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「小野妹子」がどういう功績を残した人なのか、説明できる人は意外に少ないかもしれませんね。
私も大学に入るまで、「遣隋使として随へわたった・・・」くらいしか知りませんでした。
小野妹子は飛鳥時代の外交官。遣隋使として海を渡り、「聖徳太子」の【隋と対等の関係を結ぶ】という考えを実現した人です。
この記事では小野妹子についてあまり詳しくない人のために、分かりやすく解説していきます。
これを読んで「小野妹子ってそういう人だったのか!」と、ぜひスッキリと理解してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 「小野妹子」とは、飛鳥時代の外交官。聖徳太子の命令で【607年】の第二回「遣隋使」として随の「煬帝」へ国書を渡し、対等の外交関係を結ぶことに成功した
- 「妹子」の功績としては、「随」の皇帝「煬帝」へ国書を渡し、対等外交を結ぶことに成功した事などがあげられる
- 「小野妹子」は煬帝から受け取った国書の返書を朝鮮半島「百済」で紛失した。しかしそこには倭国にとって受け入れがたい内容が書かれていたため、「紛失」を装って破棄した可能性もある。
小野妹子について!どんな功績を残した人なの?性別は男性
小野妹子は男性!「子」は当時、男性に付けられた文字だった
「小野妹子」は、「推古天皇」と「聖徳太子」の時代の外交官です。
【607年】、第二回「遣隋使」として隋に渡り、随の皇帝「煬帝(ようだい)」と面会し日本からの国書を渡しています。(【600年】に第一回「遣隋使」が送られていたが、このときは「随」の皇帝「文帝」から、倭国は非常に野蛮な国とみなされてしまっていた)
第一回遣隋使から数々の改革を行い、随の「煬帝」に「国」として認められた倭国と小野妹子は、その隋から国書の返書をもらい、隋の使節「裴世清」とともに日本へ帰りました。
名前の「妹」と「子」という漢字の組み合わせからか、小野妹子を「女性」と勘違いしている人がいますが、男性です。
名前に「子」の字が使われていると、女性名だと現代の私たちは思いますよね。
しかし女性の名前に「子」が使われ始めたのは、「平安時代(794~1185年)」からなのです。
歴史の教科書を見ると、飛鳥時代の男性で名前に「子」を持つ人物といえば、「蘇我馬子」や「中臣鎌子(中臣鎌足)」などが出ていますよね。
飛鳥時代には、「子」という漢字は、男性名に使われる漢字だったのです。
「小野妹子」の功績とは?国書を随の皇帝「煬帝」へ届けた
「小野妹子」の、生まれた年と亡くなった年は、はっきりしていません。
近江国小野村(現在の滋賀県大津市)出身の豪族で、『日本書紀』に初登場するのは【607年】のことです。
隋の歴史書『隋書』によれば、倭の国王「多利思比狐(聖徳太子だと考えられています)」からの国書(天皇からの手紙)を携えて、隋の皇帝「煬帝」に面会しました。
ところが、その内容が煬帝にとっては許し難い不快なものだったため、煬帝は激怒します。
その場で斬って捨てられてもおかしくない状況でしたが、煬帝は小野妹子を許し、国賓としてもてなしたのです。
【608年】、小野妹子ら遣隋使は隋の国使「裴世清(はいせいせい)」を連れて、日本に帰国。
ところが小野妹子は、隋からの国書を「百済」で奪われてしまっていたのです。
国書を奪われるとは何事か!ということで、流刑に処されています。しかし妹子は後に許され、「裴世清」の隋への帰国に同行して、【609年】に「高向玄理(たかむこのくろまろ)」や「南渕請安(みなみぶちのしょうあん)」らとともに、再び遣隋使として海を渡りました。
ちなみにこの時の遣隋使の1人「南渕請安」は日本へ帰国した後、皇族や豪族の子弟を集めた私塾を開いた人です。教え子には、「中大兄皇子(天智天皇)」と「中臣鎌足」がいます。
小野妹子について!どんな功績を残した人なの?
