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本能寺の変が起きた場所はどこ?豊臣秀吉が本能寺を移転した真の理由

この記事では「本能寺の変が起こった場所」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「本能寺の変が、どこで起きたのか」を、カンタンに理解できます。

 

現在、京都市役所前駅の目の前にある「本能寺」は、「本能寺の変」が起こった場所ではなく、「豊臣秀吉」によって移転されたものなのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」が「明智光秀」に討たれた「本能寺の変」の現場「本能寺」の跡地には、現在「特別養護老人ホーム」が建てられている。現在「京都市役所前駅」にある「本能寺」は、豊臣秀吉によって移転されたもの

 

2,秀吉は、京都の町を再開発するために、「区画整理」を行った。そのため「本能寺」も、現在の場所へと移転された

 

3,本能寺は、「鉄砲伝来の地」であった「種子島」で布教活動を行っていた。そのため「火薬」や「鉄砲」と関係が深く、商人や武将達から重宝された

【本能寺の変】が起きた場所は、現在「養老ホーム」が建っている

「本能寺の変」が起こった場所には、現在「本能特別養護老人ホーム」が建てられています。

 

この「養老ホーム」の隣には「京都市立堀川高校・本能学舎」が建てられており、ともに「本能寺」の名前がつけられています。

 

この場所には、「本能寺」の石碑が建てられているのですが、現在この石碑の周辺は、閑静な住宅街となっています。

 

天正10年(1582年)6月2日】、この地で「織田信長」は重臣「明智光秀」に討たれました。

 

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

戦国時代のおいて最大の事件、「本能寺の変」です。

 

ところが歴史的大事件の舞台だった「本能寺」は、その後「豊臣秀吉」によって、現在の場所へと移転させられています。



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豊臣秀吉が「本能寺」を移転した理由は何?

豊臣秀吉が「本能寺」を移転したのは、「京都の町を再開発するための区画整理」が理由です。

 

「本能寺の変」から【9年後】の【1591年】、本能寺は秀吉の命令により、現在の「京都市中京区下本能寺前町」へと移転させられました。

 

当時の京都は、【1467年】に始まった「応仁の乱」の影響で、各地が焼け野原となっていました。

 

そのため秀吉は、町の再開発に乗り出したのです。

 

京都各地を当時の近代的な町並みに作りかえたというわけです。

 

このとき、秀吉は「商人」「武士」「寺社」などの町割り・区画整理を行ったため、「本能寺」も移動を余儀なくされたのです。

 

ただ、もしかすると秀吉が「本能寺」を移転したのには、もう一つの理由があったのではないでしょうか。

 

これは筆者の完全な想像ですが、秀吉は「信長公・最期の地」として、「本能寺」が聖地のように崇拝されることを恐れたのではないでしょうか

 

信長の重臣であった「豊臣秀吉」は、天下人となると主君「信長」への忠誠心を少しもみせていません。

 

次男「信雄」を改易にし、三男「信孝」を自害させ、孫の「三法師(秀信)」を小大名に陥れ、信長の娘と姪を側室にしています。

 

秀吉が残した書状によれば、かつての主君である「織田信長」を、「信長」と呼び捨てにしており、「様」や「公」などの「尊称」をまったくつけていません。

 

秀吉は、カリスマ「織田信長」を恐れ、その威光を思い出させるものを破壊しようとしたのではないでしょうか。

 

信長の威光を思い出させる最大の代物が、「本能寺」です。

 

秀吉は「本能寺」を抹消するつもりだったのではないでしょうか。

 

そんな秀吉も、亡くなったあと、「豊臣家」滅亡と同時に、墓所である「豊国神社」を徳川家康に破壊されています。

 

家康も「秀吉」を思い出させる「聖地」となり得る「豊国神社」を、恐れたのでしょう。



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本能寺と「鉄砲」の関係

2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」で、「本能寺」が「鉄砲」と関わりが深いことが語られるシーンがありました。

 

実際「本能寺」は、鉄砲伝来の地「種子島」でも「日蓮宗」の布教を行っていたため、鉄砲や火薬をあつかうことができたと考えられています。

 

当時、日本では火薬の主成分である「硝石(硝酸カリウム)」が手に入らず、輸入に頼っていました。

 

火薬だけではなく、当時「鉄砲」を日本国産とすることができたものの、「引き金」部分の「合金」などは、まだまだ輸入に頼らねばならなかったのです。

 

そのため「種子島」と関係が深い「本能寺」は、商人や武将たちにとって、とても便利な存在だったと考えられます。

 

信長は、のちに「本能寺」を京都での宿舎として利用するようになります。

 

もしかすると信長は、「鉄砲」を通じてもともと本能寺と付き合いがあったため、そのつながりを基礎にして「本能寺」を宿舎としたのかもしれません

 

それだけではなく、信長は「本能寺」の僧侶「日承」に教えを受けていたようです。



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「本能寺の変」のその後、「本能寺」という寺院がたどった壮絶な運命

「日蓮宗」だった「織田信長」は、本能寺の「日承」という僧侶に帰依しており、それまでの付き合いもあって、「本能寺」を京都での宿舎として利用していました。

 

本能寺は【天正10年(1582年)6月2日】に「本能寺の変」で焼けたあと、秀吉によって移転させられ、その後も過酷な運命をたどることとなります。

  • 1788年】、「天明の大火」で焼失。
  • 1840年】、「日恩上人」によって再建。
  • 1864年】、「禁門の変(蛤御門の変)」で焼失。(長州藩邸の火事が燃え移って炎上。または薩摩藩の砲撃で焼失)

 

実は本能寺は、「火災」がとても多いです。

  • 「本能寺の変」
  • 「天明の大火」
  • 「禁門の変」

 

それ以前に、【1536年】の「天文法華の乱」という宗教一揆による火災でも、「本能寺」は焼けています。

 

わかっているだけで、実に「4回」も火事になっているのです。

 

現在の「本能寺」という名前の「能」という字は、右側の二つ重なる「匕」という字を、「火」を表すものとして嫌い、「去」という字で書かれています。

 

現在「京都市中京区・京都市役所前駅」の目の前にある、移転後の「本能寺」には、信長公の霊廟があります。

 

ただ、「本能寺」には、信長のお墓があるわけではありません。

 

信長のお墓は、「京都市上京区」の「阿弥陀寺」にあります。

 

阿弥陀寺には、「本能寺の変」で信長とともに亡くなった、信長の嫡子「織田信忠」や、信長の側近「森蘭丸」のお墓もあります。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,信長」が「光秀」に討たれた「本能寺の変」の現場「本能寺」跡地には、現在「特別養護老人ホーム」が建てられている。現在の「本能寺」は、秀吉によって移転されたもの

 

2,秀吉は、京都の再開発のために、「区画整理」を行った。そのとき「本能寺」も、現在の場所へと移転された

 

3,本能寺は「種子島」で布教活動を行っていた。そのため「鉄砲」と関係が深かった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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