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【本能寺の変】徳川家康はどこにいた?なぜ伊賀越えルートを選んだのか

この記事では「本能寺の変」について「徳川家康が堺の町にいた理由」と「伊賀越えルートを選んだ理由」を、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「徳川家康」が「本能寺の変」のときに何をしていたのか、カンタンに理解できます。

 

実は「徳川家康」には、「天下を取れるチャンスがあった」のです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「本能寺の変」のときに「徳川家康」が堺にいた理由は、「織田信長から、京都・大坂・堺・奈良の観光旅行をすすめられた」から

 

2,「家康」が逃亡ルートに「伊賀越え」を選んだ理由は、「海路ルート」に「遭難」のリスクがあったため。もっとも確実な方法が「伊賀越え」だったから。

 

3,家康が「海路ルート」を選択して、「無事に岡崎城へ帰還」し、「5日以内に出陣」していたら、天下が取れたかもしれない。

本能寺の変が起きた時、徳川家康はどこにいた?

「本能寺の変」が起きたときに、徳川家康は和泉国の堺という街にいました。(現在の大阪府堺市)

「徳川家康」が「堺」にいた理由は、「織田信長」から「堺」の観光旅行をすすめられたからです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

天正10年(1582年)6月2日

 

京都「本能寺」で、「織田信長」が、もっとも信頼していた重臣「明智光秀」に討たれました。

 

「本能寺の変」です。

 

この日、このとき、「徳川家康」は、どこにいたのでしょうか?



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家康は、京都の南にある「堺」の町にいました。現在の「大阪府堺市」です。

 

京都「本能寺」と、「堺」は、直線距離で約「60km」ほど。

 

休みなく歩けば「12時間」の距離です。

 

なぜ「徳川家康」は「堺」にいたのでしょうか?

 

実は「家康」、当時最大の商業都市だった「堺」の町を見物、つまり「観光旅行」をしていたのです。

 

なぜ「観光」していたのかというと、「織田信長」から勧められたからです。

 

家康は、【5月中旬】に織田信長から招かれて、安土城で信長の接待を受けていました。

 

天正10年(1582年)5月20日】、信長は家康に対して、「観光旅行」をすすめます。

「京都・大坂・堺・奈良を、ゆっくりと見物すると良い」

翌日、家康は信長の部下「長谷川秀一」を案内につけられて、安土城から堺へ「観光旅行」へと出かけたのでした。

 

このとき、信長の重臣「丹羽長秀」は、明智光秀の娘婿で信長の甥「津田信澄」とともに「大坂」で家康を迎えるようにと命じられ、大坂で待機。

 

信長の嫡男「織田信忠」は、家康の案内をするため、京都へ来ています。

 

家康は、【5月21日】から、「本能寺の変」が起こった【6月2日早朝】まで、「堺」を中心に「観光旅行」を楽しんでいたのです。

 

そして、【6月2日】の朝、家康はとても親しくしていた三河出身の豪商「茶屋四郎次郎(ちゃやしろじろう)」から、「本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討たれた」ということを知らされたのでした。



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逃亡ルートに、困難な「伊賀越え」ルートを選んだ理由

家康が「伊賀越えルート」を選択した理由は、「それが最も安全で確実な方法だった」からです。

 

家康は「本能寺の変」を知ると、急いで逃亡しなくてはいけないと考えました。

 

理由は簡単で、「明智光秀」が家康を見逃すはずがないからです。

 

もしも、「織田信長」の同盟者である「徳川家康」が、本拠地である「三河」へ帰還してしまうと、軍団を連れて「明智光秀」に敵対することは明らかでした。

 

天正10年(1582年)6月2日

 

「本能寺の変」が起こった当日、『徳川家康』は「三河国」への逃亡を決めます。

 

『堺』の町にいた家康には、主に「2つ」の「逃亡ルート」がありました。

  • 1つは、港町「堺」から船で海を通り、三河国へ向かうルート
  • もう1つが、「伊賀越え」、つまり「伊賀」を通って伊勢国へ渡り、そこから船で三河へ向かうルート


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「海路ルート」には、1つの問題点がありました。

 

それは「紀伊半島」の南をまわるルートは、海が非常に荒く、沈没・遭難の危険性があったことです。

 

船を使ったほうが速いのですが、当時の航海術は、まだまだ未熟だったのです。

 

「伊賀越え」にも問題がありました。

 

それは、明智光秀の手がまわり、「落ち武者狩り」などの敵勢力から襲撃されるかもしれないということです。

 

