皆さんは「太平記がなぜタブーとなっていたのか」を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 南朝こそが正統であり、北朝は正統ではないとされていたが、現在の天皇陛下は北朝の子孫であったため、矛盾が生じ、南北朝時代を描いた太平記はタブーとされた
- 南朝を正統としたには、名将・楠木正成の生き方が、武士の理想とされたため
- 北朝の天皇は正統ではないため、歴代天皇には数えられていない
この記事では「太平記がなぜタブーだったのか」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「太平記と南北朝時代」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「太平記」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
太平記は、なぜタブーとされたのか?
太平記は、天皇を倒して室町幕府を開くという、戦前の皇国史観からすると、絶対に受け入れられない内容だったため、タブーとされてきたのです。
太平記とは、後醍醐天皇の即位から、室町幕府三代将軍・足利義満を育てた細川頼之の管領への就任までを描いた軍記物語です。
1991年の大河ドラマ「太平記」は、この軍記物語「太平記」をもとにして、足利尊氏を主人公とする鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてのドラマでした。
昭和の当時、「天皇を悪役として描き、主人公が天皇を倒してしまう」という物語やドラマは、タブーだったのです。
なぜなのでしょうか?
話は変わりますが、南北朝時代という時代をご存知でしょうか?
大河ドラマ「太平記」は、この南北朝時代という時代を描いたドラマだったのです。
かつて、日本のある時代は、深い霧に包まれ、歴史の表舞台から姿を消していました。
それは、二人の天皇が同時に即位した南北朝時代(1337〜1392年)です。
明治時代、大日本帝国憲法が制定されました。
その中に
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
という一文が記されていました。
これは、天皇家は初代・神武天皇から現在まで、代々途切れることなく続いているという意味です。
この天皇を日本の基礎として、日本は途切れることなく続く天皇の国であるという歴史観を、皇国史観というのです。
しかし、南北朝時代はまさにその「万世一系」を揺るがしかねない時代だったのです。
二つの朝廷が並び、正統性を巡って争いが繰り広げられた時代、それが南北朝時代です。
国家の根幹に関わる問題だけに、この時代はタブー視され、あえて触れようとする者は少なかったのです。
なぜタブーとされたのかというと、その理由は、北朝と南朝のどちらが正統なのかという議論が原因です。
明治時代の当時、日本では、「南朝こそが正統である」とされていました。
江戸時代、大日本史を編纂した歴史家・水戸光圀が、南朝を正統としていたのです。
そして、明治維新を成功させた長州藩は、南朝の名将・楠木正成を崇拝していました。
楠木正成は、南朝・後醍醐天皇のために鎌倉幕府を滅亡させ、絶対に勝ち目のない戦いであるにもかかわらず、足利尊氏の大軍団に戦いを挑み、戦死した名将です。
この「天皇のために絶対に勝てない戦いに挑み亡くなる」ことこそが、忠義に厚い武士のあるべき姿とされたのです。
長州藩の楠木正成の崇拝者たちは、その後、明治政府の重鎮となりました。
そのため、明治政府は楠木正成が味方した南朝こそが正統であると考えていたのです。
ところがここで問題が生じます。
なんと明治天皇は、北朝の末裔だったのです。
南朝こそが正統であるとしてはいるものの、明治天皇は北朝の子孫だという事実は、大いなる矛盾を生じさせました。
当時、足利尊氏は「後醍醐天皇に背いて室町幕府を開いた大悪人」と考えられていました。
明治天皇を頂点に君臨させる明治政府としては、後醍醐天皇の敵である足利尊氏を悪とし、楠木正成を善とした方が、都合が良かったのです。
なぜなら楠木正成を理想とする教育をほどこせば、兵士を戦地へ送りやすくなるうえに、死を恐れぬ軍団が誕生するからです。(実際に、幕末・蛤御門の変では、楠公祭という楠木正成の祭りを行った直後の長州軍・来島又兵衛が、死を恐れぬ奮戦の末に亡くなっています)
つまり楠木正成は、利用されたのです。
大悪人・足利尊氏が起こしたといっても良い「北朝」。その子孫が、明治天皇でした。
しかし、日本国中に崇拝して欲しかったのは、南朝に味方した楠木正成だったので、南朝を正統としたわけです。
そのため「明治天皇は正統ではない北朝の子孫だが、南朝に味方して亡くなった楠木正成は正義の味方だ」という、矛盾したことになってしまいます。
