今回のテーマは豊臣秀吉と茶々(淀殿)です。
この記事では豊臣秀吉の側室である茶々こと淀殿について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば茶々(淀殿)を、カンタンに理解できます。
茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室でありながら、数々の疑惑や謎を持つ女性なのです。
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この記事を短く言うと
1,茶々(淀殿)の生涯とは?
茶々こと淀殿は、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女として産まれたが、浅井長政は織田信長に討ち果たされた。
その後、茶々は織田信長に養われていたが、お市の方が亡くなると、豊臣秀吉に引き取られて、その側室となる。
【1615年】、茶々は息子・豊臣秀頼とともに大坂夏の陣で亡くなる。
2,茶々にとって、豊臣秀吉はカタキだったとは、どういうことか?
秀吉は、茶々の母・お市の方と、兄・万福丸を死に追いやった人物なので、母と兄のカタキにあたる。
3,茶々は浅井長政の娘ではなかったのか?
一説によると茶々は、お市の方が浅井長政に嫁ぐ以前に結婚していた前の夫とのあいだに産まれた娘、といわれている。
豊臣秀吉の側室・茶々(淀殿)の生涯を、カンタン解説
淀殿と呼ばれた茶々は、戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹であるお市の方のあいだに生まれ、天下人・豊臣秀吉の側室として、豊臣秀頼を産み、大坂・夏の陣で亡くなった人物です。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
茶々(淀殿)とは、天下人・豊臣秀吉の側室であり、豊臣秀頼の母親にあたる人物です。
茶々(淀殿)は、戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の長女として誕生します。

《淀殿(茶々)》
「引用元ウィキペディアより」
【1570年】、浅井長政は同盟者である義兄・織田信長を裏切り、【1573年】に戦死。
浅井三姉妹と呼ばれた茶々と、その妹・初と江は、織田信長に引き取られて成長します。
【1582年】、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、茶々は母・お市の方の再婚相手である柴田勝家に引き取られることになります。
【1583年】、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家とお市の方が、豊臣秀吉に敗北して亡くなると、浅井三姉妹は秀吉の庇護を受けることとなります。
【1588年】、茶々は豊臣秀吉の側室となって淀殿と呼ばれるようになり、鶴松と豊臣秀頼を産むこととなるのです。
【1598年】、豊臣秀吉が病死すると、淀殿は後継者である豊臣秀頼の実母であるため、絶大な権力を振るうようになります。
【1600年】、関ヶ原の戦いで徳川家康が石田三成を倒すと、豊臣家の勢力は一気に衰退。
【1614年】、方広寺鐘銘事件をきっかけに、大坂冬の陣が勃発。豊臣と徳川両軍が、和睦(停戦し、仲直りすること)して、戦争終結。和睦の条件として大坂城の堀を埋め立て。
【1615年】、大坂夏の陣で、徳川家康に敗北した豊臣秀頼と茶々(淀殿)は、炎上する大坂城の籾蔵のなかで自害し、生涯を終えることとなるのです。
→→→→→【淀殿(茶々)の最期と死因】についてくわしくはこちら
→→→→→【方広寺鐘銘事件!家康を呪った文章とは】についてくわしくはこちら
茶々(淀殿)と秀吉の関係!豊臣秀吉は茶々にとって、憎むべきカタキ!
茶々にとって夫・豊臣秀吉は、母・お市の方と兄・万福丸のカタキに当たる人物なのです。
秀吉は【1573年】、茶々の兄・万福丸を捕らえて、関ヶ原で磔の刑にしています。
それだけではありません。
秀吉は【1583年】の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家を討ち果たすとともに、その妻であった茶々の母親・お市の方をも死なせているのです。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』
つまり茶々(淀殿)からすれば、豊臣秀吉は、母と兄を死なせたカタキ、というわけです。
そんな宿敵・豊臣秀吉の側室になるとは、茶々(淀殿)には、何か思惑があったのでしょうか?
茶々(淀殿)は浅井長政の子ではなかった!
戦国大名・浅井長政の長女とされている茶々(淀殿)ですが、実は浅井長政の子ではなかったという説があります。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』
茶々は、お市の方が浅井長政に嫁ぐ前に、前夫との間に産まれた娘だというのです。(お市の方の前夫が何者かは不明)
浅井長政とお市の方の次女とされているのが、初という女性です。
二人の初めての娘だから、初と名付けられたのだとか。
ちなみに、茶々の兄とされる万福丸もまた、浅井長政と前妻の間に産まれた子供であるといわれています。
ということは、茶々と万福丸は、両親ともに異なる血縁のない兄妹ということになります。
もしかすると茶々からすれば、縁の薄い万福丸の死は、それほどショックではなかったかもしれません。
茶々(淀殿)が産んだ鶴松と豊臣秀頼は、秀吉の子ではない?
