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姉川の戦いとは何かをわかりやすく簡単に解説!戦いの場所を地図でご紹介

皆さんは姉川あねがわの戦いを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

 

  1. 姉川の戦いとは、1570年に起きた織田徳川連合軍と、浅井朝倉連合軍のあいだで起こった戦い
  2. 姉川の戦いは、織田徳川軍の勝利に終わった
  3. 姉川の戦いから3年後の1573年、浅井長政・朝倉義景は戦死した

 

この記事では姉川の戦いを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

 

今は姉川の戦いについて、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、姉川の戦いに詳しくなれます。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

姉川の戦いとは何か?わかりやすく簡単に解説

姉川の戦いとは、1570年に起こった、織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政と朝倉景健かげたけの連合軍を撃破した戦争です。

 

【年】

1570年

 

【場所】

滋賀県長浜市姉川河原

 

【交戦勢力】

織田・徳川連合軍 VS 浅井・朝倉連合軍

 

【参戦指揮官】

織田・徳川軍:織田信長、徳川家康

浅井・朝倉軍:浅井長政、朝倉景健

 

【兵力】

織田・徳川軍:25,000人=織田軍20,000人+徳川軍5,000人(13,000〜40,000人)

浅井・朝倉軍:13,000人=浅井軍5,000人+朝倉軍8,000人(13,000〜30,000人)

(兵力については諸説ありはっきりしていない)

 

【結果】

織田徳川連合軍の勝利!

浅井朝倉連合軍の損害は諸説あり1100人とされているが、実際には被害は軽微だったともいわれている


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姉川の戦いが起こった当時の背景と情勢とは?

姉川の戦いは、織田信長が義弟・浅井長政に裏切られた復讐戦です。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

信長は姉川の戦いが起こる約2ヶ月前に、金ヶ崎の戦いで、浅井長政に裏切られて、絶対絶命の状態にまで追いつめられているのです。

 

→→→→→【金ヶ崎の戦い】についてくわしくはこちら

 

1568年、姉川の戦いが起こる2年前、織田信長は妹であるお市の方を嫁がせて同盟を締結していた浅井長政の協力もあって、上洛(京都への進軍と占領)に成功しています。

 

そして信長は、足利義昭を室町幕府の15代目の征夷大将軍に就任させて、天下を支配する大義名分を手に入れたのでした。

 

信長は足利義昭の命令という形で、天下の戦国武将たちに、京都へ来て足利義昭の部下となるように指示を出したのです。

 

ところが朝倉義景は、この命令を無視。

 

命令を無視された足利義昭は激怒し、1570年、織田信長と徳川家康に、朝倉義景討伐を命令したのです。

 

この戦いで、浅井長政は義兄・織田信長を裏切って、朝倉義景に味方し、信長と家康は敗北をすることになったのです。(金ヶ崎の戦い)

 

長政の裏切りに激怒した信長は、体制を立て直して、長政が支配する北近江(滋賀県北部)の横山城を攻撃。

 

これを救援するために、浅井長政と朝倉の連合軍が、織田信長・徳川家康の連合軍と、北近江の姉川をはさんで対峙。

 

姉川の戦いが始まったのです。

 

→→→→→【浅井長政が裏切った理由】についてくわしくはこちら

 


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姉川の戦いが起こった場所を地図付きで解説

姉川の戦いは、現在の滋賀県長浜市の姉川という川を挟んで行われました。

 

 

この姉川古戦場のすぐ南には、横山城跡があります。

 

また、徳川家康が布陣したとされる場所も、現在まで伝えられています。

 

周辺には、血川や血原などの地名が残されており、当時の戦いが激戦であったことを物語っています。

 

しかし近年の研究では、姉川の戦いはそれほどの激戦ではなかったともいわれています。

 

実際に、この戦いに敗北したはずの浅井・朝倉連合軍は、その後すぐに体制を立て直し、織田軍団に反撃を開始しています。

 


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姉川の戦いの経過とは?