北朝を正統としてしまうと、日本が長く理想としてきた英雄・楠木正成が、明治天皇の先祖に敵対した悪となり、後醍醐天皇を倒した足利尊氏が、英雄になってしまいます。
南朝を正統としてしまうと、その子孫ではない明治天皇もまた、正統ではないということになりかねません。
ここに、南北朝時代のおおいなる矛盾が生じたのです。
そのため、皇国史観という、「天皇こそが日本でもっとも尊いものであり、天皇のために日本人は戦うべき」という戦前の歴史観が、まだ残っていた昭和には、後醍醐天皇を悪役とする太平記は、タブーと考えられていたのです。
1979年、この年に放送する大河ドラマを「太平記」にしようと企画されましたが、タブーと考えられていた風潮が色濃く残っていたため、「とんでもないことだ」と却下されたといいます。(この年は、北条政子・義時を主人公とする「草燃える」が放送された)
太平記がタブーとされたのは、そこに「現在の天皇は北朝の子孫だが、南朝こそが正統である」という、天皇の存在を脅かしかねない、大いなる矛盾があったためです。
ちなみに、楠木正成の銅像が、皇居に建てられていますが、その理由については、以下のリンク記事で解説しています。
→→→→→【楠木正成の銅像が皇居にある理由】についてくわしくはこちら
太平記の時代【南北朝時代】をわかりやすく解説
太平記の主要人物・足利尊氏の年表
太平記の主要人物である「足利尊氏」の年表をご用意いたしました。
足利尊氏の誕生から、南北朝時代の始まりと終わりを解説いたします。
西暦 | 出来事 |
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1331年 |
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1332年 |
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1333年 |
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1334年 |
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1335年 |
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1336年 |
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1337年 |
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1338年 |
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1339年 |
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1350年 |
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1352年 |
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1358年 |
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1392年 |
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勢力図
南北朝時代の南朝と北朝の勢力図をご用意いたしました。
ご覧いただければわかると思いますが、北朝勢力の方が数が多いため、北朝の方が有利でした。
天皇の家系図
北朝の天皇は、正統ではないため、現在では北朝の光厳天皇から後小松天皇までは、歴代天皇に数えられていません。
そのため以下の系図では、光厳上皇は①、後小松天皇は⑥と、歴代天皇に数えない表記がされているのです。
活躍した武将たち
ここでは、太平記に登場する南北朝時代に活躍した武将たちを紹介いたします。
武家の棟梁・足利尊氏
まず登場するのは、武家政権の礎を築いた男、足利尊氏。
彼は当初、鎌倉幕府に従っていたものの、新時代の幕開けを望み、朝廷に寝返って後醍醐天皇に忠誠を尽くしていました。
その功績が認められ、後醍醐天皇の諱である尊治から一字を賜り、足利高氏あらため足利尊氏と名乗るようになったのです。
しかし、後醍醐天皇がおこなった「建武の新政」の方向性に対する意見の違いから、やがて朝廷と対立することになります。
弟・足利直義と共に政権を運営していた尊氏でしたが、権力闘争が勃発し、観応の擾乱という内紛が勃発。
最愛の弟を毒殺することになるのです。
ちなみに足利尊氏の子孫は、現在も続いています。そして足利尊氏の先祖は、あの北条家の始祖です。
天皇への忠義の象徴・新田義貞
尊氏と並び、戦乱の時代を彩った武将が新田義貞です。
彼は尊氏と共に鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ功労者でありながら、その後は対立し、南朝の柱として戦い続けました。
