小早川秀秋の死因は祟りではなかった?関ヶ原のその後の生活は悲惨!

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「小早川秀秋」は、「関ヶ原の戦い」で西軍「石田三成」を裏切り、東軍「徳川家康」に寝返った武将として知られていますね。

ところが近年では「関が原の戦い」に異説が唱えられ、『小早川秀秋の裏切りはなかったのでは?』とも言われています。

この記事では「小早川秀秋」にあまり詳しくない方に向けて、詳しく解説していきます。

これを読んで「そうだったのか!小早川秀秋!」と疑問をスッキリと解消してくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 小早川秀秋の死因は、「大谷吉継の祟り」と噂されているが、実際の死因は「酒の飲みすぎ」による「肝硬変」であると考えられている。
  2. 「関ヶ原の戦い」で功績を認められた小早川秀秋は、徳川家康から「備前・岡山」に巨大な領地を与えられたが、深酒が原因で21歳の若さで亡くなった
  3. 「関ヶ原の戦い」で石田三成を裏切り、徳川家康に味方したとされている「小早川秀秋」だが、近年では「元々家康に味方していた」とされ、裏切り者ではないと言われている

小早川秀秋の死因は何だったの?大谷吉継の祟りではなかった

「小早川秀秋」の逸話!「大谷吉継」に祟られて亡くなった?

「『小早川秀秋』は『大谷吉継』に祟られて亡くなった」

という物騒な話を、皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか?

《小早川秀秋》
「引用元ウィキペディアより」

1600年】、「関ヶ原の戦い」で西軍を裏切った「小早川秀秋」。

その「小早川軍」の襲撃を受けて、「石田三成」の親友「大谷吉継」は戦死しました。

《大谷吉継》
「引用元ウィキペディアより」

小早川の裏切りを恨んだ「大谷吉継」は、自らの死後に「小早川秀秋」に祟りをなし、それが原因となってわずか数え21歳で「秀秋」は亡くなったのだ・・・・・・と言われています。

まだ若い男性が、「関ヶ原の戦い」からわずか2年後に亡くなってしまったから、当時の人たちからすると「祟り」に見えたのでしょうね。

しかし祟りで人が亡くなるなどということが、本当にあるのでしょうか?

ここで「小早川秀秋」の『人となり』を見てみましょう。


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「小早川秀秋」の生涯

小早川秀秋は、「豊臣秀吉」の正室「ねね(北政所・高台院)」の兄「木下家定」の息子です。

「豊臣秀吉」の義理の甥として生まれ、叔母である秀吉の正妻「ねね」の寵愛を受けて成長。朝廷から従三位という高い位を与えられるなど、非常に恵まれた環境を与えられていました。

幼少期から秀明を知る人物「近衛信尹」の追悼文によると、秀秋は

「蹴鞠や舞などの芸事に通じ、貧しい人に施しをするなど、大変優れた資質を持った少年だった」

とのことです。

 

そんな心優しい少年だった小早川秀秋でしたが、元服して酒の味を覚えると、夜な夜な友人と飲み歩いて深酒をするようになってしまいました。

あまりに深酒が過ぎるため、育ての母と言っても良い「ねね」は、相当心を痛めていたようです。

また、残された秀秋の病気の症状記録からすると、秀秋は「肝硬変(かんこうへん)」を患っていたと考えられています。

肝硬変というのは簡単に言うと

「お酒の飲み過ぎやウイルス感染で起こした『肝炎』が悪化してしまい、本来柔らかな臓器である肝臓がカチカチに固くなってしまう病気」

です。


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肝臓は再生能力の高い臓器です。

肝硬変を起こした人へ「生体肝移植」で半分くらい肝臓を提供しても、また元の大きさに戻るほど再生能力の高い臓器なのです。

「嘘!」と思われるかもしれませんね。

しかし安倍政権で外務大臣・防衛大臣をつとめた衆議院議員「河野太郎」氏は、肝臓病の父「河野洋平」氏に肝臓を提供していますが、その後も元気に政治家として仕事をしていますよね。

「河野太郎」大臣は、ツイッターでよくつぶやいて、時々一般の人にもリプライを送っているほど、お元気に仕事をしています。(河野太郎大臣といえば、「ベーコン」について謎のツイートをしたことでも有名です。)

