武田信玄の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、「武田信玄」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「武田信玄の死因・最後」については答えられませんでした
この記事では「武田信玄」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました
「武田信玄」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、信玄についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,武田信玄の『死因』は?
信玄の死因は、諸説あります。
- 労咳(ろうがい・肺結核)
- 肺炎
- 胃がん
- 食道がん
- 狙撃
- 日本住血吸虫病など
2,武田信玄の『没年月日』は?
旧暦・元亀4年4月12日
新暦・1573年5月13日
享年53歳
3,武田信玄の『最後の様子』は?
「織田信長」「徳川家康」と戦っていた「西上作戦」の途中で、喀血(かっけつ)を繰り返し、信濃国・駒場というところで亡くなった
4,武田信玄の『辞世の句』は?
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
武田信玄の『死因』は何?
信玄の死因は、諸説あります。
- 労咳(ろうがい・肺結核)
- 肺炎
- 胃がん
- 食道がん
による病死説が有力です。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
江戸時代には、6代将軍「徳川家宣」の師にあたる「新井白石」が
「三河・野田城攻城戦における『狙撃』が原因で死去した」
とする説を残しています
近代では、地方病として蔓延したことのある「日本住血吸虫病(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)」に死因を求める見解も生まれているようです。
一般的に、武田信玄の死因は「労咳」・・・つまり「肺結核」と考えられているようですが、最近ではその症状から「かく」、すなわち「胃がん」で亡くなったという説が最も有力となっています。
武田信玄の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
旧暦・元亀4年4月12日
新暦・1573年5月13日
享年53歳
「最後の様子」
【元亀4年(1573年)1月】、「武田信玄」ひきいる武田軍が、「徳川家康」が支配する三河国に侵攻。
【2月10日】、信玄の攻撃により、三河国・野田城が陥落。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
【3月6日】、織田軍から武田軍へ寝返っていた美濃国の岩村城に、武田家重臣「秋山虎繁」が入城。
信玄は野田城を攻め落とした直後から、たびたび喀血(かっけつ)したとのことです。(一説によると、徳川家康を撃破した「三方ヶ原の戦い」の首実検の時に、喀血が再発した、とも言われています。)
この頃から信玄の持病が悪化。同時に、武田軍の進撃は突如として停止。
そのため、信玄は最前線の「野田城」から引き上げて、「長篠城」において療養していたのですが、近習や一門衆の合議によって、「元気4年(1573年)4月初旬」には、遂に甲斐国へと撤退することとなります。
【4月12日】、軍が甲斐へとひきかえす途中、三河街道で、「武田信玄」死去。
亡くなった地点は、三州街道の信濃国・駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされていますが、他にも「浪合」や「根羽」とする説があります。
このとき「長岳寺」という寺で、火葬されたという逸話が残っています。
武田四天王の一人「高坂昌信」が残した資料『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、信玄は遺言で
「自身の死を3年の間は秘密にすること」
「遺骸を諏訪湖に沈めること」
「(勝頼の息子である)武田信勝が家督を継承するまで、勝頼は信勝の後見役としてつとめ、越後の『上杉謙信』を頼ること」
を言いのこし、武田四天王の「山県昌景」や「馬場信春」「内藤昌秀」らにあとのことを託した。
「山県昌景」に対しては、さらにもう一つ
「源四郎よ(山県昌景のこと)、明日は瀬田に(我が武田家の)旗を立てよ」
と言いのこしたといいます。

《山県昌景》
「引用元ウィキペディアより」
信玄の遺言について
「遺骸を諏訪湖に沈めること」
だけは『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったとのことです。
【1575年5月21日】、武田勝頼は「長篠の戦い」で、織田・徳川連合軍に大敗していますが、『甲陽軍鑑』によれば、この直前の「同年4月12日」には、信玄の菩提寺「恵林寺」において、勝頼による信玄の三周忌の仏事が行われています。

《武田勝頼》
「引用元ウィキペディアより」
武田信玄の『辞世の句』と意味
大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
【この世の中では、流れに身を任せて生きていくのが良いだろう。
その中で、自分を見出して生き、そして死んでいく。
いばったりせずに、正直に生きていく事が、最も楽で良いものなのだよ】
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,武田信玄の『死因』は?
信玄の死因は、諸説あります。
- 労咳(ろうがい・肺結核)
- 肺炎
- 胃がん
- 食道がん
- 狙撃
- 日本住血吸虫病など
2,武田信玄の『没年月日』は?
旧暦・元亀4年4月12日
新暦・1573年5月13日
享年53歳
3,武田信玄の『最後の様子』は?
「織田信長」「徳川家康」と戦っていた「西上作戦」の途中で、喀血(かっけつ)を繰り返し、信濃国・駒場というところで亡くなった
4,武田信玄の『辞世の句』は?
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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