家康は、このとき「伊賀越え」ルートを選択します。

 

1581年】、つまりこの1年前、織田信長は次男「信雄」に命じて「伊賀攻め」を実行しています。

 

伊賀の人たちは虐殺され、信長を恨んでいました。

 

それに対して、家康はたくさんの「伊賀」の人々を助けていたのです。

 

そのため、伊賀で協力者を募ることも出来ると判断したのでした。

 

家康は「6月2日」から「6月4日」まで、合計3日間の移動で「三河国・岡崎城」へと帰還します。

 

途中で盟友だった「穴山梅雪」を失い、落ち武者狩りや「一揆」の集団に襲われながらも、なんとか帰国したのです。

 

のちに「人生最大の苦難だった」と語った「伊賀越え」は、こうして終わったのでした。

 

徳川家康は、死後に「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」と呼ばれ、神としてまつられました。

 

そのため、この「伊賀越え」は、神すなわち「神君・徳川家康公」による「伊賀越え」ということで、「神君伊賀越え」と呼ばれるようになったのです。

 

 

それにしても、わずか3日間で大坂の「四條畷」から「岡崎」へ帰還するとは、かなりの行軍速度です。



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同行していた家臣団一覧

この「神君伊賀越え」には、「徳川四天王」を始めとして、数々の武将たちが同行していました。

 

しかし、その数はわずか「34名」だったと記録されています。

 

  • 酒井忠次
  • 本多忠勝
  • 井伊直政
  • 榊原康政
  • 石川数正
  • 本多正盛
  • 石川康通
  • 服部正成(服部半蔵)
  • 高木広正
  • 大久保忠隣
  • 菅沼定政
  • 久野宗朝
  • 本多信俊
  • 阿部正勝
  • 牧野康成
  • 三宅正次
  • 高力清長
  • 大久保忠佐
  • 渡辺守綱
  • 森川氏俊
  • 酒井重勝
  • 多田三吉
  • 花井吉高
  • 鳥居おます
  • 内藤新五郎
  • 都筑亀蔵
  • 松平玄成
  • 菅沼定利
  • 永井直勝
  • 永田瀬兵衛
  • 松下光綱
  • 都筑長三郎
  • 三浦おかめ
  • 青木長三郎

 

一説によると、このとき、「徳川家康」が「友」と呼んだ参謀「本多正信」が帰還したと言われています。

 

「本多正信」は、徳川家康が「一向宗(本願寺)」と敵対したとき、家康を見捨てて「一向宗」に味方していました。

 

「本多正信」がいつ帰還したのかは諸説ありますが、正信はこの頃から、再び家康に仕えて、天下統一を助けたのです。

 

また、家康が親しくしていた商人「茶屋四郎次郎」も、この「伊賀越え」に同行していました。



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「服部半蔵」の活躍

実はこの「神君伊賀越え」で、服部半蔵は、どのような活躍をしたのでしょうか?

 

先ほど、「伊賀越えで家康に同行した家臣は、わずか34名だった」と申しました。

 

しかし、実際のところ家康は「約300名」の護衛に守られながら岡崎城へ帰還したのです。

 

このとき、家康は「甲賀州100名」と「伊賀衆200名」に守られていたのでした。

 

なぜ、これほど多くの猛者が家康を守ったのか?

 

その理由は、信長の「伊賀攻め」のときに、家康が伊賀衆をかくまったため、だけではありません。

 

実は「服部半蔵」、正式名称「服部半蔵正成」の父「服部保長」は、伊賀国の出身でした。(「服部半蔵正成」は三河国の出身)

 

そのため、服部半蔵は伊賀の忍びたちと、つながりがあったのです。

 

このつながりを利用して、服部半蔵は「伊賀衆」に味方になってくれるようにと説得。

 

これを承諾した「伊賀衆」は、徳川家康を護衛。

 

一揆や落ち武者狩りに襲われながらも、敵を「200名」以上討ち取って、無事に家康を三河へと送り届けたのでした。

 

服部半蔵は、史実によると「忍者」ではなく、とても思い「鉄製の槍」を振りまわす猛将だったとのこと。

 

家康をその武勇で守り、しかも交渉で味方も増やした服部半蔵。

 

その功績は後世にまで伝わり、家康の本拠地「江戸城」には「半蔵門」と呼ばれる門があり、今も「服部半蔵」の功績を伝えています。



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「海路ルート」を選んでいたら、天下が取れた?