河野太郎さんは肝臓提供後、肝臓が元の大きさに戻ったので、あのように元気に働けるのです。

それほど再生能力の高い肝臓が、石のように固くなってしまうということは、相当に炎症が強く、再生が追いつかなくなったということです。


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「関ヶ原の戦い」の際「小早川秀秋」は19歳でしたから、当時の慣習から「15歳前後」で元服したとすると、「関ヶ原の戦い」の頃までには3~4年程度の時間があるわけですよね。

その3~4年程度の間に、いったいどれだけの飲酒をすれば肝硬変になるのかわかりません・・・。それはわかりませんが、育ての母「ねね」が嘆くほどの深酒だったのですから、相当な飲酒量であったことは確かでしょう。

肝硬変になると、肝臓の中にある門脈(親指ほどの太さがあります)という動脈の流れが悪くなることで、食道に「静脈瘤」ができ、お腹の表面の静脈が太く目立つようになります。

それだけではありません。全身に「黄疸」が出て、肌や白目が黄色くなるのです。

おそらく元服の頃から深酒で大量に飲酒していた「秀秋」も、亡くなった年には「黄疸」でこのような状態になっていたでしょう。


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「関ヶ原の戦い」後、その功績で五大老「宇喜多秀家」の旧所領「備前・美作・備中」などの大領を与えられた秀秋は、【1602年10月18日】に、数え「21歳」で亡くなりました。

記録によれば、畿内から居城に帰る途中に鷹狩に行き、そこで体調が急変して3日後に亡くなった・・・とあります。

おそらく「肝硬変」で腎臓など他の臓器にも負担がかかり、「多臓器不全」を起こしたのでしょう。

多臓器不全というのは簡単に言うと、全身の臓器の働きが元に戻らないほど低下してしまうことです。

「お酒は20歳になってから」の現代の日本に生きる私達からすると、まだ若い20歳の男性が「飲み過ぎ」で肝硬変を起こし、「多臓器不全」で亡くなる・・・というのはまず考えられないケースです。

「小早川秀秋」の死因は、現代日本ではおよそ起こるはずのない「20歳の若者の大量飲酒によって発生した肝硬変とそれによって起きた多臓器不全」だと考えられています。

「大谷吉継」が祟ったのではなく、秀秋自らの深酒がたたったのでした。


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小早川秀秋のその後!若くして大きな領地を得たが、飲み過ぎで死亡

「小早川秀秋」は、【1582年】に豊臣秀吉の正室「ねね」の兄「木下家定」の息子として生まれました。

「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれた3年後の【1585年】に、秀秋は秀吉の養子となり、実子に恵まれなかった「ねね」に可愛がられて育ちます。

秀秋は元服して初め「羽柴秀俊(はしば ひでとし)」と名乗りました。

1589年】、秀吉から自分の養子「豊臣秀勝」の領地だった地を与えられた「秀秋」は、「従三位権中納言」の地位を朝廷から与えられ、「丹波中納言」と呼ばれるようになります。

当時の「秀俊(のちの小早川秀秋)」は、豊臣家の権力継承者として見なされていました。


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しかし「秀吉」と「茶々(淀殿)」との間に「豊臣秀頼」が生まれたことで、状況が変わったのです。

秀俊は豊臣政権の実力者「小早川隆景」の養子となることになり、「小早川秀俊」となりました。(小早川隆景は、名将「毛利元就」の三男)

その後【1594年】に「豊臣秀次」の廃嫡事件が起き、それに連座して「秀俊」も所有していた「丹波亀山城」を没収されたのです。

しかし隆景が家臣を連れて備後国に隠居したので、秀俊は養父の所領を継ぎ「筑前国の領主」となりました。

1597年】には「慶長の役」に参戦。朝鮮半島に渡ります。

その年の【6月12日】、養父「隆景」が亡くなり、それ以降名を「秀俊(ひでとし)」から「秀秋(ひであき)」に変えました。

その後、帰国した秀秋は伯父である「豊臣秀吉」の命令で、筑前(福岡県)37万石の所領を召し上げられ、越前(福井県)に転封(しかも減封)されてしまったのです。

この転封の理由ははっきりわかっていませんが、秀秋が伯父「秀吉」に対し、不満を抱くきっかけにはなったことでしょう。


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1598年】、秀吉が亡くなり、「徳川家康」たち五大老によって、秀秋は再び筑前37万石の所領を取り戻しました。(没収された領地「筑前37万石」は、「石田三成」へ与えられる予定でしたが、三成はそれを辞退しています。「秀秋から没収された領地は石田三成に与えられる」という事実に、秀秋は三成への憎悪を強めたはずです。)

