石田三成の子孫が現在誰なのか、ご存知でしょうか。
「関ヶ原の敗将」として処刑されたイメージが強い三成ですが、その血筋は意外なほど広く、深く、現代へと受け継がれています。
今の天皇陛下もそのひとりだというから、歴史の奥深さに驚かされます。
私がこの石田三成という人物に強く惹かれる理由のひとつが、まさにこの「子孫の話」です。
敵将・徳川家康に命を奪われるどころか、子供たちが全員生き延びたという事実は、三成と家康の関係が私たちが想像するよりも、はるかに複雑で深いものだったことを示しています。
「憎き敵」と「守るべき相手」が、同一人物のなかで共存していた。そのような人間的な矛盾こそが、戦国時代の魅力だと私は思います。
- 今の天皇陛下が石田三成の子孫にあたる驚きの家系図
- 三成の三男三女が関ヶ原後も全員命を救われた理由
- 石田三成と徳川家康は実は仲が良かったという新説
- 津軽藩・実業家・歴史研究家へと続く子孫の現在
石田三成の子孫【家系図と現在】
石田三成の家系図を見ると、その血筋が現代に至るまでいかに広く受け継がれているかがわかります。まずは三成のプロフィールと家系図から確認しましょう。
石田三成のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 石田三成(いしだみつなり) |
| 幼名 | 佐吉(さきち) |
| 生年 | 1560年 |
| 没年 | 1600年11月6日(慶長5年10月1日)享年41歳 |
| 墓所 | 京都・大徳寺三玄院 |
| 官位 | 従五位下・治部少輔 |
| 主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
| 居城 | 佐和山城(19万4000石) |
| 家臣 | 島左近・蒲生頼郷 |
| 愛刀 | 石田正宗(別名・無銘正宗)・ささのつゆ・切刃貞宗 |
| 子 | 重家・重成・佐吉・山田勝重の妻・小石殿・辰姫 |
石田三成は、石田村という地を支配していた地侍の次男として生まれ、お寺へ修行に出されていたところを豊臣秀吉に見出されました。その後、豊臣政権の屋台骨を支える五奉行のひとりとして、天下統一に貢献した人物です。
石田三成の子孫の現在は?天皇陛下から実業家まで

画像の引用等ご遠慮くださいませ
天皇陛下
石田三成の子孫としてもっとも有名なのは、現在の天皇陛下です。
今上天皇陛下は、石田三成の子孫にあたります。同時に、豊臣秀吉の姉・お市の方、浅井長政の子孫でもあります。石田三成の娘・小石殿の孫娘・お振の方が、3代将軍・徳川家光の側室となったことが、その血筋のつながりの起点です。
つまり石田三成の曾孫が、徳川家康の孫・徳川家光の側室になったということです。お振の方は徳川家光の娘・千代姫を出産。千代姫の血筋が公家を通じて大正天皇の皇后へ受け継がれ、昭和天皇を経て、現在の天皇陛下へとつながっています。
天皇陛下は、石田三成や徳川家康、そして豊臣秀吉の姉の子孫でもあるのです。かつての戦国の覇権争いで激突した人物たちの血が、現代の皇室に融合している。この事実は、歴史の「その後」を想像するうえで、何とも感慨深いものがあります。
歴史研究家・白川亨
実業家として活躍したのち、歴史研究家としても活動された白川亨さんも、石田三成の子孫として有名です。石田三成の次男・石田重成の血を引いておられます。残念ながら白川亨さんは2012年にお亡くなりになられました。
白川亨さんは石田三成について、以下の著書を残しておられます。
- 石田三成の生涯
- 石田三成とその一族
- 石田三成とその子孫
- 真説石田三成の生涯
石田三成の次男・重成は、関ヶ原の戦いの後、津軽藩にかくまわれています。その後は【杉山】と姓を変え、津軽藩の忍者集団・早道之者の棟梁となっています。
実業家・杉山丕
石田三成の子孫・杉山家の現在15代目当主・杉山丕さんは、企画集団「ぷりずむ」の取締役をつとめておられます。石田三成の次男・石田重成の子孫が、代々津軽藩の家老職をつとめており、杉山家はその流れを汲んでいます。
