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淀殿(茶々)は美人だった?性格は男勝りで高身長という噂を解説

皆さんは淀殿よどどの(別名・茶々ちゃちゃ)を、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 淀殿は、美人ではないと思う。
  2. 淀殿の身長は、当時の平均身長をはるかに上回る168cmだった
  3. 淀殿は、ライバルと公然と喧嘩し、鎧を着て戦場を駆け回る男勝りな女性だった

この記事では淀殿(茶々)について、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は淀殿(茶々)について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、淀殿(茶々)に詳しくなれます。


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どうぞごゆっくりお楽しみください。

目次

淀殿は美人だったのか?肖像画を見てみよう

豊臣秀吉の側室であり、秀吉から寵愛を受けた淀殿(別名・茶々)が美人だったのかどうか、その肖像画を見てみましょう。

正直にいえば、美人ではないと思います。

淀殿(茶々)
引用元ウィキペディアより

現代の価値観でみてみると、決して美人とはいえないのではないでしょうか。

失礼ながら、肖像画を見る限りでは、お顔が若干男っぽい角張った感じに見える気がします。

あくまで筆者の感想でしかありませんが、決して美形ではないような気がするのです。

また、当時の資料にも、淀殿について【美女である】ということを記した資料は一つもないのだとか・・。

それに対して、淀殿と同じく、秀吉の側室であった松の丸まつのまる殿(京極竜子きょうごくたつこ)は、とても美しい女性だったと評判でした。


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現代において、淀殿は、なぜ美人だといわれるようになったのでしょうか?

その理由は簡単で、淀殿の母親・お市の方が【戦国一の美女】と呼ばれた人物だったためではないでしょうか。

その娘である淀殿も、母親に似て美人だったのだろうという推測が働いたためと考えられます。

また、秀吉がお市の方に恋をしていたという逸話があります。

しかし秀吉の想いは伝わることなく、お市の方は命を落としてしまうのです。

その後、秀吉はお市の方の娘・淀殿を側室とします。

これは秀吉がお市の方を諦めきれなかったため、その娘を側室としたのだと、想像することが可能でしょう。

だったら淀殿は、当然母親にそっくりな美人だったのだろう・・・。

というわけで、【淀殿=美人】という想像が膨らんでいったのだと考えられます。

実際には秀吉は、お市の方に恋をしていたどころか、そもそもお市の方に会ったことがない可能性が高いらしいです。

お市の方は、肖像画を見る限り、色白でほっそりとした、かなりの美女だと思います。

お市の方
引用元ウィキペディアより

お市の方の次女である【おはつ】の証言によると、お市の方は若づくりの達人だったようです。

お市の方が美女かはともかく、30歳を過ぎなのに、20歳前後に見えたそうです。

はっきりいって、淀殿は母親のお市の方には、似ても似つかないと思います。

それよりも、父親の浅井長政あざいながまさに似ているのではないでしょうか。

浅井長政
引用元ウィキペディアより

顔立ちがなんとなく淀殿に似ている気がします。

もう一つ、浅井長政の肖像画をご覧くださいませ。

浅井長政
引用元ウィキペディアより

淀殿(茶々)
引用元ウィキペディアより

2人の写真を比べてみると、やはり父・長政の顔立ちは、淀殿に似ている気がします。


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淀殿は、戦国一の美女と呼ばれたお市の方ではなく、父親である浅井長政に似て、それほど美人ではなかったと思います。

ではなぜ、女好きで有名な豊臣秀吉は、美人ではない淀殿を側室としたのでしょうか?

