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「卑弥呼(ひみこ)」と聞くと、ファッションに関心の高い人は「靴のブランド」を思い浮かべるかもしれません。
そのブランド名の由来となったのが、古代「邪馬台国」の女王「卑弥呼(ひみこ)」です。
卑弥呼は中国の歴史書『魏志倭人伝』の中に登場する「3世紀」の日本に生きた「女王」ですが、一説には「殺された」とも言われてている人物です。
この記事では、古代史にあまり詳しくないお方に向けて、謎の多い女王「卑弥呼」について、わかりやすく解説していきます。
この記事を読んで、「卑弥呼」についての疑問をスッキリと解消としてくださいね。
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この記事を短く言うと
- 「卑弥呼」の死因ははっきりしていない。「病死」という説もあるが、一説によると「日食」が続いたことが原因で「暗殺された」とも言われている
- 「卑弥呼」には「実在しなかったのではないか」という説がある。日本書紀や魏志倭人伝に「倭の女王」という記述があり、卑弥呼は実在した可能性が高いだろう
- 卑弥呼と天皇家の関係は、はっきりとはしていない。筆者個人の意見でしか無いが、卑弥呼は「天皇家の祖先」ではないだろうか
卑弥呼の死因はなに?殺害されたという説も・・・。
「卑弥呼」は3世紀の日本を生きて、「邪馬台国(やまたいこく)」という国を統治した、謎の多い女王です。
ではその女王「卑弥呼」の死因とは、いったい何だったのでしょうか?
卑弥呼が古代中国の記録「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場した際、かなり高齢だったとあるので、もしかすると何らかの病気か老衰かもしれません。
一方で、「卑弥呼は殺されたのではないか」とする説もあります。
卑弥呼の時代は、日本国内では「文字による記録」が残されていません。
しかし中国大陸と交流があったため、「三国志」でおなじみの国「魏(ぎ)」について書かれた歴史書『魏志』の中にある『東夷伝倭人条』(略して『魏志倭人伝』と言います)の中に、「卑弥呼とその死について記述」があります。
中国の歴史書のなかに、日本に関する記述が出るのはこれが初めてなのです。
【247年】、邪馬台国の使者が狗奴国(くなこく)との紛争を魏へ報告しに来た記述があります。
その記述によれば、「狗奴国」の男王と「卑弥呼」は、狗奴国との争いの報告を魏に行い、魏は使者を送り返して「邪馬台国」を諭(さと)しました。
その記述に続いて「卑弥呼が亡くなったので、大きな墓を作った、奴婢が殉葬された」とあるのです。
これだけでは「卑弥呼が亡くなったこと」はわかっても、何故亡くなったのかはわかりません。
卑弥呼が高齢だったのであれば、病気か老衰で亡くなったのかもしれません。
あるいは、「狗奴国」との争いの中で戦死したのかもしれませんし、もしかしたら、魏の使者を怒らせて殺されたのかもしれません。
『魏志倭人伝』の記述があっさりとしているので、これだけでは何とも判断できないですよね。
しかし「卑弥呼は殺害された」という説が近年有力になってきました。
その理由は「太陽」にあります。
現代の天文学者が「古代の日食」を計算したところ、「卑弥呼」が亡くなったと考えられる頃、日本で「2度」も日食が発生しているのです。
1度目は【247年3月24日夕方】
2度目が【248年9月5日朝】に発生しています。
「部分日食」だったそうですが、古代世界に生きる人たちにとって、それは恐ろしい出来事だったはずです。
『魏志倭人伝』の中に「卑弥呼は鬼道で衆を惑わす」とあります。
おそらく卑弥呼は、巫女(シャーマン)のような女王として邪馬台国に君臨し、国を統治していたのだと思います。
古代エジプトの最高神は「太陽神ラー」。日本の神道でも、最高神は「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」で、太陽神です。
古代世界において、すべての命の源と信じられ、神と崇められたのが「太陽」だったことを考えれば、卑弥呼も太陽に使える巫女(シャーマン)だったと考えるのが自然です。
そんな太陽に使える卑弥呼の治める国で、立て続けに「日食」が起きたら、古代の邪馬台国の人々はどう思ったでしょう?
