この記事では「細川藤孝の家系図」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「細川藤孝の先祖や子孫」を、カンタンに理解できます。
「細川藤孝」は「天皇陛下」や「細川護熙」元首相の先祖であり、「足利尊氏」の重臣「細川頼春」の子孫なのです。
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この記事を短く言うと
1,「細川藤孝」の血筋は、子孫である「天皇陛下」や元首相「細川護熙」に繋がっている
2,「細川藤孝」の先祖「細川頼春」は、室町幕府初代将軍「足利尊氏」の家来として、「後醍醐天皇」や「楠木正成」と戦い功績を残した
3,細川藤孝には、13代将軍「足利義輝」や15代将軍「足利義昭」の兄である、という説がある
細川藤孝の家系図と子孫!子孫は【天皇陛下】と【元首相】
「細川藤孝」の家系図をご用意いたしました。
以下の家系図には、「細川藤孝」の名前はありませんが、「細川藤孝」の息子「細川忠興」の子孫について記しております。
細川藤孝の息子「細川忠興」と、明智光秀の娘「ガラシャ」の間に生まれた子供を通じて、その子孫が今に続いています。
「天皇陛下」です
現在の天皇陛下は、細川藤孝の子孫にあたるのです。
また、天皇陛下は「細川ガラシャ」を通じて、「明智光秀」の血も受け継いでいます。
そして「細川ガラシャ」の血は引いていないものの、元内閣総理大臣「細川護熙(もりひろ)」氏も、「細川藤孝」の末裔に当たる人です。
細川家と「足利家」の関係
細川家と足利家は、家来と主君の関係です
南北朝時代、「細川頼春」という武将が、「足利尊氏」の家来として戦っていました。
細川頼春は、「後醍醐天皇」や「楠木正成」「楠木正行」「足利直義」と戦い、足利尊氏の天下に貢献したのです。
その功績によって「細川家」は、「室町幕府」のトップである「三管領家」の1つに数えられるようになります。
代々「細川家」は、室町幕府の名門として、その名を天下に轟かせていたのです。
「細川藤孝」も、「細川家」の血を引く人物。
しかし藤孝は、本家であり管領という室町幕府の重役だった「細川晴元」の遠縁でしかありませんでした。
「細川晴元」は、征夷大将軍「足利義輝」を京都から一時的に追放した実力者です。
その後「細川晴元」は、家来だった「三好長慶」に追い落とされてしまいます。
この「細川晴元」の遠縁が「細川藤孝」です。
細川藤孝は「足利義輝」に仕えた重臣だったので、同族であったものの「細川晴元」とは敵対関係にありました。
ちなみに「細川政元」という人は、「山名宗全」と争って「応仁の乱」を起こした張本人です。
細川藤孝の父親は誰?藤孝は「足利義輝」「足利義昭」の兄?
細川藤孝の父は「三淵晴員(みつぶち はるかず)」という武将なのですが、異説があります。
実は、室町幕府12代将軍「足利義晴」こそが、「細川藤孝」の父であるという説があるのです。
この説が真実かどうかは、定かではありません。
詳しく解説いたします。
室町幕府12代将軍「足利義晴」は、「清原氏の娘」を妻としていました。
しかし名門「近衛家」から、「慶寿院」という女性をあたらしく妻にもらったため、「清原氏の娘」と離婚。
その「清原氏の娘」は離婚した時、妊娠していたと言われています。
「清原氏の娘」は「三淵晴員」と再婚し、男児を出産。
その子が、のちの「細川藤孝」です。
「足利義晴」は、元妻と「藤孝」を気の毒にでも思ったのか、「藤孝」を名門「細川家」の分家であり、「三淵晴員」の兄「細川元常」に養子としてむかえさせました。
「三淵晴員」には、別の女性との間に「三淵藤英」という息子がいたため、「三淵藤英」と「細川藤孝」は、表向きは「異母兄弟」ということになります。(細川藤孝が足利義晴の息子なら、「父も母も異なる義理の兄弟」ということになる)
「足利義晴」はその後、妻「慶寿院」との間に「義輝」と「義昭」という兄弟を出産。
つまり「細川藤孝」は、13代将軍「足利義輝」と、15代将軍「足利義昭」の異母兄にあたるのです。
細川藤孝は、「義輝」「義昭」兄弟に尽くしています。
「永禄の変」と呼ばれる政変で、義弟「足利義輝」が「三好三人衆」と「松永久通」に暗殺されると、即座に弟「足利義昭」を保護して逃亡。(「三好三人衆」とは、三好長逸・三好政長・岩成友通)
のちに「越前国」の「朝倉義景」のもとへ身をよせて「明智光秀」と出会うこととなるのです。
そして「明智光秀」と協力して「織田信長」に京都への進軍(上洛)を要請。
「足利義昭」を15代征夷大将軍に就任させることに成功したのでした。
「細川藤孝」のその後!「織田信長」と「明智光秀」の死後どうなった?
【1582年】、織田信長が「本能寺の変」で討ち死。
その11日後、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した「明智光秀」が戦死。
「本能寺の変」のあと、細川藤孝は「明智光秀」からの「味方になってほしい」という協力要請を断っています。
その後「細川藤孝」は息子の「細川忠興」とともに「豊臣秀吉」に大切にされています。
【1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなると、藤孝・忠興親子は「徳川家康」に接近し、親しくなっています。
【1600年】の「関ヶ原の戦い」で家康がひきいた東軍に味方した「細川藤孝」。
現在の京都府舞鶴市にある「丹後田辺城」に籠城し、「石田三成」がひきいる西軍と激突しています。
長い籠城戦に耐えた細川藤孝でしたが、結局は敗北。
落城寸前に「後陽成天皇」の命令によって命を救われています。
「後陽成天皇」は、当時一流の学者であり文化人であった「細川藤孝」の力を惜しんだのです。
息子「細川忠興」も「関ヶ原の戦い」で活躍し、「豊前国・中津33万石」を与えられています。
その後、細川家は「忠興」の代に「肥後熊本54万石」へと国替えをされて、【1868年】の「明治維新」まで存続しています。
その後は、「天皇陛下」や「細川護熙」へと、その血筋を伝えているのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「細川藤孝」の子孫は、「天皇陛下」や元首相「細川護熙」
2,「細川藤孝」の先祖「細川頼春」は、「足利尊氏」の部下として、「後醍醐天皇」や「楠木正成」と戦った
3,藤孝は、13代将軍「義輝」や15代将軍「義昭」の兄、という説がある
以上となります。
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