皆さんは織田信長の妹・お市の方の夫が、いった誰なのかをご存知でしょうか?
実はお市の方には、生涯で3人の夫がいたと考えられているのです。
つまり、有名な浅井長政と柴田勝家の他にも、もう一人【夫】がいたということです。
今はお市の方について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、お市の方に詳しくなれます。
この記事を読んで、絶世の美女・お市の方の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,【お市の方の夫一覧!謎に包まれた最初の夫とは何者なのか?】
お市の方の夫とは、以下の3名
- 謎の人物
- 浅井長政
- 柴田勝家
お市の方には、浅井長政と結婚する以前にも、一度結婚していたという説がある。
その最初の夫が誰なのかは不明。
おそらく織田家・家臣の誰かだろう。
2,【お市の方が浅井長政と結婚した理由とは何か?】
お市の方の兄・織田信長は、美濃国攻略と上洛(京都への進軍)のために、浅井長政と同盟を締結していた。
その同盟関係をさらに強固なものとするために、織田信長は妹・お市の方を浅井長政に嫁がせた。
3,【柴田勝家と結婚した理由とは?】
お市の方と柴田勝家の結婚は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がすすめたものといわれている。
秀吉は、清須会議の決定に不満を抱く柴田勝家に、お市の方を嫁がせて不満を和らげようとした。
4,【「秀吉」と「お市の方」は、互いをどのように思っていたのか?】
秀吉はお市の方に恋愛感情を抱いていたとか、お市の方は秀吉を憎んでいた、といわれている。
しかし実際には、両者は互いにそれほど関心がなかったのではないだろうか。
お市の方の【3人の夫】とは、何者なのか?
戦国の魔王・織田信長の妹・お市の方とは、どのような人物なのか。
そして、その夫とは何者なのでしょうか?
お市の方の【3人の夫】一覧
織田信長の妹・お市の方。その夫となった男性を一覧にすると以下の通りです
- 謎の人物(??~??)
- 浅井長政(1561~1573)
- 柴田勝家(1582~1583)
カッコの年代は、お市の方と結婚していたときを表しています。
浅井長政は1561年にお市の方と結婚し、1573年に死別。
柴田勝家は1582年にお市の方と結婚し、1583年に一緒に自害しています。
お市の方は、浅井長政や柴田勝家と結婚していました。
しかし、実は浅井長政に嫁ぐ前にも、一度結婚していた説があるのです。
つまり浅井長政との結婚は、二度目の結婚だったということです。
【1人目の夫】とは何者なのか?
実はお市の方が最初に結婚した相手が何者なのかは、実はハッキリしていません。
お市の方が、浅井長政へ嫁いだ時期の年齢が、当時としては、あまりにも遅いのです。
このことから、お市の方は長政へ嫁ぐ前にも、誰かと結婚していたのではないか、と考えられているのです。
お市の方が浅井長政に嫁いだ時期には、諸説あります。
一説によると彼女が20歳前後のころであったとされています。
西暦にすると1567~1568年の頃です。
戦国時代の風習では、13~14歳に嫁ぐのが一般的でした。
そのためお市の方は、浅井長政に嫁ぐ以前に、一度何者かと結婚していたのではないか、と憶測がされているわけです。
実はお市の方の長女・茶々は、【浅井長政の子ではない】という説があります。
茶々は、お市の方と最初の夫とのあいだに生まれた子だという説があります。
浅井長政とお市の方のあいだに生まれた三姉妹を、通称・浅井三姉妹と呼びます。
- 茶々
- 初
- 江
の三姉妹です。
その三姉妹の次女の名前は、初です。
浅井長政は、お市の方との間に初めて授かった娘だったから、初と名付けたというわけです。
おそらくですがお市の方は、織田家につかえていた家臣の誰かと結婚していたのでしょう。
その人物と死別したのか、または浅井長政に嫁ぐため離婚したのでしょう。
とにかく最初の夫とは別れているようです。
お市の方が浅井長政に嫁ぐ前に、何者かと結婚していた可能性は、かなり高いのではないでしょうか。
さきほど、お市の方が浅井長政に嫁いだ時期がハッキリしていない、と申しました。
いつごろ浅井長政に嫁いだのかについては諸説あります。
1561年という説もあれば、1568年という説もあります。
しかし彼女の出産歴をたどってみると、浅井長政に嫁いだ時期が、ある程度推測できるのです。
お市の方の出産歴は、以下のとおりです。
- 1569年、長女・茶々が誕生
- 1570年、次女・初が誕生
- 1573年、三女・江が誕生