恐らく「女王の力が弱まったからこんな恐ろしいことが起こるのだ」と考えたのではないでしょうか。
「卑弥呼の力が落ちた」と考えた人たちによって、【248年9月】の日食の後、神の怒りを鎮めるための生贄として「卑弥呼」は殺害されたのではないか・・・・と私は思います。
卑弥呼は実在したのか?架空の人物だった説あり。
『日本書紀』と『古事記』に「邪馬台国」と「卑弥呼」についての明確な記載がないことから
「卑弥呼は架空の人物で実在しなかった」
と考える人もいます。
『日本書紀』には「神功皇后」の項には、注釈でひっそりと「魏志倭人伝に『倭の女王が帯方郡(朝鮮半島)へ使いを送った』と記されている」と書かれています。
『日本書紀』が書かれた頃、それを書いていた人達が「中国の歴史書」を読んでいたことが窺えます。
実在を疑う人たちの主張は『注釈として載せるくらいなら、邪馬台国や卑弥呼について明確に記載するはず』というものです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
それは『日本書紀』『古事記』が、誰の命令によって書かれたものか・・・・ということです。
この2冊の歴史書は、7世紀に「天武天皇(大海人皇子)」によって編纂が命じられ、『古事記』が【712年】に、『日本書紀』が【720年】に完成したものです。
当時の朝廷にとって、古代の天皇家と直接つながりがあるかどうかがわからなかった「邪馬台国と卑弥呼」の存在について、明確に記載することは、自分たちの政権の正統性にとって都合の悪いこととみなされ、黙殺されたとも考えられます。
文字に残された歴史は、「勝者が記録した歴史」なのです。
『日本書紀』で蘇我氏について「馬子・蝦夷・入鹿」と書き、名前をおとしめているのを見ればわかりますが、それは「乙巳の変」に勝利した側がそのように記録し、自分たちに正統性を持たせているからです。
都合の悪いことは歪曲され、黙殺されているかもしれない・・・・という視点を失ってはならないのです。
いずれにせよ、中国の歴史書に「倭の女王」として名前を残している以上、古代日本に「邪馬台国」と記される国と、「卑弥呼」と記された女王が実在したと考えるほうが素直だと私は思います。
現在「卑弥呼の墓ではないか」と考えられている古墳はいくつかあります。
代表的なものを2つあげます・
奈良の「箸墓古墳(はしはかこふん)」は最初期の前方後円墳ですが、卑弥呼が亡くなったと考えられる時期より築造が新しく、円墳部分の規模が『魏志倭人伝』に書かれた卑弥呼の墓の規模より大きくなっています。
福岡の「祇園山古墳」は築造時期が卑弥呼の亡くなった時期とほぼ同じころであり、『魏志倭人伝』の記載と墓の規模と形状が一致することから、卑弥呼の墓ではないかと・・・考えられていますが、石室の副葬品が盗掘されているため、決定的な証拠にかけています。
卑弥呼の墓がどの古墳かを決定することは、「邪馬台国がどこにあったのか」を決めることでもあります。
邪馬台国の場所については、「九州の北部」と「奈良」とで、学会が二分されていましたが、最近は奈良の「纏向遺跡(ましむくいせき)」の発掘により、「奈良」説が優勢になっています。
卑弥呼と天皇家はどういう関係なのか?
「卑弥呼」と「天皇家」はどういう関係なのでしょうか?
私個人は「卑弥呼は天皇家の遠い祖先の一人ではないか」と考えています。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が亡くなったあとに男性が邪馬台国の王となりました。しかしそれが原因となって倭国で争乱が起き、卑弥呼の姪「トヨ(壱与)」が即位し、争いがおさまった・・・とあります。
この記述から「この争乱が古代の皇位継承権争いだったのではないか」と考えている人もいます。
しかし、卑弥呼の時代の古代日本は『魏志倭人伝』しか文字資料が残されていないので、どうしても決定的な証拠が不足しています。
『古事記』には、古代日本で言い伝えられた出来事がまとめられ、『日本書紀』には記録に残されていたことがまとめられていますが、これらの記録はあくまでも勝者によって記録されたもの・・・つまり「勝者の歴史」であるとして、考える必要はあります。
その必要性を考慮したうえで、『古事記』で「卑弥呼」に類似した特徴を持つ伝承があるか否かを考えると、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が連想されます。
天照大御神は弟の「須佐之男命(スサノオノミコト)」が暴れて他の神々に迷惑をかけるのを怒り、「天岩戸(あまのいわど)」にこもってしまいました。
そのため世の中が真っ暗になってしまい、困り果てた神々は相談。岩戸の前で宴会を開き、楽しそうに振舞って、いぶかしんで顔を覗かせた「天照大御神」を岩戸から引きずりだします。
天照が天岩戸から出てきてくれたおかげで、世は再び光であふれるようになりました。
なんだか、「日食」を思わせるようなエピソードですね。
「日食」と言えば、卑弥呼の晩年に2度ありました。
卑弥呼の時代に起きた日食後に卑弥呼が亡くなり、国が乱れた。そのあと、卑弥呼の姪「トヨ」が女王となって国が安定した・・・・その出来事が代々言い伝えられたのではないでしょうか?
そして『古事記』に天照大御神のエピソードとして取り入れられたのかもしれません。
天照大御神は、現在の天皇家の祖先と言われています。
そのエピソードの元になったかもしれない卑弥呼は「天皇家の遠い祖先かもしれない」と私は思います。
『卑弥呼』について「ひとこと」言いたい!
現在『「邪馬台国」があった場所は奈良県の「纏向遺跡」ではないか』という説が有力になっています。
「纏向遺跡」は、「箸墓古墳」を卑弥呼の墓だと考える人たちにとっては追い風となった存在です。箸墓古墳が宮内庁によって倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に比定(ひてい・もっとも適当であるという意味)されています。
宮内庁が発掘調査を許可し、箸墓古墳内から何か決定的な証拠が出てくるか、あるいは「纏向遺跡」の発掘で何か決定的な証拠でも出てこない限り、「邪馬台国」の場所が決定付けられることはないのではないか・・・と思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「卑弥呼」の死因は、一説によると「日食」が続いたことが原因で「暗殺された」とも言われている
- 「卑弥呼」には「実在しなかった」という説があるものの、「魏志倭人伝」に「倭の女王」という記述があるため、実在した可能性が高い
- 卑弥呼と天皇家の関係について。おそらく、卑弥呼は「天皇家の祖先」。
この記事を短くまとめると、以下の通り
「卑弥呼」は3世紀の日本に生きた女性政治家で、「邪馬台国」の女王でした。
おそらく巫女(シャーマン)として邪馬台国を治め、君臨していたのではないかと思います。
そんな卑弥呼は『魏志倭人伝』の時代、相当高齢であったようですが、一説によれば「殺された」とも言われています。
もし殺害されたのだとしたら、卑弥呼の晩年に2度あった「日食」がきっかけになったかもしれません。
現在「卑弥呼の墓」と言われているもので有力なものは、奈良の「箸墓古墳」と福岡の「祇園山古墳」です。
ただし古代日本には文字資料がなく、決定的な証拠は今後も得られない可能性が高いです。
「卑弥呼」は謎の多い女王です。
これからもミステリアスな存在として、歴史好きのロマンをかきたて続けるでしょう。
以上となります。
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