皆さんは足利尊氏と後醍醐天皇がどういう関係なのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 足利尊氏と後醍醐天皇は、当初は敵同士だったが、尊氏が鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇に味方したため、部下と主君の関係になった
- 鎌倉幕府が滅亡した後、足利尊氏と後醍醐天皇は対立することとなる。尊氏は後醍醐天皇を裏切って戦いを挑んだため、二人は宿敵関係となった
- 敵対しても尊氏は後醍醐天皇を崇拝していたため、後醍醐天皇が崩御(亡くなられた)されたときには、天竜寺を建立している
この記事では足利尊氏と後醍醐天皇がどういう関係なのかを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は足利尊氏と後醍醐天皇について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、足利尊氏と後醍醐天皇に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
足利尊氏と後醍醐天皇の仲とは?
足利尊氏と後醍醐天皇は、部下と主君という関係でした。
もともと足利尊氏は、後醍醐天皇を心から崇拝していました。
そして後醍醐天皇も、足利尊氏を寵愛していました。
つまり最初、両者の仲は、この上もなく良かったのです。
しかしその後、足利尊氏は後醍醐天皇を裏切り、二人は宿敵関係となるのです。
もともと、足利尊氏は後醍醐天皇と敵対していました。
尊氏は鎌倉幕府の御家人として、鎌倉幕府のトップである執権をつとめていた北条家の命令にしたがっていました。
後醍醐天皇は、そんな鎌倉幕府を滅ぼして、自分で政治を行いたいと考えていたのです。
足利尊氏は、鎌倉幕府と北条家を裏切って、後醍醐天皇に味方します。
尊氏の裏切りのおかげで、鎌倉幕府は滅亡します。
その後、足利尊氏は後醍醐天皇の部下として活動します。
後醍醐天皇は尊氏を寵愛し、尊氏も後醍醐天皇を崇拝していました。
ところが後醍醐天皇が行った【建武の新政】という悪政のおかげで、武士たちは後醍醐天皇を見限ったのです。
後醍醐天皇を見限った武士たちは、武士の棟梁だった足利尊氏をかつぎだして、後醍醐天皇に戦いを挑んだのです。
尊氏は後醍醐天皇との戦いを、最後の最後まで拒絶します。
しかし、後醍醐天皇を憎む周囲の武士たちに押し切られ、やむを得ず崇拝していた後醍醐天皇と対立することになります。
足利尊氏と後醍醐天皇は、鎌倉幕府が存続していた頃は敵同士でした。
鎌倉幕府が滅亡すると、部下と主君という関係になります。
そして最後は、敵同士という関係になってしまうのです。
足利尊氏を征夷大将軍に任命しなかった後醍醐天皇
1333年、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、建武の新政を始めました。
その時、征夷大将軍になったのは、後醍醐天皇の息子である護良親王でした。
一方で、倒幕の功績者である足利尊氏は、鎮守府将軍に任命されて、西国を治めていました。
尊氏は、公正な統治で、西国武士たちの信頼を得ていました。
しかし足利氏には、源氏が武家の中心として天下を治めるべきだという、祖先・源義家の言い伝えがありました。
そのため、尊氏は征夷大将軍の座を欲しがっていました。
このような状況から、護良親王は、征夷大将軍の座を狙う足利尊氏と敵対するようになりました。
この時代は、公家と武家が権力を巡って争っていた動乱の時代だったのです。
建武の新政とは何か?
