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「千利休」と聞いて、まず最初に思い浮かぶのは「お茶の人」という方が多いのではないかと思います。
その「千利休」はどんな功績を残した人なのかというと、戦国時代の商人で、現代にも継承されている「侘び茶」(茶道)の作法を完成させた方です。
その「茶道」の流派が現在「表千家」「裏千家」「武者小路千家」と、3つに分かれていることから、3つまとめて「三千家(さんせんけ)」という名で呼ばれ、今も受け継がれ守られています。
それぞれの家の名前その由来ですが、利休から継いだ屋敷の表側に茶室があるから「表千家」と名付けられました。
「裏千家」は、その屋敷の裏側に隣接していることから「裏千家」と呼ばれています。
「武者小路千家」は京都「武者小路(所在地)」に茶室を構えたことから付けられました。
「千利休」とは、一体どんな人物だったのか、一緒に学んでいきましょう。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「千利休」とは、主に戦国時代に活躍した芸術家。「堺」出身の商人で、「侘び茶」という茶道の型を作り上げた「茶聖」と呼ばれる人物。
- 千利休の三人の「ひ孫」が、それぞれに「表千家」「裏千家」「武者小路千家」という家を起こし、それぞれの流派の茶道を今に伝えている。
- 千利休はただの「茶道家」「芸術家」というわけではなく、「豊臣秀吉」のブレーンを務めていた
「千利休」とはどんな人?何をして有名になった人なのか解説
「千利休」は和泉国・堺(現在の大阪府)の商人でした。
戦国時代と言えば、内乱が多く、どちらかと言えば「武士」が活躍してる時代なんじゃないの?と思いますよね。
その「武士」も、毎日毎日戦ばかりでは心は荒み、疲弊してしまいます。
そんな疲れ切った武士を慰めていたのが、「千利休」が作り上げた「侘び茶(わびちゃ)」なのではないでしょうか。
「侘び茶」とは何か。
「侘び茶とは、豪華なもの・派手なものを一切削ぎ落とし、茶室に招いた主人と招かれた客が、お互いを尊敬し合い驕らない気持ちで接する「おもてなし」の精神のこと」
「わびしい・さびしい気持ち」を大切にするお茶が「侘び茶」・・・と言っても良いかもしれません。
その静かで穏やかに過ごす時間を好んでいたのが、時の権力者である「織田信長」と「豊臣秀吉」でした。
「織田信長」は「侘び茶」をとても大切にしていました。
織田家が「堺」を直轄地にしていく過程で、その「織田信長」に召抱えられたうちの一人が「千利休」だったのです。
さらに「豊臣秀吉」の時代になると、秀吉や利休はますます「侘び茶」の完成に力を入れるようになっていきます。
そういった背景から、「武士の教養やたしなみ」として、茶道・侘茶は広まっていきました。
余談ではありますが、茶室には「刀」は持って入ることができませんでした。
その代わりに「茶室刀」と呼ばれる護身用の「木刀」(30センチ?55センチ程)の携帯は許されていたようです。
一切の武器の持ち込みを禁止して、争いを捨て、日常から離れた別空間を提供していたんですね。
子孫が守る「三千家」の由来!表・裏・武者小路とは?
