【2020年】の大河ドラマ【麒麟がくる】で、比叡山焼き討ちが描かれていました。
実は比叡山焼き討ちについて、ある疑問を抱いている人がたくさんいるようです。
それは【比叡山焼き討ちが行われた当時、女人禁制であったはずの比叡山に、なぜ女がいたのか?】ということです。
この謎について、実は明確な理由が存在しております。
今回の記事では、比叡山焼き討ちのときに、なぜ【女】が比叡山にいたのかという謎について、その明確な理由を、わかりやすくカンタンに解説いたしました。
今は比叡山焼き討ちについて、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、比叡山焼き討ちについての疑問を、スッキリと解消できます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,比叡山焼き討ちが行われたとき、なぜ女人禁制であったはずの比叡山に、女や子供がいたのか?
腐敗しきった比叡山の不良坊主たちが、遊女を招き入れていたから。その他にも避難民や、ふもとの坂本に住んでいた者の妻子が比叡山にいた
2,なぜ織田信長は、比叡山焼き討ちで女や子供まで虐殺したのか?
おそらく織田信長は、女や子供を盾にした人質戦術をとる比叡山の不良坊主たちに屈服しないため、やむを得ず虐殺を行ったと考えられる。
その結果、みせしめとして虐殺することで、その他の宗教勢力・敵対勢力を、戦うことなく降伏させようとしたのだろう。
3,織田信長は、本当に比叡山焼き討ちで、虐殺行為をおこなったか?本当に虐殺はあったのか?
近年の研究によれば、比叡山焼き討ちで、今も語り継がれるような数千人の虐殺はなかった、と考えられている。
女人禁制だったはずの聖地・比叡山に、なぜ女や子供がいたのか?
女人禁制、つまり女性が入ってはいけない聖地だったはずの比叡山に女性がいた理由は、腐敗しきっていた当時の比叡山の不良坊主たちが、遊女たち女性を比叡山の中に招き入れていたからです。
【1571年】、織田信長は比叡山焼き討ちをしたわけですが、そのとき女や子供も皆殺しにしたといわれています。
考えてみると、おかしな話です。
当時から女人禁制、つまり女性は入ってはいけないはずの聖地・比叡山に、なぜ女がいたのでしょうか?
【2020年11月22日】に放送された大河ドラマ【麒麟がくる】の第33回【比叡山に棲む魔物】では、遊女や薬を売る子供が、比叡山に出入りする様子が描かれていました。
当時の比叡山には、遊女の住処があったといわれているようです。
多聞院日記という資料をご存知でしょうか?
奈良・興福寺の僧侶たちが、【1478年】から【1618年】まで、【140年間】にも渡って記し続けた歴史的な記録書です。
この多聞院日記に、当時の比叡山延暦寺の腐敗しきった有様が記されています。
【1570年】、比叡山焼き討ちが行われる前年にあたるこの年、多聞院日記には以下のような記述があります。
聖地・比叡山延暦寺は、僧侶たちが修行や学問をなまけて、もはや荒れ果てた状態だ
また、織田信長の部下だった太田牛一が記した織田信長の公式記録【信長公記】にも、比叡山延暦寺の腐敗しきった有様が記されています
比叡山延暦寺は、淫乱だ。
しかも禁止されているはずの魚や肉を食べており、金儲けにふけって、もはややりたい放題の状態だ
現代の我々からすると、お坊さんとは【念仏を唱えて人々にお説教をする立派な人たち】を想像しがちですが、当時の比叡山延暦寺のお坊さんたちは、酒好き・女好きで肉や魚を食らう不良坊主たちだったのです。
当時の比叡山延暦寺に女がいた理由は、比叡山の不良坊主たちが、遊女を招き入れていたからです。
その他にも、戦で被害を受けて比叡山延暦寺へ逃げ込んだ避難民の中に、女や子供がいたのかもしれません。
または比叡山の麓にあった坂本の町(滋賀県大津市坂本)に住んでいた人々の妻子が、比叡山にいたという記録も残されています。
→→→→→【信長が比叡山焼き討ちをした理由】についてくわしくはこちら
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なぜ織田信長は、女や子供まで虐殺したのか?
織田信長が女や子供まで虐殺した理由は、あえて残酷な虐殺をしてみせることで、おごり高ぶっていた宗教勢力を恐れさせ、政治への介入や武力行使を止めさせるため、だと考えられます。
比叡山焼き討ちによる死者の数は、資料によって異なっていますが、まとめると以下の通りです。
- 信長公記によると【数千人】
- 宣教師ルイス・フロイスの記録によると【1500人】
- 公家・山科言継が残した記録・言継卿記によると、【3000~4000人】
なぜ織田信長は、武装した延暦寺の僧兵だけではなく、女や子供まで虐殺するような、残酷なことをしたのでしょうか?
