皆さんは紫式部の子孫を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- !平清盛の息子である平重盛・基盛は、紫式部の子孫にあたる
- 承久の乱で土佐国へ流罪となった土御門上皇や、その母・源在子も、紫式部の子孫
- 南北朝の動乱のきっかけをつくった後嵯峨天皇とその子・宗尊親王も、紫式部の子孫
この記事では紫式部の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は紫式部の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、紫式部の子孫に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
紫式部の家系図
まずは紫式部の家系図をご覧くださいませ。
背景が黄色となっている人物が、紫式部の子孫にあたる人物です。
紫式部には、大弐三位(藤原賢子)以外に子がいなかったため、その一人娘を通してのみ、子孫が続いています。
これらの人物以外にも、紫式部の子孫はいます。
ここでは、特に有名な歴史上の人物のみをピックアップしました。
紫式部の子孫一覧
大弐三位(藤原賢子)
紫式部の娘。父親は藤原宣孝。
平安時代中期の女性歌人であり、女房三十六歌仙および百人一首の歌人として有名です。
大弐三位の本名は、藤原賢子です。
1001年、わずか3歳の頃に父・藤原宣孝と死別しました。
1017年、18歳ごろに母の後を継いで、藤原道長の長女・藤原彰子(上東門院)に女房として仕えることになりました。
その後、藤原道長の兄で七日関白と呼ばれた藤原道兼の次男・兼隆と結婚し、源良宗の妻となる娘を出産。
ただし、この夫は兼孝ではなく、藤原公信という人物だったとする説もあります。
公信は、一人娘が生まれた翌年に亡くなっています。
もしも大弐三位の最初の夫が藤原公信ならば、母親・紫式部と同じく、未亡人となった可能性があるのです。
1025年、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任命されました。
1037年までの間には高階成章と再婚。
1038年には、高階為家との間に一女をもうけました。
1054年、後冷泉天皇の即位とともに従三位になっています。
歌や実生活から見て、母親の紫式部と比較されることが多く、母よりも恋愛の駆け引き上手という印象があるようです。
源良宗の妻
紫式部の孫。大弐三位(藤原賢子)の娘。
夫・源良宗とのあいだに、息子・源知房を産んでいます。
高階為賢
紫式部の孫。大弐三位の息子。
娘が藤原能兼に嫁いでいます。その系統から、為賢の玄孫(孫の孫)にあたる源在子が誕生。
源在子は、後鳥羽上皇に嫁ぎ、土御門上皇を出産。
この土御門上皇を通じて、現在の天皇陛下は、紫式部の子孫にあたられます。
高階為家
紫式部の孫。大弐三位の息子。父は高階成章。
為家は、院政で絶大な権力を誇った白河上皇の信任を受けていました。
周防守、美作守、播磨守、伊予守、近江守などの要職を歴任。
1093年、春日神人に対する暴力行為が原因で、興福寺の信徒たちから告訴されています。
為家はこれが原因で、職を解かれて土佐国に流罪。
1099年には許されて、丹後守に就任して官界に復帰。
その後も越前守、備中守などを歴任。
1106年に出家。同年逝去。享年69歳。
高階為章
紫式部の曾孫。高階為家の息子。
時の権力者・白河法皇から寵愛を受けた人物として有名です。
1086年、白河天皇(のちの白河法皇)が堀河天皇に譲位して院政を開始。
すると為章は院近臣として仕えて、急速に昇進を繰り返しました。
為章は藤原隆時とともに、白河法皇からの寵臣とされています。
二条万里小路にあった為章の邸宅へ、白河法皇の御幸(訪問)がたびたび行われたといいます。