現代でも続く「茶道」、それを支える名家「三千家(さんせんけ)」というのは、冒頭でもお伝えしたかと思います。
では、誰がどのようにこれらの家を築き、どのように守っていったのか。
それをわかりやすくご説明いたします。
そもそも「三千家」とは、「千利休」の三人の「ひ孫」たちが、それぞれに開いた家なのです。
【表千家(おもてせんけ)】
「千利休」を祖とする千家茶道の本家です。表千家を象徴する茶室は「不審庵(ふしんあん)」といいます。
「千利休」の孫である三代目当主「千宗旦(せんそうたん)」の三男「江岑宗左(こうしんそうさ)」は、父「千宗旦」が隠居すると言ったために、父の後を継ぎました。
なぜ三男が家を継いだのかと言いますと、長男と次男は家を出ていたので、家督を継ぐことができなかったのです。
【裏千家(うらせんけ)】
裏千家を象徴する茶室は「今日庵(こんにちあん)」といいます。
「千利休」の家督を継いだ本家の表千家(不審庵)に対して、「今日庵」が通りから見て裏にあるため「裏千家」と呼ばれています。
2つの地図を見比べて頂けるとわかって頂けると思いますが、「表千家(不審庵)」と、「裏千家(今日庵)」は、すぐ隣同士にあります。
「隠居する」という理由で息子に家督を継がせた後、隠居宣言をした父「千宗旦」は屋敷の裏に隠居所を作って、四男の「仙叟宗室(せんそうそうしつ)」とともに暮らし始めました。
ただ、まだこの時は「裏千家」は確立されていません。
父「千宗旦」が亡くなり、その隠居所を受け継いだ四男「仙叟宗室」から、「裏千家」という流派が誕生しました。
【武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)】
「武者小路千家」を象徴する茶室を「官休庵(かんきゅうあん)」といいます。
茶室の場所が、「京都市上京区」の「武者小路通り」にあるため、「武者小路千家」と名付けられました。
「千宗旦」の次男「一翁宗守(いちおうそうしゅ)」は、当初は家を出て「塗り師」の家へと養子に入っていました。
父「千宗旦」の晩年には、表千家を継いだ弟「江岑宗左」と共に行動しておりました。
その後、兄弟たちの勧めや年老いた自身の年齢のこともあり、お茶の世界に戻って開いたのが「武者小路千家」です。
三千家の家系図
離れて暮らしていた兄弟が家を守ろうと働きかけてくれたおかげで、今日のお茶の世界が守られているのですね。
念の為、以下に千利休の子孫たちを表す「家系図」をご用意いたしました。
よろしければお役立てくださいませ。
秀吉に殺された茶道の聖人「千利休」!実は秀吉の政策秘書だった!
「豊臣秀吉」は、もともと戦国大名「織田信長」に仕えていた戦国武将です。
信長が「本能寺の変」で亡くなったあと、後継者として天下統一を成し遂げたのが「豊臣秀吉」。秀吉が織田信長から受け継いだ政策のひとつに「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」という政策がありました。
この「茶の湯御政道」とは、家来の特別功労者に対してだけ「茶会を開催する許可・権利」を認めることです。
これは単なる「ティーパーティーではなく、手柄を立てた部下には、信長も秀吉も「自慢の茶道具コレクション」を与えていました。
この「茶会を開く権利」を与えられることは、大変に名誉なことでした。
そして「茶道具」はとてつもない価値があり、「茶碗一つで国ひとつと同じ価値がある」とまで言われたほど。
「織田四天王」の一人「滝川一益(たきがわ かずます)」は、褒美として茶道具を欲しがりましたがもらえず、広大な領地を与えられ悔しがった・・・と言われています。(「織田四天王」とは「丹羽長秀」「明智光秀」「柴田勝家」「滝川一益」の四名)
「茶会を開く権利を与える」だけでなく、高価な「茶道具」を与えるという、この褒美の与え方は「豊臣秀吉」自身の権力を世間に誇示するだけでなく、部下達のモチベーションにも関わってくることなので、とても重要で名誉なことであったと考えられます。
その茶会を実際に手掛けていたのが「千利休」です。現代でいうところのプロデューサーをしていたわけですね。
ここから「お茶の世界」と「政治の世界」が交わり出します。
