戦国最期の名将「真田幸村(信繁)」の最後について、詳しくカンタンに解説いたします。
最後の戦いの様子、最期の地についてご紹介します。
真田幸村は「大阪夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」で戦死しています。
また、最期の地は大阪「安居神社」。
最新の説によると「生国魂神社」と「勝鬘院」の間にある丘で亡くなった、と言われているようです。
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この記事を短く言うと
- 1615年6月3日、「大阪夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」で、真田幸村は壮絶に戦死した
- 幸村は「天王寺・岡山の戦い」で「毛利勝永」たちと「徳川家康」へ奇襲をかける作戦を計画していたが、作戦が失敗し、特攻した
- 真田幸村が戦死した地は、現在の「安居神社」または「天王寺砦」付近と考えられている
- 真田幸村こと信繁の死因は、戦死。おそらく鉄砲や槍で亡くなった
真田幸村が死んだ場所「安居神社」とはどこにある?
真田幸村が亡くなった場所「安居神社」は、現在の「大阪市天王寺」にあります。
「茶臼山」に布陣していた幸村は、徳川軍に押し返されて、「安居神社」まで後退してきたということです。
現在、この「安居神社」には、「真田幸村戦死の地」という碑と、幸村の銅像が建てられています。
また、最新の説による「真田幸村・戦死の地」である「生国魂神社と勝鬘院の間」とは、おそらく現在の「天王寺砦」のあたりだと思います。
以下に、地図をのせておきます。
幸村の首に対して、家康は
「浪人の首など、犬にでもくれてやれ」
と吐き捨てたのだとか。
しかし、徳川軍から尊敬を集めていた「真田幸村」の首からは、「お守り」にしようと「髪の毛」が次々と切り取られていったと言われています。
「名将にあやかりたい」
という、武将たちの切なる願いがあったのでしょう。
真田幸村の壮絶な最期!まさに「特攻」だった
真田幸村(さなだ ゆきむら)
別名「真田信繁(さなだ のぶしげ)」
「日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれた戦国最期の名将「真田幸村」。
幸村は「1615年6月3日(慶長20年5月7日)」に亡くなっています。
「徳川家康」と「豊臣秀頼」が戦った「大阪夏の陣」。
「豊臣秀頼」軍の武将として参戦した「真田幸村」は、敵の総大将「徳川家康」の本陣にむけて突撃。
これはまさに、「生還」することを考えない「特攻」であったと言われています。
わずか3500の兵しかいなかった真田幸村の部隊は、10倍以上の徳川軍を撃破して家康に迫ります。
死を覚悟した家康は、首を取られることを恥に思ったか、または極度の興奮状態で冷静な判断が出来なかったのか、幸村に追いつめられながら「2度」も切腹しようとしたのだとか。
しかし幸村は、「家康」をあと一歩のところまで追いつめながらも、討ちとることができず、逆に撃破されて戦死するのです。
真田幸村(信繁)の死因!最後の戦いは大坂夏の陣「天王寺・岡山の戦い」
真田幸村こと信繁は、西尾宗次という武将に討ち取られて戦死しました。
死因は定かではありませんが、鉄砲または刃物により亡くなったと思われます。
真田幸村が最期をむかえた戦いの名前は「大阪夏の陣(1615年)」。
その「大阪夏の陣」の最期の戦い「天王寺・岡山の戦い」で、真田幸村は亡くなったのです。
1615年6月3日、真田幸村は「毛利勝永」「大野治長」「大野治房」とともに、大阪城の南にある「天王寺」に布陣。
幸村達4人の武将が徳川軍の主力部隊をひきつけている間に、家康本陣の裏側に迂回した武将「明石掃部(あかし かもん)」ひきいる「キリシタン軽騎兵団」が、家康の本陣を後ろから奇襲する作戦だったのです。
ところが、焦った「毛利勝永」の部隊が、静止したにもかかわらず、さっさと開戦。
明石掃部の部隊が、家康本陣の後ろに到着する前に、激戦が始まってしまい、作戦は水の泡となります。
作戦をあきらめた真田幸村は、決死の覚悟で「3500名」の軍をひきいて家康の本陣へ突撃。
徳川軍の各部隊を次々と撃破しながら、家康に迫るも、あと一歩のところで逃してしまうのです。
10km以上も逃げた家康・・・。
その後、真田幸村の部隊は、家康の孫「松平忠直」の部隊により壊滅。
「安居神社」で休んでいたところを、「西尾宗次」という武将に討ち取られたとのことです。
「この首を取って、手柄とせよ」
と、最期の言葉を口にしたのだとか。
また、最新の資料によれば、「生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)」と「勝鬘院(しょうまんいん)」の間にある高台で休んでいたところを、「西尾宗次」に襲われ、一騎打ちのあげくに亡くなったという説も浮上しています。
『真田幸村の特攻』について「ひとこと」言いたい!
真田幸村は、なぜ「特攻」をしたのでしょうか?
勝てると思っていたのか?
それとも、他に狙いがあったのか?
おそらく「幸村」は、「最期に派手に暴れて死んでやろう」としたのでしょう。
その「ついで」というか、「家康も道連れにしてやる」という感じに、「ヤケクソ気味」だったのではないでしょうか。
家康の首を取ったとしても、生還できたとは思えません。
幸村の狙いは「見事に成功」しています。
「真田日の本一の兵なり」
と、後世の人は「真田幸村」の壮絶な最期を称賛しています。
真田幸村・・・・・・誰からも愛されるヒーロー・・。
もしも特攻しなかったら、これほどまでにその名が轟くことはなかったでしょう。
ちなみに「豊臣秀頼」は、真田幸村が戦死した翌日、母「淀君」とともに自刃しています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「真田幸村」は「1615年6月3日」に、壮絶な戦死を遂げている
- 幸村が亡くなったのは「大阪夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」。
- 幸村が戦死した「安居神社」は、現在の「大阪市天王寺区」にある
以上となります。
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