幾度となく北朝軍と激突した義貞でしたが、最後は壮絶な戦死を遂げます。
その生涯を南朝に捧げた忠義は、明治維新後、改めて高く評価されることとなりました。
越前(福井県)には、新田義貞がまつられた寺・称念寺があります。
新田義貞の死から約200年後、この称念寺の門前において、のちに名を挙げることとなる一人の武将が寺子屋または医師をして生活していました。
その名は、明智光秀。
光秀は、新田義貞が示した朝廷への忠誠心を理想としたのか、朝廷とその秩序を脅かす第六天魔王・織田信長を討伐することになるのです。
尊皇攘夷の志士が崇拝した名将・楠木正成
謎に包まれた出自を持つ楠木正成は、類まれなる戦術眼を持つ武将として登場します。
もともとは鎌倉幕府の御家人だったともいわれています。
ゲリラ戦や情報戦を駆使し、圧倒的な戦略で戦乱を操った楠木正成は、まさに不世出の軍事的天才と言えるでしょう。
太平記に記されているところによると、楠木正成は菩薩のお告げによって、後醍醐天皇と出会ったといいます。
後醍醐天皇は、ある日夢を見ました。
菩薩の使いだという少年が、南を指差し
「こののちしばらく、世は乱れますので、あの南の木の下に、天皇の席をご用意いたしました。そこでお休みください」
と言った夢です。
南の木で休め
南の木とは、楠木という文字になるので、楠木正成を頼れという菩薩のお告げだと考えた後醍醐天皇は、地方豪族にすぎない楠木正成に、異例ともいうべき使者を送り、味方に引き入れたのです。
楠木正成は、50万の鎌倉軍を、わずか500人の軍団で食い止め、鎌倉幕府滅亡の大功労者です。
しかし楠木は、足利尊氏がひきいる北朝軍との湊川の戦いで命を落とし、その生涯を閉じたのです。
その後、江戸時代末期から明治時代にかけて、その功績が再評価されるようになりました。
幕末、尊皇攘夷の志士たちは、楠木正成に憧れ、天皇のために命を散らすことを夢見たのでした。
現在の兵庫県神戸市にある「湊川神社」には、楠木正成最期の地が残されています。
この地を、あの幕末の偉人である吉田松陰先生も参拝したことで有名です。
公家の若き天才武将・北畠顕家
公家でありながら、軍事の才能を発揮し、後世の豊臣秀吉による「中国大返し」とは比べ物にならない速度で東北地方から京都へ進軍し、足利尊氏の軍を撃破した天才。
弓の名手として知られています。
後醍醐天皇の政治に対して失望し、その改革を訴えるも、後醍醐天皇の政治を改めさせることはできませんでした。
最後は高師直の軍団に敗北し、戦死してしまいます。
尊氏の実弟にして天才政治家・足利直義
尊氏の実弟であり、兄よりも優れた政治家・足利直義。
実質的に室町幕府をつくりあげた人物であるものの、尊氏の側近・高師直と対立し、観応の擾乱を起こしてしまいます。
高師直を倒すことには成功したものの、兄・尊氏との戦いに敗北し、尊氏によって毒殺されてしまうのです。
恐るべき皇子・大塔宮護良親王
後醍醐天皇の子であり、鎌倉幕府打倒の功労者。
武芸を好み、恐るべき皇子と呼ばれた傑物。
父・後醍醐天皇とともに鎌倉幕府と戦ったが、後醍醐天皇が捕えられ、隠岐へ流されてしまうと、天皇に代わって鎌倉幕府打倒の旗頭となります。
鎌倉幕府を倒した後は、足利尊氏の危険性を誰よりも早く見抜き、尊氏排除を試みたのです。
ところが、圧倒的なカリスマ性を誇る尊氏に誰もが味方し、父である後醍醐天皇からも見放され、捕えられます。
鎌倉の足利直義に預けられて幽閉されていたものの、中先代の乱で鎌倉が北条時行に落とされると、直義は敵に護良親王を奪われて打倒足利尊氏の旗頭とされることを恐れて、護良親王を暗殺。
ここに、足利尊氏と後醍醐天皇の関係は、決定的に破綻したのでした。
尊氏の懐刀・高師直
足利家の執事として代々使える高家の猛将・高師直。
優れた官僚でもあり、高い政治能力も発揮していました。
尊氏が苦戦におちいると、弟の高師泰とともに、恐るべき強さを発揮して戦を勝利に導いています。
新田義貞・北畠顕家・楠木正行など、南朝の猛将たちを次々と撃破。
足利直義の軍も倒すが、敵をつくりすぎて、最後には敗北。
降伏し、出家して無防備になったところを高師泰とともに討たれてしまいます。
逃げ上手の若君・北条時行
人気漫画「逃げ上手の若君」の主人公であり、北条得宗家の初代・北条義時の末裔。北条高時の次男。
中先代の乱を起こして足利尊氏打倒を目指すも、のちに後醍醐天皇に臣従し、北畠顕家たちとともに足利尊氏に対抗。
相模次郎と名乗り、各地でゲリラ戦を展開するも、徐々に追いつめられ、最終的には足利尊氏の軍に囚われて処刑されてしまいます。
余談ですが、北条時行の子孫は、明治維新の功労者である維新十傑のひとりだとされています。
また、初代・北条義時の子孫には、現代の有名な芸能人もいるようです。
→→→→→【北条義時や北条時行の子孫】についてくわしくはこちら
北朝と南朝は、何が違うのか?
