710年に都となった「平城京」について、誰が作ったのかをわかりやすく解説いたします。
「なんと素敵な平城京」
この都を作ったのは女帝「元明天皇」。しかし710年の時点で、「皇居」と「役所」以外は何も完成していなかった?
710年から、合計69年の間「都」であった「平城京」。
平城京を首都とした理由は、「天皇の住まいを町のど真ん中に作ってしまったため」だった
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この記事を短く言うと
- 710年に都となった「平城京」は、女帝「元明天皇」がつくったと考えられる
- 「平城京」へ遷都した理由は「水路が未発達だった」「天皇の住居である宮が町の中央にあった」「政治改革のため」など
- 「平城京」は合計で「69年」の間、首都だった。784年に「長岡京」へ首都が移り、794年には「平安京」へ移った
平城京を作った人は誰?女帝がこの地に都を作った
平城京(へいじょうきょう)
現在の「奈良県」にあった都市。つまりは「町」です
710年、この場所に「都」すなわち「首都」がおかれたのでした。
この「平城京」という都市・・・いったい誰がつくったのでしょうか?
平城京をつくったのは「元明(げんめい)天皇」。43代目の天皇。女帝です。
そして「西暦710年」に、「藤原京」から「平城京」へ首都がうつったのです。
平城京への「遷都(せんと・首都を移すこと)」は、西暦「707年」の「文武天皇」の時代から計画されていました。
都を移すことは、住民や貴族、豪族たちが反対し、混乱を生みかねない大問題だったため、3年前から慎重に検討と調査が行なわれたのです。
結果、710年に平城京へ「遷都」。このときの平城京は、まだまだ未完成で「天皇の住居」や「役所」しか完成しておらず、元明天皇の手で、徐々に完成していったと考えられます。
平城京へ遷都した理由!ど真ん中に家をつくったから?
「平城京」へ「都」がうつるまで、日本の首都は「藤原京」でした。
平城京は現在の「奈良県奈良市」、藤原京は現在の「奈良県橿原市(かしはらし)」にありました。
どうして「平城京」へ、首都が移動したのでしょうか?
結論からいえば、実はその理由は「はっきりとわかっていない」のです。
そこで、いくつかの説をご紹介します。
1,「藤原京」は水路が未発達だったため
当時、水路・下水をととのえることは、まさに「死活問題」でした。
なぜなら、下手に水の流れが止まってしまうと、疫病がひろまるおそれがあるからです。
藤原京は「水はけ」が悪くて疫病が広まったため、「平城京」へ移動したと考えられます。
2,藤原京の「宮」が町のど真ん中にあったため
当時「天皇」が住む「宮」は、町の「北のはじっこ」にあるべきであると考えられていました。
町のど真ん中にあっては、天皇が民衆に「背」を向ける形となってしまい、これを忌み嫌ったのでした。
中国の首都「長安」も、のちの「平城京」「平安京」も、すべて「宮」は「北のはじっこ」にあります。
下に、「平城京」の地図をご用意いたしました。
平城京では「宮」、つまり「平城宮」が北の端にあります。これなら正常です。
しかし、「藤原京」はどうでしょう。
「藤原宮」が町のど真ん中にあります。
「宮」を町のど真ん中につくってしまった・・・。
そのため、「平城京」へ遷都したという説があるのです。
町のど真ん中に「天皇のお住まい」をつくってしまったから遷都・・・。おもしろい理由ですね。
3,政治改革を進めるため、豪族たちから離れたかった
元明天皇は、政治改革をすすめたいと思っていましたが、保守的な考え方をもっていた「貴族」や「豪族」が、政治改革に反対していました。
その「貴族」「豪族」から距離をおくために、「藤原京」から逃げて「平城京」へ移動したという説があります。
「平城京」への遷都には、諸説ありますが、実はこれ全てが「遷都の理由」なのではないでしょうか。
つまり『水路』『宮が町のど真ん中にあった』『貴族・豪族から逃げて政治改革をすすめたかった』。
「平城京」への遷都は、これらの問題をすべて解決する手段だったのです。
平城京が首都だったのは何年間?合計69年だけ!
710年、「平城京」へ都が移ってきたわけですが、その「平城京」も、長く首都となっていたわけではありません。
平城京が首都であった期間は、合計で「約69年」でした。
平城京が首都だったのは西暦「710~740年」と、5年の間をあけて「745~784年」です。
その間の「5年間」、首都は以下の通り移り変わっています。
「恭仁京(くにきょう)」、 740~743年
「紫香楽宮(しがらきのみや)」、743~744年
「難波京(なにわきょう)」、 744~745年
784年、「平城京」から「長岡京」へ、遷都されます。
そして794年に、「長岡京」から、桓武天皇がつくった「平安京」へ遷都。
この「平安京」が、「千年の都」と呼ばれるほど、長く首都で有り続けたのです。
平安京は、1180年に「平清盛」が「福原京」へ一時的に遷都したことを除けば、「794~1868」までの「1074年間」もの間、都で有り続けたのでした。
それに比べたら、平城京の「69年」は、相当短いですね。
『平城京』について「ひとこと」言いたい!
実は「平安京」へ首都が移ったあと、一度だけ「平城京」へ首都がもどってくるかもしれない事件が起こっています。
「薬子の変」です。
西暦810年に起こった反乱で、「平城上皇(へいぜいじょうこう)」とその愛人「藤原薬子」が、平城京へ移り住み、平安京に住んでいた「嵯峨天皇」争った事件。
平城京に住んでいた「平城上皇」は、「平城京を都とする」という宣言しています。直後に「嵯峨天皇」に敗れて、結局「平城京」へ首都が戻ってくることはありませんでしたが・・・。
もしもこのとき、「平城京」に首都が戻ってきていたら、どうなっていたでしょうか?
おそらくですが、現在のように「首都が一つの場所で定着する」のではなく、事あるごとに首都が移動する、という習慣が続いていたのではないでしょうか。
となると、京都は今のように発展はせず、重要性もそれほどではなかったかもしれません。
戦国大名たちは、ことごとく京都を目指したわけですが、もしかしたら、それすらも代わってしまったかもしれませんね。
ちなみに藤原薬子は、反乱に失敗した直後、自ら毒を飲んで亡くなっています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 平城京をつくったのは、女帝「元明天皇」であると考えられる。
- 平城京へ遷都した理由は「藤原京の水路が未発達だった」「藤原京において、天皇の住まいが町のど真ん中にあった」「政治改革のため」など
- 「平城京」は、合計で「69年」の間、首都であった
以上となります。
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