お市の方は、1569年に長女・茶々を出産すると、次々と続けて子供を産んでいます。
(この長女・茶々が、浅井長政の娘かどうかは不明。他にも万福丸などの子供を産んだという説もある)
彼女が浅井長政へ嫁いだのは、1561~1568年とされています。
おそらくですが「お市の方」が嫁いだのは、出産歴からすると、【1567~1568年頃】ではないでしょうか。
仮に、1561年に嫁いだとすると、彼女は結婚してから8年も経過してから、ようやく子供を授かったことになります。
これだと8年も子供ができなかったのに、長女の出産した直後に、たて続けに次女と三女も出産したことになってしまい、少し不自然な気がします。
それまで夫婦仲が険悪だったにも関わらず、結婚後8年も経過して、子供が3人も産まれるほど、劇的に夫婦関係が改善した・・・というわけでもないでしょう。
そのため、お市の方が浅井長政に嫁いだのは、1567~1568年の頃なのでしょう。
二人の最初の子が、茶々なのか、それとも初なのかは不明です。
しかし、お市と長政が結婚したのは、1567~1568年の頃だと考えられます。
おそらくそれ以前に、お市の方はどこかへ嫁いでいたのでしょう。
その相手は、信長の家臣の誰かでしょう。
他国の大名へ嫁がせていた可能性は、低いと思います。
2人目の夫【浅井長政】!なぜ浅井長政と結婚したの?
お市の方の2人目の夫は、北近江国・小谷城の城主である浅井長政です。
浅井長政は、なぜお市の方と結婚したのでしょうか?
お市の方が浅井長政と結婚した理由は、兄・織田信長による政略結婚です。
織田信長は、敵国との戦争を有利にすすめるために、妹・お市の方を浅井長政に嫁がせたのです。
当時、尾張国(愛知県)の織田信長は、美濃国(岐阜県)の斎藤龍興と戦っていました。
信長は2つの狙いがあって、浅井長政と同盟を締結したと考えられます。
- 1つ目の狙いは
美濃国の背後に位置する北近江国(滋賀県)の浅井長政と同盟することで、美濃国・斎藤龍興を挟み撃ちにしようとした - 2つ目の狙いは
上洛(京都への進軍)のための安全確保
織田信長は、京都へ進軍するに当たり、通り道である近江国の安全を確保する必要がありました。
そのため、近江国の北半分を支配していた浅井長政と同盟することで、京都への道の安全を確保する必要があったのです。
この浅井長政との同盟は、信長にとって命綱でした。
そのため、最愛の妹・お市の方を浅井長政に嫁がせることで、同盟関係を、さらに強固なものとしたのです。
妹を嫁がせるという点からみても、信長がこの同盟を重視していたことがうかがえます。
ところが浅井長政は、義兄・織田信長を裏切ることとなるのです。
→→→→→【浅井長政が信長を裏切った理由】についてくわしくはこちら
→→→→→【長政の頭蓋骨を盃にした逸話】についてくわしくはこちら
→→→→→【浅井長政の子孫と天皇陛下】についてくわしくはこちら
3人目の夫【柴田勝家】!なぜ柴田勝家と結婚したの?
お市の方の3人目の夫は、織田信長の家臣団の中で、もっとも高い地位にいた猛将・柴田勝家です。
柴田勝家は、なぜお市の方と結婚したのでしょうか?
お市の方が柴田勝家と結婚した理由は、秀吉の斡旋があったためと、近年の研究で明らかになっています。
これまでは、お市の方が「秀吉」を嫌っていて、秀吉の対抗馬である柴田勝家に嫁ぐことで、織田家へ勝家をひきこんで信長亡き後の織田家の再興を目指した、といわれていました。
しかし近年の研究では、お市の方は秀吉にすすめられて、柴田勝家と結婚したとされているのです。
当時の秀吉は絶頂期でした。
織田信長亡き後の後継者を、信長の孫・三法師(織田秀信)に決定し、秀吉はその後見人となり、実質的な信長の後継者となっていたのです。
これに不満をいだいていた柴田勝家をなだめるため、美女と名高いお市の方を餌にして柴田勝家に与えたのだろうと考えられているのです。
柴田勝家からすると、お市の方を妻とすることには、大きな利点がありました。
柴田勝家がお市の方と結婚すれば、勝家と織田家は親戚関係となれます。
そうすれば勝家のもとには、織田家の家来たちが、次々と味方することとなるでしょう。
そうなれば、秀吉との勢力争いも、有利に働くはずです。
三法師を後継者として織田家の権力を握った羽柴秀吉と、それに対抗しようとする柴田勝家。
この二人のあいだで戦争が起こるであろうことは、誰の目から見ても明らかでした。
柴田勝家は、のちに起こるであろう羽柴秀吉との戦いで有利になるだろうと考えて、お市の方と結婚したと考えられるのです。
豊臣秀吉とお市の方の関係を徹底解説
天下人・豊臣秀吉とお市の方の、複雑な関係を解説してまいります。
秀吉がお市の方に惚れ込んでいたという逸話は、本当なのでしょうか?
