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御成敗式目。この言葉は教科書で見覚えがあっても、それが何なのかを説明できる人は少ないかもしれませんね。
私も大学で勉強するまで御成敗式目について、【鎌倉幕府がつくった法律】としか認識していませんでした。
御成敗式目は、【1232年】に執権・北条泰時がつくったもので、武家社会の道理(慣習など)を武家社会のためにまとめた法律です。
この記事では、御成敗式目にあまり詳しくない方に向けて、わかりやすく解説していきます。
これを読んで「御成敗式目ってそういうものだったのか!」と、スッキリ理解してくださいね。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 御成敗式目とは、【1232年】に制定された日本初の【武士がつくった武士のための法律】。後世の武士たちによって、お手本とされた代物
- 御成敗式目をつくったのは、鎌倉幕府3代執権・北条泰時。尼将軍と呼ばれた北条政子や源頼朝の甥にあたる人物。
- 御成敗式目の内容は51条からなる。その内容は刑法・税制・訴訟・土地の支配権について、が定められている。
御成敗式目とは何か?目的等を小学生向けにわかりやすく簡単に解説
御成敗式目とは、【1232年】に鎌倉幕府の3代執権・北条泰時によって、それまでの武家社会で道理と呼ばれていた【慣習や道徳】をまとめて制定された【武家社会のための法律】です。
貞永元年に制定されたので、貞永式目とも呼ばれます。
【1185年】、諸国に守護、荘園に地頭が設置され、源頼朝の支配権が四国まで拡大し、鎌倉幕府が成立しました。
以前は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた【1192年】が、鎌倉幕府成立の年とされていました。
しかし最近では、源頼朝の支配権拡大の年である【1185年】が、鎌倉幕府成立の年とされています。
ただし鎌倉幕府の成立後も、東日本を武家が支配し、西日本は朝廷が支配する、という2大勢力がにらみ合う状態が30年以上も続きました。
ところが【1221年】に、承久の乱が勃発します。
この承久の乱で、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵しましたが、鎌倉幕府の2代執権・北条義時に敗北してしまいます。
その結果、後鳥羽上皇は日本海に浮かぶ隠岐の島に流されてしまうのです。
承久の変に勝利した鎌倉幕府は、全国に支配権を拡大。朝廷の権限を制限しました。
しかし鎌倉幕府は、支配権を拡大したものの、困った問題が起こります。
鎌倉幕府の成立以来、武家社会には明文化された法律がありませんでした。
武士が成立してから実践してきた道徳を道理として、もめごとを裁いていたのです。
しかし【1121年】の承久の変で鎌倉幕府が全国に支配権を拡大し、諸国に派遣された武士たちと現地住民の間で、法的なもめごとが次々と起き始めました。
現代に生きている私達でも、住む地方によって、方言が異なり、慣習が違いますよね。
まして今から【700年以上前】の鎌倉時代では、地方ごとに言葉も習慣も倫理観も、驚くほど違ったでしょう。
地方ごとに異なる習慣や倫理観では、統治するうえで問題が起こる恐れが大きくなります。
同じ罪でも、ある地域では罰せられ、他の地域では罪にならない・・・・という事態が起きてしまうと、不公平であることに人々が不満を持ち、反乱を起こす元にもなりかねません。
統治する上での問題を解消し、武家社会を安定させるため、【全国統一の規範】つまり【お手本】をつくる必要があったのです。
こうして、それまでの武家社会で道理と呼ばれていた慣習・道徳をもとに、御成敗式目は制定されました。
御成敗式目は、誰がつくったの?