姉川の戦いの始まりから終わりまでの経過について解説いたします。

両陣の布陣

織田徳川連合軍は、姉川の南に布陣。

 

対する浅井朝倉連合軍は、姉川の北に布陣していました。

 

姉川の戦い布陣図
引用元Wikipediaより

 

織田信長軍20,000人が、浅井長政軍5,000人と対峙。

 

徳川家康軍5,000人が、朝倉景健軍8,000人と対峙する形となりました。


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戦いの経過と結果

1570年7月30日(旧暦・元亀元年6月28日)、姉川の戦いが始まりました。

 

この戦いは、浅井軍の城である横山城を織田軍が包囲したため、浅井朝倉連合軍が横山城を助けるために始まった戦いです。

 

開戦の前日、浅井朝倉連合軍は、織田徳川連合軍を前にして撤退する動きを見せたものの、やはり織田徳川連合軍と対峙する形で布陣し直したといいます。

 

おそらく撤退するとみせかけて、織田徳川の油断を誘うつもりだったのでしょう。

 

午前6時頃に戦闘開始。

 

浅井軍の織田軍に対しての攻撃は凄まじく、信長がいる本陣の目の前まで敵に攻め込まれたといわれています。

 

この危機を救ったのが、徳川家康でした。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

家康は、戦っていた朝倉景健軍の側面を、徳川四天王のひとりである榊原康政さかきばらやすまさに攻撃させ、朝倉軍を撃退。

 

続いて織田軍に猛攻を仕掛けていた浅井長政の軍を側面から攻撃し、これも撃退。

 

浅井・朝倉連合軍は敗退。

 

  • 浅井家重臣・遠藤直経えんどうなおつね
  • 浅井長政の弟・浅井政之あざいまさゆき
  • 大太刀使いの猛将・真柄直隆まがらなおたか

 

これら重要な人材を、浅井軍は失っています。

 

織田軍も、家臣のひとり酒井尚恒さかいなおつねが戦死しているものの、損害は軽微であったと考えられます。

 

しかし浅井軍の損害も、それほど大きいものではなかったらしく、同年の志賀しがの陣で、織田信長は浅井朝倉によって窮地に追い込まれることになるのです。

家康は信長を裏切ろうとしたのか?

2023年の大河ドラマ「どうする家康」において、家康が姉川の戦いの前に、信長を裏切るか否かを迷っているシーンが描かれていましたが、実際には、裏切るどころか家康はやる気満々でした。

 

ドラマ「どうする家康」において、家康は浅井長政からの誘いを受けて、長政と協力して織田信長を倒そうとしていました。

 

しかし、史実において家康は、織田信長に無理強いしてまで、最前線で戦かわせろと要求しているのです。

 

信長はこの戦いで、家康に第二陣つまり最前線の一歩手前を担当してほしいと要請しました。

 

ところが家康はこれを拒絶。

 

遠い三河(愛知県東部)から、近江(滋賀県)へ来たのだから、なんとしてでも最前線・先陣で活躍しないといけない。この願いが聞き入れられないなら、自分は全軍を撤退させて三河へ帰ると、信長に無理やり先陣で戦わせろと言っているのです。

 

このとき、家康は信長と対等な立場にあり、信長も家康も、ともに征夷大将軍・足利義昭の部下という立場でした。

 

家康からすれば、この姉川の戦いで存在感を示し、信長に自分を重く用いさせようとしたかもしれません。

 

その甲斐あってか、家康の活躍により信長は窮地を脱し、姉川の戦いに勝利できたのでした。


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姉川の戦いが戦国時代に与えた影響

姉川の戦いによって、織田信長と浅井・朝倉の対立が決定的となり、信長の周囲は徐々に敵が増えていくことになります。

 

詳しくはのちほど解説いたしますが、信長はこの姉川の戦い以後、周囲を敵に囲まれて危機に瀕することになるのです。

 

浅井長政・朝倉義景は、その後、以下の勢力を味方としていきます。

 

  • 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
  • 石山本願寺の本願寺顕如ほんがんじけんにょ
  • 武田信玄
  • 足利義昭

 

これら強敵による信長包囲網のぶながほういもうによって、信長は窮地に陥るのでした。

姉川の戦いのあと、織田信長のその後の活躍

1570年の姉川の戦いのあと、織田信長と徳川家康がどうなったのかを解説いたします。

志賀しがの陣

織田信長は、姉川の戦いから数ヶ月後、志賀の陣と呼ばれる戦いで窮地に陥ることになります。

 

姉川の戦いで勝利したものの、浅井朝倉連合軍の力はまったく衰えておらず、絶大な財力を誇っていた宗教勢力・比叡山延暦寺と石山本願寺が、織田信長に敵対することになります。

 

この浅井朝倉・比叡山延暦寺・石山本願寺との戦いに苦戦した信長は、信頼していた森可成もりよしなりという武将と、実の弟である織田信治のぶはるを戦死させ、失うことになります。

 

ついには勝利が難しいと悟った信長は、朝倉義景に頭を下げて和睦わぼく(仲直りすること)に成功。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」