1093年に春日神人への暴力行為が問題視され、父・為家が解任されて土佐国に配流。
そのとき為章は、白河法皇からの特別な寵愛によって罪を逃れています。
そのことに人々は大変驚いたといいます。
為章は支配を任された荘園に対して、かなり厳しい態度で統治を行った人物として有名です。
1103年、父・為家に先立って、45歳で逝去。
源家実の妻
紫式部の曾孫。高階為章の姉。
醍醐源氏・源家実に嫁ぎ、高階基章を産んでいます。
高階基章は、彼女の弟である高階為章の養子となっています。
高階基章
紫式部の玄孫。平清盛の最初の正室となった女性の父親。
外叔父である高階為章の養子となり、高階の姓を名乗りました。
実父は醍醐源氏の但馬守・源家実で、紫式部は基章の4代前の先祖にあたります。
同母兄弟には、白河天皇の近臣であり、乳母子の藤原国明の養子となった為忠がいました。
詳細な事跡は不明ですが、娘が平清盛の正室となり、1138年には嫡男・重盛、翌年には次男・基盛を出産しています。
基章はかなり低い身分だったといわれています。
そのため孫にあたる平重盛は、母の実家である高階からの支援を得られず、のちに平家一門で孤立していくこととなります。
高階為泰
紫式部の女系子孫。高階基章の息子。平清盛の最初の正室となった女性の兄弟。
姉妹が平清盛の妻となり、長男・重盛と次男・基盛を出産しています。
高階基章の娘
紫式部の女系子孫。平清盛の最初の正室となった女性。平重盛・基盛の母。
若い頃の平清盛に嫁ぎ、重盛・基盛の兄弟を出産。
詳細は不明ですが、若くして亡くなったと考えられています。
母親およびその実家である高階からの支援がなかったため、平重盛は長男でありながら、平家の中で発言権を失っていくことになります。
平重盛
紫式部の女系子孫。平清盛の長男。平維盛の父。
「我が平家一門にあらざるものは、人にあらず」
と豪語するほどに、おごり高ぶる平家の中で、唯一の良心的な存在として有名な人物です。
平重盛は、保元・平治の乱で活躍。
父・清盛を助けて、相次いで戦功を上げました。
保元の乱では猛将・源為朝に挑みかかり、平治の乱でも猛将・源義平に挑んだといいます。
最終的には内大臣にまで昇進。
嫡男であるが、母の実家である高階家が貧しかった為、その母の実家からの庇護がなく、平家一門のなかでやや孤立気味でした。
父・清盛と、主君・後白河法皇の対立で板挟みとなり、苦しんだといいます。
彼は六波羅小松第に屋敷があったことから「小松殿」または「小松内大臣」とも呼ばれていました。
邸宅には48の灯籠(灯篭)が建てられたため灯籠大臣とも称されました。
誠実で心優しく、おごり高ぶる平家の中で、唯一人々からの信頼を勝ち取り、後世において好意的に描かれることが多い人物です。
1179年、重盛は父・清盛に先立って亡くなっています。享年42歳。
「早く死にたい」とつぶやくほどに、清盛と後白河法皇の板挟みに苦しんでいたようです。
死因については、胃潰瘍・背中の腫瘍・脚気などが挙げられています。
調整役だった平重盛の死により、父・清盛は暴走。
平家は滅亡へと直走ることとなります。
平基盛
紫式部の女系子孫。平清盛の次男。平行盛の父。
1156年の保元の乱では、父とともに後白河天皇の軍に加わり、18歳で功を挙げました。
1159年の平治の乱では、当初は父・清盛や異母弟の宗盛とともに紀伊国の熊野詣の真っ最中に、藤原信頼らの蜂起の報せを受けました。
しかし在地の豪族たちの協力を得て無事に帰京し、反乱軍を撃退。
1162年、基盛は24歳で早世しました。
通説では病死とされています。
一説によれば、宇治川を騎馬で渡河しようとした際に、保元の乱で敵対し、死に追いやった悪左府・藤原頼長の怨霊に祟られて溺死したという記録があります。
平維盛
紫式部の女系子孫。平清盛の孫であり、平重盛の長男。
その美貌から「桜梅少将」と呼ばれ、紫式部の子孫であることを知ってか知らずか、宮廷では「光源氏の再来」と呼ばれていました。