1600年9月15日】、天下分け目の戦いが勃発。みなさんもご存知の「関ヶ原の戦い」ですね。

秀秋は「関ヶ原の戦い」の前哨戦と呼ばれる「伏見城の戦い」では、西軍に所属していました。

伏見城の戦いの後、伊勢や近江で鷹狩をして過ごしていた秀秋でしたが、関ヶ原の戦いの前日、【9月14日】に突然関ヶ原に現れ、「松尾山城」へ入城。

その後、「石田三成」の西軍を裏切って東軍「徳川家康」に従った秀秋は、関ヶ原の戦いに勝利した後、家康から五大老の一人である「宇喜多秀家」の旧所領「備前・岡山」を与えられています。50万石を超える領地を手に入れ大幅に加増しました。

しかし元服の頃からの深酒がたたり、加増からわずか2年で亡くなってしまったのです。


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異説!小早川秀秋は裏切り者ではなかった?

小早川秀秋は最初から「家康」の味方だった

近年の「関ヶ原の戦い」の研究によって「小早川秀秋は西軍を裏切ったのではない」と言われています。

実は「関ヶ原の戦い」と呼ばれる合戦は、これまで考えられていた場所とは異なる場所で戦闘が行われていたことが、戦場の発掘調査から明らかになり始めています。

また、合戦が始まった時間も、従来言われてきた時間より2時間遅かったのではないか、と指摘されているのです。

現代に生きる私達が抱く「関ヶ原の戦い」のイメージは、実は江戸時代に書かれた軍記物や、その軍記物にインスパイアされた小説、そして大河ドラマなどのイメージが元になっています。

しかし「関ヶ原の戦い」の時代に書かれた史料(『一次史料』と言います)の研究が進んだことで、従来のイメージとは異なった実像が見えてきたのです。

「徳川家康」が合戦前に説得し、味方につけていた「小早川秀秋」がなかなか戦おうとしないので、家康の本陣から秀秋の本陣に「威嚇射撃」をし、裏切りを促した・・・・・という逸話も、1次資料の研究によって史実ではないと考えられ始めました。

よくよく考えてみれば、火縄銃の射撃音や刀・槍で打ち合う音、大声などで相当にやかましい合戦場で、「あの射撃は家康の本陣からだ」とわかるはずもないのです。

秀秋は裏切ったのではなく、元々家康に味方していたと考えられています。


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秀秋は「家康」の恩に報いた義理堅い人物だった

秀秋は、養父「小早川隆景」から相続した所領「筑前37万石」を、「豊臣秀吉」の存命中に没収され、転封(しかも石高も減らされています)させられました。

豊臣家の後継者と見なされていた秀秋は、秀吉と側室「茶々(淀殿)」の間に豊臣秀頼が誕生したことにより、立場が微妙になり、小早川家へと養子に出されたのです。

それでも、養父から豊かな所領を引き継ぎ、それなりに幸せに暮らせていたのでしょう。

その所領を「秀吉」に召し上げられたことで、「秀吉」に対し鬱屈したものを抱えたはずです。

1598年】に「秀吉」が亡くなると、召し上げられた所領は「徳川家康」によって秀秋へ戻されました。

おそらく、秀吉よりも家康に対して恩義を感じるようになったのではないでしょうか。


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秀吉の死から2年後、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「伏見城の戦い」が勃発。

その時は秀秋は西軍に所属していましたが、「伏見城の戦い」以後、伊勢や近江で鷹狩を楽しんでいました。

ところが「関ヶ原の戦い」前日、突然「関が原」へ進軍し、西軍「伊藤盛正」を追い出して松尾山城に入ります。

その後「関ヶ原の戦い」の際に、秀秋は「大谷吉継」を攻め滅ぼしました。

「関ヶ原」の功績によって秀秋は戦後、家康から旧「宇喜多秀家」の所領を与えられ、大加増。

家康は裏切り者に対しては苛烈な処分をする人でしたから、秀秋が本当に西軍を裏切り、家康に下ったのなら、このような大加増は行わなかったでしょう。(その証拠に「関ヶ原の戦い」で勝ち馬に乗ろうとして西軍を裏切った武将「小川祐忠」「赤座直保」は改易(所領すべて没収)。「朽木元綱」は「減封(所領一部没収)」の処分をされている。)

秀秋は西軍を裏切ったのではなく、家康に養父「小早川隆景」の所領を戻してもらった頃から、おそらく家康寄りの立ち位置を取っていたのではないでしょうか。つまり秀秋は、家康の恩に報いたのです。

「小早川秀秋」は決して裏切り者ではなかったのです。


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『小早川秀秋』について「ひとこと」言いたい!

