この記事では豊臣秀吉がつくったという、伝説の一夜城について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば一夜城についての逸話を、カンタンに理解できます。
豊臣秀吉は墨俣という場所に、わずか一夜で城をつくりあげたのです。
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この記事を短く言うと
1,墨俣一夜城の逸話とは、どういうものか?
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と名乗っていたとき、織田信長が美濃国を侵略するために墨俣に築城を計画した。秀吉はこの墨俣に、知恵を絞ってわずか一夜で築城することに成功した
2,豊臣秀吉は、本当に一夜で墨俣城の築城に成功したのか?
実際には4日かかったともいわれている。しかし、もともと墨俣には、斎藤家がつくった城が存在していたため、秀吉は築城したのではなく、最初からあった墨俣城を奪い取り、修築しただけとも考えられる。
3,もう一つの一夜城・石垣山城とは何か?
【1590年】、豊臣秀吉は小田原城の北条氏政・氏直を攻めた時、小田原城の目の前に一夜で石垣山城を築城し、敵の戦意を失わせて勝利した
一夜城とは何か?墨俣一夜城の伝説をカンタン解説
一夜城とは、たった一晩でつくりあげ、完成してしまったお城のことです。
歴史上において、豊臣秀吉がつくりあげた墨俣城は、わずか一夜で完成した城として有名です。
【1561年】または【1566年】、秀吉の主君・織田信長は、宿敵である斎藤龍興が支配する美濃国(岐阜県南部)を攻撃していました。
その時、信長は、敵国の美濃の領内にあった墨俣という長良川の中洲に、軍事基地をつくりあげることを思いつくのです。
まず信長の重臣・佐久間信盛が築城に挑むも、墨俣は敵地のど真ん中であったため、美濃三人衆と呼ばれる猛将たちに襲撃され、あえなく失敗。
次に猛将・柴田勝家が築城に挑戦しましたが、これも失敗。
最期に挑んだのが、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)でした。
秀吉は、敵に襲われる暇など与えず、一夜で作ってしまう作戦を計画します。
まず、秀吉は美濃国内に噂を流します。
「織田信長は、美濃国への攻撃を諦め、西の伊勢国への攻撃を計画している」
その噂によって、美濃国の織田軍への警戒をゆるませたのです。
次に秀吉は、蜂須賀小六たち野武士を味方につけ、彼らに木材を伐採させて、塀や矢倉、柵などの材料をつくらせたのです。
大雨の日を待った秀吉は、長良川にこれらの材木を筏に組み立てて流し、朝になるまでに組み立ててしまいました。
こうして、わずか一夜で墨俣城は完成。
豊臣秀吉の伝説・墨俣城は、このあと織田信長の軍事拠点として活用され、斎藤龍興を美濃から追い出すことに成功します。
織田信長は、義父・斎藤道三から死の間際に譲られた美濃国を、道三の死から【11年後】の【1567年】に、ようやく攻め落としたのです。
実は一夜でつくったわけではなかった!
豊臣秀吉がつくったとされる一夜城こと墨俣城ですが、実は一夜でつくったわけではありませんでした。
諸説あるものの、実際には4日くらいの時間がかかったと考えられています。
そもそも墨俣には、信長・秀吉の敵であった斎藤家がつくった墨俣城が、最初から存在していたのです。
斎藤家の当主・斎藤龍興は、この墨俣城に守備の軍を込めていたと考えられます。
秀吉は墨俣に一夜で城を作ったのではなく、この斎藤家がつくった墨俣城を奪い取り、修築しただけなのではないか、と考えられています。
おそらくですが、一夜で城をつくったという逸話は、豊臣秀吉があとから話を大げさに盛り上げたのだと考えられます。
→→→→→【信長・秀吉・家康の年表】についてくわしくはこちら
もう一つの一夜城【石垣山一夜城】について解説
実は豊臣秀吉が一夜でつくりあげた一夜城は、墨俣城だけではありません。
石垣山一夜城です。
【1590年】、豊臣秀吉が北条氏政とその子・氏直の支配する相模国(神奈川県)の小田原城を攻撃したときのことです。
秀吉は、日本でも最大級の名城・小田原城に苦戦し、小田原城の目の前にある石垣山に、城を作り始めます。
このとき、秀吉は石垣山の森の中に、密かに築城をすすめたのです。
そして石垣山城が完成すると、城を囲んでいた周囲の木を一気に伐採。
完成した城を北条軍に見せつけ、一夜で完成したかのように見せたのでした。
昨日まではなかったはずの石垣山に、いきなり巨大な城が姿を現したことに、北条軍は度肝を抜かれました。
姿を現したのは石垣山城だけではありませんでした。
なんと石垣山城の周囲には、京都や大坂をも超えるほどの、巨大な街がつくりあげられていたのです。
これに驚いた北条軍は、一気に戦意を喪失します。
北条氏政と北条氏直の親子は、秀吉に降伏。
さらに東北地方の猛将・伊達政宗も秀吉に降伏してきます。
これにより【1590年】、豊臣秀吉は関東を支配することに成功。天下統一を達成します。
【1467年】の応仁の乱から【123年】も続いた戦国時代を、秀吉はようやく終わらせたのです。
→→→→→【秀吉の天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら
情報操作の達人・豊臣秀吉のペテンの数々
秀吉という武将は、よく言えば情報操作が得意、悪く言えばペテンがうまい武将なのです。
実際には4日かかったはずの墨俣城が、なぜ一夜で完成したことになっているのでしょうか?
しかも、もともと墨俣には斎藤家が築城した墨俣城が存在していたというのに。
おそらく秀吉は、自らの功績を大げさに誇張して、歴史に記したのでしょう。
秀吉は、情報操作がとても上手なのです。
たとえば【1582年】、本能寺の変で主君の織田信長が、明智光秀に討たれた際、秀吉は中国大返しと呼ばれる超高速移動を成功させています。
このときの移動速度は相当なもので、一日30kmが限界であった当時の進軍速度を大幅に超え、なんと1日70kmも進んだと言われていたのです。
しかし実際には、1日30kmしか進んでおらず、話が大げさに誇張されていたにすぎないと、近年の研究では考えられているのです。
さらに秀吉は、本能寺の変で織田信長が亡くなったにも関わらず、近畿地方の武将たちに対して織田信長は生きていると偽情報を流し、誰も明智光秀に味方しないように情報操作をしています。
秀吉は、情報操作の名人なのです。
そのやり方は、嘘をばらまく、または話を大げさに誇張するなど、ペテンといっても良いものばかりです。
秀吉はこれらのペテンによって、自らの力を実際の実力以上に大きく見せて、敵の戦意を失わせ、戦いを有利にすすめることを得意としていたのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と名乗っていたとき、織田信長が美濃国を侵略するために墨俣に築城を計画した。秀吉はこの墨俣に、知恵を絞ってわずか一夜で築城することに成功した
2,豊臣秀吉は、墨俣城築城に4日かかったともいわれている。しかし、もともと墨俣には、斎藤家がつくった城が存在していたため、秀吉は築城したのではなく、このもともとあった墨俣城を奪い取り、修築しただけとも考えられる。
3,【1590年】、豊臣秀吉は小田原城の北条氏政・氏直を攻めた時、小田原城の目の前に一夜で石垣山城を築城し、敵の戦意を失わせて勝利した
以上となります。
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