志賀の陣は、織田軍の敗北で終わったのです。


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比叡山・延暦寺焼き討ち

1571年、姉川の戦いの翌年、信長は浅井朝倉に協力した宗教勢力・比叡山延暦寺を焼き討ちするという暴挙に出たのでした。

 

このとき、比叡山にいた僧侶や女子供もあわせて3,000人が討たれたといいます。

 

比叡山延暦寺・根本中堂

近年の研究では、信長は延暦寺焼き討ちはしたものの、その損害は軽いものであり、仏像すら燃えていないともいわれていますが、真相ははっきりしていません。

 

この比叡山延暦寺の焼き討ちによって、白河法皇や平清盛という絶対権力者すらも手を焼いた宗教勢力・比叡山延暦寺は、一気にその力を失ったことだけは確かです。

 

→→→→→【信長が延暦寺焼き討ちした理由】についてくわしくはこちら


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浅井長政の死

1573年、姉川の戦いから3年後、小谷城の戦いによって、浅井長政は自害して果てることになります。

 

1572年、信長と敵対することとなった征夷大将軍・足利義昭は、甲斐(山梨県)の猛将・武田信玄に、信長討伐を要請。

 

比叡山延暦寺焼き討ちに激怒していた信玄は、25,000人の軍団を率いて出撃。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

織田信長の居城である岐阜城へ進軍する途中、徳川家康の居城・浜松城のまえを通り過ぎています。

 

このとき、徳川家康が11,000人の軍をひきいて、武田軍25,000人を攻撃するも、惨敗してしまいます。(三方ヶ原みかたがはらの戦い)

 

勝利した信玄でしたが、この直後の1573年に突然病死してしまうのでした。

 

武田信玄という強力な味方を失った浅井長政は、織田信長の猛攻を受けることになります。

 

1573年、朝倉義景を滅ぼした信長は、その足で浅井長政を攻め滅ぼしたのでした。

 

長政は死の直前に、織田信長の妹である妻・お市の方と、茶々(淀殿)・初・江の3人の娘を、織田信長のもとへ送り届けたといいます。

 

こののち、お市の方は、柴田勝家と再婚し、羽柴秀吉によって滅ぼされる運命を辿るのです。

 

→→→→→【浅井長政の最期】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【浅井長政が髑髏どくろさかずきにされたエピソード】についてくわしくはこちら

 


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本能寺の変と戦国時代の終焉

1573年に浅井長政が滅ぼされた9年後の1582年、織田信長が天下統一を目前にして、もっとも信頼していた重臣・明智光秀に滅ぼされる事件が起こります。

 

本能寺ほんのうじのへんの変です。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

1573年、浅井長政と朝倉義景を滅ぼした信長は、足利義昭を京都から追放します。

 

この足利義昭の追放によって、1336年から237年も続いた室町幕府は、滅亡したのでした。

 

→→→→→【室町幕府をつくった人と滅ぼした人は誰?】についてくわしくはこちら

 

その後、信長は本願寺顕如を相手に、石山戦争と呼ばれる戦いを強いられるのでした。

 

さらには武田信玄のあとを継いだ武田勝頼も、徳川家康と激戦を繰り広げ、信長を苦しめていました。

 

1575年、織田信長と徳川家康の連合軍は、長篠ながしのの戦いで武田勝頼の軍団を撃破

 

1580年、10年戦い続けた本願寺顕如が降伏。

現在の大阪城内にある石山本願寺跡地

1582年、織田徳川の連合軍がおこなった甲州征伐によって武田勝頼が亡くなり、名門・武田家は滅亡。

 

こうして織田信長は、対等な同盟関係にあったはずの徳川家康をも臣下にするほど力をつけ、天下統一目前まで勢力を拡大させたのです。

 

武田が滅亡したわずか3ヶ月後、織田信長は宿泊していた京都の本能寺を、重臣・明智光秀によって襲撃されて敗死。

 

その後、信長の天下は、明智光秀を討伐した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって統一されます。(1591年の奥州仕置おうしゅうしおきで天下統一が達成された)

 

また、秀吉の死後、徳川家康によって天下は再び統一され、260年に及ぶ平和が実現することになります。

 

→→→→→【豊臣秀吉による天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 姉川の戦いとは、1570年に起きた織田徳川連合軍と、浅井朝倉連合軍のあいだで起こった戦い
  2. 姉川の戦いは、織田徳川軍の勝利に終わった
  3. 姉川の戦いから3年後の1573年、浅井長政・朝倉義景は戦死した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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