北朝とは、北に位置した京都を拠点として、足利尊氏の武家政権・室町幕府によって運営されていた政府です。
南朝とは、南に位置していた奈良・吉野を拠点として、後醍醐天皇自らが政治を行い運営された政府です。
南朝の挑戦:皇族による統治
南朝は、各地に後醍醐天皇の皇子を派遣し、北朝に対抗しました。
中でも九州に派遣された征西将軍・懐良親王は、1359年の筑後川の戦いで勝利し、九州を10年間支配下に置きました。
建武の新政で後醍醐天皇が目指した天皇独裁体制は失敗に終わりましたが、南朝は北朝とは異なり、独自の関白を置いていました。
北朝の体制:武家政権の確立
一方、北朝は将軍足利家を中心とした室町幕府が主導権を握っていました。
将軍に次ぐ地位の管領には、斯波氏・畠山氏・細川氏の「三管領」と、有力氏族による「四職」が幕府の重要職務を担っていました。(三管四職)
鎌倉時代の御成敗式目を基に制定された「建武式目」や、幕府直属の軍隊「奉公衆」が創設されました。
地方政治では、守護の権力が強化され、やがて「守護大名」と呼ばれる戦国時代の領主へと変貌していきます。
太平記の南北朝時代における中国の情勢
南北朝時代に、中国ではモンゴル帝国の元が追い出されて、明という国が起こっていました。
鎌倉幕府が滅亡した当時、東海の向こう側では、モンゴル帝国の末裔である元が中国を支配していました。
13世紀後半、フビライ=ハンの治世下で最盛期を迎えた元は、14世紀に入ると徐々に衰退の兆しを見せていました。
そして1368年、朱元璋という男が率いる明という国によって、中国は奪い返されたのです。
洪武帝と名乗った朱元璋は、皇帝直属の六部を新設し、強力な独裁体制を築き上げました。
さらに、農村の土地調査や人口調査を積極的に推進し、特に農業に力を入れることで、国家の繁栄を目指しました。
太平記・南北朝時代に活躍した有名な刀工
戦乱の時代、刀は武士の魂であり、戦場における命綱でした。
その中でも、相州伝と呼ばれる実用的で勇壮な作風が全国に広まり、その代表格として名高い刀工が貞宗です。
貞宗は、相州伝を確立した名工・正宗を父に持ち、その作風を受け継ぎながら、より穏健な刀を生み出したことで知られています。
彼の作品は、現在も多くが国宝や重要文化財として大切に保存されています。
太平記・南北朝時代の刀の特徴
戦乱の時代を生き抜いた武士にとって、刀は命を預ける相棒であり、己の力を誇示する象徴でもありました。
南北朝時代の刀は、それまでの時代とは一線を画す巨大な刀身が特徴です。
その理由として、まず挙げられるのが、相州伝の確立による刀剣技術の進歩です。
よく切れて曲がりにくい刀の製作が可能になったことで、刀身の大型化が実現しました。
中には長さ150cmを超えるものも存在し、その迫力と実用性は戦場で大きな威力を発揮しました。
この高師直の肖像画において、師直がかついでいる太刀が、まさに南北朝時代につかわれた馬上で使用される巨大な太刀であると考えられます。
さらに、戦乱の頻発によって個人の武術の重要性が増し、実力主義の風潮が強まりました。
大きな刀を持つことは、自身の力の象徴であり、敵を威嚇する効果も期待されました。
しかし、巨大な刀は扱いも難しく、常に携行するのは困難だったようです。
侍従に持たせて移動するなど、実用性と威厳の両立に工夫が凝らされていました。
太平記・南北朝時代を知るためにおすすめの小説
太平記で描かれた時代「南北朝時代」を知るためにおすすめの小説は2つ
- 極楽征夷大将軍
- 新太平記
- 私本太平記
です。
「極楽征夷大将軍」は、2023年に直木賞を受賞した作品です。
やる気のなかった足利尊氏が、足利直義と高師直に支えられて、征夷大将軍にのし上がっていくという作品です。
とても読みやすく、容量もちょうど良いので、比較的素早く読み終えられるはずです。
「新太平記」は、山岡荘八さんの名作です。
かなり古くから知られている作品です。
文庫5巻で、鎌倉時代末期から室町時代初期を描く大作です。
太平記を読むなら山岡さんの「新太平記」がおすすめです。
最後が、吉川英治さんの「私本太平記」です。
文庫本8巻の大作です。
湊川の戦いで楠木正成が亡くなるところがクライマックスです。
終盤が雑な形になっているのは、作者の吉川英治さんが体調を崩していったためです。
私本太平記の完成翌年、吉川英治さんは亡くなっています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 南朝こそが正統であり、北朝は正統ではないとされていたが、現在の天皇陛下は北朝の子孫であったため、矛盾が生じ、南北朝時代を描いた太平記はタブーとされた
- 南朝を正統としたには、名将・楠木正成の生き方が、武士の理想とされたため
- 北朝の天皇は正統ではないため、歴代天皇には数えられていない
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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