後醍醐天皇による政権の新体制が始まりました。
この後醍醐天皇による新しい政治体制は、建武の新政と呼ばれています。
後醍醐天皇による政権の新体制が始まりました。
武士たちの私有地がますます広がっていく問題に対処するため、朝廷は所領安堵の制度を確立しました。
これは、強者が弱者から私有地を不当に奪うことを禁じるものでした。
同時に、荘園の税制度も改革されました。
これまでに存在していた複雑な税金の徴収体系を、朝廷が統一しました。
これは、鎌倉幕府の地方分権政治から、朝廷主導の中央集権政治への移行を示しています。
さらに、朝廷では人事改革が実施されました。
公正な人事のために、不必要な世襲制度が排除されました。
地方行政においては、守護(警察権を担当する武士)の上に、朝廷から派遣された貴族が国司(行政官)として配置されました。
この改革は武家にも影響を与え、鎌倉幕府時代から続いていた御家人制が廃止されました。
御家人制は、武士たちが鎌倉幕府に忠誠を誓いながらも、良い条件で奉仕するという慣行でした。
しかし、建武の新政では、そのような御家人制度は不要と見なされました。
また、鎌倉幕府時代には一族全員で領地を相続する惣領制という制度がありましたが、これが一括相続制度に変更されました。
これにより、相続による家督争いを防ぐため、嫡男が家長として全てを相続する形に変革されました。
このような改革によって、建武の新政は非常に公正な治世と見なされました。
ところが、徐々に暗雲が立ち込めてくることとなるのです。
建武の新政は、最低な悪政だった
しかし、政治から武士を排除したことで、行政に大きな混乱が生じました。
武士たちが実務を担っていたため、武士がいなくなると、行政が円滑に機能しなくなりました。
また、地方からの所領安堵の申し出も、混乱した朝廷では適切に処理できず、滞ってしまいました。
さらに、倒幕で活躍した地方武士たちの多くは、恩賞を得られず、逆に貴族たちによって所領を奪われる事態が発生していました。
貴族たちにとっては、かつて鎌倉幕府に奪われた土地を取り戻しただけのことでした。
この現実は、源氏の棟梁である足利尊氏にとって悩ましいものでした。
尊氏は鎌倉幕府の政治に苦しむ武士のために倒幕しましたが、建武の新政は実際には武士にとって好ましくない政治でした。
かつて源氏に仕えた御家人たちは、足利尊氏に変革の期待を寄せるようになりました。
この状況の中で、征夷大将軍である護良親王が足利尊氏暗殺の疑いで捕らえられる事態が起こりました。
これは権力を増大させる護良親王を危険視した政敵(朝廷内の貴族)によるものであり、派閥争いの一環でした。
護良親王は鎌倉へ移送され、幽閉されてしまいました。
北条時行の反乱【中先代の乱】
京で政変が起こった同時期、東国で旧執権勢力である北条時行と信濃の諏訪頼重による大規模な反乱が勃発しました。
これを中先代の乱と呼びます。
彼らは信州から鎌倉へと戦場を移し、争いは拡大していきました。
鎌倉で奇襲を受けた足利直義は苦戦を強いられましたが、尊氏は西国に対する兵権しか持っていなかったため、東国に出兵することができませんでした。
朝廷は、尊氏に武士の棟梁を意味する征夷大将軍という大権を与えることを、極端に恐れていたのです。
なぜなら尊氏を征夷大将軍にしてしまうと、鎌倉で幕府を開かれ、独立されかねないからです。
征夷大将軍になれなかった尊氏は、朝廷の許可を得ずに出兵する決断を下しました。
鎌倉に到着した尊氏によって北条軍は鎮圧され、執権北条氏は行方をくらませ、反乱は終息しました。
この戦の混乱に乗じて、直義は幽閉されていた護良親王を処刑しました。
表向きは、北条氏に奪われて人質にされることを防ぐためとされました。
しかし、実際には、尊氏と直義の間で繰り広げられていた征夷大将軍をめぐる権力争いの結果と考えられています。
護良親王の死を知った尊氏は、ショックを受けました。
尊氏は皇室を重んじる情深い性格でしたが、直義は常に足利一門の利益を優先する冷徹な性格でした。
護良親王の死に加え、朝廷が救援を渋ったことで戦の被害が拡大したこともあって、朝廷と足利氏の関係は悪化しました。
これ以降、尊氏は京に戻らず、鎌倉で足利一門の立て直しを図ることになるのです。
源氏のライバル・足利尊氏と新田義貞の対決
1336年、この頃、足利氏と同じく河内源氏に属する新田氏との関係が悪化していました。
