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比企一族に生き残りがいた?比企能員の変の生き残りその子孫は現在・芸能人

皆さんは比企一族に生き残りがいたことを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 比企能員ひきよしかずの息子・能本よしもとと、孫・員茂かずしげが、比企能員の変を生き残った
    2. 比企一族の子孫といわれているのが、ホリプロ所属の女優・比企理恵さん
    3. 江戸時代、比企氏は生類憐みの令に違反したことが原因で、改易された

この記事では「比企一族」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は比企一族について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、比企一族に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

比企ひき一族には生き残りがいた

比企能員の変で滅亡したといわれている比企一族には、二人の生き残りがいました。

比企能員ひきよしかずの子と孫が生きていた

比企能員の息子・比企能本よしもとと、比企能員の孫・比企員茂かずしげが生き残っています。

比企能員の息子である比企能本は、変が起こった時、まだ幼かったため、命を救われました。

孫の比企員茂は、変が起こった時、まだ母親のお腹の中にいたため、生き残ることができました。

この比企員茂が、息子の比企員長とともに武蔵国(東京・埼玉)の領地で子孫をつたえていったのです。


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子孫が現在も芸能人として活躍中

比企一族の子孫といわれているのが、ホリプロ所属の女優・比企理恵さんです。

数々のドラマや映画に出演しておられる女優さんです。

たとえば、2016年に放送された松本潤さん主演のドラマ「99.9〜刑事専門弁護士〜」の第4話に出演しておられました。

彼女は、比企一族の子孫であり、鎌倉の妙本寺に一族の墓があることを意識して、常に寺社仏閣への参拝をしているとのことです。


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比企一族の生き残りのその後!

比企能本と員茂のその後

比企能本は出家して僧侶として活躍し、比企員茂は順徳上皇の北面武士として活躍したといいます。

比企能員の変によって多くの一族が命を落とした比企氏ですが、一部の者は生き延び、その後の歴史に足跡を残しました。

比企能員の末子である能本は、変当時は2歳だったため、命を助けられ、和田義盛に預けられて安房国に配流されました。

その後、能本は出家。

京都の東寺で修行に励んだといいます。

東寺・五重塔

その後、比企能本は、僧として鎌倉に戻ります。

当時、鎌倉では承久の乱が終わり、北条義時や北条政子が亡くなっていました。

源頼家の娘である竹御所が、2代目女将軍として権勢を振るっていたのです。

能本は竹御所の庇護を受け、鎌倉に居場所を得ます。

竹御所が亡くなると、能本は彼女の菩提を弔うために、かつて比企氏の屋敷があった場所に、妙本寺を建立しました。

この妙本寺は、比企一族出身で、万葉集研究に貢献した仙覚が住職を務めるなど、比企氏の足跡を伝える寺院となりました。

能本は晩年に、日蓮宗の開祖・日蓮に帰依し、妙本寺を寄進しています。

妙本寺は日蓮宗の重要拠点の一つとして、現代まで続いています。

中輪に剣花菱
(比企氏の家紋)
引用元Wikipediaより

一方、比企時員の子である員茂は、叔父にあたる能本とは別の道を歩みます。

員茂は、京都で修行していた叔父・比企能本の助けを得て、朝廷で北面武士(上皇の親衛隊)となります。

1221年、承久の乱で比企員茂がつかえていた順徳上皇が、佐渡へ流罪となり、比企員茂も佐渡へ渡ります。

その後、比企員茂は竹御所の助力で鎌倉へ戻り、息子の員長とともに、武蔵の比企の土地へ帰還。

そこで一族は子孫をつなげていくことになります。


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戦国時代・江戸時代の比企一族

江戸時代、比企氏は生類憐みの令に違反したことが原因で、改易されています。

室町時代、比企氏は武蔵国を支配した関東管領上杉氏の勢力下に置かれます。

戦国時代初期の当主比企久榮は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いに巻き込まれ、広木大仏城の戦いで討死します。

孫の比企政員は、山内上杉氏の使者として駿河国の今川氏のもとへ出向き、今川義元から猿楽で饗応された記録が残っています。

この時、政員は今川氏のもとに人質となっていた徳川家康とも会っています。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

しかし、山内上杉氏は小田原北条氏の勢いに押されて、越後国の上杉謙信のもとに逃亡。

政員の跡を継いだ比企則員は北条氏の配下となり、武蔵松山城主・上田氏に仕えます。

豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、武蔵松山城は前田利家や上杉景勝ら北国勢の大軍に攻められます。

則員は、籠城兵の一員として前田軍と戦いますが、敗北。

その後、常陸国の佐竹氏のもとにいた太田資正のもとに逃れ、流浪の身となります。


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それからしばらくして比企の地に戻りましたが、天下人となった徳川家康が、かつて今川義元が饗応した比企政員のことを思い出し、その子孫を探していたのです。

これにより、則員の息子・比企義久は幕臣に取り立てられ、大坂の陣にも参戦しています。

義久以降も、比企重員・久員と、代々幕臣として仕えます。

ところが比企雅久の代に、犬将軍とよばれた5代将軍・徳川綱吉によって、突然改易されてしまいます。

《徳川綱吉》
「引用元ウィキペディアより」

生類憐れみの令が発布されていた中、江戸城内に矢の刺さった鴨が舞い込んだのです。

この矢を放った犯人を巡る捜査に、巻き込まれたことが改易の原因でした。

改易後は、比企の地で代々医者として続いていきます。

比企能員たち一族の墓は、鎌倉の妙本寺にあります。

その一方で、江戸時代のあとの比企氏の墓は、埼玉県川島町・金剛寺にあります。


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比企氏の出自とは?

