

あの有名な藤原道長の父親です。

藤原道長
引用元Wikipediaより

藤原兼家の生涯と出世のを年表にすると以下の通りです。

  • 929年に誕生
  • 956年に少納言
  • 969年に中納言
  • 972年に権大納言
  • 978年に右大臣
  • 986年に摂政・藤氏長者とうしのちょうじゃ(藤原氏の頂点を意味する位)
  • 989年に太政大臣
  • 990年に関白となり3日でやめて出家。直後に亡くなる

藤原兼家の功績を短くいえば、以下の通りです。

藤原道長の父であり、その道長が到達した藤原氏の全盛期の基礎を作り上げました。

さらに兼家は、摂政・関白として、当時の日本の政治を主導していました。

そんな藤原兼家とはどんな人物だったのかというと、優秀な政治家であり、歌人としても知られていました。

ただ、その政治手法はとても強引で、権力欲旺盛な人物であったといわれています。

そんな藤原兼家の人柄を物語るエピソードが多数存在しています。

例えば、息子・道兼に命じて花山天皇に罠を仕掛けて出家させ、一条天皇に譲位させた話は有名です。

娘の詮子を円融天皇に入内(妻として嫁がせること)させて、生まれた一条天皇の外祖父となって権力を独占したのでした。

藤原兼家の生涯 – 藤原氏全盛期の起源

藤原兼家は、平安時代中期に活躍した公卿です。

藤原氏の一族である藤原北家の中でも、特に栄華を誇った藤原道長の父です。

兼家は、10代で早くも官職に就き、その後も順調に昇進を重ね、20代後半には少納言という位についています。

当時、朝廷では摂関政治せっかんせいじと呼ばれる政治体制が確立していました。

摂関政治とは、天皇が幼少である場合や病気などで政務を執ることができない場合に、藤原氏一族の摂政または関白という役職の者が代わりに政治を行う制度です。

兼家は、実の兄である藤原兼通かねみちや、当時権勢を誇っていた従兄いとこで太政大臣の藤原頼忠よりただ、さらには甥である藤原義懐よしちかなどと対立し、激しい権力闘争を繰り広げます。

兼家は、自分の娘・詮子せんし円融えんゆう天皇の妻とし、外戚がいせきとしての地位を確立します。

そして、詮子との間に生まれた一条天皇の即位を実現させ、摂政・関白の地位を独占することに成功します。

その後、右大臣を辞した兼家は、摂政に就任すると、強引に長男の藤原道隆みちたかを内大臣に昇進させ、権力を独占。

ライバルだった藤原頼忠が亡くなると、その後任の太政大臣に就任。

    兼家は、これらの策略と手腕によって、藤原氏北家嫡流としての地位を確立し、藤原氏全盛期の礎を築きました。

    990年、孫である一条天皇が元服すると、兼家は関白に就任。

    しかしわずか3日で関白の職を、息子の道隆にゆずり、出家。

    直後に62歳で亡くなります。

    兼家の子孫は、その後も摂政や関白の地位を独占し、藤原氏の全盛期を築き上げました。

    藤原兼家は、政治家としてだけでなく、歌人としても能力を発揮したらしく、妻の藤原道綱母みちつなのははが記した「蜻蛉かげろう日記」には、兼家の歌がいくつも記録されています。

    また、兼家は、私生活でも多くの女性を妾とし、多くの子供をもうけています。

    藤原兼家は、藤原氏全盛期の礎を築いた、まさに平安時代を代表する人物と言えるでしょう。


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    藤原兼家の死とその後の影響

    藤原兼家は、990年に62歳で病気により亡くなりました。

    兼家の死後、そのあとを引き継いだのは、長男の藤原道隆です。

    ところが、兼家の息子である道隆と道兼の兄弟が、続けて病死してしまいます。

    兄たちの相次ぐ死によって表舞台に立ったのが、兼家の五男・藤原道長です。

    道長は優れた政治手腕と強引な手段によって権力を掌握し、藤原北家は藤原兼家のときよりも、さらなる栄華を誇ることになります。

    藤原道長は、父・兼家から学んだ方法で、権力を手に入れます。

    つまり、娘を天皇の后に迎え、外戚としての地位を確立します。

    また、ライバルであった甥・藤原伊周(兄・藤原道隆の息子)を排除し、地位を独占。

    「この世は我が世」

    という、有名な「望月もちづきの歌」を残すほどの栄華を極めるのです。

    藤原道長の死後、藤原北家は徐々に衰退していきます。

    しかし、藤原兼家が築いた基盤は、その後も長く日本の政治に影響を与え続けました。

    兼家の功績!何した人なの?