当時、「比叡山延暦寺」や「石山本願寺・一向宗」のような宗教勢力は、その絶大な力でもって、政治への介入を繰り返していました。
この頃の宗教勢力は、圧倒的な財力や発言力によって、有力な政治家たちに政治介入をし、自分たちにとって都合の良い政治を行わせていたのです。
白河法皇をご存知でしょうか?
「平家一門でない者は、人ではない」
という言葉を残すほどに、権力を極めた平家の棟梁・平清盛の父親ではないかと噂されている権力者、それが「白河法皇」です。(【2012年】の大河ドラマ【平清盛】では、白河法皇は平清盛の実父として描かれている)
- サイコロの目
- 鴨川の水
- 山法師
この3つ以外は、すべて私の思いのままになる
【院政】と呼ばれる政治のやり方で、絶大な権力を手に入れた白河法皇が残した言葉です。
この3つは天下三不如意と呼ばれています。
山法師とは、比叡山延暦寺のお坊さんのことです。
つまり権力者・白河法皇は
比叡山延暦寺の不良坊主たちは、【サイコロの目】や、【鴨川の水】のような、偶然や大自然にも負けないほど、思い通りにならないものなのだ
と言ったのです。
織田信長の時代から、約450年も前の権力者・白河法皇ですら、比叡山の僧侶たちに手を焼いていたのです。
そして平安時代の最高権力者・平清盛も、比叡山延暦寺に最大限の気をつかっています。
織田信長は、そんな比叡山延暦寺の政治介入に、ほとほと手を焼いていました。
【1570年】、比叡山焼き討ちの前年、比叡山は信長の宿敵である浅井長政と朝倉義景の軍団を、比叡山の中に匿っていました。
「聖地である比叡山の中ならば、織田信長も神や仏を怖がって、攻撃してくることができないだろう」
朝倉義景と浅井長政は、そう考えたのです。
武士同士の戦いに介入してきた比叡山延暦寺に対して、織田信長は激怒します。
一度は激怒した信長でしたが、冷静さを取り戻したようで、比叡山延暦寺に対して手紙を送りました。
浅井長政・朝倉義景を比叡山にかくまうような介入をやめてほしい
と訴えたのです。
その手紙に、信長はこのように付け加えていました。
もしも浅井長政・朝倉義景を比叡山のなかに匿いつづけるようならば、比叡山をすべて焼き尽くしてやる
ところがこの手紙を、比叡山延暦寺は1年ものあいだ完全に無視します。
これは筆者の推測ですが、比叡山延暦寺は織田信長を甘くみていたのだと思います。
比叡山の不良坊主たちは、おそらく以下のように考えていたのでしょう。
比叡山延暦寺は、数百年前から崇拝される聖地だから、織田信長とはいえ神や仏を恐れて攻撃できないだろう。
また、比叡山延暦寺には、女や子供もいる。
もしも信長が比叡山延暦寺を攻撃してきたら、女子供も犠牲になる。
さすがの信長も、女や子供を虐殺するようなマネはできないだろう
つまり比叡山延暦寺は、女子供を、信長の攻撃を防ぐための盾にしようとしたのではないでしょうか。
織田信長からすれば、このような人質戦術に敗れたら、信長は人質戦術に弱いと噂され、宗教勢力をかえって勢いづけることになるでしょう。
そうなったら、このとき信長が敵対していた最強の武装宗教勢力・本願寺・一向宗にも敗北しかねません。
しかし、もしも信長が女子供を人質にするような戦術に屈することなく勝利したならば、宗教勢力は信長を恐れ、戦うことなく降伏するかもしれません。
そうすれば、余計な戦いをすることなく敵が降伏するわけですから、かえって犠牲者が少なくて済むかもしれないのです。
信長が比叡山焼き討ちで、女子供もろとも数千人もの人々を虐殺した理由は
人質戦術という、卑怯な手をつかう宗教勢力に屈することなく、犠牲者を最小限にとどめるために、あえて残酷な戦い方をする必要があった
からだと考えられます。
ちなみに戦国時代末期の武将・伊達政宗も、【1585年】、小手森城のなで斬りという、女子供や犬にいたるまで800人以上を虐殺したという記録が残っています。
(【1987年】の大河ドラマ【独眼竜政宗】の第11話【八百人斬り】で、この小手森城のなで斬りの様子が描かれている)
織田信長が宗教勢力を力づくで屈服させたおかげで、政教分離という宗教を切り離して政治をおこなうという現代の常識が、ようやく達成されるのです。
余談ですが、織田信長は平清盛の子孫を自称していたようです。
さきほども申しましたが、一説によると、平清盛は白河法皇の隠し子であるという噂がありました。
どちらも信憑性に乏しい説ですが、もし万が一、この説が両方ともに真実であるとするならば、織田信長は白河法皇の子孫ということになります。
→→→→→【信長とスケート選手・織田信成の家系図】についてくわしくはこちら
→→→→→【織田信長の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
そもそも比叡山焼き討ちと虐殺は、本当にあったのか?