石田重成の子・杉山吉成は、【1669年】に蝦夷地(北海道)で起こった【シャクシャインの戦い】に侍大将として参戦。早道之者はその後も蝦夷地の監視などの役割を果たして活躍しました。
その他の子孫たち
- 石田秀雄さん(三成長男・重家の子孫)
- 石田館・妙高ホテルの経営者(重家子孫との説)
- 岩崎弥太郎の孫たち(三菱グループ創業者の縁)
- 雅楽頭酒井家(徳川重臣家への血脈)
- 尾張徳川家7代藩主・徳川宗春
石田秀雄さんは、【2017年】公開の映画「関ヶ原」のイベントに登場。徳川家康・小早川秀秋・大谷吉継など関ヶ原に参戦した武将たちの子孫と交流されています。また岩崎弥太郎の息子・岩崎久弥が、三成の子孫である寧子さんと結婚し6人の子をもうけたといいます。
尾張徳川家7代藩主・徳川宗春は、米将軍と呼ばれた8代将軍・徳川吉宗の天敵です。吉宗が増税と質素倹約で財政再建を目指した一方、宗春は増税をせず派手に金を使うよう領民に指示しました。名古屋が全国的に「派手好き」といわれる気質の源泉は、この徳川宗春にあるのだと私は思っています。三成の血が、江戸文化の多様性を生み出したと思うと、歴史の面白さを改めて感じます。
石田三成の子供たち【三男三女の運命】
石田三成には正室との間に、三男三女、合計6名の子がいたといわれています。これ以外にも側室が産んだ子がいたといいますが、定かではありません。関ヶ原後の彼らの運命は、それぞれに波乱万丈でした。

長男・重家
石田三成の長男・重家は、関ヶ原の前年【1599年】、大坂城で徳川家康からとても可愛がられていました。重家の「家」の一字は、家康から授かったものという説もあります。
【1600年】、父・三成が関ヶ原に敗北すると、重家は京都・妙心寺へ逃げ込み出家。家康は出家した重家を処罰しませんでした。重家はその後、なんと100歳前後まで生きたといわれています。99歳または101歳という説が有力です。
次男・重成
石田三成の次男・重成は、豊臣秀頼の小姓として仕えていました。関ヶ原で父が敗れると大坂から逃亡。津軽信建の助けにより、津軽家の貿易ルートを使って若狭国(福井県西部)から津軽(青森県西部)へ逃れたといわれています。
重成はその後【杉山源吾】または【杉山八兵衛】と名を変えて津軽家に仕え、その長男・杉山吉成は弘前藩主の娘を妻として家老に就任。津軽藩の忍者集団・早道之者を統率しました。幕府は杉山吉成が石田三成の孫であることを知りながら、これを黙認していたのです。
三男・佐吉(深長坊清幽)
石田三成の三男・佐吉は、関ヶ原後に徳川家康によって直接命を救われました。佐和山城が降伏開城の約束を破った徳川軍に攻撃された際、家臣・津田清幽が敵兵を人質に取って包囲を突破し、家康に直接訴えたのです。家康はこれを聞いて石田佐吉と少年11名を助命しました。
その後出家した佐吉は、師・木食応其から命の恩人・津田清幽の名をとった「清幽」の法名を授かり、深長坊清幽と名乗ります。甲斐(山梨県)の河浦山薬王寺16世住職となりました。この話を読むたびに、家康が三成の子供たちを本当に「守った」のだと実感します。処刑された父の子を、わざわざ直接助命する必要などなかったのに、家康はそうしたのです。
長女・吹殿(山田勝重の妻)
石田三成の長女・吹殿は、山田勝重の妻となりました。本名は不明で、通称「吹殿」と呼ばれていました。夫・山田勝重は関ヶ原後、叔母・茶阿局(家康の側室)を頼って松平忠輝の家老となります。その後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から領地をもらい、江戸で暮らしたといわれています。
次女・小石殿(天皇陛下のご先祖)
石田三成の次女・小石殿は、現在の天皇陛下のご先祖にあたります。名将・蒲生氏郷の子・蒲生秀行の家臣・岡重政に嫁ぎ、岡吉右衛門を産みました。その後の複雑な縁によりお振の方という娘が生まれ、お振の方が徳川家光の側室となって千代姫を出産。その血筋が二条家・九条家を経て大正天皇の皇后・貞明皇后へつながり、現在の天皇陛下へと続いています。
三女・辰姫(大舘御前)
石田三成の三女・辰姫は豊臣秀吉の正室・北政所の養女となり、津軽藩2代藩主・津軽信枚に嫁いで3代藩主・津軽信義を産みました。関ヶ原後は兄・重成とともに津軽へ逃亡。【1610年】に津軽信枚の正室として嫁ぎましたが、徳川家康の姪・満天姫が正室に就くと側室へ格下げされています。
