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鎌倉幕府を開いた人は誰?幕府成立の年となぜ鎌倉が選ばれたかを解説

この記事では【鎌倉幕府を作った人が誰なのか】を、わかりやすく解説いたします。

答えは源頼朝みなもとのよりともです。

【征夷大将軍】に任命されて、鎌倉幕府を設置した人物です。

1192いいくにつくろう鎌倉幕府】という語呂合わせが有名ですが、実は鎌倉幕府が誕生した年がいつなのか、諸説あってハッキリしていないのです。

→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら


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この記事を短く言うと

  1. 【鎌倉幕府を作った人】は源頼朝みなもとのよりともという人。武士による政権をつくりたかった頼朝は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が出来上がった
  2. 鎌倉幕府が誕生したのはいつなのか、諸説ある。1180年、1183年、1184年、1185年、1190年、1192年。特に1190年が可能性が高いのではないだろうか。
  3. なぜ鎌倉に幕府が作られたのかというと、もともと鎌倉には源頼朝の本拠地があったから。幕府を鎌倉につくったのではなく、幕府をつくったら、そこが鎌倉だった。

目次

 鎌倉幕府かまくらばくふを作った人は誰?→鎌倉幕府を作ったのは源頼朝みなもとのよりとも

鎌倉幕府かまくらばくふ

【1192~1333年】までの141年のあいだ、現在の神奈川県鎌倉市に存在していた【武士による臨時政府】のことです。(最近の歴史教科書では、1192年ではなく、1185年に鎌倉幕府が成立したとされています)

政府
つまり、この時代の政治は京都にある【朝廷ちょうてい】という本来の政府ではなく、臨時政府である【鎌倉幕府】が代わりに行っていたのでした。

この鎌倉幕府を作った人は、源頼朝みなもとのよりともという人物です。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

源頼朝は1192年に、征夷大将軍せいいたいしょうぐんというくらいを本来の政府である朝廷から与えられ、臨時政府である幕府をつくって関東の武士たちを支配しても良い、という許可を実質的に手に入れたのでした。

これにより源頼朝は、鎌倉幕府の初代・征夷大将軍として、鎌倉に幕府を設置したのです。



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幕府を作った理由は?どうして幕府を作ったの?→自分達に都合の良い政治を行うため

鎌倉幕府が作られる以前、日本は天皇を頂点としてお公家さんが支配していました。

源頼朝たち武家(武士)は、一体何をしていたのかというと、公家さんにこき使われるボディーガードや用心棒のような存在だったのです。

武家の武者たちは、そのことに不満を抱いていたのです。

なにをやっても武家に生まれた者は、一生を公家の奴隷として生きるしかない・・・と。

(当時の天皇やお公家さんを、人気漫画【ワンピース】に例えれば、【天竜人】のような存在だったのです。そして武家・武士たちは、天竜人から奴隷扱いされる【人間】のような存在。ついでに言うなら、関東という当時としては未開の地で生きる関東武士たちは東夷あづまえびすと呼ばれて差別され、まるで【魚人島の魚人】のような扱いを受けていたのです。)

この【武家は公家の奴隷】という当時としては当然の概念をぶち壊したのが、平清盛たいらのきよもりという武士でした。

《平清盛》
「引用元ウィキペディアより」

平清盛は武士でありながら、天皇の次に偉い太政大臣だじょうだいじんという最高の位にまで出世します。

しかし太政大臣にまで出世した清盛でも、最高権力者である天皇の支配から逃れることは出来ませんでした。

しょせん平清盛も、いくら太政大臣まで出世しても、天皇の家来でしかなかったのです。

源頼朝は、天皇や公家の支配から脱出するために、幕府という臨時政府を、京都から遠い関東の鎌倉に設置することを考え出します。

これにより、武家はついに、独自の政権を樹立することに成功。

1868年明治維新によって、実質的に武士が滅びるまでの約700年。武士が支配する政権が続くこととなるのです。

 

余談ですが、筆者の個人的な意見でしかないが、頼朝は京都から距離をおいたのではなく、後白河法皇ごしらかわほうおうから距離をおいたのではないかと思います。

《後白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」

なぜなら後白河法皇は、【近くにいる人間をことごとく不幸にする人】だったからです。

平清盛も源義経も、権謀術数の達人であった後白河法皇に関わったせいで、不幸な最期を遂げています。

後白河法皇という人は、人の足を引っ張って破滅させる天才だったのです。

頼朝は、そんな後白河法皇の恐ろしさを理解していた気がします。

だから後白河法皇から距離をおいて、鎌倉を本拠地としたのでしょう。



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鎌倉幕府の誕生は【1192年】ではない?→実は【5つの説】が存在する