御成敗式目は、【1232年】に、鎌倉幕府3代執権だった北条泰時が、北条氏一族の長である叔父・北条時房とともに制定しました。
【1183年】に北条義時の子として生まれた北条泰時は、子供の頃から利発で、優れた人格を持ち、人望の厚い人物でした。
源頼朝に寵愛され、元服(成人になること)の時に頼朝から一字もらい、初めは頼時と名乗りますが、頼朝の死後、泰時へと改名しました。
【1224年】、父・義時が亡くなり、泰時は源頼朝の妻である伯母・北条政子から執権に任じられます。
泰時は政子を後ろ盾として政治に携わりますが、翌年の【1225年】、政子も亡くなりました。
尼将軍・北条政子という強力な後ろ盾を失った泰時は、京都にいた叔父・北条時房を鎌倉に呼び戻し、自分と同じ執権に就任させます。
さらに泰時は、叔父の北条時房と両執権となり、【御家人の代表者】と【幕府の事務官僚】とで【評定衆】という合議体をつくり、鎌倉幕府の政治体制を頼朝以来の【専制政治(独裁政治)】から【集団合議制(話し合いによる政治)】に変更。評定衆とともに政治をつかさどりました。
しかし、諸国に派遣された武士たちと現地住民の間で、法的なもめごとが起き始めます。
さらに天候不順な年が続き、【1230年】から【1231年】にかけて大飢饉が発生。社会全体が不安定になってしまいました。
【1232年】、早急に社会を安定させる必要に迫られた泰時は、武家社会の道理をもとに、全国統一の法律として【御成敗式目】を制定。
【1235年】、石清水八幡宮と興福寺の間で寺社争いが起こりますが、泰時はこれを武力で鎮圧。
【1242年】、四条天皇の崩御にあたり、皇位後継者選びで公家と争った泰時は、この時の心労がたたり60歳で亡くなりました。
泰時が父・北条義時から受け継ぎ洗練させた【執権政治】は、【1221年】の承久の変以降、鎌倉幕府が公家や寺社などの勢力と武士との勢力の上に立つことで、両者の均衡を保つことに成功したのです。
御成敗式目の内容を、わかりやすく簡単に解説
御成敗式目は、聖徳太子が作った十七条憲法にちなみ、17を3倍した51条の条文から成り立っています。
作られた当初は35条だった条文に、のちに追加があり、51条となりました。
御成敗式目では
- 寺社仏閣を大切にすること
- 地頭・守護の権限
- 裁判の規定
- 式目の適用範囲
- 裁判の2大原則
- 刑法、家族法、訴訟法
- 官位の手続き
- 承久の乱の後始末
などが細かく定められました。
この御成敗式目の中でも特筆すべき点は、
- 守護の権限を大番催促(朝廷の警護を御家人に命じる)、謀反人、殺人者など【犯罪者の取り締まり】に定め、地頭の権限を【年貢の徴収】と定めたこと
- 守護と地頭が不正を働いたときはその職を解任し、処罰すると定めたこと
- 御家人の所領内での裁判に幕府は介入しないと規定したこと
- 源頼朝と北条政子から与えられた土地はどんな訴えがあろうとも没収されることはないと定めたこと
- 20年以上土地を実効支配した場合は、書面上他に所有者があっても返却しなくてもよいと定めたこと
1の守護の権限を定めたものを【大犯三か条】といい、これ以外の越権行為も禁じられています。
2では、『守護が勝手に人の所領を没収したり、地頭が集めた年貢を納めなかったりしたときは、処分する』と定めています。
3は『御成敗式目は幕府が御家人に対して定めたもので、御家人の所領内で起きるプライベートな事案には幕府は関わらない』と御成敗式目の適用範囲を定めています。
4と5は【裁判の大前提】として規定されたもので、土地所有の実態に法を合わせたものです。
御成敗式目が定められる以前、【公家法】という公家のための法律がありましたが、漢文で書かれており、それなりの教養がないと読みこなせないものでした。
北条泰時は、現実を見すえ、誰にでもわかりやすく公平な法を定めたといえます。
御成敗式目についてひとこと言いたい
武家の台頭以来、武家には明文化された法律が存在しませんでした。
武士が実践してきた【道徳と過去の先例】で善悪を判断し、裁判を行ってきたのです。
承久の変によって朝廷から奪い取った土地を幕府が管理するようになり、鎌倉幕府の統治権が拡大。統一した法規範が必要となった時に、飢饉で社会が不安定になったことも後押しして、御成敗式目は誕生しました。
御成敗式目は御家人のためにつくられた法律ですが、御家人ではない寺社や公家の裁きでも適用した訴訟が受け入れられ、御成敗式目の一部は公家法にも取り入れられたのです。
その公平さは時代を超えて受け継がれ、鎌倉幕府滅亡後も御成敗式目は用いられ続け、室町幕府を開いた足利尊氏も、御成敗式目の規定を守るように命じています。
必要に迫られて誕生したとはいえ、条文を細かく読んでみると、現代でも通用しそうな条文も多く制定されており、驚かされます。
誠実な仕事ぶりで公家からの評価も高く、名執権と謳われる北条泰時がどれだけ優れた政治家だったのか。御成敗式目の条文はそれを今も伝えていると、私は思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 御成敗式目は、【1232年】に制定された【武士たちのための法律】。とても公平な内容だったために、のちの武家社会でも模範となった
- 御成敗式目は、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が定めたもの。北条泰時は北条義時の息子。源頼朝や北条政子の甥
- 御成敗式目は全部で51カ条。その内容は、刑法・税制・訴訟・土地の支配などなど、多岐にわたる。
この記事を短くまとめると、以下の通り
御成敗式目は、【1132年】に鎌倉幕府の3代執権・北条泰時によって定められた法律です。御成敗式目はそれまでの武家の道理を基礎としてまとめ、制定されました。
初めての武家のための法律で、内容は誰でも読めるよう編纂され、公平なものでした。
その公平さによって、武家のみならず公家や寺社の裁判でも採用され、一部は公家法にも取り入れられました。
鎌倉幕府滅亡後も時代を超えて受け継がれ、室町幕府の法令や、戦国時代の戦国大名の分国法にも、御成敗式目の精神は受け継がれていくのです。
以上となります。
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