    藤原兼家は、平安時代中期に活躍した公卿で、藤原氏北家の中でも特に栄華を誇った藤原道長の父です。

    藤原兼家の功績は、藤原氏の繁栄の基礎をつくったことといえるでしょう。

    兼家は、娘・詮子が産んだ一条天皇を強引に即位させ、自らはその外祖父・摂政として、政治を独占したのでした。

    兼家がつくりあげた土台の上に、息子の道長がさらなる藤原氏の繁栄を築きあげました。

    道長は父・兼家が行った、娘を天皇に入内させるという方法をマネし、権力を独占したのです。

    兼家が建立したお寺とは?

    藤原兼家が建立した寺院として有名なのは、京都の法興院ほうこういんです。

    法興院は、藤原兼家が自身の邸宅を改築して建立した寺院です。

    現在の京都市中京区に位置していました。

    法興院は、藤原兼家が亡くなる直前に建立したお寺です。

    ところが法興院は焼失し、その後何度か再建されましたが、鎌倉時代に廃絶しました。

    しかし法興院がなくなった跡地に、応仁の乱が始まってから、ちょうど100年後の1567年に、法雲寺というお寺が誕生したのです。

    現在の法興院の跡地には、法雲寺という寺院が建立されています。

    法雲寺は幕末、八月十八日はちがつじゅうはちにちの政変のあと、吉田松陰よしだしょういんの義弟にあたる長州藩士・久坂玄瑞くさかげんずいが、謹慎させられたお寺としても有名です。

