皆さんは足利義昭の家紋と生涯について、ご存知でしょうか?
足利義昭が使用した家紋が、どのようなものなのか、くわしく知っておられる方は少ないようです。
この記事では足利義昭の生涯と、義昭が使用していた家紋の画像と解説とを、わかりやすく解説しております。
足利義昭について何もご存じない方も、大丈夫です。
これを読めば、足利義昭がどういう人物なのか、その概要が簡単に理解できます。
義昭の家紋も、貼り付けておきました。
この記事を呼んで、足利義昭についての疑問を、スッキリと解消していただければ、これほど嬉しいことはございません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,足利義昭の家紋とは、どのようなものか?
足利義昭が使用していた家紋は、二つ引両というもの。足利家は代々この二つ引両の家紋を使用していた。
2,足利義昭とは、いったい何者なのか?
足利義昭とは、足利尊氏の末裔で、室町幕府の第15代・征夷大将軍。室町幕府最後の征夷大将軍を務めた人物。
3,足利義昭の最期とは、どのようなものだったのか?
足利義昭は、織田信長に追放されて室町幕府を滅ぼされたあと、豊臣秀吉の部下となり、朝鮮出兵のため肥前・名護屋城へ出陣。その出陣で無理をしたためか、【1597年】に大坂で病死している。
足利義昭の家紋【二つ引両】の画像と由来
足利義昭の家紋は、二つ引両というものです。
二つ引両は、引両紋と呼ばれる家紋の一つです。
諸説あるものの、この二つ引両の家紋の由来は、かつて総大将が陣を置いた場所を幕で囲っていた際に、その陣幕を図形化したものといわれています。
また別の説によると、この二つ引両の2つの横線は、龍を表しているのだとか。(二つ引両の両という文字は龍を意味しています)
この家紋は、足利氏が代々使用してきた家紋です。
義昭の先祖である室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏も、この二つ引両の家紋を使用していました。
足利氏は、この二つ引両の家紋の使用許可を、ご褒美のようにして与えていたのです。
例えば今川義元で有名な今川家は、この二つ引両の使用を許可されていました。(今川家は足利家の親戚にあたります)
忠臣蔵で有名な悪役・吉良上野介も、二つ引両の家紋を使用していました。(吉良家も足利家の親戚です)
余談ですが、今川焼きという焼き菓子は、この二つ引両の家紋が由来だという説があるのです。今川というネーミングは、今川家が使っていたこの二つ引両の家紋に形が似ていたからなのだとか。(諸説あります)
引両紋には数多くのバリエーションがあり、横線が一本のものや三本のものなどがあります。
バリエーションはこれだけではなく、線が1本から7本まであり、外枠がなかったり、外枠が四角だったり、線が縦線だったり・・・。
引両紋には、数多くの種類が存在しているのです。
→→→→→【今川義元と今川焼きの関係】についてくわしくはこちら
足利義昭の生涯!兄・足利義輝の暗殺と明智光秀との出会い
足利義昭は、戦国時代に活躍した武将です。兄・足利義輝を暗殺され危機におちいりましたが、明智光秀と出会い、運命が変わります。
【1573年】、初代征夷大将軍・足利尊氏が開いた室町幕府が、織田信長によって滅亡に追い込まれました。
その室町幕府最後の征夷大将軍が足利義昭です。
足利義昭は当初、奈良の興福寺というお寺で出家していました。
当時の風習で、家督を兄弟で争い殺し合う、というリスクをおさえるために、一家の長男を残して他の男児は出家または他家へ養子に出されていたのです。
当初足利義昭は、征夷大将軍になどなれない立場でした。