しかし、治承・寿永の乱(源平合戦)において大将軍として出陣。
源頼朝や甲斐源氏・武田信義を相手した富士川の戦いでは、水鳥が飛び立つ音に驚いて撤退。(飢饉による兵糧不足でやむなく撤退したともいわれている)
倶利伽羅峠の戦いでは、猛将・木曾義仲を相手にして、壊滅的な敗北を喫します。
父・重盛の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱し、那智の沖で自ら入水したとされています。
源平の戦い序盤の敗北の責任を一身に負い、その人生は悲劇的な形で幕を閉じることになりました。
平資盛
紫式部の女系子孫。平清盛の孫であり、平重盛の次男。
彼は和歌に優れ、その才能は『新勅撰和歌集』や『風雅和歌集』にもその名が刻まれています。
殿下乗合事件で、資盛は摂政・藤原基房の行列を前にしても馬を降りず、基房は激怒。
基房たちから乱暴をされて、逃げ帰った逸話はあまりに有名です。(後日、祖父・清盛が仕返しに藤原基房らの髪を切り落とす暴挙に出る)
1183年、木曾義仲の軍を避ける為、平氏一門が都落ち。
一門が都を離れた後も、資盛は後白河法皇の庇護を求めるものの叶わず、平氏本隊に合流。
最期は平氏の西走の過程で、屋島での戦いや一ノ谷の戦いでの敗北。
そして源氏による追討に遭い、壇ノ浦の戦いで自害しました。享年25または28歳。
平資盛には、数多くの子孫の伝説があります。
鎌倉幕府3代執権・北条泰時につかえ、承久の乱において、一番最初に先陣を切った18騎のひとりである平盛綱は、資盛の子だといわれています。
また、のちの尾張織田家の祖先・織田親真も、平資盛の子といわれています。
もしも平盛綱が資盛の子なら、鎌倉幕府で北条家をも上回る権力を握った平頼綱や長崎円喜は、平資盛の子孫ということになります。
また、織田親真が資盛の子なら、戦国時代の名将・織田信長も、資盛の子孫ということになります。
しかし平盛綱も織田親真も、平資盛の子である可能性は低いと考えられます。
平清経
紫式部の女系子孫。平清盛の孫であり、平重盛の三男。
横笛の名手として有名です。
1183年に平家一門が都を離れた後、清経は次第に悲観的な思考にとらわれ、九州の豊前国柳浦で自ら入水。享年21歳。
『吾妻鏡』によると、清経は平家都落ちの際に清経は後白河法皇の御所から吠丸と鵜丸という宝刀を奪っていきました。
能の演目である「清経」は、清経入水のエピソードから着想を得て、世阿弥によって創作されました。
また、肥後国の五家荘の伝承によれば、清経は壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、四国を通って九州に渡ったとされています。
この伝承によると、清経は豊後国の緒方家を頼ったといいます。
その後は姓を「緒方」に変え、五家荘の様々な地域に住み着いたというのです。
平有盛
紫式部の女系子孫。平重盛の四男。
異母兄である資盛に従い、三草山の戦い(一ノ谷の戦いの前哨戦)に参加。
しかし、この戦いで源義経に敗れ、その後は屋島の平家本陣に落ち延びました。
最期は壇ノ浦の戦いにおいて、兄・資盛や、いとこの行盛とともに手を取り合い、三人で海に身を投じたといいます。享年22歳。
有盛にまつわる伝説として、奄美群島には、有盛、平資盛、平行盛が落ち延びたとされる平家の伝説が残っています。
また、香川県観音寺市には、平有盛が有木と名を変えて住んでいたとされる平家落人村がかつて存在していました。
平師盛
紫式部の女系子孫。平重盛の五男。
1184年、三草山の戦いで、兄・資盛や有盛そして忠房と共に源義経軍を迎撃。
しかし夜襲を受けて敗北。
兄弟三人は西国に落ち延びましたが、師盛は一人で南方の一ノ谷の平家本陣に合流。
続く一ノ谷の戦いで、討ち死したといわれています。
平忠房
紫式部の女系子孫。平重盛の六男。