鎌倉幕府が誕生したのは、西暦1192年といわれてきました。

1192いいくにつくろう鎌倉幕府】。有名な語呂合わせですよね。

しかし近年の研究で【鎌倉幕府が誕生したのは、1192年ではない】という説が浮上してきたのです。

鎌倉幕府がつくられた年は、諸説あります。

 

  1. 【1180年】源頼朝が、実質的に関東の支配組織を完成させた年
  2. 【1183年】天皇から、源頼朝による関東支配が認められた年で
  3. 【1184年】現代でいう裁判所にあたる問注所もんちゅうじょと、公文書の管理の役所である公文所くもんじょを、頼朝が設置した年
  4. 【1185年】現代でいう県知事にあたる守護しゅごと、市長にあたる地頭じとうの任命権を、天皇・朝廷が源頼朝に与えた年
  5. 【1190年】源頼朝が天皇から『日本全国の守護・地頭』つまり『日本全国を支配する知事』に任命された年
  6. 【1192年】源頼朝が『征夷大将軍』という武家の最高の地位である臨時職に任命された年


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幕府とは、すなわち臨時政府です。

その臨時政府を、源頼朝がいつ設置したのか、はっきりしていないのです。

なぜかというと、鎌倉幕府は、源頼朝が【鎌倉に幕府を設置します】と大々的に宣言して誕生したものではないからです。

気がついたら、頼朝が鎌倉で臨時政府を運営していた・・・というのが現実です。

そのため、臨時政府である鎌倉幕府が作られた年がいつなのか・・・解釈によって異ってしまうのです。

様々な意見がありますが、筆者個人の意見としては

【日本全国の守護・地頭】となった【1190年】

この年こそが、鎌倉幕府が作られた年といえるのではないでしょうか。

とはいえ、近年の学校教育では

1185いいはこ作ろう鎌倉幕府

といって、【守護・地頭の設置に関する権限が認められた1185年に幕府が成立したと教えられるようですね。



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なぜ鎌倉に幕府を作ったの?→鎌倉に幕府を作った理由は頼朝の家が鎌倉にあったから

鎌倉に幕府を作った理由は、結論からいえば、鎌倉がもともと源頼朝の本拠地つまり頼朝が住んでいたところだったからです。

鎌倉という土地は、天然の要塞でした。

南に海があり、東西北は山に囲まれて、非常に守りやすく攻めにくい土地なのです。

その証拠に、鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞は最終的に勝利はしたものの、鎌倉攻撃にかなり苦戦しています。

もともと鎌倉は、源頼朝の先祖である源頼義みなもとのよりよしが、本拠地として館をかまえていました。

その100年以上が経過したあと、源頼義の玄孫げんそん(まごのまご)である源頼朝が、本拠地としたのです。

なぜ鎌倉に幕府を作ったのかというと、つまり

鎌倉幕府をつくった源頼朝が、もともと鎌倉に住んでいたから

ちなみに源頼朝が住んでいた屋敷の跡地には現在、清泉女学院小学校という学校があり、大蔵幕府跡おおくらばくふあとという碑がたてられています。

幕府とは、【征夷大将軍が住んでいた場所】のことです。

つまり、幕府のトップである征夷大将軍が、政治を行う場所なのです。

今でいうところの首相官邸のようなものですね。



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【鎌倉幕府】についてひとこと言いたい

のちに誕生した足利尊氏あしかがたかうじが開いたの室町幕府

そして徳川家康とくがわいえやすの江戸幕府。

どちらも、この鎌倉幕府をお手本にしてつくられた臨時政府です。

室町幕府は足利氏が代々トップを務め、江戸幕府は徳川氏が代々トップを務めたわけですが、鎌倉幕府だけは違います。

鎌倉幕府は、征夷大将軍の補佐役であった北条氏が、トップであった三代将軍・源実朝らを暗殺して、乗っ取ってしまったのです。

北条氏はその後、鎌倉幕府を執権という役職で支配するわけですが、その北条氏の支配の仕方がとてつもなく陰湿で用心深いのです。

  • ライバルはとっとと暗殺
  • 邪魔になりそうなやつは、言いがかりをつけて死なせる

などなど、とにかく陰謀が得意。

そんな鎌倉幕府ですが、世界最大の帝国・元(モンゴル帝国)による元寇で、一気に弱体化することになります。

その影響から脱出することが出来ないまま、鎌倉幕府は後醍醐天皇ごだいごてんのうがひきいた以下の名将達に滅ぼされます。

足利尊氏とは、源頼朝と同じ源氏の棟梁だった人物です。(北条義時の女系子孫にあたる)