新田義貞は足利尊氏に対抗し、朝廷の貴族たちに接近してライバル心を燃やしていました。
彼は足利尊氏との競争に勝つために、朝廷内での支持を得ることに力を注いでいました。
同年、朝廷は足利尊氏を討伐する計画を立て、大将軍に皇族の尊良親王、副将に新田義貞を任命して鎌倉に向かわせました。
一方で、北畠顕家率いる伊達氏・南部氏などによる奥州軍も尊氏討伐のため南下していました。
ところが、鎌倉では一大事で、尊氏は浄光明寺に引きこもっていました。
彼は後醍醐天皇に逆らいたくないという一心で隠居し、足利の当主の座を弟の直義に譲っていました。
尊氏の心情は、後醍醐天皇が鎌倉支配を黙認してくれるだろうかという不安があったでしょう。
足利軍の総大将である足利直義は兄ほどのカリスマ性はなく、そのため足利軍の士気は上がらず、敗戦が続きました。
一方で新田義貞は常に正攻法で戦う堅実な将軍であり、数と士気に勝る戦には強かったのです。
さらには足利尊氏の親友であったバサラ大名・佐々木道誉が寝返り、足利軍は追い詰められました。
ここで足利尊氏は弟を救うために、朝廷軍と戦うことを決意しました。
足利尊氏の呼びかけに応じ、関東の多くの源氏関連の豪族が加勢し、佐々木道誉も尊氏の復帰とともに味方に戻り、形勢は逆転しました。
足利軍の攻勢に新田軍は敗れ、京に撤退する朝廷軍の貴族たちは慌てて逃げ出しました。
足利軍は総大将の足利尊氏、副将で弟の直義、側近の高師直、足利一門の細川氏・畠山氏、およびその家臣の上杉氏・佐々木氏を擁する大軍になっていました。
南下していた奥州軍は足利一門の斯波氏と源氏の佐竹氏らによって足止めされていました。
一方で京には後醍醐天皇を支える楠木正成・名和氏・結城氏など、主に西国武士が加わっていました。
足利軍と朝廷軍の激しい戦闘が続く中、奥州軍が東寺に本陣を構えた足利尊氏を助けるために到着し、形勢は朝廷軍に有利に傾きました。
楠木正成は後醍醐天皇を比叡山へ避難させ、京の市街地で足利軍を誘い込み、ゲリラ戦を展開。
足利尊氏は東寺に籠城していましたが、市街地で得意とする名将・楠木正成と、東国で戦勝して士気が盛んな奥州軍との戦いに敗北を悟り、京から九州へと落ち延びることとなりました。
この時、足利尊氏を助けたとされる三井寺も焼き討ちに遭ったと伝えられています。
足利尊氏復活!九州からの快進撃
楠木正成は、足利尊氏が再び台頭する可能性を予見し、朝廷に対して、足利尊氏と和睦すべきであるという献策を申し入れました。
しかし、足利尊氏を警戒する朝廷の貴族たちは、この楠木正成の献策に反対。
一方、九州に逃れた足利尊氏は、かつて鎮守府将軍として築いた西国武士との信頼関係が功を奏し、短期間で勢力を回復。
また、九州には古くから源氏と縁のある大友氏や少弐氏などの武士団もあり、彼らの支持も得たことが、足利尊氏の素早い復権に寄与しました。
大覚寺統と持明院統の両統迭立
この時代において、持明院統と大覚寺統という二つの皇統が存在し、天皇の血統が分裂していました。
後醍醐天皇は大覚寺統に属し、光厳上皇は持明院統に所属していました。
そして、これらの皇統は常に政治的な対立が絶えませんでした。
足利尊氏は光厳上皇を味方に引き込み、西国武士たちの支持を獲得することに成功しました。
九州の大軍を率いて京に帰還した足利尊氏は、湊川(現在の神戸市)まで進撃しました。
この時、奥州軍は既に東北に帰還しており、朝廷軍は兵数で明らかに不利な状況に立たされていました。
劣勢を挽回すべく、楠木正成は京の市街地に敵を引き込み、食料補給を絶つ作戦を提案しました。
しかし、朝廷の貴族たちは再び都を戦場にすることに反対。
そこで、新田軍と楠木軍は連携して京の郊外で戦うことに決定。
しかし、足利軍は大軍であり、水軍と陸上軍に分かれて進撃し、水軍と新田軍、陸上軍と楠木軍とで分断されてしまいました。
分断されて劣勢に立たされた新田義貞が独自に撤退したことで、孤立した楠木軍は敗北し、楠木正成は自害。
新田義貞は、後醍醐天皇とともに比叡山へ逃亡するも、最終的に越前(福井県)に逃がれることになるのです。
動乱の南北朝時代が始まる
足利尊氏が京に凱旋すると、新たな幕府の設立と征夷大将軍の職に就くことを目指して活動しました。