屋島の戦いで平家が敗れた後、忠房は秘密裏に陣を抜け出し、紀伊国の豪族・湯浅宗重の庇護を受けて潜伏。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、源頼朝による追討を受けながらも、平家の残党が忠房のもとに集まり、3ヶ月にわたる篭城戦を繰り広げました。
しかし、頼朝からの
「源頼朝は忠房の父・重盛には命を救われた旧恩があり、その息子は助命する」
という偽りの誘いに応じて、降伏。
その後、鎌倉に出頭すると頼朝に面会し、京に送還されましたが、途上の近江(滋賀県)の勢多で斬られたといいます。
平宗実
紫式部の女系子孫。平重盛の七男であり末子。平清盛の孫。
1183年の平家の都落ちには参加しなかったものの、『平家物語』によれば、平家滅亡後に家を追われ、奈良・東大寺で出家したといいます。
鎌倉へ向かう途中で断食死したといいます。
一方で、平家滅亡後に北条時政の軍に捕らえられたが、源頼朝が平宗実の助命を認めたともいわれています。
宗実の子孫を称する家も存在し、現在の当主は鹿児島県在住です。
平行盛
紫式部の女系子孫。平清盛の孫であり、平基盛の長男。
父の基盛は1162年に24歳で亡くなり、その後は伯父・平重盛に育てられています。
行盛は藤原定家に師事し、歌人としても名声を得ました。
治承・寿永の乱(源平合戦)では、倶利伽羅峠の戦いや藤戸の戦い、屋島の戦いなどに参加。
特に藤戸の戦いでは、源氏の軍を率いる佐々木盛綱と大将軍として対戦。
1185年、壇ノ浦の戦いにおいて敗北し、従兄弟の資盛や有盛とともに入水したとする説や、討死したとする説があります。
藤原季能の妻
平基盛の娘。平清盛の孫娘。
歌人でもあった夫・藤原季能とのあいだに、藤原範実という息子を産んでいます。
藤原季能は、後白河法皇の近臣だった人物です。
信基または時信(種子島信基)
紫式部の女系子孫。平行盛の息子。
信基または時信の名で知られる人で、種子島氏の初代とされる人物です。
種子島家の家譜によれば、鎌倉時代初期に、平清盛の孫・行盛の遺児が、北条時政の養子として時信と名乗り、種子島に移住したとされます。
この人が後に初代・種子島信基(平信基)として知られ、平氏の名を受け継いでいるのです。
信基は時政の手により、種子島を含む十二の島を授けられたと伝えられています。
六代(平高清)
紫式部の女系子孫。平維盛の息子。平清盛のひ孫
幼名は、平正盛から数えて六代目にあたるため、六代と名づけられました。
実名は高清。
1183年、平家が都落ちを決断した際、維盛は妻子を都に残して一門とともに西に逃れました。
六代は母とともに京都に潜伏していましたが、平家が滅亡した1185年、北条時政の捜索によって捕らえられました。
しかし命は助けられ、1189年に剃髪し、妙覚と号しました。
その後、六代を庇護していた文覚が流罪となった後、弟子の六代も捕らえられて処刑されたとされています。
しかし処刑されたという確かな資料がない為、本当に処刑されたかどうか定かではありません。
神奈川県逗子市桜山8丁目には、六代の墓とされる塚があります
清盛の嫡流は六代を最後に完全に絶えたことになります。
源智
紫式部の女系子孫。平師盛の息子。平清盛のひ孫。
勢観房源智は、鎌倉時代前期に活躍した浄土宗の僧侶で、賀茂上人とも称されています。
1195年、源智は13歳で、浄土宗の開祖・法然に弟子入り。
1238年、源智は功徳院で56歳で亡くなりました。
この功徳院は後に移転し、百万遍知恩寺となりました。
源在子
紫式部の女系子孫。後鳥羽上皇の妃。土御門上皇の母。
天皇家に、紫式部の血筋が引き継がれたきっかけとなった女性。
天皇家に紫式部の血が引きつがれた理由は、この源在子が後鳥羽上皇の子である土御門上皇を産んだためです。
父・能円は平清盛の正室(継室)だった平時子の異父弟。
母・範子は後鳥羽天皇の乳母。
1195年、在子が為仁親王(後の土御門天皇)を出産。
1211年、在子は出家。