小野妹子が届けた国書!「日出処の天子」に煬帝激怒
倭の国王「多利思比狐」が、隋の「煬帝」へ宛てた国書は、有名な書き出しで始まります。
「日出づる処の天子、書を日歿す処の天子に致す。恙無きや、云々」。
「日出づる処」とは、日が昇る場所という意味で、「日歿す処」とは、日が沈む場所、という意味です。
有名な国書の書き出しを現代文に翻訳すると、以下のとおりです。
「日が昇る場所の天子が、日が沈む場所の天子にお便りします、お元気ですか」
日本から見たら西側にある中国大陸は、日が沈む方角ですから、このように書いたのでしょうね。
この書状を読んだ「煬帝」は激怒。
何故なら、隋は世界の中心の国であり当時世界最強の国家。「天子」とは世界の中心である「隋」の皇帝「煬帝」ただ1人が使うことのできる称号だと考えられていたからです。
「天子」と名乗るということは、それすなわち『隋と倭が対等である』と宣言していることになり、大国「随」に君臨する皇帝「煬帝」としては許し難いことでした。
「隋に朝貢している「朝鮮半島」などのような周囲の国々と同様に、「倭」の国家元首も随に対して貢ぎ物をし、「国王」と名乗った国書を送るべき立場だ」
というのが隋だけではなく、古代中国の考え方だったのです。
中国皇帝と周辺国の支配者との間で主従関係を築く体制を、「冊封体制」と言います。
邪馬台国の女王「卑弥呼」が、古代中国の大国「魏」に朝貢(みつぎもの)し、「親魏倭王」の金印をもらっていますよね。
下に見ていた倭国から、「対等な立場だ」と宣言する国書をおくりつけられた煬帝は、激怒。
「小野妹子」は、その場で殺されても仕方のないような窮地に追いやられたはずです。
ところが煬帝は、小野妹子ら遣隋使を、丁重にもてなしたのです。
命がけの外交を成功させた小野妹子!聖徳太子は当時の国際情勢を見極めていた
その理由は、当時の東アジア情勢にあります。
当時「隋」は、朝鮮半島北部の国「高句麗」と戦争をしていたので、怒りに任せて倭の国使を殺してしまったら、高句麗だけでなく「倭」をも敵に回すことになりかねませんよね。
もしも倭国の使節を処刑したら、起こった倭国が「高句麗」と同盟を結ぶかもしれない。隋と高句麗の戦争で、倭国が高句麗へ援軍を送ったりしたら厄介です。
煬帝自身の判断だったのか、群臣たちが諌めたのかはわかりませんが、隋は現実的に判断し、倭と対等な関係を結ぶことにしました。
おそらく「聖徳太子」は、当時の東アジア情勢から『隋の煬帝は、日本と対等の関係を結ばざるを得ないだろう』という予測を立てていたのでしょう。
聖徳太子のその予測のもと、隋に遣わされた小野妹子は、聖徳太子の「隋と対等の関係を構築する」という国策を見事に実現したのです。
一歩間違えば殺されかねない、難しい状況に置かれながらも冷静に対処した「小野妹子」の度量は、煬帝と隋の群臣を感心させたのでしょう。
小野妹子は外交官として、非常に優秀な人だったのだと思います。
ちなみに煬帝は、小野妹子の国書に激怒した11年後の【618年】に反乱軍によって殺害されています。
その後「唐」という国を建国して、中華全土を統一したのが、唐の初代皇帝「李淵」とその息子の2代皇帝「李世民」。
余談ですが、「李淵」とその子「李世民」の二人は、日本で人気のマンガ「キングダム」の主人公「信」こと「李信」将軍の末裔であると言われています。
その「李世民」の寵愛を受けた女帝「武則天(則天武后)」も有名ですね。
小野妹子の代失敗!煬帝からの手紙をなくした?
『隋と対等の関係を結ぶ』
この聖徳太子の夢を見事達成するという大役を果たした「小野妹子」。ところが隋からの帰国の途上、朝鮮半島の「百済」で、「煬帝からの返書」を奪われてしまいました。
倭国の都「飛鳥(現在の奈良県明日香村)」に、隋の国使「裴世清」を伴って帰国した「小野妹子」が
隋からの返書を百済で紛失した
という大失態を犯したことを知った群臣たちは、「小野妹子」を流刑に処すと決めます。
ところが「推古天皇」は「小野妹子」の失態を許し、流刑は許されました。
こうして都に戻った小野妹子は、「大徳」に昇進。「大徳」は聖徳太子が定めた身分制度「冠位十二階」の一番上の階級です。
翌【609年】、裴世清が隋に帰国するのに同行して、再び渡海。
なぜ国書を紛失するという大失態を犯したのに、許された上に大出世を果たしたのでしょう?
