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豊臣秀吉のご遺体は現在どこにあるの?実は明治時代に発掘されていた

今回のテーマは豊臣秀吉とよとみひでよしです。

 

この記事では、豊臣秀吉のご遺体が、今どこにあるのか?について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば、秀吉のご遺体がある場所、お墓の場所を、カンタンに理解できます。

 

豊臣秀吉のご遺体は京都市・阿弥陀ヶ峰あみだがみねにあるのです。


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この記事を短く言うと

 

1,豊臣秀吉のご遺体は、現在どこにあるのか?

秀吉のご遺体は、京都市東山区・豊国神社とよくにじんじゃの東1kmにある豊国廟ほうこくびょうに埋葬されている

 

2,秀吉の死後、ご遺体はどのように埋葬されたのか?

秀吉が亡くなった時、朝鮮出兵の真っ最中であったため、その死は日本軍が朝鮮半島から撤退を完了するまで秘密にされた

 

3,秀吉のご遺体が発掘されたときの様子とは?

明治天皇の命令により、豊国神社の再建が行われたとき、豊国廟の工事が行われたが、そのとき、埋葬された壺の中から、秀吉のご遺体が発見された

目次

豊臣秀吉のご遺体は、現在どこにあるのか?

豊臣秀吉の遺体は、京都府京都市の阿弥陀ヶ峰あみだがみねに眠っています。

 

そこにある豊国廟ほうこくびょうに、秀吉は埋葬されているのです。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

一般的に、秀吉の墓は京都市東山区の豊国神社とよくにじんじゃとされています。

 

しかし、ご遺体が埋葬されているお墓は豊国神社ではなく、そこから東へ1kmほど行ったところの阿弥陀ヶ峰という小高い丘にあるのです。

 

豊国神社は、あくまで豊臣秀吉を祀るだけの神社です。

豊国神社・豊臣秀吉像

秀吉のご遺体は、秀吉が亡くなって半年以上がすぎた後に、阿弥陀ヶ峰へと埋葬されたのです。

 

余談ですが、【1996年】に放送された大河ドラマ【秀吉】のオープニングで、小さな子どもが石段を駆け上がるシーンが放送されていました。

 

あの石段が、豊国廟へつながる石段です。

 

石段は全部で500段もあり、標高196mの豊国廟へとつながっています。

 

→→→→→【秀吉の天下統一への道】についてくわしくはこちら

 


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秀吉の死後、ご遺体はどのように埋葬されたのか?

【慶長3年(1598年)8月18日】、豊臣秀吉が死去しました。

 

その後、半年もの間、ご遺体が入った壺は京都・伏見城ふしみじょうへ安置されたといわれています。

 

半年後、ようやくご遺体は阿弥陀ヶ峰あみだがみねへ埋葬されました。

豊国廟の参道入り口

当時は、朝鮮出兵の真っ最中であったため、秀吉の死が朝鮮国へ知られると、反撃されて日本本土を攻撃されてしまう可能性がありました。

 

そのため秀吉の死は、日本軍が朝鮮半島から完全に撤退するまで、公表されなかったのです。

 

その後、秀吉は朝廷から豊国大明神とよくにだいみょうじんという神号しんごうすなわち神の称号を与えられ、神としてまつられることとなったのです。

 

【1615年】、大坂夏の陣で豊臣家が徳川家康によって滅ぼされると、家康は豊国神社を破壊。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

秀吉から、豊国大明神という神号も剥奪してしまったのです。

 

ただ、家康は阿弥陀ヶ峰の墓だけは破壊しませんでした。

 

その後、豊国神社は約300年ものあいだ、復興されることなく破壊されたままとなっていたのです。

 

→→→→→【朝鮮出兵の理由】についてくわしくはこちら

 


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明治時代に発掘された豊臣秀吉のご遺体

実は、阿弥陀ヶ峰にある秀吉のお墓を掘り起こしたときに、秀吉と思われるご遺体が発見されているのです。

 

徳川家康に破壊された豊国神社は、秀吉の死から【270年】も経過した【1868年】に、明治天皇の命令で再建されることとなりました。

 

【1898年(明治31年)】、秀吉の三百回忌が盛大に行われています。

 

そのとき、阿弥陀ヶ峰のお墓が工事によって掘り起こされています。

 

巨大な壺が発見され、中にはミイラ化したご遺体が1人おさめられていたのです。

 

そのミイラが、秀吉であると考えられています。

 

壺が運び出される最中に、ミイラ化した秀吉のご遺体は、ボロボロと崩れてしまったとか。

 

そのため、ご遺体をふたたび絹に包み、桐の箱に入れて、丁重に再埋葬されたのでした。

 

江戸時代の【1688年】、秀吉の墓は盗掘にあって、副葬品のよろい太刀たち・黄金などは、全て盗まれたといわれています。

 

派手好きな秀吉でしたが、副葬品もなく、1人寂しく眠っていたのです。

 

余談ですが、秀吉の息子・豊臣秀頼とよとみひでよりのご遺体が、大阪城の地下から発見されたという噂もあります。

 

→→→→→【発見された豊臣秀頼の遺体】についてくわしくはこちら

 


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死を恐れた秀吉と伏見城ふしみじょうの逸話

晩年の豊臣秀吉は、死を恐れて伏見城へ居城を移したという逸話があります。

京都・伏見城

当時、秀吉はわずか6歳の息子・秀頼をひとり残した状態で、死の床についていました。

 

そんな秀吉が伏見城へ居城を移したのは、伏見ふしみという言葉が不死身という、まるで死を遠ざけてくれるかのような言葉と似ていたからだと説があります。

 

また、秀吉は死を間際にして、とある迷信を恐れていたようです。

 

甲斐善光寺かいぜんこうじから秀吉の命令で持ち出された阿弥陀三尊像あみださんそんぞうが、秀吉にたたりをもたらしていると信じ込んでいたのです。

 

【慶長3年(1598年)8月17日】、たたりの根源とされた阿弥陀三尊像は、信濃善光寺しなのぜんこうじへ返すために京都から運び出されました。

 

しかし、翌日の【慶長3年(1598年)8月18日】、豊臣秀吉はその生涯を終えてしまったのです。

 

死因については諸説あり、はっきりしていません。

 

たたりではないと思いますが、そんな迷信にすがらなくてはならないほどに、秀吉は世に想いを残していたのです。

 

→→→→→【秀吉の死因】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,豊臣秀吉のご遺体は、京都市東山区・豊国神社の東1kmにある豊国廟に埋葬されている

 

2,秀吉」が亡くなった時、朝鮮出兵の真っ最中であったため、その死は日本軍が朝鮮半島から撤退を完了するまで秘密にされた

 

3,明治天皇の命令により、豊国神社の再建が行われたとき、豊国廟の工事が行われたが、そのとき、埋葬された壺の中から、秀吉のご遺体が発見された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました

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