皆さんは関ヶ原の戦いを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 石田三成が勝利していたら、徳川家は領地削減されていた
- 西軍勝利で豊臣家滅亡は避けられたが、戦国時代はもっと続いただろう
- 戦国時代がもっと続いた結果、豊臣家は弱体化し、伊達政宗のような野心的で強力な大名によって天下を奪われていただろう
この記事では【関ヶ原の戦いで、もしも石田三成たち西軍が勝利していたら】を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は関ヶ原の戦いについて、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、関ヶ原の戦いに詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
関ヶ原の戦いで西軍・石田三成が勝っていたら、歴史はどうなっていたのか?
西軍勝利の歴史をザッと予想
関ヶ原の戦いで、もしも石田三成たち西軍が勝利していたら、徳川幕府の誕生はありませんでした。
豊臣家が徳川家康によって滅亡させられることもありません。
しかし豊臣秀頼と石田三成に、江戸幕府が実現したような、260年もの平和な時代が実現できたとは思えません。
室町幕府は、足利尊氏によって誕生した直後から、【南北朝の動乱】や【応仁の乱】などで、長く混乱が続きました。
おそらく豊臣政権も、室町幕府のように各地で戦乱が起こって混乱を極め、平和な時代を実現することができなかったと考えられます。
京都・大坂には豊臣家という天下人が存在するものの、誰も豊臣家の命令に従わず、各地で戦乱が起こっていたのではないでしょうか。
まさに戦国時代に逆戻りというわけです。
その後の正確な予想は難しいですが、もしかすると、伊達政宗などの野心的な大名が、豊臣家の混乱に乗じて天下を奪い取っていたかもしれません。
西軍勝利のシナリオ!小早川秀秋・吉川広家の参戦
小早川秀秋が西軍・石田三成に味方して参戦していたら、西軍は勝利していた可能性が高いです。
なぜなら、小早川秀秋が参戦するまで、東軍と西軍の戦いは互角だったためです。
小早川秀秋の軍団15000人が、西軍に味方していたら、東軍は苦戦していたでしょう。
何より、小早川秀秋が参戦していたら、南宮山に布陣していた毛利軍と吉川広家の軍団も、東軍・徳川家康軍に背後から襲いかかっていたはずです。
そうなると、西軍は東軍をぐるりと包囲する形になり、一方的な情勢になります。
そうなると、もはや東軍に勝ち目があるとは思えません。
ちなみに、西軍が勝利していたら、小早川秀秋は豊臣秀頼が成人するまでの間、関白に就任していたといわれています。
もしも小早川秀秋が関白になっていたら、大谷吉継に呪い殺されることもなかったかもしれません。
もちろん、実際に小早川秀秋が呪いで亡くなったわけではありませんが。
→→→→→【小早川秀秋の死因と最期の様子】についてくわしくはこちら
豊臣秀頼・毛利輝元の出陣!東軍が崩壊
もしも関ヶ原の戦いで、東軍が敗北していたら、大坂城で動かなかった豊臣秀頼と毛利輝元が出陣していたはずです。
そうなれば、東軍は崩壊して、福島正則たち豊臣家に縁のある大名たちは、西軍に寝返っていたでしょう。
孤立無縁となった徳川家康の軍団には、もはや西軍・石田三成の軍団と戦える力はありません。
しかし、この関ヶ原の戦いで、徳川家康が戦死していたかというと、それは無いと考えられます。
家康は生き延びて、徳川家存続を図ることになるでしょう。
もし石田三成が勝利したら、徳川家康は戦死していたのか?