その理由は簡単で、農民出身の秀吉が、身分の高い女性に子供を産ませようとしたためです。

なぜなら、我が子に生まれながら高貴な身分が備わるようにしたかったためです。

特に秀吉は、主君だった織田信長の血筋を欲して、信長の娘や姪の淀殿を側室としました。

そのため秀吉は側室を、美人かどうかではなく、その血筋や出身で選択していたのです。

美人かどうかなど、最初からどうでもよかったわけです。

ちなみに美女と名高い側室・松の丸殿は、源氏の名門・京極家の末裔です。

松の丸殿の身分は、申し分ありません。

実は松の丸殿の先祖は、室町幕府をつくった足利尊氏あしかがたかうじの親友である名将・佐々木道誉ささきどうよという人です。

我が子に織田信長の血筋を引かせることで、旧織田家臣団からの忠誠を、我が子に対して誓わせようとしたのでしょう。

のちに誕生した豊臣秀頼は、旧織田家臣団すべてに見捨てられたわけですが。

そして数多くいる秀吉の側室たちの中で、淀殿だけが子供を産んでいます。

鶴松と秀頼と、秀吉の子供を2人も出産したのです。

そのため、秀吉は淀殿を寵愛していたのだろうと想像が膨らんだのでしょう。

秀吉から寵愛されたということは、相当な美人だったのだろう、というわけです。

→→→→→【淀殿が産んだ秀頼は、秀吉の子ではない?】についてくわしくはこちら


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身長が168cmあった説について

平均身長が男性157cm・女性145cmだった戦国時代において、淀殿の身長は【168cm】もあったといわれています。

淀殿の身長は、当時の平均身長をはるかに超えています。

ちなみに、豊臣秀吉の身長は150cmとされています。

豊臣秀吉
引用元ウィキペディアより

淀殿は秀吉よりも20cm近くも背が高かったことになります。

ところで、どうして淀殿の身長が168cmだったことがわかっているのでしょうか?

調べてみたところ、これらの情報は某テレビ番組で報じられたものだそうです。

男性の場合は、甲冑のサイズから、身長を割り出せるのですが、女性の場合はそうもいきません。

淀殿の場合、着物や肖像画に描かれたサイズなどから、推測したようです。


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以下、淀殿の血縁者の身長です。

  • 母親・お市の方【165cm】
  • 父親・浅井長政【182cm】
  • 息子・豊臣秀頼【197cm】

母親のお市の方も、父親の浅井長政も、高身長であることがわかります。

淀殿は、高身長な親子の遺伝子を引き継いで、背が高かったのでしょう。

そんな淀殿の血筋のおかげなのか、淀殿が産んだ豊臣秀頼は、巨漢だったといいます。

父親の秀吉が小柄だったにもかかわらず、197cmという巨体だったのです。

とはいえ、秀頼の肖像画をみると、そんなに大柄だったようには思えませんが。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