比叡山焼き討ちでは、女子供も関係なく、数千人もの人々が虐殺されたというのが、常識になっていますが、近年の研究によると、虐殺や焼き討ちは、なかったのではないかと考えられているのです。
当時の記録には、比叡山焼き討ちによってもたらされた被害は、以下のように記されています。
- 自社や堂塔あわせて500以上が、一つ残らず灰になった
(浄土院という建物の近くにある瑠璃堂と呼ばれるお堂だけは残ったらしい)- 僧侶や男女あわせて3千人が、一人一人首を斬られた
- 比叡山の全てが火の海になった
などです。
しかしおかしなところがあるのです。
おかしなところとは、発掘調査で明らかになった事実と、資料に記された虐殺に、矛盾があることです。
昭和に行われた発掘調査によれば、比叡山焼き討ちで焼け落ちたのは根本中堂と大講堂だけで、他の建物はそれ以前から廃されていたというのです。
さらに、当時の記録書・多聞院日記によると
比叡山焼き討ちのとき、比叡山の僧侶の多くは、ふもとにあった坂本の町に避難していた
というではありませんか。
それだけではありません。
2022年現在、延暦寺の根本中堂という一番大きな建物が改修工事をしているのですが、そこでもおかしなことがわかっています。
延暦寺・根本中堂にある仏像を修理しようと解体してみると、その中には一つの文章が記されていたのです。
それは、仏像が織田信長の焼き討ちから200年以上も前の、【鎌倉時代】につくられたことを意味する文章でした。
つまり比叡山延暦寺の根本中堂にあった仏像は、織田信長の焼き討ちで焼失していなかったということです。
もちろん誰かが焼き討ちの際に仏像を持ち上げて避難させたことも考えられますが、命の危機がせまる中で、人間と同じくらいの大きさの仏像を持って逃げるとは考えにくいと思います。
もし万が一、虐殺がなかったとしたら、なぜ虐殺という話が広まったのでしょうか?
大量虐殺が行われたと、その残酷なやり方が噂として広まって、得をするのは誰でしょうか?
実は被害者の比叡山延暦寺と、加害者の織田信長、両方が得をするのです。
被害者である比叡山延暦寺からすれば、信長に大量虐殺されたと噂が広がれば、人々の同情を集めることができます。
加害者の織田信長からすれば
信長は残酷で、女子供をも殺す奴だ
と噂されることで、敵が恐れをなして戦わずに降伏してくることでしょう。
つまり、被害者も加害者も、ともに犠牲者や被害を大げさに言ったほうがお得ということです。
それならば、実際の被害よりも、大げさに噂が広まってしまうはず。
おそらく比叡山焼き討ちは、数千人が殺されるような、とんでもない虐殺などなかったのでしょう。
ところが、比叡山と織田信長、両者がともに大げさに噂を広めたために、数千人が亡くなったことにされたのだと考えられます。
先程解説いたしました伊達政宗による小手森城のなで斬りも、近年の研究によると、実は虐殺なんてなかった、と考えられているのです。
実は、政宗が攻撃した小手森城は、政宗が城を攻め落としたとき、すでに城内の者たちは自害していたのです。
犬まで殺されたといわれているようですが、これは小手森城を守っていた政宗の敵軍が、いわゆる焦土作戦として、勝者である伊達政宗に何ひとつとして、利益も戦利品も与えないようにするために、犬も牛も鶏まで殺し尽くした結果だと考えられています。
焦土作戦という敵の罠にすっかりハマってしまった政宗は、これを逆に利用し、小手森城で犬まで殺し尽くしたと、自分が虐殺したかのように噂を広めたのだとか。
おそらく織田信長も伊達政宗と同じく、それほどでもない被害をあえて大げさに言うことで、その後の戦いを有利に運ぼうとしたのでしょう。
現代を生きる我々が想像するような、壮絶な虐殺行為は、本当は無かったのかもしれません。
ただし、虐殺行為がなかったとしても、この比叡山焼き討ちは、【虎】と呼ばれたあの名将の中の名将を激怒させることとなります。
それは武田信玄です。
出家して僧侶となっていた武田信玄は、織田信長の比叡山焼き討ちに激怒し、それまで友好関係を結んでいた信長に戦いを挑んできます。
【1572年】、比叡山焼き討ちの翌年、武田信玄は西上作戦と呼ばれる進軍を開始。
浅井長政や朝倉義景そして足利義昭と協力し、織田信長と徳川家康を追いつめていくのです。
