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豊臣秀吉の息子を一覧解説!豊臣秀頼や鶴松は秀吉の子ではなかった?

今回のテーマは豊臣秀吉とよとみひでよしです。

 

この記事では豊臣秀吉の息子たちについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば秀吉の息子たちを、カンタンに理解できます。

 

豊臣秀吉には石松丸秀勝いしまつまるひでかつ鶴松つるまつ豊臣秀頼とよとみひでよりという三人の息子がいたのです。

 

ただし、その全員が、秀吉の実の子ではない可能性が高いと思います。


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この記事を短く言うと

 

1,豊臣秀吉の息子たちとは?

石松丸秀勝、鶴松、豊臣秀頼。そのほかにも秀吉には、名前不明の娘が1人いたというが、幼くして亡くなっている。

 

2,豊臣秀頼や鶴松は、秀吉の子ではなかったのか?

秀頼も鶴松も、当時から秀吉の子ではないのではないかと噂されていた。実際に、秀頼も鶴松も、秀吉の子ではない可能性が高い。

 

3,秀吉は、秀頼や鶴松が自分の子ではないことを知っていたのか?

秀吉は、秀頼が産まれた2ヶ月後、大坂城にいた侍女や僧侶を、追放したり処刑したりしている。おそらく秀吉は、側室・淀殿よどどのが他の男性と関係をもって秀頼を産んだことに気がついたのだろう。

目次

【豊臣秀吉の息子たち】を一覧で解説

天下人・豊臣秀吉には、3人の息子がいました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

秀吉の息子たちを一覧で紹介すると、以下の通りです。()には生母の名前を表記しています。

 

  • 石松丸秀勝(南殿みなみどの
  • 鶴松(淀殿)
  • 豊臣秀頼(淀殿)

 

秀吉にはもうひとり、名前不明の娘がいました。母親は石松丸秀勝を産んだ側室・南殿。

 

南殿とは、秀吉が織田信長に仕えて、長浜ながはま城の城主であった頃にそばに置いていた側室であると考えられています。

 

しかしこれらの子供たちは、豊臣秀頼を残して全員が若くして亡くなっています。

 

1人残った豊臣秀頼も、【1615年】の大坂夏の陣で、徳川家康に攻められて、戦死しています。


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ちなみに、豊臣秀頼には国松丸くにまつまる天秀尼てんしゅうにという1男1女がいました。

 

息子・国松丸は大坂夏の陣で捕らえられ、処刑。

 

娘の天秀尼も東慶寺とうけいじへ出家させられているため、豊臣家の直系の血筋は絶えています。

 

もちろんそれは、秀頼が秀吉の血を引く実の子であればの話しなのですが・・・。

 

→→→→→【秀吉の天下統一への道】についてくわしくはこちら

 

 


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豊臣秀頼や鶴松は、秀吉の子ではなかった?

秀頼も鶴松も、秀吉の子ではない可能性があります。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

根拠の乏しい個人的な意見ですが、筆者は秀頼も鶴松も、秀吉の子ではないと考えています。

 

淀殿が長男の鶴松と次男の秀頼を産んだのは、秀吉が50歳を過ぎたときです。

 

南殿をのぞいて、大勢の側室を持ちながら1人も子供を残せなかった秀吉が、なぜ50歳を過ぎて子供を残せたのでしょうか?

 

秀吉は、数多くいた側室のなかで、南殿と淀殿をのぞいて、1人も子供を産ませることが出来ていないのです。

 

中には、おふくのように子供を出産した経験がある側室がいたにもかかわらず、秀吉は子供を残せていません。(お福は五大老ごたいろうの一人である宇喜多秀家うきたひでいえの生母)

 

ということは、子供が出来ない問題を抱えていたのは、女性たちではなく、秀吉ということになります。

 

さて、そんな中で、なぜ淀殿は子供を産むことができたのでしょうか?

 

話は変わりますが、実は淀殿は、秀吉を憎んでいたはずなのです。

 

なぜなら淀殿は、自分の母親であるおいちの方を秀吉に殺されているのです。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

淀殿は、秀吉の子と偽って他の男の子供を産み、その秀吉の血を引かない我が子に豊臣家を継がせようとしたのではないでしょうか。

 

そうすることで豊臣家を乗っ取り、母親の復讐を成し遂げようとしたのかもしれません。

 

→→→→→【お市の方のすべて】についてくわしくはこちら

 


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秀吉は、秀頼や鶴松が自分の子ではないことを知っていた?

秀吉は、秀頼や鶴松が自分の子ではないことを、知っていた可能性があります。

 

実は秀吉、【1593年8月】に豊臣秀頼が産まれた2ヶ月後、大坂城内にいた大勢の侍女や僧侶を、追放または処刑しているのです。

 

秀吉は、淀殿が別の男性との間に秀頼をもうけたことに、気がついたのではないでしょうか。

《淀殿(茶々)》
「引用元ウィキペディアより」

そのため、淀殿の身辺を警護する役目の侍女や僧侶を処刑したのでしょう。

 

秀吉は淀殿が産んだ秀頼が、自分の子ではないと気がついたはずです。

 

すると、秀頼が生まれる2年前に亡くなった鶴松も、自分の子ではないと気がついたはず。

 

秀吉には、秀頼が自分の子ではないと、公表できない理由がありました。

 

そんなことを公表したら、自分が側室を寝取られたことを世に知らしめることとなり、メンツ丸つぶれになります。

 

メンツがつぶれたら、天下人としての威信が失われ、反逆者が続出するでしょう。

 

そんなことは死んでもできなかったのです。

 

秀吉は淀殿を許し、彼女が産んだ子・秀頼を後継者として、【1598年】にこの世を去ります。

 

その【17年後】の【1615年】、秀吉の血を引かない秀頼と淀殿は、大坂夏の陣で徳川家康によって、滅ぼされることとなるのです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

このとき、秀頼の実父であると噂されていた側近・大野治長おおのはるながも、秀頼や淀殿とともに、この世を去っています。

 

とはいえこれらの話は、資料の裏付けが全くないものです。そのため、妄想だと言われても仕方のないレベルの仮説であることを、何卒よろしくお願いいたします。

 

→→→→→【秀吉の子供一覧】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【秀吉の家系図】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,豊臣秀吉の息子たちとは、石松丸秀勝、鶴松、豊臣秀頼の三名。そのほかにも秀吉には、名前不明の娘が1人いたというが、幼くして亡くなっている。

 

2,秀頼も鶴松も、当時から秀吉の子ではないのではないかと噂されていた。実際に、秀頼も鶴松も、秀吉の子ではない可能性が高い。

 

3,秀吉は、秀頼が産まれた2ヶ月後、大坂城にいた侍女や僧侶を、追放したり処刑したりしている。おそらく秀吉は、側室・淀殿が他の男性と関係をもって秀頼を産んだことに気がついたのだろう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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