比企氏は、平将門を討伐した藤原秀郷の子孫を自称していたといいます。

ところが比企氏は謎に包まれており、源氏に仕える家柄であったようです。

彼らは主に埼玉県中西部の比企郡を拠点にしていました。

しかし畠山氏などとは異なり、比企郡には定住していませんでした。

彼らは家人を配置し、当主は京都に滞在していたようです。

比企氏は源氏との関係が深い一族でした。

平安時代末期には、比企尼が源氏の棟梁・源義朝の三男である源頼朝の乳母になっています。

源頼朝
引用元ウィキペディアより

さらに比企尼は、平治の乱で平清盛に敗北し、伊豆へ流罪となった頼朝に仕送りを続け、繋がりがますます強化されました。


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比企氏が京都での暮らしに通じていたことが、比企尼の長女である丹後内侍が、二条天皇の女房として活躍し、歌人としても名を馳せたことからも窺えます。

頼朝は教養と政治の能力を持つ人材を必要としており、比企氏はその要望に応える一族だったのです。

頼朝が伊豆に流罪になったあとも、比企氏は頼朝を支援していました。

比企氏の当主である比企遠宗は、頼朝の父・源義朝と平清盛が争った平治の乱で負傷し、その後亡くなりました。

その後、比企尼が実権を握り、20年以上にわたって頼朝の支援を続けました。

しかし、比企氏は地盤が弱く、平家方の有力武士に囲まれていたため、平家打倒の際には直接軍勢を率いて参戦することはありませんでした。

比企氏の棟梁は比企能員となりました。

比企能員は、平治の乱で亡くなった比企遠宗の直接の子孫ではありません。

比企尼は、比企朝宗を後継者として推すはずでした。

しかし朝宗が亡くなった後、甥である能員が、比企氏の棟梁となりました。

これにより、比企氏は頼朝との関係を強化し、鎌倉幕府での権力を強めることになるのです。


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比企能員の生涯と最期

比企能員は、源頼朝・頼家に信頼されたものの、北条時政と敵対し、比企能員の変で一族が根絶やしにされています。

比企能員は、阿波国(徳島県)出身であり、比企尼の甥として比企氏に加わった人物です。

比企能員の早期の生涯については詳細が不明です。

しかし頼朝が鎌倉に到着した後、中心部に屋敷を与えられたことから、比企氏の中で既に重要な人物であったと思われます。

能員は、比企尼と頼朝との関係を背景に頼朝の信頼を得ていたのです。

その能員の妻は、頼朝の息子であり、後に2代将軍となる源頼家の乳母を務めていました。

そして能員自身も、乳母の父として頼家の育児に関わったといいます。

頼家の誕生の儀式には、他にも比企尼の娘たちが参加しています。

つまり比企一族は、頼朝にとって頼りになる一族として、頼家の育児を任されていたのです。

能員は、木曾義仲の息子・源義高の残党討伐から、源平合戦に参加。

木曽義仲
引用元ウィキペディアより

平家が滅亡した、1185年の「壇ノ浦の戦い」まで従軍しています。

比企能員は戦後、捕虜として連れ帰った平宗盛に対して、頼朝の言葉を伝える役割を果たしています。

さらに奥州合戦や、大河兼任の乱において、軍事力の弱かった比企氏を支えたようです。。

この時期に、比企氏の先代当主の子である比企朝宗も重要な地位に就いています。

朝宗は比企能員とともに、木曽義仲の旧領を支配する形になったようです。

奈良井宿・木曽の大橋

朝宗の死後、比企能員が比企氏の棟梁となり、幕府内での権力を高めたのでした。

頼朝が初めて上洛した際には、能員も右近衛大将拝賀の儀式に参加しています。

頼朝の死の前年には、能員の娘が源頼家との間に息子の「一幡いちまん」をもうけ、将軍の外戚となる地位を得たのです。

能員は頼家政権の中心的存在となり、権力を欲していた北条時政との間で対立が深まりました。

その最高潮に達したのは頼家が病に倒れた1203年のことです。

この状況で、能員は時政に呼び出され、時政邸で命を奪われたのです。

北条時政
「引用元ウィキペディアより」

比企一族は能員の死後、一幡の屋敷に籠城しました。

しかし北条時政の子・北条義時の軍勢によって攻められ、比企一族は滅亡したのです。

さらに北条義時の妻だった「姫の前」は、比企一族の女性です。

彼女は、北条義時の息子である北条朝時・重時の二人を産んでいます。

この北条重時の子孫が、足利尊氏に嫁ぎ、室町幕府二代将軍・足利義詮を産んでいます。

姫の前は、比企一族滅亡の直前に北条義時と離婚。

再婚相手とのあいだに「源頼通」という子供を産んでいます。

つまり姫の前の血筋は、北条氏に受け継がれているということです。

余談ですが、姫の前とは繋がりのない北条家の別系統から、北条義時の子孫も、現代において芸能人が活躍していました。

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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 比企能員の息子・能本よしもとと、孫・員茂かずしげが、比企能員の変を生き残った
  2. 比企一族の子孫といわれているのが、ホリプロ所属の女優・比企理恵さん
  3. 江戸時代、比企氏は生類憐みの令に違反したことが原因で、改易された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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