→→→→→【信玄は暗殺されたのか?】についてくわしくはこちら
比叡山焼き討ちのその後
比叡山焼き討ちのその後に起こった歴史的事件
比叡山焼き討ちが行われたあと、織田信長が亡くなり、延暦寺は豊臣秀吉の協力で復興することになります。
【1571年】に比叡山焼き討ちが行われました。
比叡山焼き討ちで先陣をきって比叡山を攻撃した明智光秀は、その功績を織田信長から高く評価されます。
その結果、明智光秀は比叡山のふもとにある近江・坂本5万石の領地を与えられ、織田家で最初の城持ち大名となります。
翌年の【1572年】、武田信玄が織田信長に戦いを挑んできます。(西上作戦)
三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに叩き潰した武田信玄は、織田信長をあと一歩のところまで追いつめながらも、【1573年】に病死してしまいます。
【1582年】、宿敵であった武田信玄の息子・武田勝頼を滅ぼした織田信長は、その3ヶ月後に本能寺の変で部下の明智光秀に討たれてしまいます。
比叡山延暦寺は、その後も再興のための活動を続けたものの、それまでの腐敗ぶりが仇となったのか、活動は難航。
【1584年】、織田信長のあとを引き継いだ豊臣秀吉の許可を得て、僧兵をおかないことを条件に比叡山延暦寺の再興が決定します。
比叡山焼き討ちから実に【13年後】、ようやく比叡山延暦寺が再興されて、現代にいたるのです。
現代でも比叡山延暦寺は、仏教の聖地として、僧侶たちの修業の場となっています。
2020年・比叡山焼き討ち 450回忌法要
余談かもしれませんが、【2020年】、比叡山延暦寺では比叡山焼き討ちの《450回忌法要》が営まれました。
このとき、比叡山焼き討ちと同じく、本能寺で炎に包まれて亡くなった織田信長の供養も行われたとのことです。
コロナウイルスの感染拡大が原因で、法要は少人数で静かに営まれたとのことですが、信長の供養も行われたということは、比叡山延暦寺では、織田信長への恨みのような感情が、今はすでに無くなっているということでしょう。
先日、とあるテレビ番組で
今の比叡山で織田信長を恨んでいる人はいないと思いますよ
と言っていた僧侶の方がおられました。
腐敗しきった比叡山延暦寺に鉄槌を下した信長ですが、その後、本能寺の変で無念の死をむかえたことに対しての同情もあるのでしょう。
比叡山延暦寺は、当時の腐敗から見事に立ち直ったということでしょうね。
1200年間消えぬ灯り《不滅の法灯》
比叡山延暦寺には、開祖・最澄が残したという
不滅の法灯
と呼ばれる灯火があります。
これは最澄が、西暦【788年】に火を灯してから一度も消えたことがないという代物です。
ただし、比叡山焼き討ちの際にこの灯火が消えてしまったため、山寺の愛称で親しまれている山形県の立石寺に分け与えられていた灯火を、再び延暦寺へ火が分けられたとのことです。
現在も朝と夕方に、灯火に燃料である菜種油を補給しており、気を抜くと火が消えてしまうため、油断という言葉の語源になったといわれています。
→→→→→【豊臣秀吉とは何した人なのか】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,比叡山焼き討ちが行われたとき、なぜ女人禁制であったはずの比叡山に、女や子供がいたのか?
腐敗しきった比叡山の不良坊主たちが、遊女を招き入れていたから。その他にも避難民や、ふもとの坂本に住んでいた者の妻子が比叡山にいた
2,なぜ織田信長は、比叡山焼き討ちで女や子供まで虐殺したのか?
おそらく織田信長は、女や子供を盾にした人質戦術をとる比叡山の不良坊主たちに屈服しないため、やむを得ず虐殺を行ったと考えられる。
その結果、みせしめとして虐殺することで、その他の宗教勢力・敵対勢力を、戦うことなく降伏させようとしたのだろう。
3,織田信長は、本当に比叡山焼き討ちで、虐殺行為をおこなったか?本当に虐殺はあったのか?
近年の研究によれば、比叡山焼き討ちで、今も語り継がれるような数千人の虐殺はなかった、と考えられている。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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