ところが、その平穏な運命が突如として転がりはじめます。
【1565年】、永禄の変と呼ばれるクーデターが勃発。
13代征夷大将軍・足利義輝が暗殺されたのです。
足利義輝を暗殺した主要人物は、以下の5名。
- 三好義継
- 松永久通
- 三好長逸
- 三好政康
- 岩成友通
足利義輝は、足利義昭の実の兄なのです。
興福寺にいた義昭は、三好の軍によって幽閉されます。
兄・義輝の部下・細川藤孝や一色藤長によって救出された義昭は、越前国(福井県)へ逃亡。
そして越前国の戦国大名・朝倉義景によって保護されるのです。
この朝倉義景に、あの明智光秀が仕えていました。
足利義昭は越前国で、明智光秀と出会うのです。
御父・織田信長とともに上洛開始
兄・足利義輝を討たれた足利義昭は、織田信長の協力を得て、京都へ進軍し仇討ちに成功します。
越前国で穏やかに生活していた足利義昭は、兄・義輝の仇討ちをしたいと願い続けていました。
義輝が暗殺されたあと、義輝・義昭兄弟のいとこにあたる足利義栄が室町幕府14代征夷大将軍になると噂されていました。
自らの軍団をまったく持たない義昭は、兄のカタキを討つため、越前国の戦国大名・朝倉義景に協力を要請。
しかし朝倉義景は、反乱軍(一向宗)に苦しんでいたため、その協力要請を拒絶。
そんなとき明智光秀が足利義昭に対して、ひとつのアドバイスをします。
「尾張国の武将【織田信長】を頼りなさい」
この明智光秀のアドバイスを受け入れた足利義昭は、明智光秀を使者にして、織田信長に協力を要請。
信長の妻・帰蝶(別名・濃姫)の従兄弟だった明智光秀の協力要請を、信長は受け入れます。
【1568年】、織田信長は足利義昭と明智光秀を連れて、6万の大軍団で京都へ進軍(上洛)。
三好義継と松永久秀・久通親子は、信長に降伏。
三好長逸・三好政康・岩成友通たち三好三人衆は、信長に敗退し逃亡。
義昭は、信長の協力によって、兄の敵討ちに成功したのです。
そしてついに室町幕府・第15代・征夷大将軍に就任します。
義昭は織田信長の協力に感謝していました。信長のことを御父、つまり父親と呼んだほどです。
これが室町幕府崩壊の始まりだったのです。
→→→→→【織田信長は何した人なのか】についてくわしくはこちら
征夷大将軍に就任!しかし政治の才能ゼロ
【1568年】、宿敵だった14代将軍・足利義栄から将軍の位を奪うようにして、足利義昭が第15代・征夷大将軍に就任しました。ところが、ここから義昭は能力の限界をあらわにしてしまうのです。
征夷大将軍は、武士の棟梁(トップ)。天皇から政治を行う権限を与えられた存在でした。
ところが足利義昭は政治家としての能力が、極めて低い人物だったのです。
ある日、足利義昭の邸宅前に、9枚の割れた貝殻が置かれていました。
意味不明なこのいたずらを耳にした織田信長は、笑って言いました。
それはな、足利義昭には政治家としての能力が皆無であるという意味である
義昭は、勝手に税金を免除したり、功績のある家来に褒美を与えなかったりと、とにかく政治家としての能力が低い人物だったのです。
→→→→→【征夷大将軍と関白の違い】についてくわしくはこちら
織田信長との決別と武田信玄の襲来!
義昭は、織田信長と決別し、武田信玄と協力して、信長を倒そうとたくらむのです。
足利義昭のあまりの無能ぶりに、信長は激怒。そして信長は義昭に対して、こんな条件を突きつけたのです。
「なにかを行うときは、必ず織田信長の同意を得ること」
部下であるはずの織田信長から、そんな条件をつけられるほどに、足利義昭の政治は、自分勝手なものだったのです。
つまり、ほっといたら何をやらかすかわからない、と思われていたということです。
武田信玄をご存知でしょうか?