今度は、以下の項目について解説してまいります。
- 秀吉と、お市の方の関係とは?
- 秀吉は、お市の方のことが好きだったのか?
- お市の方は、秀吉を嫌っていたのか?
- 天下人・秀吉が、お市の方と結婚できなかった理由とは?
- 秀吉がお市の方の娘・茶々(淀殿)と結婚した理由は?
お市の方と秀吉は、どういう関係なの?
お市の方と羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、主君の妹と部下、という関係でした。
お市は、秀吉の主君である織田信長の妹にあたります。
ただ、二人はそれだけの関係ではなく
秀吉は、お市の方に恋をしていた
と噂されています。
またお市の方は、秀吉のことを嫌っていた、または憎んでいたともいわれているのです。
ところがこの噂は後世の創作、つまりフィクションである可能性があるのです。
秀吉はお市の方のことが好きだったのか?
秀吉がお市の方に惚れ込んでいたというのは、事実ではないと考えられます。
秀吉はお市の方に恋をしていたと、歴史小説やドラマなどでは、よくいわれていることです。
そういわれる根拠は、いくつかあります。
- 秀吉が、大の女好きだった
- お市の方が、戦国一の美女と呼ばれるほど、美しかった
- 秀吉は、お市の方の娘・茶々を側室としていた
などなど。
つまりは、こういうことです。
女好きだった秀吉は、美女と評判だったお市のことが好きだったに違いない。
しかし秀吉は、お市の方を手に入れることができなかった。
それでもお市を忘れられなかった秀吉は、お市と似ていた長女・茶々を側室として、鶴松と秀頼という2人の子供を産ませた
ところが、秀吉はお市のことが好きだったというこの逸話には、ハッキリとした証拠がないのです。
歴史書の中にも、秀吉はお市に惚れていた、というような記述は、まったく出てきません。
秀吉がお市の方に恋をしていた、という逸話は、後世の人々による作り話なのではないでしょうか。
お市の方は秀吉のことを嫌っていたのか?
お市の方は、秀吉のことを嫌っていたとされています。
なぜか。
理由は2つあると考えられます。
- お市の方は、身分が低くて、ブサイクだった秀吉のことを、生理的に嫌っていた
- 秀吉は、浅井長政の長男・万福丸を処刑している
お市の方は、織田信長の妹であり、身分の高い存在でした。
それに対して秀吉は、もともとは農民であり、極めて低い身分なのです。
お市の方が秀吉のことを嫌っていたとするならば、おそらくこの身分の差と、秀吉の見た目を嫌っていたのでしょう。
実は秀吉は、お市の方の夫・浅井長政の息子である万福丸を、関ヶ原で処刑しているのです。
万福丸は、お市の方が産んだ子ではないというのが、近年の定説です。
しかし、血はつながっていなくても義理の息子を殺されたとあっては、お市の方が秀吉を憎むのに十分な理由となるでしょう。
- 身分の違いと、秀吉のブサイクさ
- 義理の息子・万福丸を殺された
この2つが、お市の方が秀吉を嫌っていた理由なのではないでしょうか。
なぜお市の方は秀吉と結婚しなかったの?茶々を側室とした意外な理由とは?
天下人・豊臣秀吉が、お市の方を妻とすることができなかった理由は、身分が違いすぎたためです。
また、秀吉がお市の方の娘・茶々を妻とした理由は、茶々の高貴な血筋を必要としたから、だと考えられます。
なぜ秀吉は、お市の方と結婚できなかったのか?
そしてなぜ、秀吉は茶々と結婚したのか?