    →→→→→【八月十八日の政変】についてくわしくはこちら


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    藤原兼家の家族とその関係

    藤原兼家の有名な家族

    藤原兼家の家族には、歴史に名を残した人物が数多くいます。

    中でも一番有名なのは、藤原北家の中でも特に栄華を誇った息子・藤原道長でしょう。

    以下で、藤原兼家の家族を簡単にご紹介いたします。

    父:藤原師輔もろすけ

    藤原師輔は、藤原北家嫡流の公卿であり、右大臣まで昇進。

    兼家は、師輔の三男として生まれました。

    母:藤原盛子もりこ

    藤原盛子は、藤原経邦の娘であり、藤原兼家の母です。

    藤原盛子は、藤原師輔の正室です。

    妻:藤原時姫ときひめ

    藤原時姫は、藤原中正の娘であり、藤原兼家の正室です。

    藤原兼家との間に、藤原道隆、藤原道兼、藤原道長などを儲けました。

    子:藤原道隆みちたか

    藤原道隆は、藤原兼家の長男であり、摂政・関白・内大臣を歴任しました。

    子:藤原道兼みちかね

    藤原道兼は、藤原兼家の三男であり、関白に就任したものの、わずか七日で亡くなったため、「七日関白なのかかんぱく」と呼ばれました。

    子:藤原道長みちなが

    藤原道長は、藤原兼家の五男であり、摂政として権力を独占し、藤原氏全盛期を築き上げました。

    御堂関白みどうかんぱくと呼ばれたものの、関白に就任したことはありません。

    娘:藤原超子とおこ

    藤原超子は、藤原兼家の長女であり、冷泉天皇の女御、三条天皇の母です。

    娘:藤原詮子あきこ

    藤原詮子は、藤原兼家の次女であり、円融天皇の女御、一条天皇の母です。

    弟・道長と仲が良く、その出世を後押しした女性です。

    子:藤原道綱みちつな

    藤原道綱は、兼家の次男です。

    しかし正室の子でなかった為、異母弟の道長どころか甥にも出世競争で先を越されています。

    賢人右府・藤原実資さねすけから、「40代で自分の名前の漢字しか読めないやつ」と酷評されています。

    弓の名手。

    藤原兼家は、多くの妻妾を持ち、多くの子供をもうけています。

    上記以外にも、藤原兼家の子供や妻は、たくさんいます。


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    藤原兼家の妻たちとその順番

    藤原兼家は、複数の妻妾を持ち、多くの子供をもうけています。

    ここでは、藤原兼家の妻たちとその順位や順番について、ブラウジング機能を駆使して詳しく解説します。

    正妻:藤原時姫

    藤原時姫は、藤原中正の娘であり、藤原兼家の正妻です。

    妻:藤原道綱母みちつなのはは

    藤原道綱母は、藤原兼家の妻の一人です。

    藤原兼家との間に、次男・藤原道綱を儲けました。

    蜻蛉日記の作者としても有名な女性です。

    この蜻蛉日記には、夫・兼家が、他の女性のもとへ行ったことなど、恨みがましいことが記されています。

    妻:保子内親王やすこないしんのう

    保子内親王は、藤原兼家の妻の一人であり、村上天皇の第三皇女です。

    妻:対御方たいのおんかた

    藤原兼家の妾で、藤原綏子やすこを生みますが、のちに兼家の長男・道隆の妾となり、娘を産んでいます。

    妻:藤原忠幹ただもとの娘

    兼家の四男・藤原道美を産んでいます。

    妻:源兼忠かねただの娘

    兼家の次女を産んでいます。この娘は、藤原道綱母の養女となっています。ちなみにこの源兼忠の娘は、清和天皇のひ孫にあたります。

    他にも愛妾が何人かいたらしく、僧侶となった兼俊けいしゅんという息子が生まれていますが、母親の詳細は不明です。

    藤原兼家の妻や妾の序列や順番については、正確なことは分かっていません。

    しかし、正妻であり、道隆・道兼・道長・超子・詮子などを産んだ藤原時姫が、最も高い地位にあったと考えられます。


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    藤原兼家の兄弟関係 – 長兄の藤原道兼と次兄の藤原兼通

    藤原兼家は、父・師輔の三男として生まれ、本来ならば表舞台でそれほど出世できない立場でした。

    兼家の兄弟関係は複雑であり、特に長兄の藤原伊尹と次兄の藤原兼通との関係は、確執に満ちたものでした。

    藤原伊尹これただ

    藤原伊尹これただは、藤原兼家の長兄であり、右大臣・摂政・太政大臣を歴任しました。

    病死したのち、孫にあたる花山天皇が、弟・兼家の策略により出家。

    花山天皇は、兼家の孫である一条天皇に譲位してしまい、これ以降、伊尹の子孫の繁栄は途絶えたといいます。

    藤原兼通かねみち

    藤原兼通は、藤原兼家の次兄であり、関白・太政大臣を歴任しました。

    弟・藤原兼家と仲が悪く、死を目前にしているにもかかわらず病気見舞いに来ずに天皇に自分を売り込もうとする弟の兼家に激怒し、最後の力を振り絞って弟・兼家を降格させたといいます。

