徳川四天王の一人「井伊直政」
「長篠の戦い」の時、直政は何処で何をしていたのか?
直政が戦った生涯戦績を調査してみました。
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長篠の戦い、参戦武将と布陣
1575年に「三河国・長篠城近く、設楽原」で発生した「長篠の戦い」
この時の参戦武将を、布陣の順番にご紹介いたします。
織田・徳川連合軍
まずは「織田・徳川連合軍」
織田徳川軍は、設楽原を南北に流れる連吾川を天然の堀として利用し、川の西岸に布陣。
川に沿って布陣した最前列の織田軍武将たちは、北側から順に
「水野信元(家康の伯父)」
「佐久間信盛」
「丹羽長秀」
「羽柴秀吉」
「滝川一益」
「前田利家」
彼ら最前列の後ろには
「稲葉一鉄」
「佐々成政」
「柴田勝家」
が布陣し、この後ろに「織田信長」「織田信忠」「織田信雄」親子が布陣
織田軍の南には徳川軍が布陣
「石川数正」
「鳥居元忠」
「榊原康政(徳川四天王)」
「大須賀康高」
「大久保忠世」
徳川四天王・筆頭の「酒井忠次」は、この時別働隊を率いて、武田軍後方の「鳶ヶ巣砦(とびがすとりで)」を攻撃していました。
武田軍
武田軍は、連吾川の東岸に布陣。
北から順番に
「馬場信春(武田四天王)」
「真田信綱(真田幸村の伯父)」
「土屋昌続」
「穴山信君」
「一条信龍」
「武田信廉(武田信玄の弟)」
「内藤昌豊(武田四天王)」
「小山田信茂」
「小幡憲重」
「原昌胤」
「山県昌景(武田四天王)」
「徳川四天王」最期の一人「井伊直政」は何をしていたのか・・・。
ちなみに「武田四天王」最期の一人「高坂昌信」は、この時、北信濃にある「海津城」を守り、上杉家に備えていました。
「井伊直政」は何をしていた?
長篠の戦い・・・井伊直政はどこにいたのでしょうか?
この時、15歳。家康の小姓(秘書兼ボディーガード)に任命される直前でした。
まだ「初陣」も済ませていない「元服(成人式)」前の状態。
家康に仕え始めて間もない頃ですし、おそらく家康の居城「浜松城」でお留守番していたのでしょう。
直政は、家康の子「信康」と顔立ちが似ており、美少年。
しかも家康の「愛人」だったとも言われていますので、大切にされていたのでしょう。
井伊直政・・・直政の初陣は1576年2月7日・・・「17歳」の時に行われた「芝原の戦い」
この時の相手は「武田勝頼」
武田勝頼が高天神城救援に出陣してきた時、「掛川城」を攻撃する素振りを見せたため、家康は浜松城の東20km地点「芝原」という地に布陣して武田軍を迎撃!
直政はこの戦いの最中、家康の寝室に忍び込んできた「武田の暗殺者」を討ち取り、家康を守っています。
この功績により、直政の「3百石」の領地は、10倍の「3千石」に!
闘争心の塊のような性格だったという井伊直政・・・・長篠の戦いに出陣できなかった鬱憤を、この「芝原の戦い」で爆発させたのでしょう。
直政の戦功
井伊直政は、生涯かなりの戦功を建てています。
1576年の「芝原の戦い」を始め、1582年の「天目山の戦い」で武田家が滅亡するまでは、主に「武田勝頼」を相手にして戦っています。
武田家滅亡の後は、「本能寺の変」が勃発して、堺の街にいた家康は、「伊賀越え」で三河に逃亡。
この伊賀越えで、井伊直政は家康の護衛を務めています。
直後の「天正壬午の乱」で徳川家は、信濃国・甲斐国を「北条家」「上杉家」と奪い合うことに・・・。
この時、武田家旧臣を配下に従え、長篠の戦いで戦死した名将「山県昌景」から、「赤備え部隊」を引き継いでいます。
結果は、「信濃・甲斐」を徳川家が、「上野」を北条家が支配!
1584年「小牧・長久手の戦い」で、赤備え部隊を率いて大活躍。
徳川軍は、当時「日本最強」と考えられていた「秀吉軍」を粉砕し、一躍有名となりました。
ちなみにこの敗戦が、秀吉の生涯で唯一の黒星となりました。
1585年には、真田家と徳川家の「第一次上田合戦」が勃発。
井伊直政は参戦していないものの、真田昌幸に敗北した「徳川軍」を撤退させています。
1590年「小田原・北条征伐」に従軍。
22万の豊臣軍の中で、唯一「堅城・小田原城」の城内に攻撃を仕掛けたのが「井伊直政」でした。
1600年「関ヶ原の戦い」においては、前哨戦「岐阜城の戦い」などで中心的存在となり活躍。
しかも「関ヶ原の戦い」本戦では、猛将・福島正則を出し抜いて、娘婿で家康の四男「松平忠吉」とともに先陣を務めました。
この時、島津軍の銃撃を腕に受け、その傷が元で、1602年に死去。
享年42歳、若すぎる死となってしまいました。
「井伊直政の家臣団一覧」は以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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「山県昌景」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・長篠の戦いに、井伊直政は参戦していない
・直政はその時、浜松城の留守番をしていたのだろう
・初陣は、長篠の戦いの翌年「芝原の戦い」
・直政は「関ヶ原の戦い」まで、数々の戦いに参戦しているが、関ヶ原の戦いの2年後に亡くなってる
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
「長篠の戦い」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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