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【長篠の戦い】井伊直政は何してた?両軍の布陣図を確認してみた

徳川四天王の一人「井伊直政」

「長篠の戦い」の時、直政は何処で何をしていたのか?

直政が戦った生涯戦績を調査してみました。


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拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・井伊直政は、長篠の戦いに参戦していない

・「長篠の戦い」の時、直政は徳川家康の居城「浜松城」の留守番をしていた

・直政の初陣は、「長篠の戦い」の翌年1576年「芝原の戦い」


長篠の戦い、参戦武将と布陣

1575年に「三河国・長篠城近く、設楽原」で発生した「長篠の戦い

この時の参戦武将を、布陣の順番にご紹介いたします。

織田・徳川連合軍

まずは「織田・徳川連合軍」

織田徳川軍は、設楽原を南北に流れる連吾川を天然の堀として利用し、川の西岸に布陣。

川に沿って布陣した最前列の織田軍武将たちは、北側から順に

「水野信元(家康の伯父)」

「佐久間信盛」

「丹羽長秀」

羽柴秀吉

「滝川一益」

「前田利家」

彼ら最前列の後ろには

「稲葉一鉄」

「佐々成政」

「柴田勝家」

が布陣し、この後ろに「織田信長」「織田信忠」「織田信雄」親子が布陣

織田軍の南には徳川軍が布陣

「石川数正」

「鳥居元忠」

本多忠勝徳川四天王)」

榊原康政(徳川四天王)」

「大須賀康高」

「大久保忠世」

後方には「徳川家康」と「信康」親子・・・。

徳川四天王・筆頭の「酒井忠次」は、この時別働隊を率いて、武田軍後方の「鳶ヶ巣砦(とびがすとりで)」を攻撃していました。



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武田軍

武田軍は、連吾川の東岸に布陣。

北から順番に

「馬場信春(武田四天王)」

「真田信綱(真田幸村の伯父)」

「土屋昌続」

「穴山信君」

「一条信龍」

「武田信廉(武田信玄の弟)」

「内藤昌豊(武田四天王)」

「小山田信茂」

「小幡憲重」

「原昌胤」

山県昌景(武田四天王)」

 

「徳川四天王」最期の一人「井伊直政」は何をしていたのか・・・。

ちなみに「武田四天王」最期の一人「高坂昌信」は、この時、北信濃にある「海津城」を守り、上杉家に備えていました。



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「井伊直政」は何をしていた?

長篠の戦い・・・井伊直政はどこにいたのでしょうか?

この時、15歳。家康の小姓(秘書兼ボディーガード)に任命される直前でした。

まだ「初陣」も済ませていない「元服(成人式)」前の状態。

家康に仕え始めて間もない頃ですし、おそらく家康の居城「浜松城」でお留守番していたのでしょう。

直政は、家康の子「信康」と顔立ちが似ており、美少年。

しかも家康の「愛人」だったとも言われていますので、大切にされていたのでしょう。

井伊直政・・・直政の初陣は1576年2月7日・・・「17歳」の時に行われた「芝原の戦い」

この時の相手は「武田勝頼

武田勝頼が高天神城救援に出陣してきた時、「掛川城」を攻撃する素振りを見せたため、家康は浜松城の東20km地点「芝原」という地に布陣して武田軍を迎撃!

直政はこの戦いの最中、家康の寝室に忍び込んできた「武田の暗殺者」を討ち取り、家康を守っています。

この功績により、直政の「3百石」の領地は、10倍の「3千石」に!

闘争心の塊のような性格だったという井伊直政・・・・長篠の戦いに出陣できなかった鬱憤を、この「芝原の戦い」で爆発させたのでしょう。



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直政の戦功

井伊直政は、生涯かなりの戦功を建てています。

1576年の「芝原の戦い」を始め、1582年の「天目山の戦い」で武田家が滅亡するまでは、主に「武田勝頼」を相手にして戦っています。

武田家滅亡の後は、「本能寺の変」が勃発して、堺の街にいた家康は、「伊賀越え」で三河に逃亡。

この伊賀越えで、井伊直政は家康の護衛を務めています。

直後の「天正壬午の乱」で徳川家は、信濃国・甲斐国を「北条家」「上杉家」と奪い合うことに・・・。

この時、武田家旧臣を配下に従え、長篠の戦いで戦死した名将「山県昌景」から、「赤備え部隊」を引き継いでいます。

結果は、「信濃・甲斐」を徳川家が、「上野」を北条家が支配!

1584年「小牧・長久手の戦い」で、赤備え部隊を率いて大活躍。

徳川軍は、当時「日本最強」と考えられていた「秀吉軍」を粉砕し、一躍有名となりました。

ちなみにこの敗戦が、秀吉の生涯で唯一の黒星となりました。

1585年には、真田家と徳川家の「第一次上田合戦」が勃発。

井伊直政は参戦していないものの、真田昌幸に敗北した「徳川軍」を撤退させています。

1590年「小田原・北条征伐」に従軍。

22万の豊臣軍の中で、唯一「堅城・小田原城」の城内に攻撃を仕掛けたのが「井伊直政」でした。

1600年「関ヶ原の戦い」においては、前哨戦「岐阜城の戦い」などで中心的存在となり活躍。

しかも「関ヶ原の戦い」本戦では、猛将・福島正則を出し抜いて、娘婿で家康の四男「松平忠吉」とともに先陣を務めました。

この時、島津軍の銃撃を腕に受け、その傷が元で、1602年に死去。

享年42歳、若すぎる死となってしまいました。


井伊直政の家臣団一覧」は以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓↓

山県昌景」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・長篠の戦いに、井伊直政は参戦していない

・直政はその時、浜松城の留守番をしていたのだろう

・初陣は、長篠の戦いの翌年「芝原の戦い」

・直政は「関ヶ原の戦い」まで、数々の戦いに参戦しているが、関ヶ原の戦いの2年後に亡くなってる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


長篠の戦い」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

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