ますます大勢になっていく足利軍の中で、足利尊氏は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位を促し、持明院統の光明天皇を即位させることを試みます。
この策略は、尊氏自身が征夷大将軍に就任するためには、味方である光明天皇の補佐が必要だと考えた結果です。
しかしこの提案に対し、後醍醐天皇は激しく反発。
なんと後醍醐天皇は女装までして、密かに京を脱出して奈良の吉野に向かいました。
その際には、皇位継承に必要な三種の神器を携えていったとされています。
後醍醐天皇は吉野で再起を目指し、南朝(吉野朝廷)を興します。
こうして足利氏が擁立する光明天皇の北朝と、後醍醐天皇の南朝という二つの天皇が共存する状況が生まれ、これが長い間続く日本の内乱期、南北朝時代の始まりとなりました。
吉野に移った後醍醐天皇は、吉水院(現在の吉水神社)を仮の住まいとし、国を守護するための寺院として如意輪寺を定めます。
そして、蔵王堂の西側に皇居の吉野行宮を建てて南朝の拠点としました。
室町幕府の誕生
当時、京の足利尊氏は室町幕府の創設を宣言し、本拠地を都として確立します。
新たな幕府の興隆に伴い、尊氏とその弟である直義は建武式目を制定しました。
この法令は全17条で、倹約の奨励、遊興や乱暴行為の慎重な取り扱い、民衆の困窮への対応、復興支援などを規定しており、また守護職には軍功よりも卓越した才能を備えた者を選ぶことなども明記されています。
さらに室町幕府は、半済法を制定し、経済基盤を確立しました。
これは戦乱時において各地の富裕階級の領地から半分の税収を徴収し、それを戦功のある武士たちに報いる仕組みでした。
同時に各国の守護に対して課税し、これを幕府の財源としました。
南朝の反撃
後醍醐天皇は
- 越前の新田義貞
- 東北の北畠顕家
- 畿内の結城氏
などを頼りに、室町幕府に対して同時に反攻を試みます。
1338年、最初に公卿の北畠顕家が率いる奥州軍と斯波氏・上杉氏らが鎌倉を守る戦いが勃発し、鎌倉は陥落して奥州軍が南下してきました。
北畠顕家は南朝の期待を背負い、足利派の地方豪族たちとの戦いに次々と巻き込まれます。
最終的には河内(大阪)で戦い敗れ、足利軍の高師直に討たれます。
一方、雪のために行軍できなかった越前の新田義貞は奥州軍と合流できず、結果的に孤立し、斯波氏と高師直軍に撃破され、矢で射られた後に自害しました。
新田義貞の死により、源氏一門の最大のライバルが消え、尊氏はついに念願の征夷大将軍に就くことができました。
その後、室町幕府は尊氏から政治を委任された足利直義が主導権を握り、尊氏にとっての懸念は後醍醐天皇の南朝にのみ集中することとなりました。
後醍醐天皇の最期
戦いに敗れた奥州軍が東北に撤退し、畿内(関西)の結城氏は当主の病により没落します。
失意の底にいた後醍醐天皇は、1339年に病に倒れます。
後醍醐天皇は倒幕を試み、自ら決起して島流しになり、再び復権して鎌倉幕府を打倒して京に戻りました。
最後は室町幕府との戦いで吉野で崩御し、波乱に満ちた人生を過ごしました。
現在、奈良吉野の麓には後醍醐天皇を祀る吉野神宮があります。
足利尊氏は足利一門と武士たちのために立ち上がりましたが、心の奥底では後醍醐天皇に対して忠誠心を抱いていました。
そのため、尊氏は後醍醐天皇に哀悼の意を示し、自身の禅の師である夢窓疎石(むそうそせき)の開山として、京の嵐山に天龍寺を建立し、後醍醐天皇の冥福を祈りました。
京の嵐山にはかつて亀山離宮があり、そこには後醍醐天皇が学んだ学問所も存在していました。
当時の室町幕府は財政難でしたが、天龍寺の建立を成し遂げるためには中国との貿易を再開する必要がありました。
元寇以来の中国との貿易を再開し、その天龍寺船のおかげで建立が実現したのです。
足利尊氏の後醍醐天皇への尊敬は非常に強く、また後醍醐天皇の霊を悪霊とならないように鎮める目的もあったと考えられます。
室町幕府の内部闘争
後醍醐天皇の崩御後、南朝は後村上天皇の即位により北朝への対抗を継続しました。
南朝の楠木正行(楠木正成の子)は北朝に立ち向かいましたが、高師直に敗れてしまいました。
高師直の追撃により、後村上天皇は吉野から奥地へと避難せざるを得なくなりました。
南朝の滅亡は避けられないように思われましたが、これが逆に新たな内乱を引き起こすことになるのでした。
幕府内の権力闘争!直義vs師直
室町幕府が不安定な状態にあり、実質の中心である足利直義と高師直が対立する事態が生じました。