徳川家康は戦死しなかった
西軍が勝利していたとしても、家康が戦死した可能性は低いと考えられます。
その理由は簡単で、戦の経験が豊富だった徳川家康が、小早川秀秋・吉川広家の猛攻で敗色濃厚となったときに、撤退をしないはずがないからです。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗北した家康は、撤退が遅れて、夏目吉信たち多くの家臣を失っています。
その教訓を生かして、家康は迅速に撤退。
実際に、西軍の事実上の総大将だった石田三成も、一時的にですが撤退に成功しています。
名城・岐阜城へ撤退して、大垣城を本拠地とする西軍と睨み合いをするでしょう。
もし万が一、徳川家康が戦死していたら、徳川家は滅亡していたでしょう。
中山道を進んでいた徳川秀忠には、対抗することなどできませんので、徳川家は取り潰されていたとはずです。
徳川家のその後!家康は引退して領地縮小
岐阜城へ撤退した家康は、西軍・毛利輝元を相手に、必死の講話交渉をしていたでしょう。
東軍の武将たちは、あらかた西軍に降伏し、家康も岐阜城を支えきれずに江戸へ撤退していたと考えられます。
家康には、真田昌幸・信繁親子によって足止めされていた徳川秀忠軍38000人が、ほぼ無傷で残されていました。
そのため、東軍が崩壊しても、岐阜城に籠城して生き残ることはできたはずなのです。
西軍にも徳川軍との全面戦争はしたくないと思っていたはずです。
8万人近い徳川軍を相手に、正面から戦う余力はなかったはずなので、徳川家の存続を認めるはずです。
250万石あった領地は、おそらく30〜40万石へ削減。
実際に、関ヶ原の戦いで敗北した毛利輝元や上杉景勝は、120万石あった領地を30〜40万石に削減されています。
徳川家康は隠居させられ、秀忠が新しい当主となって、徳川家は存続。
失意の家康は、史実通りの1616年を待たず、もっと早くに病死していたでしょう。
史実では家康は胃ガンで亡くなる前、この世に残していく人々に対して、思いやりのある辞世の句を残して亡くなっています。
しかし関ヶ原の戦いで敗北していたら、そんな余裕はなかったでしょう。
→→→→→【徳川家康の最期と辞世の句】についてくわしくはこちら
石田三成が勝利して豊臣政権が続いたら?
内乱が頻発!平和な時代は来なかった
もしも豊臣政権が続いていたら、江戸幕府が実現したような、平和な時代はなかったはずです。
内乱が頻繁に起こり、各地の戦国大名がいうことを聞かず、また戦国時代に逆戻りした可能性すらあったと考えられます。
徳川家があれほど長く平和を維持できたのは、巨大な領地を持つ外様大名を、国の政治に参加させず、あらゆる方法で外様大名に経済負担を負わせたからです。
しかし、譜代大名がいない豊臣家にそんな芸当は出来るはずもないので、家臣たちが力を持ちすぎて、戦乱が頻発していた可能性が高いでしょう。
いくら石田三成たちが政治の天才でも、平和を維持できる力が豊臣家にあったとは思えないです。
豊臣家弱体化!長続きしない平和
各地で内戦が頻発していた豊臣家の権威は失われ、天下を維持できずに弱体化。
そのうち、伊達政宗のような野心的な大名が登場して、豊臣家は滅亡していたでしょう。
滅亡しなくても、足利義昭のように、没落していたかもしれません。
室町幕府は、織田信長という強力な大名を後ろ盾にして一時的に再興したものの、信長と対立して滅亡しました。
おそらく弱体化した豊臣家も、強力な大名を後ろ盾に、一時的に息を吹き返し、乗っ取られたと考えられます。
つまり簡単にいえば、西軍が勝利していた場合、【戦国時代の延長戦】が行われていたということです。
豊臣家は長くても100年くらい何代かは続いたかもしれません。
しかしその後は、やはり滅亡という運命は避けられなかったと考えられます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 西軍が勝利していたら、徳川家は領地削減されていた
- 西軍勝利で豊臣家滅亡は避けられたが、戦国時代はもっと続いただろう
- 戦国時代がもっと続いた結果、豊臣家は弱体化し、伊達政宗のような野心的で強力な大名によって天下を奪われていただろう
以上となります。
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