【天正13年(1585年)】に開かれた「禁中茶会」では、天皇に献茶するため、千利休の身分を「町人」から格上げする必要がありました。
その時に天皇から賜ったのが「利休」という居士号(こじごう)です。(それまで「千宗易(せんそうえき)」と名乗っていたが、これ以後「千利休」と名乗るようになった)
以降「豊臣秀吉」が開く茶会、ひいては政治分野にまで「千利休」がかたわらにいて、秀吉を補佐していたそうです。
「豊臣秀吉」の弟「秀長(ひでなが)」が残した有名な言葉があります。
「公(おおやけ)のことは私(豊臣秀長)に、内々(うちうち・秘密事)のことは千利休に話すように」
これは千利休が、いかに秀吉から信頼されていたかが伝わるエピソードですね。
しかし千利休はその後、豊臣政権に深く関わりすぎたことが災いし、その身を滅ぼすことになります。
「千利休」は「豊臣秀吉」を激怒させてしまうわけですが、怒らせた理由がなんだったのかは諸説あり、詳しくはわかりません。(「朝鮮出兵に反対した」とか、「娘を秀吉に側室として求められたが断った」とか、「無価値な茶道具を高額で売りさばいたため」などなど諸説あります)
秀吉は千利休に対して「切腹」するように命令します。
「千利休」をお茶の先生と慕っていた「細川忠興」たち大名が、切腹を免れるように働きかけていましたが、叶うことはありませんでした。
【1591年4月21日】、町人としては異例の「切腹」という形で、茶聖「千利休」は壮絶な最期を遂げることになります。
『千利休』について「ひとこと」言いたい!
千利休という人について、「絶対音感ならぬ絶対美感のようなものを持っていた」という話をきいたことがあります。
「利休が選んだ品物は必ず美しいのです。どんな音でも違いを聞き分けることが出来る『絶対音感』という能力があるが、利休はそれに似た、いわゆる『絶対美感』とでもいうような感覚を持っていたのではないか」
そういえば、利休とその弟子「古田織部」の逸話の中に、「利休の絶対美感」を証明するようなお話があります。
あるとき利休が弟子たちに向けて、こう言いました。
「瀬田唐橋の『ぎぼし』に、見事な形のものが2つある。どれかわかりますか?」
と・・・。(「ぎぼし」とは橋の飾り。「たまねぎ」みたいな形の装飾)。
織部は即座に瀬田の唐橋へ行き、その2つがどれのことかを確認して利休へ報告。利休はそれを喜んだというお話です。
「ぎぼし」に見事な形のものがある・・・・。美しいものを見分ける「絶対美感」が無いと、気が付かないことですよね。
千利休がなぜ切腹したのか、その原因は今もはっきりとはわかっていません。
ただ、利休が秀吉を怒らせたという逸話がのこされています。
豊臣秀吉はとても派手好きで、茶を飲むにあたって「赤い茶碗」を好んで使っていました。
それに対して利休は「黒い茶碗」こそが真に美しいと考えていました。
秀吉は地味な「黒茶碗」を嫌っていたのです。
利休は秀吉の弟「豊臣秀長」に対して、こう言ったそうです。
「赤は雑なる心なり。黒は古き心なり」
黒こそが美しい・・・。そう考えていた芸術家「千利休」は、秀吉の美的センスのなさを嘆いたのかもしれません。それともセンスのない秀吉に抗議したのかも。
「黄金の茶室」やら「金びょうたん」やら派手好きな秀吉と、「侘び寂び」を好む利休とでは、まさに水と油。相性が悪かったことが、切腹の遠因となったのかもしれません。
ただ、「侘び寂び」を好む利休と、控えめな秀吉の弟「豊臣秀長」は相性が良かったらしく、秀長が亡くなるまで、利休はとても大切にされたと言われています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「千利休」とは、戦国時代の芸術家・茶道化。「侘び茶」という茶道の型を完成させた人。「茶聖」と呼ばれている
- 千利休の末裔たちが、それぞれに「表千家」「裏千家」「武者小路千家」という立地に由来する家を起こし、それぞれの茶道流派を今に伝えている。
- 千利休は「豊臣秀吉」から信頼され、そのブレーンを務めていた。最期は秀吉の怒りを買い、切腹を命じられて亡くなった。
以上となります。
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