高師直は軍事において数々の功績を上げ、政治でも実績を重ね、その著しい成果が幕府内の政治バランスを崩す結果となりました。
足利直義にとって高師直は自身を脅かす存在となりました。
性格的な相違もあり、保守的な足利直義と新興勢力の高師直は全く合わない状態でした。
この対立に巻き込まれ、仲裁しようとした足利尊氏と直義の関係も悪化し、悩む足利直義は結局出家する道を選びました。
その後、直義は養子の足利直冬と共に室町幕府を離れ、南朝と連携する方向に進みました。
足利尊氏と高師直は、直義の反乱鎮圧のために動きますが、連合した足利直義と南朝の支持者により、多くの反幕府勢力が加わりました。
皇統と源氏の分裂により、不満を抱いていた一派は反対勢力に流れ、幕府は真っ二つに分裂しました。
直義軍は尊氏の予想を上回る強敵であり、戦況は尊氏に不利に傾きました。
そこで尊氏はとうとう和睦を申し出る決断を下しました。
兄弟の対立の原因である反逆行為により、高師直は直義によって処刑されます。
高師直は功績があまりにも大きすぎて自らを滅ぼす結果となりました。
和解が成立した後も、尊氏と直義の争いは再発します。
しかし、足利尊氏は予測不可能な行動に出ます。
なんと、尊氏は南朝に頭を下げて和解するのです。
1352年、室町幕府と南朝の和解が実現。
南朝の後村上天皇が京に戻って天皇として復帰するという要求が、幕府に受け入れられたのです。
南朝からは支持を失った足利直義は、東国に逃れました。
尊氏は京を嫡男の足利義詮に託し、直義を追って鎌倉に向かいました。
足利直義は尊氏に降伏後、鎌倉で亡くなり、その死因は病または毒殺とされています。
この時期、世間では足利尊氏が再び争乱を引き起こすとの噂が絶えず、その噂を受けてか、東国の新田氏や奥州の北畠氏が足利尊氏に攻撃を仕掛け、南朝と北朝は再び敵対することになりました。
足利尊氏が東国の紛争を制圧した後、幕府軍は後村上天皇が滞在する男山を攻撃し、吉野に追い返しました。
結局、南朝との和解は、尊氏による一時しのぎの策略に過ぎなかったと考えられます。
その後も、足利直義の養子である足利直冬が南朝と協力して反乱しました。
南朝の反攻は一時的に京を占拠しましたが、足利尊氏と義詮によって撃退され、反攻は短期間で終結しました。
足利尊氏の最期
1358年、足利尊氏が病に倒れました。
新たな幕府の指導者は、尊氏の嫡男である足利義詮です。
一方で、尊氏の四男である足利基氏は鎌倉公方(鎌倉府の長官)として関東の支配に着手しました。
足利義詮は南朝に対して攻勢をかけ、再び力を取り戻そうとしました。
しかし、幕府内での権力争いが再び勃発し、南朝との戦いは一進一退を繰り返すことになりました。
その後も、幕府内の対立勢力が度々北朝と南朝に分かれて争う様子が頻繁に繰り広げられました。
1362年には、足利家の家臣である上杉氏が、関東管領(関東で鎌倉公方の政治を補佐する役職)に就任します。(上杉家は、尊氏の母親の実家)
これ以降、関東管領職は代々上杉氏が世襲することになります。(この関東管領・上杉氏の末裔が、戦国時代の軍神・上杉謙信)
同様に京では足利一門の斯波氏が管領職に任じられました。
関東管領は将軍を補佐する幕府の役職であり、その権限は執権ほど大きくはありませんでした。
また、京では斯波氏が管領職に就いています。
南朝にとって、足利尊氏が亡くなった時が反撃の最後の機会でした。
南北朝時代は、室町幕府と南朝の争いが全国に広がり、終わりの見えない混乱の時代となりました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 足利尊氏と後醍醐天皇は、当初は敵同士だったが、尊氏が鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇に味方したため、部下と主君の関係になった
- 鎌倉幕府が滅亡した後、足利尊氏と後醍醐天皇は対立することとなる。尊氏は後醍醐天皇を裏切って戦いを挑んだため、二人は宿敵関係となった
- 敵対しても尊氏は後醍醐天皇を崇拝していたため、後醍醐天皇が崩御(亡くなられた)されたときには、天竜寺を建立している
以上となります。
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