未成年者の飲酒が禁止され、20歳以上でなければ飲酒できない現代の日本では、「小早川秀秋」のように年若い人の「肝硬変からの多臓器不全」という症状はまず見られないでしょう。

お酒を飲みすぎると、肝臓が少しずつ傷み、「脂肪肝(肝臓に脂肪がたまる状態)」を経て「アルコール肝炎」になり、やがて「肝硬変」へと進んでいきます。

しかしそこまで症状が進行するまでにいったい何年間、どれほどの飲酒量が必要となるのでしょう?

育ての母「ねね」が秀秋の深酒を嘆いていたくらいですから、夜な夜な浴びるほど飲酒していたのでしょうか。

元服(15再前後)から飲み始めたとして、「関ヶ原の戦い」まではわずか3年ほどです。

それから亡くなるまでの2年を足しても、深酒していた時間は「5年ほど」ですから、驚きです。

通常「肝硬変」を発症するまでには、慢性の肝臓障害が10年以上続きますから、秀秋はもしかしたら「ウイルス感染」による「慢性肝炎」を子供の頃から患っていて、そこへさらに「元服からの深酒」が追い打ちをかけたのかもしれません。

みなさんも、お酒はほどほどに。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 小早川秀秋の死因それは「大谷吉継の祟り」という逸話がある。しかし実際には「酒の飲みすぎ」が原因で「肝硬変」になったことが死因であると、近年では考えられている。
  2. 「関ヶ原の戦い」で東軍の勝利に貢献した小早川秀秋は、徳川家康からその功績を認められて50万石以上の大領を与えられた。しかし深酒がたたって21歳の若さで亡くなった
  3. 「関ヶ原」で「石田三成」を裏切ったと言われている「小早川秀秋」だが、近年では「元々東軍の徳川家康に味方していた」とされ、裏切り者ではないという説が有力となっている

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この記事を短くまとめると、以下の通り

小早川秀秋は豊臣秀吉の正室「ねね」の甥として生まれました。

叔母「ねね」のもとで養育され、豊臣家の後継者と見なされて成長します。

しかし「秀吉」と「茶々」との間に「秀頼」が生まれ、秀秋の豊臣家での立場は微妙になりました。

智将「毛利元就」の三男「小早川隆景」の養子となり、養父の死後に広大な所領を相続しましたが、秀吉に召し上げられて転封、しかも石高を減らされます。

おそらく「秀吉」に対して鬱屈とした思いを抱いたでしょう。

秀吉の死後、秀秋が召し上げられた所領を秀秋へ返したのは「徳川家康」でした。

養父から相続した所領を戻してくれた家康に恩義を感じた秀秋は、「関ヶ原の戦い」の前哨戦「伏見城の戦い」では西軍に属していましたが、「関ヶ原の戦い」本戦では東軍に味方します。

それは家康本陣からの威嚇射撃で慌てて寝返ったのではなく、元々家康に味方していたのだと、近年の「関ヶ原の戦い」当時の一次史料から指摘されているのです。

秀秋は決して裏切り者ではありません。

裏切り者に苛烈な家康が、関ヶ原の戦い後、その功績を認めて旧「宇喜多秀家」の領地を秀秋に与えているのが何よりの証拠です。

大加増して大大名となった秀秋でしたが、元服の頃からの深酒がたたり、「肝硬変からの多臓器不全」で数え【21歳】で亡くなりました。

祟ったのは「大谷吉継」ではなく、秀秋自身の深酒だったのです。

『松尾山の小早川秀秋陣跡:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【関ヶ原の戦い】簡単にわかりやすく解説!いつ誰と誰が戦ったの?」の記事はコチラ
「【島津義弘】関ヶ原の戦い敵中突破の詳細とは!戦国最強の逸話が怖い」の記事はコチラ

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