平氏である北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府を、源氏の棟梁・足利尊氏が滅ぼす・・。

なんだか強い因縁を感じてしまいます



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 鎌倉幕府をつくったのは源頼朝。頼朝は、武家による政権をつくろうとして、征夷大将軍になると同時に、鎌倉に幕府という臨時政府をつくった
  2. 鎌倉幕府が誕生したのがいつなのかは、諸説ある。1180年、1183年、1184年、1185年、1190年、1192年。やはり1192年がもっとも可能性が高いだろう
  3. なぜ鎌倉に幕府がつくられたかというと、もともと頼朝が鎌倉に住んでいただけのこと。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

その他の人物はコチラ

鎌倉時代に活躍した歴史上の人物等


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 気になって調べている言葉ある。「最近」・「近年」・「近頃」の違いである。あるカップルが「最近、彼(彼女)とは会っていない」という会話があると、勝手に「この2~3日」のことだろうと思い込んでいる。もし、それが「去年」からと答えたら、去年の事は「最近」とは言わないよと突っ込みたくなる。
    新聞に「ウナギの稚魚の値段が高騰している、、、とあり、文中にはこの10年のこととある」。「10年前」は「近年」と言っても問題ないようだ。「近頃」の若者は〇〇だという文章があると、個人的には「2~3年」のことかなぁと思っている。

    ⑴長い前振りの理由
    ①鎌倉幕府を作った人は誰?の2行目に「最近」では「1192年」では「1185年」に幕府が成立されたとされています。とある。
    ②鎌倉幕府の誕生は「1192年」ではない?の24行目にとはいえ、「近年」とある。
    ③「近年」と「最近」の違いを調べると、「最近」は、おおむね数日から1~2週間程度、「近年」は、「最近の数年(2~3年)くらいとある。
    10年後の人がこの記事を読んだ時、「最近」という言葉を抵抗なく受け入れるだろうか。ネットを見ると、子供の教科書に、鎌倉幕府の成立が「1185年」になっている。説明してほしいという相談が2011年にされている。ということは、「1185年」説は、2011年以前からあったと考えられる。
    少なくとも10年以上も前のことを「最近」と書くのはまずいような気がする。
    とはいえ、最近を削除して、不確かな情報を根拠にして「2011年頃」からとも書けない。

    ⑵おかしい
    ①この記事を短く言うとの5行目に、特に「1190年」が可能性が高いのではないだろうか。とある。
    ②鎌倉幕府の誕生は「1192年」ではない?の22行目にも「1190年」こそが「鎌倉幕府」が作られた年と言えるのではないでしょうか。とある。
    ③まとめの5~6行目には、やはり「1192年」がもっとも可能性が高いだろうとある。
    「1190年」説は斬新な説と思ったが、結論は「1192年」説になり、2021年の今「1192年」説はかなり弱い。削除された他方が良いと思われるが。

    ⑶検討してみてください
    ①鎌倉幕府の誕生は「1192年」ではない?の10行目に、現代でいう県知事にあたる「守護」と市長にあたる「地頭」の任命権とある。「守護」は現代の県知事に相当する「地頭」は市長という説に疑問を感じます。「地頭」は、現代の市区村長みたいなものと説明した方が良いと思います。
    ②「日本全国の守護・地頭」つまり全国の知事とある。これでは「守護」も「地頭」も同格ということになる。明らかにおかしい。
    ③まとめの7行目になぜ鎌倉に、、、「鎌倉」に住んでいただけとある。確か、レキシルの記事で「鎌倉」かという理由を9つ述べられてある記事があった。この記事の執筆者は誰であろう。私が持っている教科書でも「鎌倉要図が掲載され、鎌倉は源頼義以来、源氏とのゆかりが深い地で、三方を小さな丘陵にかこまれ、南は海にのぞむ要害の
    地であった。と説明されている。「鎌倉」に住んでいただけという説明は乱暴だと思う。

    レキシルの記事を書いておられる方は、高校時代どこの出版社の教科書で勉強されたのであろう。私の頃は、「日本史の〇〇」と言われ、高校が異なる友人も同じ教科書を使っていた。令和の現在はどうか分からないが、勉強の教材としてネットで購入しようと思う。

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