    藤原兼家と次兄・藤原兼通は、幼い頃から仲が悪かったといわれています。

    藤原兼家と藤原兼通の確執は、結局は藤原兼家の勝利に終わりました。

    藤原兼通は、977年に病死し、弟・藤原兼家はその後、一時的に出世から遠ざかるものの、右大臣や関白を歴任することになるのです。


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    藤原兼家と天皇家及び公卿たちの関係性

    藤原兼家と円融天皇の関係

    藤原兼家は、円融天皇の女御・藤原詮子の父にあたります。

    円融天皇は、969年に即位。

    藤原兼家と円融天皇の関係は、複雑です。

    藤原兼家は、円融天皇を利用して、自身の権力強化に役立てようとしました。

    しかし、円融天皇は成長するにつれて、藤原兼家の支配に不満を持つようになったのです。

    円融天皇は、兼家のライバルである藤原頼忠の娘を中宮としたため、自分の娘・詮子を中宮にしたいと望んでいた兼家を怒らせます。

    兼家は激怒し、娘の詮子と、円融天皇の唯一の男児だった詮子が産んだ子・懐仁親王とともに、自宅に引き篭もったのでした。

    これに困った円融天皇は、懐仁親王を次の皇太子にすることを兼家に約束して、関係を修復しています。

    984年、円融天皇は藤原兼家の圧力に屈し、花山天皇へ譲位しました。

    藤原兼家と円融天皇の関係は、藤原氏による天皇支配の典型的な例と言えるでしょう。

    藤原兼家は、円融天皇を政治的に利用することで、自身の権勢を確立しました。

    藤原兼家と花山天皇の関係性

    藤原兼家と花山天皇は、複雑な関係で、兼家にとって花山天皇は邪魔者でした。

    どういうことかというと、花山天皇の次の天皇は、兼家の孫にあたる懐仁親王(一条天皇)でした。

    兼家からすれば、花山天皇に早く天皇の位を、孫の懐仁親王にゆずってもらって、権力を独占したいと考えていたのです。

    しかし、花山天皇は藤原兼家の支配に不満を持ち、政治改革を試みました。

    花山天皇は女好きで有名な天皇でした。

    とある母娘の両方を愛妾として、両方に子供を産ませた話は有名です。

    そんな花山天皇が愛した藤原忯子という女性がいましたが、彼女は花山天皇の子供を身ごもったまま亡くなってしまいます。

    ショックを受けた花山天皇に対して、兼家が動きます。

    寛和かんなの変の始まりです。

    986年、藤原兼家は、息子の藤原道兼に命じて花山天皇を騙して出家させ、無理やり一条天皇に位をゆずらせたのです。

    この事件は、寛和の変と呼ばれています。

    花山天皇は退位させられ、藤原兼家は孫である一条天皇の摂政に就任して右大臣を辞任。

    こうして兼家は、太政大臣や左大臣など、自分よりも上の役職にいたライバルたちを抜き去り、さらに権勢を強めたのでした。


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    藤原兼家と公卿たちの関係

    藤原兼家は、摂政・関白として権勢を振るい、公卿たちを掌握していました。

    藤原兼家は、公卿たちとの権力闘争に勝利し、藤原北家の権力基盤を固めたのです。

    藤原兼家はとくに、自分の娘である詮子あきこを円融天皇に入内させて、一条天皇を産ませたことにより、権力をかためています。

    これに反発する人々がいなかったわけではありません。

    たとえば、左大臣・源雅信は、兼家のライバルとなり得る人物でした。

    しかし兼家は、源雅信の娘である源倫子を、五男・藤原道長の妻としてもらう政略結婚で、敵対関係を回避しています。

    兼家にとって最大の障害だった関白・太政大臣の藤原頼忠も、寛和の変で花山天皇とともに権力を失い失脚。

    兼家は巧みに権力闘争で勝利し、ライバルとなるべき公卿たちを排除したのでした。


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    藤原兼家と藤原為時の関係

    藤原兼家と藤原為時には、遠い親戚です。

    それだけではなく、藤原兼家は、藤原道長の父です

    そして藤原為時は、そんな藤原道長と縁が深い紫式部の父です。

    兼家と為時は、ともに藤原冬嗣ふゆつぐという人物の子孫であり、遠い親戚にあたります。

    為時は、花山天皇が皇太子だった時代に、学問を教える先生をつとめていました。

    そのため、花山天皇から信頼させて重く用いられていたようです。

    寛和の変で花山天皇が位を一条天皇にゆずったことで、為時は花山天皇の没落とともに、職を失ってしまっています。

    兼家は、寛和の変で花山天皇から位を一条天皇へ強引にゆずらせた張本人です。

    為時が職を失ったのは、兼家が花山天皇を失脚に追い込んだ為ともいえます。

    しかし兼家にとって、為時はあまりにも身分が低い存在だった為、気を使う必要すらなかったのでしょう。

    兼家の息子・道長は、為時の娘・紫式部に対して、娘の彰子しょうしの女房として、一条天皇の寵愛を得られるようにせよと命じています。

    これにより、紫式部は一条天皇が彰子のもとへ通いつめるように、「源氏物語」という、一条天皇が好むだろう小説を、彰子のために描き続けたのでした。

    兼家と為時の関係は、それほど重要なものではありません。

    しかし、互いの子供同士つまり道長と紫式部は、とても縁の深い関係だったのです。


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    藤原兼家と紫式部の関係

    兼家と紫式部のあいだには、直接の関係はありません。

    紫式部の父・藤原為時は、兼家にとっての邪魔者だった花山天皇の、学問の師でした。

    為時にとっては、花山天皇の世が長く続けば続くほど、有利になっていったはずです。

    花山天皇は、師である為時を信頼していたからです。

    しかし花山天皇を邪魔にしていた兼家は、罠を張り巡らせて、花山天皇を出家させてしまいます。

    これにより、藤原為時も職を失い、表舞台から姿を消してしまうのです。

    兼家はその後しばらくして亡くなり、紫式部は兼家の息子・道長に目をつけられます。

    才色兼備だった紫式部は、道長の娘・彰子の女房つまりそばに仕える教育係として、道長に重く用いられるのです。

    兼家の息子・藤原道長と紫式部のあいだには、深い関係だったという噂があります。

    一説によると紫式部は道長の愛人だったともいわれているのですから。

    しかし、道長の父・兼家と紫式部のあいだに、関係はありません。

    2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、兼家は紫式部の母親の死をもみ消した黒幕のように描かれています。