1221年、承久の乱で後鳥羽上皇が北条義時に敗北した為、後鳥羽上皇も土御門上皇も配流されました。
承久の乱により在子の実家は没落し、苦しい生活を余儀なくされたといいます。
1242年、在子の孫・後嵯峨天皇が即位。
また、第一皇子でありながら生母の問題で皇位継承順位が低かった曾孫の宗尊親王を養育・後見。
1252年、在子は宗尊親王を最初の親王将軍(鎌倉幕府第6代将軍)として鎌倉に送り出しました。
1257年8月15日、在子は亡くなりました。享年87歳。
土御門上皇
紫式部の女系子孫。後鳥羽上皇と源在子の息子。後嵯峨天皇の父。
1198年、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で即位しました。
1221年、承久の乱の際には、土御門上皇は何も関与しておらず、そのため処罰の対象にはなりませんでした。
しかし、父である後鳥羽上皇が隠岐へ遠流となったのに、自分が京都にいるのは心苦しいと考え、自ら土佐国(香川県)に配流されることを申し出ました。
後に、より都に近い阿波国(徳島県)に移されました。
1231年、出家し、同月に崩御。享年37歳。
1242年、土御門上皇の皇子・邦仁王が後嵯峨天皇として即位し、その後も土御門上皇の子孫によって皇位継承が続きました。
そして現在の天皇陛下もまた、土御門上皇を通じて、紫式部の子孫にあたられます。
後嵯峨天皇
紫式部の女系子孫。土御門上皇の子。宗尊親王・後深草天皇・亀山天皇の父。
次の系統の治天の君を決めずに亡くなった為、約200年つづく、両統迭立から始まる南北朝の騒乱など、混乱の時代のきっかけをつくった人物。
承久の乱の前年に誕生。
困難な生活を余儀なくされ、20歳を超えても出家や元服が進まない中途半端な状態に置かれました。
1242年、天皇に即位。
1246年に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。
後深草天皇に対して、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を提案するなど、後嵯峨上皇は積極的に政治に関与。
1268年、出家して法皇となり、大覚寺に移りました。
1272年、崩御。享年53歳。
後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に指名し、治天の君(複数いる上皇の中でも最高権力者)を指名せずに崩御したことは、後の南北朝時代から後南朝時代にかけての日本史上200年以上にわたる大乱の原因となりました。
宗尊親王
紫式部の女系子孫。後嵯峨天皇の第一皇子。
宗尊親王は、鎌倉幕府6代将軍であり、皇族出身者として初めて征夷大将軍の地位に就いた人物です。
1252年にわずか11歳で鎌倉に迎えられ、弟である後深草天皇から征夷大将軍の宣下を受けました。
当時の幕府は既に北条氏による専制体制を確立していたため、将軍にはほとんど権限がありませんでした。
そのため、宗尊親王は和歌の創作に打ち込み、何度も歌会を催したといいます。
1266年、正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件を口実に、宗尊親王は謀反の嫌疑をかけられ、将軍の解任と京への送還が決定。
1272年、宗尊親王は出家。
1274年、33歳で亡くなりました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 平清盛の息子である平重盛・基盛は、紫式部の子孫にあたる
- 承久の乱で土佐国へ流罪となった土御門上皇や、その母・源在子も、紫式部の子孫
- 南北朝の動乱のきっかけをつくった後嵯峨天皇とその子・宗尊親王も、紫式部の子孫
以上となります。
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