この「伊賀越え」のとき、もしも家康が「海路ルート」を選んでいたら、もしかすると、天下が取れたかもしれません。

 

なぜかというと、「海路ルート」でうまく帰還できていたら、1日早く「三河国」へ帰還できたかもしれないのです。

 

大急ぎで「明智光秀討伐」を行っていたら、もしかすると「羽柴秀吉」よりも先に「織田信長の仇討ち」ができていたかもしれません。

 

家康は、【6月14日】に三河国「岡崎城」から、尾張国「鳴海城」へと出陣しています。

 

実はこの前日【6月13日】、「明智光秀」は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で敗北し、亡くなっているのです。

 

三河へ帰還してから出陣するまで、家康は実に「10日間」もかかっています。

 

これをなんとか「5日間」に短縮できたら、家康は「明智光秀」を討ち果たせていたはず。



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家康が遅れた理由は2つあります。

  1. 「伊賀越え」に時間がかかった
  2. 「軍団の招集」に手間取った

 

このうち、「伊賀越え」を1日早くすませるには、やはり「海路ルート」が良かったでしょう。

 

もちろん「海路ルート」には「遭難」のリスクがありますので、絶対成功するとは限りません。

 

「軍団の招集」も、手間取ったのは仕方ないでしょう。

 

しかし秀吉は、「中国大返し」という、かなり雑ではあるものの、とにかく素早い作戦を実行し、見事に明智光秀を討ち果たしています。

 

雑ではあったものの、「中国大返し」は明智光秀を動揺・混乱させるのには、とてつもなく有効だったのです。

 

家康がもしも、多少は雑でも、スピード重視の大返しのようなことをやっていたら、「明智光秀討伐」に成功し、その後、天下を取れたかもしれません。



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もしも「徳川家康」が「明智光秀」を討ち果たしていたら、歴史はどうなっていたか?

家康が「明智光秀」を討っていたら、そのまま天下を取っていた可能性があります。

 

もしも「徳川家康」が「明智光秀」討伐に成功していたら、天下はどうなっていたでしょうか?

 

史実では、「豊臣秀吉」は「明智光秀」討伐に成功したあと、「織田信長」の孫「三法師」を織田家の後継者に任命し、その後見人として「織田家」を乗っ取っています。

 

そして「柴田勝家」と対立して、織田家を二つに分ける派閥争いを起こします。

 

「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家と「織田信孝」の一派を倒した秀吉は、織田家の乗っ取りに成功するのです。

 

実は「家康」も、「豊臣秀吉」の死後、まったく同じことをしています。

 

家康は、秀吉が亡くなるとすぐに、「石田三成」との間で、豊臣家を二つに分ける派閥争いを開始。

 

1600年】、「関ヶ原の戦い」で「石田三成」を討伐すると、豊臣家の乗っ取りに成功。

 

この「関ヶ原」から【15年後】の【1615年】、「大坂の陣」で「豊臣秀頼」を倒して、天下を乗っ取っているのです。

 

おそらく家康は、「秀吉」や「関ヶ原の戦い」後のように、「織田家」を乗っ取っていたでしょう。

 

「織田家」の後継者の決定にも、「明智光秀を討った」という功績を理由に介入していたはず。

 

家康が誰を信長の後継者として推すかはわかりません。

 

信長の次男「信雄」、三男「信孝」、孫「三法師」。

 

このなかで後に「家康」とともに「秀吉」と「小牧・長久手の戦い」を戦ったのが「織田信雄」です。

 

もしかすると家康は、「織田信雄」を後継者として、自分はその後見人になっていたかもしれません。

 

そして「柴田勝家」や「羽柴秀吉」と戦い、勝利。

 

そうなれば、「織田信雄」を廃して天下をとることもできたはずです。

 

強敵である「羽柴秀吉」に勝利できたかどうかは、少し疑問も残りますが、もし家康が「明智光秀討伐」に成功していたら、こんな形で歴史が変わったかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「本能寺の変」が起きた【天正10年(1582年)6月2日】、「徳川家康」が「堺」にいた理由は、「織田信長から、堺の観光旅行をすすめられた」から

 

2,「家康」が「伊賀越え」を選んだ理由は、もっとも安全で確実な方法が「伊賀越え」だったから。

 

3,家康が「海路ルート」を選択して、秀吉の「中国大返し」以上の速度で出陣していたら、もしかすると天下が取れたかもしれない。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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