    ですが史実では、兼家と紫式部のあいだに、関係はほとんどないのです。


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    藤原兼家の身分と官位

    藤原兼家が歴任した官位 – 関白と摂政への道程

    藤原兼家は、数々の官位を歴任し、最終的には摂政・関白の地位に就きました。

    ここでは、藤原兼家が歴任した官位をくわしく解説いたします。

    藤原兼家は、925年に藤原北家嫡流の公卿である藤原師輔の三男として生まれました。

    藤原兼家の官位歴

    • 950年:侍従
    • 951年:右兵衛佐
    • 956年:少納言
    • 964年:左京大夫
    • 969年:中納言
    • 972年:権大納言
    • 978年:右大臣
    • 986年:摂政
    • 989年:太政大臣
    • 990年:関白

    藤原兼家は、986年に円融天皇の摂政、990年に関白に就任しました。

    摂政・関白は、天皇の代わりに政治を執る最高位の官職です。

    兼家は、孫の一条天皇が即位すると同時に摂政に就任し、政治を思うがままに操ったのでした。

    そして死の間際に、天皇に次ぐ最高位である関白にのぼりつめたのでした

    藤原兼家は、摂政・関白として権勢を振るい、藤原北家による天皇支配を確立したのです。


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    藤原兼家と権力の掌握 – 宮廷における影響力

    藤原兼家は、摂政・関白として宮廷で大きな影響力を持ち、権勢を振るっていました。

    果たして兼家は、どのようにして権力を握ったのでしょうか?

    3つの方法で、兼家は権力を手に入れたのです。

    1. 息子たちの出世
    2. 荘園からの莫大な収入
    3. 政略結婚

    兼家は、自分が朝廷内で出世すると、自分の三人の息子たち道隆・道兼・道長も、それぞれ高位に取り立てました。

    こうすることで、自分の派閥をつくりあげたのです。

    そして財政面では、藤原氏は巨大な荘園をもっていました。

    荘園とは、わかりやすくいえば、私有地です。

    私有地から得られる収入は、税金を納める義務がない為、藤原氏の莫大な力の源となったのです。

    そして、兼家は政略結婚を有効に使いました。

    娘の詮子を円融天皇に嫁がせ、誕生した一条天皇を即位させるとともに、その摂政となって権力を振るったのでした。

    さらに兼家は、ライバルの源雅信まさざねと、政略結婚をつかって協力体制をつくりあげます。

    兼家は、息子の藤原道長と、源雅信の娘である源倫子ともこを結婚させたのです。

    →→→→→【源倫子とはどんな人か】についてくわしくはこちら

    これらの手段を駆使して、藤原兼家は宮廷における圧倒的な影響力を築き上げました。

    しかし、兼家や道長の権力は絶対的なものではなく、藤原氏内部の対立や皇室の反発によって揺らぐこともありました。

    なぜならそれは、天皇という絶対権力者に、入内つまり娘を嫁に差し出して、次の天皇が生まれることによって権力を得る、男児が生まれるという偶然に頼った権力保持システムだったからです。

