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【細川藤孝】子孫と家系図を画像つき解説!藤孝と足利家の関係とは?

この記事では「細川藤孝の家系図」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば「細川藤孝の先祖や子孫」を、カンタンに理解できます。

「細川藤孝」は「天皇陛下」や「細川護熙」元首相の先祖であり、「足利尊氏」の重臣「細川頼春」の子孫なのです。


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この記事を短く言うと

 

1,細川藤孝」の血筋は、子孫である「天皇陛下」や元首相「細川護熙」に繋がっている

 

2,「細川藤孝」の先祖「細川頼春」は、室町幕府初代将軍「足利尊氏」の家来として、「後醍醐天皇」や「楠木正成」と戦い功績を残した

 

3,細川藤孝には、13代将軍「足利義輝」や15代将軍「足利義昭」の兄である、という説がある

細川藤孝の家系図と子孫!子孫は【天皇陛下】と【元首相】

「細川藤孝」の家系図をご用意いたしました。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

以下の家系図には、「細川藤孝」の名前はありませんが、「細川藤孝」の息子「細川忠興」の子孫について記しております。

「細川家の家系図」
クリックすると拡大できます
「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

細川藤孝の息子「細川忠興」と、明智光秀の娘「ガラシャ」の間に生まれた子供を通じて、その子孫が今に続いています。

「天皇陛下」です

現在の天皇陛下は、細川藤孝の子孫にあたるのです。

また、天皇陛下は「細川ガラシャ」を通じて、「明智光秀」の血も受け継いでいます。

そして「細川ガラシャ」の血は引いていないものの、元内閣総理大臣「細川護熙(もりひろ)」氏も、「細川藤孝」の末裔に当たる人です。



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細川家と「足利家」の関係

細川家と足利家は、家来と主君の関係です

南北朝時代、「細川頼春」という武将が、「足利尊氏」の家来として戦っていました。

細川頼春は、「後醍醐天皇」や「楠木正成」「楠木正行」「足利直義」と戦い、足利尊氏の天下に貢献したのです。

その功績によって「細川家」は、「室町幕府」のトップである「三管領家」の1つに数えられるようになります。

「《細川藤孝の家系図》
クリックすると拡大できます
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

代々「細川家」は、室町幕府の名門として、その名を天下に轟かせていたのです。

「細川藤孝」も、「細川家」の血を引く人物。

しかし藤孝は、本家であり管領という室町幕府の重役だった「細川晴元」の遠縁でしかありませんでした。

「細川晴元」は、征夷大将軍「足利義輝」を京都から一時的に追放した実力者です。

その後「細川晴元」は、家来だった「三好長慶」に追い落とされてしまいます。

この「細川晴元」の遠縁が「細川藤孝」です。

細川藤孝は「足利義輝」に仕えた重臣だったので、同族であったものの「細川晴元」とは敵対関係にありました。

ちなみに「細川政元」という人は、「山名宗全」と争って「応仁の乱」を起こした張本人です。



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細川藤孝の父親は誰?藤孝は「足利義輝」「足利義昭」の兄?

細川藤孝の父は「三淵晴員(みつぶち はるかず)」という武将なのですが、異説があります。

実は、室町幕府12代将軍「足利義晴」こそが、「細川藤孝」の父であるという説があるのです。

この説が真実かどうかは、定かではありません。

詳しく解説いたします。

「《細川藤孝の家系図》
クリックすると拡大できます
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

室町幕府12代将軍「足利義晴」は、「清原氏の娘」を妻としていました。

しかし名門「近衛家」から、「慶寿院」という女性をあたらしく妻にもらったため、「清原氏の娘」と離婚。

その「清原氏の娘」は離婚した時、妊娠していたと言われています。

「清原氏の娘」は「三淵晴員」と再婚し、男児を出産。

その子が、のちの「細川藤孝」です。

「足利義晴」は、元妻と「藤孝」を気の毒にでも思ったのか、「藤孝」を名門「細川家」の分家であり、「三淵晴員」の兄「細川元常」に養子としてむかえさせました。

「三淵晴員」には、別の女性との間に「三淵藤英」という息子がいたため、「三淵藤英」と「細川藤孝」は、表向きは「異母兄弟」ということになります。(細川藤孝が足利義晴の息子なら、「父も母も異なる義理の兄弟」ということになる)

「足利義晴」はその後、妻「慶寿院」との間に「義輝」と「義昭」という兄弟を出産。

つまり「細川藤孝」は、13代将軍「足利義輝」と、15代将軍「足利義昭」の異母兄にあたるのです。

《細川藤孝・家系図》
クリックすると拡大できます
「家系図の引用等は、何卒ご遠慮くださいませ」

細川藤孝は、「義輝」「義昭」兄弟に尽くしています。

「永禄の変」と呼ばれる政変で、義弟「足利義輝」が「三好三人衆」と「松永久通」に暗殺されると、即座に弟「足利義昭」を保護して逃亡。(「三好三人衆」とは、三好長逸・三好政長・岩成友通)

のちに「越前国」の「朝倉義景」のもとへ身をよせて「明智光秀」と出会うこととなるのです。

そして「明智光秀」と協力して「織田信長」に京都への進軍(上洛)を要請。

「足利義昭」を15代征夷大将軍に就任させることに成功したのでした。



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「細川藤孝」のその後!「織田信長」と「明智光秀」の死後どうなった?

1582年】、織田信長が「本能寺の変」で討ち死。

その11日後、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した「明智光秀」が戦死。

「本能寺の変」のあと、細川藤孝は「明智光秀」からの「味方になってほしい」という協力要請を断っています。

その後「細川藤孝」は息子の「細川忠興」とともに「豊臣秀吉」に大切にされています。

1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなると、藤孝・忠興親子は「徳川家康」に接近し、親しくなっています。

1600年】の「関ヶ原の戦い」で家康がひきいた東軍に味方した「細川藤孝」。

現在の京都府舞鶴市にある「丹後田辺城」に籠城し、「石田三成」がひきいる西軍と激突しています。

長い籠城戦に耐えた細川藤孝でしたが、結局は敗北。

落城寸前に「後陽成天皇」の命令によって命を救われています。

「後陽成天皇」は、当時一流の学者であり文化人であった「細川藤孝」の力を惜しんだのです。

息子「細川忠興」も「関ヶ原の戦い」で活躍し、「豊前国・中津33万石」を与えられています。

その後、細川家は「忠興」の代に「肥後熊本54万石」へと国替えをされて、【1868年】の「明治維新」まで存続しています。

その後は、「天皇陛下」や「細川護熙」へと、その血筋を伝えているのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,細川藤孝」の子孫は、「天皇陛下」や元首相「細川護熙」

 

2,「細川藤孝」の先祖「細川頼春」は、「足利尊氏」の部下として、「後醍醐天皇」や「楠木正成」と戦った

 

3,藤孝は、13代将軍「義輝」や15代将軍「義昭」の兄、という説がある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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