戦国最強と呼ばれた名将ですが、ついにこの武田信玄が動き出します。
自分の好きなように政治をさせてくれない織田信長を、足利義昭は恨むようになるのです。
とはいえ、身分は足利義昭のほうが上でも、持っている軍事力は織田信長のほうが圧倒的に上です。
まともに織田信長と戦ったら、足利義昭に勝ち目はありません。
そこで義昭は、信長がもっとも恐れていた戦国最強の猛将・武田信玄を味方につけます。
義昭から頼まれた武田信玄は、3万の軍団をひきいて織田信長に戦いを挑みます。
【1573年】、織田信長の盟友・徳川家康を三方ヶ原の戦いで撃破した武田信玄は、信長の本拠地・岐阜城に向けて進軍。
信長は武田信玄に追いつめられ、絶体絶命のピンチを迎えるのです。
槇島城の戦いと室町幕府の滅亡
信長に戦いを挑んだ義昭は、槙島城の戦いで信長に敗北し、200年続いた室町幕府は滅亡するのです。
武田信玄が徳川家康を撃破し、織田軍を攻撃し始めたことを知った義昭は、自らも挙兵し、信長に戦いを挑みます。
義昭・信玄に追いつめられた織田信長ですが、幸運が舞い降ります。
【1573年】、信長を倒すまで、あと一歩のところで、武田信玄が病死したのです。
信玄とタイミングを合わせて挙兵した足利義昭は、信玄という頼りを失い、槇島城の戦いで織田信長に大敗。
義昭は京都から追放され、中国地方の戦国大名・毛利輝元を頼ることとなるのです。
室町幕府は【1336年】に、義昭の先祖・足利尊氏が開いたものです。
足利尊氏は、恩人であり宿敵でもあった後醍醐天皇の建武の新政という政治を打倒して室町幕府を開いたのです。
【237年間】も続いた室町幕府は、15代目の征夷大将軍・足利義昭の代で、織田信長によって滅亡に追い込まれたのです。
→→→→→【足利尊氏の家系図と子孫】についてくわしくはこちら
本能寺の変と織田信長の死
京都から追い出された足利義昭は、その後も織田信長への抵抗を続けましたが、本能寺の変によって信長が急死することとなります。
京都から追放された足利義昭でしたが、毛利輝元の協力を得て、織田信長と戦い続けました。
室町幕府が滅亡した9年後の【1582年】、織田信長は突然亡くなります。
本能寺の変です。
足利義昭の元部下で、信長がもっとも信頼していた重臣・明智光秀が、いきなり信長を裏切ったのです。
明智光秀は、信長を討って義昭を京都へ迎えようとした、ともいわれています。
そんな光秀は、信長が亡くなってから、わずか11日後に、命を落とします。
光秀は、同じく信長の重臣だった羽柴秀吉に山崎の戦いで討ち果たされてしまったのです。
ちなみに本能寺の変の黒幕は足利義昭という説がありますが、近年の研究によると義昭・黒幕説は可能性が低いと考えられています。
織田信長の死から足利義昭の最期まで
信長の死後、足利義昭は豊臣秀吉の部下となり、朝鮮出兵で亡くなることになります。
【1582年】、織田信長が本能寺の変で亡くなったあと、天下は豊臣秀吉に支配されることとなります。
この頃の義昭は、武士の棟梁たる征夷大将軍でしたが、なんの力も持たない存在となっていました。
豊臣秀吉は、そんな落ちぶれた義昭に、槇島1万石という小さな領地を与えて部下とします。
【1588年】、実権も何もかもを失っていた義昭は、武士のトップに位置する征夷大将軍という称号を朝廷に返還しています。
朝鮮出兵をご存知でしょうか?
【1590年】に小田原城の北条氏政を滅ぼしたことで、豊臣秀吉は天下統一に成功。
その2年後の【1592年】に、豊臣秀吉は朝鮮半島への侵略戦争を開始したのです。
これが朝鮮出兵です。
このとき足利義昭は、高齢であったにもかかわらず豊臣秀吉から頼まれて、肥前・名護屋城へ出陣。
それが原因で体調を崩したのか、足利義昭は【1597年】に腫物が原因で死去。享年61歳(満年齢59歳)。
豊臣秀吉は、この翌年の【1598年】に死去。
【1600年】の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、【1603年】に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きます。
【1868年】、西郷隆盛が江戸城無血開城を実現し江戸幕府が滅びるまで、【265年】ものあいだ、日本は平和な時代を続けることとなるのです。
→→→→→【秀吉とは何をした人なのか】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,足利義昭の家紋とは、どのようなものか?
足利義昭が使用していた家紋は、二つ引両というもの。足利家は代々、この二つ引両の家紋を使用していた。
2,足利義昭とは、いったい何者なのか?
足利義昭とは、足利尊氏の末裔で、室町幕府の第15代・征夷大将軍。室町幕府最後の征夷大将軍を務めた人物。
3,足利義昭の最期とは、どのようなものだったのか?
足利義昭は、織田信長に追放されて室町幕府を滅ぼされたあと、豊臣秀吉の部下となり、朝鮮出兵のため肥前・名護屋城へ出陣。その出陣で無理をしたためか、【1597年】に大坂で病死している。
以上となります。
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