    偶然は長続きしません。

    実際に、兼家の孫である藤原頼道の時代に、藤原氏の権力は衰退するのです。


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      藤原兼家の引退や出家

      藤原兼家は、摂政・関白として権勢を振るいましたが、990年に関白に就任すると、わずか3日で長男・藤原道隆に関白職をゆずって引退してしまいます。

      そして直後に兼家は、出家してしまうのでした。

      実はこの時代は、出家しないと極楽浄土へ行くことができないと考えられていたからです。

      兼家の息子・藤原道長も死の間際に、自らの手と阿弥陀如来像の手を糸で結び、西を向いて横たわり亡くなったと言われるほど、極楽浄土に憧れていたのです。

      990年、藤原兼家は、関白を引退した2ヶ月後に亡くなります。

      享年62歳。


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      藤原兼家の息子たちの影響

      藤原兼家の息子たちとその生涯

      藤原兼家は、多くの妻妾との間に多くの子供をもうけています。

      その中でも、特に有名な息子たちとその生涯を紹介します。

      藤原道隆みちたか

      藤原兼家の嫡男です。

      兼家のあとをついで関白に就任するも、その後まもなく亡くなってしまいます。

      後継者として、息子の藤原伊周これちかと藤原隆家たかいえが存在感を増していくが、藤原詮子の協力を得た藤原道長によって、左遷されてしまうのです。

      藤原道兼みちかね

      藤原兼家の三男。藤原道長の兄です。

      何かと評判が悪い乱暴者です。

      兄・道隆に対して、とても横柄な態度で接したことで有名な人物。

      嫌われ者で、みにくい容貌だったといわれているものの、とても強かったのだとか。

      兄・道隆が亡くなると、そのあとを継承して、念願の関白に就任。

      しかし関白就任後わずか7日で亡くなった為、七日関白と呼ばれることになります。

      子孫はその乱暴さを引き継いだのか、戦国時代に北関東を支配した宇都宮氏は、道兼の子孫とされています。

      →→→→→【藤原道兼の死因と子孫】についてくわしくはこちら

      藤原道長みちなが

      藤原兼家の五男。

      藤原氏全盛期の立役者として知られる人物です。

      娘の彰子を一条天皇に入内させ、誕生した後一条天皇や後朱雀天皇の外祖父として権力を振いました。

      他にも、娘の姸子けんしを三条天皇へ、そして同じく娘の威子いしを後一条天皇に嫁がせて、一家三立后いっかさんりつごうと呼ばれる偉業を達成。

      「この世は我が世」という、望月の歌を残したことで、後世にその名を刻みました。

      藤原道綱みちつな

      藤原兼家の四男。

      母は藤原道綱母と呼ばれる人物で、彼女は蜻蛉かげろう日記の作者として有名です。

      弓の名手として有名で、弓の競技会で、圧倒的に負けていた相手チームに道綱の活躍で追いつき、引き分けに持ち込んだという逸話は有名です。


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        藤原兼家の息子・藤原道長が築いた藤原氏全盛期

        藤原兼家の息子である藤原道長は、娘を天皇に入内じゅだいさせることで、藤原氏全盛期を築き上げました。

        道長は、兼家の五男でした。

        通常であれば、表舞台にそれほど出てくることのできない身分です。

        ところが道長は、姉・詮子と仲が良かったおかげで、その協力を得ることに成功し、飛躍したのでした。

        父・兼家と兄・道隆が亡くなり、さらには次兄・道兼まで亡くなった藤原家では、一つの権力闘争が起こりました。

        道隆の息子・伊周これちかと、道長のあいだで、どちらが藤原氏のトップに君臨するのかという争いです。

        この争いは、一条天皇の生母であり、道長と仲が良かった姉・詮子の引き立てにより、道長が一歩リードしていました。

        さらに、伊周とその弟の隆家は、長徳ちょうとくのらんの乱と呼ばれる乱闘事件で、花山天皇の袖を矢で射抜くという暴挙に出てしまいます。

        この失態を道長は見逃さず、伊周と隆家は左遷されてしまうのです。

        道長は

        • 一条天皇
        • 三条天皇
        • 後一条天皇

        という三人の天皇に、自らの三人の娘を嫁がせるという、前人未到の一家三立后いっかさんりつごうを達成。

        天皇の外祖父または摂政として政治を思いのままに操り、権力を極めます。

        賢人右府と呼ばれた藤原実資さねすけの日記「小右記しょうゆうき」には、三人目の娘・威子を後一条天皇に嫁がせることに成功した道長が歌った「望月の歌」の場面が描かれています。