そもそも「聖徳太子」の難しいミッションを無事に果たし終えた優秀な外交官「小野妹子」が、「国書をなくす」などという失態を犯すものでしょうか?
筆者は、そうではないと思います。
恐らく隋からの返書が、日本の無礼を責めるものだったために、その事実を伏せ、「推古天皇」と「聖徳太子」の権威を守るため、群臣達に「百済で国書を奪われた」と嘘を言ったのでしょう。
小野妹子が許され、再び隋に渡った時に携えた国書の書き出しは、煬帝の怒りを買った態度を改めた内容となっています。その内容は以下の通り
「東天皇敬白西皇帝」
これを現代文に翻訳すると
「東の天皇が、つつしんで西の皇帝に申し上げる」
という意味になり
「皇帝は隋だけです。日本は天皇と名乗りますよ」
との態度を表明しているのです。
この国書の書き出しから考えると「小野妹子」は群臣達には内密に、「推古天皇」と「聖徳太子」に煬帝からの返書を見せていたと考えるべきでしょう。
だからこそ煬帝を怒らせないように、次の国書には「天子」という言葉を使わなかったと考えられますよね。
自国の立場を守るために、あえて「奪われた」と小野妹子が嘘をついたことを知っていたからこそ、推古天皇と聖徳太子は流刑を赦免。それどころか「大徳」へと昇進させたのだと私は思います。
『小野妹子』について「ひとこと」言いたい!
小野妹子は「華道の祖」でもあるのです。
京都市中京区に、「頂法寺」というお寺があります。
四天王寺を建立するための木材を集めていた「聖徳太子」が、この地で夢を見て六角堂を建立。「如意輪観音」を祀ったのが「頂法寺」創建の由来だと言われています。
このお寺の初代住職が「小野妹子」で、朝夕お花を仏様に供えていたのが、華道の「池坊流」の始まりなのです。
華道「池坊流」の祖であること。さらに「妹」と「子」という漢字の組み合わせも手伝って、「女性」と勘違いされやすいのかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「小野妹子」とは、飛鳥時代の外交官。聖徳太子の命令で【607年】の第二回「遣隋使」として随の「煬帝」へ国書を渡した。
- その功績は、「随」の皇帝「煬帝」へ国書を渡し、対等外交を結ぶことに成功したことなど。
- 「妹子」は煬帝から受け取った国書の返書を朝鮮半島「百済」で紛失。ただ、「紛失」を装って破棄した可能性もある。その国書には、日本にとって不都合なことが記されていた可能性がある。
この記事を短くまとめると、以下の通り
「小野妹子」は飛鳥時代の外交官で、時々「女性」であると勘違いされますが、性別は「男性」です。
遣隋使として海を渡り、隋の煬帝に国書を渡しました。
「日出づる処の天子」という有名な言葉で始まる国書は、煬帝を激怒させました。
しかし当時の東アジア情勢の中で、「高句麗」と戦争をしていた「隋」にとって、日本を敵に回すのは得策ではありません。
こうして「聖徳太子」の目論見通り、隋は日本と対等な関係を結ぶこととなり、大役を果たした小野妹子は隋の国使「裴世清」を伴って帰国しました。
ところが小野妹子は、朝鮮半島の「百済」で「煬帝の返書」を奪われてしまい、群臣たちから流刑に処されます。
しかし、煬帝の返書が日本の態度を叱責するもので、推古天皇と聖徳太子の体面を保つため、「奪われた」と嘘を言った可能性が高いと筆者は思います。
流刑を赦免された小野妹子は、最高の位「大徳」に出世。翌【609年】随へと帰国する「裴世清」とともに再び海を渡りました。
小野妹子は晩年、現在の京都市にある「頂法寺」というお寺の住職となって、朝夕、仏様にお花をお供えしていたと言われており、「華道の祖」と言われています。
以上となります。
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