お市の方と結婚できなかった理由は簡単です。
嫌われていた、または結婚しようにも身分が違いすぎて出来なかったのでしょう。
お市の方は、秀吉の主君にあたる人物です。
正確にいえばお市の方は、秀吉の主君・織田信長の妹なのです。
部下の秀吉が、いくら求婚しても、できるはずがありません。
例えていうなら、身分の低い農民が、国王の妹に求婚するようなものです。
のちに天下人となった秀吉ですが、彼が天下人となったとき、すでにお市の方は亡くなっていました。
そのため、身分の違いを克服したときには、すでに手遅れで、結婚などできなかったのでしょう。
ところで、なぜ秀吉はお市の方の娘である茶々と結婚したのでしょうか?
その理由は、秀吉の身分にあると考えられます。
秀吉は女好きではあるものの、好みの女性たちには一つの共通点があります。
それは身分が高い女性たちであるということです。
秀吉は、身分が高い女性を好んで側室にしているのです。
たとえば側室の一人【松の丸殿は、足利尊氏」の親友・佐々木道誉の末裔です。
(お市の方の次女・初は、この京極家に嫁いでいた。そして松の丸殿は、茶々や初の、いとこにあたる)
側室の一人である三の丸殿は、織田信長の娘です。
俳優・岡田准一さんが主演を務めた映画【関ヶ原】で、岡田准一さん演じる石田三成が、こんなことを言っています。
「秀吉公は、高貴な血筋に強いあこがれを抱いていました。
とはいえ、公家の娘は好みません。
主君・織田信長公の血筋を最高の貴族とお考えなのです。」
身分が低かった秀吉は、身分が高い女性に自分の子供を産ませることで、その血筋に泊をつけようとしたのでしょう。
実は茶々は、それほど美人ではなかった可能性があります。
茶々(淀殿)の肖像画を御覧ください。
いかがでしょうか?
肖像画を見る限り、美女と名高い母・お市の方とは似ていない感じがします。
秀吉が茶々を側室としたのは、美人だったからではなく
織田信長の血を引く姪であり、高貴な血筋だったから
なのではないでしょうか。
徳川家康とお市の方の関係とは?
2023年の大河ドラマ【どうする家康】で、徳川家康とお市の方が、清洲同盟を結んだときに、婚姻する話しが持ち上がりました。
ところが、家康はこの話を拒絶。お市の方は、小さい頃から好きだった家康のフラれる形となっています。
史実で、家康とお市の方が婚姻する話しなどはありません。
しかし、この二人には、このあと不思議な縁がおとずれることになります。
どういうことかというと、家康の息子と、お市の方の娘が、結婚しているのです。
それだけではありません。
家康の孫と、お市の方の孫も、結婚しているのです。
家康の息子であり、2代将軍である徳川秀忠の妻は、お市の方が産んだ三女・江なのです。
お市の方の三女・江は、のちの3代将軍である徳川家光と、千姫を産んでいます。
お市の方の長女は、さきほど解説した茶々(淀殿)です。
淀殿が豊臣秀吉とのあいだにもうけた豊臣秀頼の妻は、この千姫です。
つまり、お市の方の長女・淀殿が産んだ豊臣秀頼と、お市の方の三女・江と徳川秀忠のあいだに生まれた千姫が、結婚しているのです。
お市の方の血筋は、その後も徳川家に引き継がれ、現在では天皇家に引き継がれているのです。
→→→→→【お市の方の血筋が天皇家に引き継がれている理由】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,【お市の方の夫一覧!謎に包まれた最初の夫とは何者なのか?】
お市の方の夫とは、以下の3名
- 謎の人物
- 浅井長政
- 柴田勝家
お市の方には、浅井長政と結婚する以前にも、一度結婚していたという説がある。
その最初の夫が誰なのかは不明。
おそらく織田家・家臣の誰かだろう。
2,【お市の方が浅井長政と結婚した理由とは何か?】
お市の方の兄・織田信長は、美濃国攻略と上洛(京都への進軍)のために、浅井長政と同盟を締結していた。
その同盟関係をさらに強固なものとするために、織田信長は妹・お市の方を浅井長政に嫁がせた。
3,【柴田勝家と結婚した理由とは?】
お市の方と柴田勝家の結婚は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がすすめたものといわれている。
秀吉は、清須会議の決定に不満を抱く柴田勝家に、お市の方を嫁がせて不満を和らげようとした。
4,【「秀吉」と「お市の方」は、互いをどのように思っていたのか?】
秀吉はお市の方に恋愛感情を抱いていたとか、お市の方は秀吉を憎んでいた、といわれている。
しかし実際には、両者は互いにそれほど関心がなかったのではないだろうか。
以上となります。
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ありがとうございました。
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