        「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」

        「この世はまるで私のための世だ。満月のように、満たされていないところなどない」

        道長の栄華は、その子である藤原頼通よりみちに引き継がれます。

        しかし頼通の時代に、藤原氏の栄華は衰退していくのです。


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        息子たちが後世に継承した藤原兼家の影響

        藤原兼家の影響は息子の道長にも受け継がれました。

        何よりも兼家が息子・道長に残した影響としては、娘を天皇に嫁がせて、その外祖父として権力を握るという、政治手法を、手本として示したことにあるのではないでしょうか。

        道長は三人の娘を天皇の妻にするという手法で、権力を独占しました。

        しかしそれは道長があみだしたものではなく、父・藤原兼家がおこなったことをマネしたに過ぎないのです。

        兼家が実行した政治手法を、道長が成功させ、権力を手にしたのです。

        道長の息子・頼通も、同じようにして天皇に娘を嫁がせて権力を握ろうとしたものの、運悪く男児が生まれなかったので、権力は衰退していったのです。

        兼家は、いわば成功のビジネスモデルを、息子に示したのかもしれません。

        その後、子孫は昭和の時代に、摂政・関白ではなく、内閣総理大臣として、権力を握ることになります。

        藤原兼家や藤原道長の子孫は、内閣総理大臣・近衛文麿このえふみまろと、その孫で同じく内閣総理大臣・細川護煕ほそかわもりひろさんです。

        →→→→→【藤原道長の子孫】についてくわしくはこちら


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        藤原兼家のエピソードとその影響

        兄・兼通の家の前を素通り

        藤原兼家は、次兄・兼通かねみちと仲が悪く、激しい権力争いをしたことで有名ですが、病死間際の兄の家の前を素通りして激怒されたエピソードは有名です。

        兼家は、関白の職を望むあまり、長兄・伊尹が辞表を出した後、次兄・兼通と円融天皇の目の前で口論をしてしまいます。

        兼通は弟の兼家を恨みに思っていましたが、そんなときに病気で死にひんしてしまうのです。

        すると弟・兼家が、兼通の家に向かっているという知らせが届きます。

        見舞いに来たかと思っていた兼通ですが、なんと兼家は、兄・兼通の家の前を素通りしてしまいます。

        兼家はどこに向かっていたのかというと、なんと天皇の元へ行って、兄・兼通が亡くなったら、次の関白は自分にして欲しいと、売り込みに行ったのでした。

        激怒した次兄・兼通は、残りの力を振り絞って天皇の元へ行き、弟を降格処分にして、次の関白に藤原頼忠を指名したのです。

        兼家は、兄との権力闘争によって、2年ほど失脚することとなるのです。


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        寛和かんなの変〜次男・道兼に命じて花山天皇を出家させる〜

        兼家は権力を独占することを目指していましたが、そのためにはどうしても邪魔な存在がしました。

        花山天皇です。

        花山天皇
        引用元Wikipediaより

        実は花山天皇の次に天皇になる予定だったのは、懐仁親王でした。

        懐仁親王は、兼家の娘・詮子が産んだ、つまり兼家の孫にあたる人物だったのです。

        兼家は、花山天皇を一刻も早く退位させて、孫の懐仁親王を天皇に即位させたかったのです。

        花山天皇は、即位後、藤原義懐などの助言を得て、新しい政治を積極的に行っていました。

        しかし、985年には、異常なほどに寵愛していた女御・藤原忯子よしこが、花山天皇の子供を妊娠したまま急死。

        これに意気消沈した花山天皇は出家を考えるようになりました。

        藤原兼家は、そんな花山天皇に罠を仕掛けたのです。

        兼家は、花山天皇に仕えていた息子・藤原道兼を通じて、天皇に出家をすすめました。

        天皇は道兼の提案に従って内裏を離れ、山科の元慶寺に向かいました。

        花山天皇は、一条天皇に位を譲って、出家してしまうのです。

        このことにより、兼家の最大のライバルだった関白・藤原頼忠も失脚。

        一条天皇の摂政となった兼家は、権力を独占することに成功するのでした。

        これは摂関政治という政治手法による、重大な政治局面となったのです。


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        まとめ

        本日の記事をまとめますと

        1. 藤原兼家とは、藤原道長の父であり、摂政・関白・太政大臣を歴任した藤原氏繁栄の基礎をつくった人物
        2. 兼家は、娘の詮子を円融天皇に嫁がせて、生まれた一条天皇の外祖父・摂政として、権力を独占した
        3. 兼家は、兄・兼通や関白・藤原頼忠との権力闘争を勝ち抜き、娘を天皇の妃にするという、息子・道長が反映するための道筋を示した

        以上となります。

        本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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        ありがとうございました。


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