皆さんは1221年の承久の乱のときに行われた【北条政子の演説】を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 吾妻鏡には「源頼朝の恩に報いるため上皇軍と戦え」といった政子の演説内容が記されている
- 政子は弟・北条義時と、夫・頼朝が残した鎌倉幕府という遺産を残すために演説を行った
- 演説が行われたのは承久3年(1221年)5月19日。承久の乱が起こった5日後のこと
この記事では北条政子の演説を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は北条政子の演説について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、北条政子の演説に詳しくなれます。
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北条政子の演説・全文を現代語訳→吾妻鏡に記された演説・全文はこちら
1221年に起きた【承久の乱】の際に北条政子が行ったという演説の全文は、歴史書・吾妻鏡に記されています。
以下の通りです。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
— 『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条(原文は変体漢文)
これを現代語訳すると、以下の通りとなります。
みんな、心を一つにして聞きなさい。
これが私の最期の言葉となるでしょう。
右大将・源頼朝公が朝敵を征伐し、関東を草創してから、官位といい俸禄(領地)といい(御家人みんながその恩恵を受けているはずなので)、その恩はすでに山より高く、海よりも深い。
そのご恩に報いようというみんなの志が浅いはずがないだろうと、私は思います。
しかし今、逆臣(忠誠心の乏しい臣下)の讒言(でたらめなアドバイス)によって、道義に反した綸旨(天皇の命令)が下されました。
名を惜しむものは、いち早く藤原秀康・三浦胤義(逆臣。胤義は政子のいとこで三浦義村の弟)を討ち取り、三代将軍(第3代将軍・源実朝のこと。または頼朝・頼家・実朝ら3人の将軍のこと)が眠るこの鎌倉の地を守りなさい。
もしも後鳥羽上皇の側に味方したい者は、ただちに申し出るが良い。
政子が演説した場所はどこ?→北条政子の館
歴史書・承久記によれば、演説は北条政子の館の庭で、あふれるほどたくさんの御家人を前にして、政子自身が涙を流しながら行われた、とのことです。
ただ、歴史書・吾妻鏡には、政子自身が声をあげて演説したのではなく、御家人・安達景盛が、政子の言葉を記した文章を、御家人たちに対して代読したことになっています。
おそらくですが、政子のような高い身分にいた人物が、人前で演説するとは考えにくいと思います。
当時、尼御台または尼将軍と呼ばれ、源実朝が亡くなったあと鎌倉殿(将軍)と認識されていた北条政子が、御簾の中から出て人目につくようなことはしなかったのではないでしょうか。
確かに御家人たちの前で、政子自身が演説した方が、よりドラマチックだとは思いますが・・・。
実際には、安達景盛が北条政子の言葉を記した文章を読み上げただけなのではないでしょうか。
演説をした理由・目的は何か?→弟・義時を守るため
北条政子が、演説をして御家人たちを奮起させたのは、弟・北条義時を守るためだったと考えられます。
この時、北条政子の弟・北条義時に対して、後鳥羽上皇からの討伐命令つまり院宣(上皇の命令)が出されていました。
当時の常識から考えると、上皇からの討伐命令が出された人間が生き残る可能性は、ほとんどゼロでした。
実際に、北条義時追討の命令が出された直後、後鳥羽上皇の軍団では、この戦いは勝利して当たり前と楽観視する者たちばかりでした。
つまり北条義時は、絶体絶命だったということです。
このとき、政子は夫・頼朝のみならず、自分が産んだ子供4人すべてを亡くしていました。
- 大姫
- 源頼家
- 三幡
- 源実朝
それだけではなく、政子は4人の孫にも先立たれていました。
- 一幡
- 公暁
- 禅暁
- 栄実
これら全ての身内に先立たれていた政子にとって、弟・義時はゆいいつ頼りになる身内だったともいえるのです。(孫の中では唯一『竹御所』という孫娘のみ生き残っていた)
一説によると、政子は御家人たちを奮起させるため
「私は義時を失ったら、本当に一人になってしまう」
と、涙ながらに協力を求めたといわれています。
義時を信頼し、二人三脚で数々の権力闘争を戦い続けた政子にとって、義時は絶対に守らなくてはならない家族であり、パートナーだったのです。
それだけではありません。
北条義時は、このとき鎌倉幕府の実質的なトップでした。
義時を失うということは、政子の夫・源頼朝がつくりあげた鎌倉幕府という武家のための政府が、崩壊してしまうことを意味していました。
そのため、政子は義時を守ることで、同時に夫・頼朝が残した鎌倉幕府をも守ろうとしたのです。
演説はいつ行われたのか?→承久3年5月19日(乱が起きた5日後)
歴史書・吾妻鑑によれば、北条政子の演説が行われたのは、承久3年(1221年)5月19日です。
後鳥羽上皇が承久の乱の始まりとなる【流鏑馬揃え】を行って軍団を集結させたのが、5月14日です。
後鳥羽上皇が北条義時を倒すために、【北条義時追討の院宣】を出したという知らせが鎌倉に届いたのが、5月19日でした。
北条義時を討伐せよという、後鳥羽上皇の命令が鎌倉に届いたその日に、北条政子はこの演説を行ったのです。
上皇による北条義時の追討命令が出されたことで、鎌倉の御家人たちは動揺します。
先ほども申しました通り、上皇の追討命令を出されて生き残ることなどありえないことだったからです。
御家人たちの動揺が広まれば、政子や義時を裏切り、後鳥羽上皇に味方する御家人も現れるかもしれません。
その御家人の動揺と裏切りを防ぐために、政子は迅速に演説を行う必要があったのです。
京都から「後鳥羽上皇が北条義時を倒せという命令を全国に発した」という知らせが届いた承久3年(1221年)5月19日、政子は歴史に残る演説を行ったのでした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 吾妻鏡には「頼朝の恩に報いるため上皇軍と戦え」といった政子の演説内容が記されている
- 政子は弟・北条義時と、夫・頼朝が残した鎌倉幕府という遺産を残すために演説を行った
- 演説が行われたのは承久3年(1221年)5月19日。承久の乱が起こった5日後のこと
以上となります。
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