茶々(淀殿)が産んだ二人の息子・鶴松と豊臣秀頼は、豊臣秀吉の子ではないという噂があります。
この噂は秀吉が生きていた当時から噂されており、鶴松と秀頼の実父は大野治長という武将だといわれていたのです。
大野治長とは、茶々(淀殿)の乳母であった大蔵卿局の息子にあたる武将。
茶々(淀殿)と大野治長は、幼馴染だったのです。
治長は高身長で、かなりの美男子だったといわれています。
秀頼は、小柄だった豊臣秀吉には全然似ておらず、高身長で怪力だったという記録が残っています。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン
秀吉に母親を奪われた茶々(淀殿)ですが、もしかすると秀吉の血を引かない子供を産んで、秀吉の子と偽って育てることこそが、茶々(淀殿)の秀吉に対する復讐だったのかもしれません。
→→→→→【秀吉の子供たち一覧!淀殿(茶々)の復讐と最期】についてくわしくはこちら
とはいえこれは、あくまでも当時の噂であり、推測に過ぎません。
歴史的資料に、【秀頼は秀吉の子ではない】という確たる証拠が記されているわけではないのです。
こういった謎の真相究明は歴史学の担当分野でもないので、真相はおそらく永遠に闇の中です。
とはいえ、京都の阿弥陀ヶ峰で一時的に発掘された秀吉のご遺体と、鶴松・秀頼のDNAを検査すれば、話は別です。
鶴松または秀頼のDNAが発見できればの話ですが。
東京大学の本郷和人先生も、豊臣秀頼は秀吉の子ではないと思っているらしく、それをほのめかしておられました。
実際に、秀吉は淀殿の2度目の出産のときに、それほど嬉しくはなかったようです。
他の男の子供であるとおもったらしく、淀殿につかえていた人々を次々処刑しています。
歴史学者・磯田道史先生が言うには、その処刑は、淀殿が他の男性と関係を持ったことを確信した秀吉が、淀殿の警護や見張りを怠ったものたちへの怒りによるものだとか。
さらに、秀吉は秀頼が生まれた直後、妻・北政所に対して
その子を自分の子として育てるのではなく、淀殿ひとりの子として育てさせれば良いだろう
と、まるで親権を放棄するかのようなことを手紙に書いて送っています。
当初、秀吉は自分の子ではないかもしれない秀頼誕生に、とても冷ややかな態度をとっています。
ところが、その後秀吉は、自分の子ではないにしても、幼い秀頼を可愛がり始めました。
秀吉は、徐々に秀頼を溺愛するようになり、最期の瞬間まで秀頼を心配し続けたのでした。
我が子ではないとすれば、秀吉が秀頼の将来を、これほど心配したのはおかしい気がします。
しかし、本郷和人先生が言うには、当時は血のつながりより、家の存続、の方が大事なのだとか。
我が子ではなくても、家が続けばそれでよしということです。
つまり、秀吉は血縁のない秀頼が豊臣の家を継いでくれるなら、それで良いと考えた、ということでしょう。
秀吉は、幼い秀頼を溺愛した挙句、血のつながった甥である豊臣秀次とその一族全員を、死に追いやったのでした。
→→→→→【豊臣秀吉のご遺体はどこにある?】についてくわしくはこちら
→→→→→【淀殿は美人ではなかった?】についてくわしくはこちら
→→→→→【秀吉の天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,茶々こと淀殿は、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女として産まれたが、浅井長政は織田信長に討ち果たされた。
その後、茶々は織田信長に養われていたが、お市の方が亡くなると、豊臣秀吉に引き取られて、その側室となる。
【1615年】、茶々は息子・豊臣秀頼とともに大坂夏の陣で亡くなる。
2,秀吉は、茶々の母・お市の方と、兄・万福丸を死に追いやった人物なので、母と兄のカタキにあたる。
3,一説によると茶々は、お市の方が浅井長政に嫁ぐ以前に結婚していた前夫とのあいだに産まれた娘、といわれている。
以上となります。
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