瀬名姫(別名・築山殿)の呪いエピソードが、本当かどうかを考察!
瀬名の子供たちと、子孫のその後を解説。
子孫と子供は、呪いで悲惨な運命に?
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瀬名姫(築山殿)の呪いのエピソード・逸話!
瀬名姫(築山殿)の呪いエピソードは、数多くあります。
・瀬名姫を殺害した徳川家家臣「野中重政」と「岡本時仲」は、浜松の池で「刀」を洗った所、水が枯渇した。現在の「浜松医療センター駐車場」に「太刀洗の池」として碑が残っています
・瀬名姫を切った「野中重政」は、その後隠居したが、耳が聞こえない娘が2人も産まれた。「野中重政」の孫「野中重羽」は、供養のため築山殿の墓に「石灯籠」を寄進
・瀬名姫殺害時に、そばにいた武士の一人が、手足が溶けて亡くなった
・夫・家康のもとに、小さな蛇となった築山殿が毎晩現れた
・ある徳川家臣の孫が、瀬名姫の名前を連呼して他界した
これらのエピソードは、明らかに創作つまり作り話でしょう。
特に罪もない築山殿を処罰したのですから、「悪女」に仕立てあげる必要があった「家康」の仕業であると考えられます。
「信康・築山殿事件の真相」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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瀬名姫の子供たちはどうなった?
築山殿には2人の子供がいました。
「信康」と、その妹「亀姫」です。
信康は、築山殿が亡くなった半月後に、遠江国・二俣城で自刃。武田勝頼との内通と、謀反を疑われての処罰でした。
「亀姫」は、三河国の豪族「奥平信昌」に嫁ぎ、四男一女に恵まれました。
しかし、家康の5人の娘の内、家康よりも長生きしたのは、この長女「亀姫」と三女「振姫」のみ
妹・振姫もまた、亀姫を残して先立ってしまっています。
瀬名姫の子孫たちの末路
信康には「二女」、亀姫には「四男一女」
合計で「四男三女」がいました。
・信康の長女「登久姫」は、小笠原秀政という武将に嫁ぎ、「六男二女」を儲けました。しかし登久姫は、32歳の若さで他界
・信康の次女「熊姫」は、徳川四天王の一人「本多忠勝」の嫡男に嫁ぎ、50歳で他界
・亀姫の四人の息子たちの内「四男・松平忠明」を残して、三人が母「亀姫」より先に死去
・亀姫の一人娘は、「大久保忠常」という武将と結婚。この大久保忠常は、家康の知恵袋・「本多正信・正純」親子に暗殺されたとの噂も・・・
信康の血筋も・亀姫の血筋も後世に続いていますが、それにしたって不幸続きな気がします。
長生きできたのは「信康の次女・熊姫」と、「亀姫の四男・松平忠明」と「亀姫の娘」の合計三人だけ。
それも、かなり苦労が多かったようですし、呪いを疑いたくなるのもわかります。
まぁ、罪もない孫を、瀬名姫が呪ったなんて、考えにくいですけど、それにしては亡くなるのが早い気がします。
「本多正信・正純」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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「松平信康の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・瀬名姫の呪いは、家康による創作で間違いないだろう
・瀬名姫の子供たち・・・信康は当然だが、亀姫も子供たちに先立たれ、苦労の多い人生を送っている
・瀬名姫の孫達・・・早くに亡くなった人が多い
以上となります。
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