余談かもしれませんが、淀殿の妹にあたるお江の方は、134cmとかなり小柄だったようです。


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性格も男勝りだった

淀殿は、とても男勝りな性格だったといいます。

ライバルと公然と喧嘩を始めたり、戦では鎧を着て味方を励ましたなどのエピソードがあります。

美貌の側室・松の丸殿とのさかずき争い

淀殿は、同じく秀吉の側室で美女と評判だった松の丸殿を相手に、公然と喧嘩した記録が残されています。

1598年、豊臣秀吉が亡くなる直前に、醍醐だいごの花見と呼ばれるお祭りが開催されました。

秀吉は、正室である北政所きたのまんどころ(別名・おね)が使用した盃を、淀殿や松の丸まつのまる殿ら側室たちにまわしました。

この盃を使用する順番は、身分の上下によって決まっていました。

つまり先に盃を使用した者の方が、秀吉からの寵愛をより強く得ており、身分が高いことを意味していたのでした。

淀殿と松の丸殿は、いとこ同士でした。

淀殿の実家である浅井家と、松の丸殿の実家である京極家は、実は因縁の深い間柄だったのです。

松の丸殿(京極竜子)
引用元Wikipediaより

そのため、淀殿と松の丸殿は、公然と盃の順番を争って喧嘩を始め、秀吉を困らせたといいます。

これは、淀殿が負けん気の強い女性であることを表しているでしょう。

ちなみにこの争いは、前田利家まえだとしいえの妻【まつ】が、2人を差し置いて盃を奪ったことで、丸くおさまったといわれています。


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鎧を着て戦場を駆け巡った

淀殿は1614年に始まった大坂の陣では、鎧をきて味方を励まして回ったといいます。

このとき淀殿は、女性でありながら重さ数十キロもある甲冑を着込んだといわれています。

余談ですが、2000年の大河ドラマ【あおい〜徳川三代〜】において、このシーンが再現されていました。

女優・小川真由美おがわまゆみさんが淀殿を演じておられ、秀吉の形見の真紅の甲冑を着込んでいたのです。

第28話【大坂冬の陣】で、淀殿が真田幸村さなだゆきむらたち浪人衆ろうにんしゅうを励ますシーンが描かれています。

このシーンの小川真由美さんの迫真の演技は、実際の淀殿もこのような女性だったのだろうと思わせてくれる見事なものでした。

話を戻しましょう。

通説では関ヶ原の戦いののち、淀殿は急速に勢力を拡大した徳川家に臣従することを頑なに拒み続けたといいます。

淀殿は、豊臣家の没落をあくまで認めませんでした。

そして勝ち目のない戦いへと我が子・秀頼を引きずり込んだ悪女であるといわれていたのです。

淀殿は、北条政子・日野富子とならぶ三代悪女と呼ばれています。

大河ドラマ【葵〜徳川三代〜】の第30話【大坂城炎上】の最期のシーンで、もろくも泣き崩れた淀殿が印象的でした。

→→→→→【淀殿の最期と死因】についてくわしくはこちら


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気が弱く、心の優しい一面もあった

気性の激しさが目立つ淀殿ですが、気弱な一面も記録されています。

気うつの病を発症したり、目の前で侍女が戦死して戦意を喪失するなど、気が弱い面もあったようです。

1601年、関ヶ原の戦いの翌年、淀殿は【気鬱きうつの病】を発症して、薬を処方されています。

秀吉や石田三成など、頼りにしていた人物を失い、徳川家康の圧迫が強くなったため、恐怖を感じたのでしょう。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

1614年の大坂冬の陣において、自ら甲冑を着て味方を励ましてはいたものの、とんでもない光景を目の当たりにしたといいます。

なんと淀殿の目の前で、侍女たちが大砲の直撃を受けて即死したのです。

これを見た淀殿は、一気に戦意を喪失しました。

徹底抗戦から一転して、講和を希望するようになるなど、もろい一面が垣間見えます。

また、心優しい面もありました。

妹である【お江の方】が、前夫とのあいだに儲けた子【完子姫さだこひめ】を引き取って育てているのです。

この完子姫を、のちに関白となる名門公家・九条幸家くじょうゆきいえに嫁がせるまで面倒をみています。

妹・お江の方が連れて行けなかった娘のことを想い、とても細やかな配慮をみせています。

また、長男の鶴松つるまつを出産した際には、京都に両親の菩提ぼだいを弔うため養源院ようげんいんを建立するなど、両親を想う優しさも見せています。

気丈に振る舞う中にも、もろさが滲み出るなど、気性の激しさと繊細さを併せ持った人物だったことがわかります。

余談ですが、養源院の天井には伏見城の戦いで戦死した鳥居元忠らの血が染み込んだ血天井がつかわれていて、名所になっています。


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淀殿を演じてきた美人女優

これまで、大河ドラマで【淀殿】を演じてきた女性を、一覧でご紹介いたします。

1965年【太閤記】の三田佳子さんから、2023年【どうする家康】の北川景子さんまで、合計18名が大河ドラマで淀殿を演じておられました。

  1. 三田佳子・1965年【太閤記】
  2. 岸田今日子・1971年【春の坂道】
  3. 中村祥子・1973年【国取り物語】
  4. 藤村志保・1978年【黄金の日日】
  5. 池上季実子・1981年【おんな太閤記】
  6. 夏目雅子・1983年【徳川家康】
  7. 樋口可南子・1987年【独眼竜政宗】
  8. 大空眞弓・1989年【春日局】
  9. 松たか子・1996年【秀吉】
  10. 小川真由美・2000年【葵〜徳川三代〜】
  11. 瀬戸朝香・2002年【利家とまつ〜加賀百万石物語〜】
  12. 若尾文子・2002年【武蔵〜MUSASHI〜】
  13. 永作博美・2006年【功名が辻】
  14. 深田恭子・2009年【天地人】
  15. 宮沢りえ・2011年【江〜姫たちの戦国〜】
  16. 二階堂ふみ・2014年【軍師官兵衛】
  17. 竹内結子・2016年【真田丸】
  18. 北川景子・2023年【どうする家康】(淀殿・お市の方と北川景子さんの一人二役)

こうしてみると、やはり美人女優さんばかりが並んでいます。

淀殿が美人であるという設定から、美人女優さんが演じることになるのでしょう。

筆者の個人的な意見でしかありませんが、1983年の大河ドラマ【徳川家康】で淀殿を演じた女優・夏目雅子なつめまさこさんがもっとも美しかった気がしています。

また、2000年の【葵〜徳川三代〜】の小川真由美さんが、筆者にとっては、もっとも印象深く素晴らしい演技をしてくれていたと思っています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 淀殿は、美人ではないと思う。
  2. 淀殿の身長は、当時の平均身長をはるかに上回る168cmだった
  3. 淀殿は、ライバルと公然と喧嘩し、鎧を着て戦場を駆け回る男勝りな女性だった

以上となります。

今日は「レキシル」をご訪問いただき、心から感謝申し上げます。

ぜひまた当サイトにお越しいただければ嬉しいです。

ありがとうございました。


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