それでも夫・信枚との関係は良好なままで、側室となった辰姫の産んだ信義が3代藩主に就任しました。辰姫は【1623年】、享年32歳で大舘(現・群馬県)で亡くなっています。
この辰姫の生涯は、戦国の女性の宿命をそのまま体現しているように感じます。父は処刑され、正室の座を奪われ、32歳の若さで逝く。しかしその子が藩主となり、石田三成の血は津軽の地で脈々と受け継がれていきました。逆境の中で子孫を守り抜いた辰姫の生き様は、西郷隆盛が薩摩の民のために命を捧げた姿勢に通じる、静かな強さを感じさせます。
石田三成の子孫が生き残った理由【家康との深い絆】
なぜ石田三成の子供たちは全員生き延びることができたのでしょうか。その背景には、津軽家との特別な縁と、三成・家康の意外な関係が隠れています。
津軽為信が三成の子を匿った理由
- 津軽当主・津軽為信が、石田三成と親しい間柄だった
- 石田三成と徳川家康が仲良かったため、三成の子をかくまっても問題なかった
津軽為信は、かつて主君・南部家を裏切って独立した人物です。豊臣秀吉の惣無事令に違反しかねないこの行為は、石田三成の仲介なくしては許されなかったと考えられています。三成は津軽信建の元服(成人)の際に烏帽子親となり、津軽家を豊臣政権の信任のもとに守り続けました。この恩義があったからこそ、為信は関ヶ原後に三成の子供たちをかくまったのです。

三成が親しくしていた大名として、小西行長・津軽為信・真田信幸・大谷吉継・直江兼続などが知られています。また三成を生け捕りにした田中吉政とも親友だったといわれており、三成の人間的な魅力を物語っています。
石田三成と徳川家康は、実は仲が良かった
犬猿の仲だといわれていた石田三成と徳川家康ですが、近年の研究では2人の間に深い信頼関係があったと考えられています。その根拠として、以下の4つのエピソードが挙げられます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
| エピソード | 意味 |
|---|---|
| 重家の「家」の一字は家康から授かった説 | 名の一字を与えることは相当な親密さの証 |
| 七将襲撃事件で家康が三成を救った | 敵なら助ける必要はない |
| 三成は大谷吉継に三日三晩説得されて参戦した | 本来、三成は家康と戦う意思がなかった |
| 関ヶ原の首謀者は三大老(毛利・上杉・宇喜田)説 | 三成は担がれた側だった可能性が高い |
特に注目すべきは「三成は説得した側ではなく、説得された側だった」という逆説です。通説では三成が吉継を自城に呼んで説得したとされていますが、説得しに行く側が相手の城へ出向くのが筋。三成が吉継を「自城に呼んだ」ということは、逆に三成が吉継から説得を受けたと考える方が自然です。
つまり三成は、三日三晩かけて「家康と戦いたくない」と主張し続けたのでしょう。この解釈が正しければ、関ヶ原は「三成が仕掛けた戦い」ではなく「三成が引き込まれた戦い」だったことになります。私はこの説を知ったとき、三成という人物への見方が根底から変わりました。
大河ドラマで見る石田三成と家康の関係
この三成と家康の複雑な関係は、大河ドラマでも幾度となく描かれてきました。私が特に印象深いのは1996年放送の大河ドラマ「秀吉」です。竹中直人さん演じる豊臣秀吉を中心に、現在はハリウッドで活躍しておられる俳優の真田広之さん演じる石田三成の忠誠心と、複雑な立ち位置が丁寧に描かれており、単なる「悪役」ではない三成の人間味が伝わってきました。また渡哲也さん演じる織田信長の存在感が圧倒的で、秀吉・三成という主従の絆がより鮮明に見えた名作です。
また2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成と徳川家康の関係性が新解釈でたっぷり描かれ、「敵対しながらも互いを認め合う二人」という側面が印象的でした。史実で語られる「三成と家康の仲の良さ」が映像で確かめられる貴重な機会でした。出会いのシーンは特に印象的でした。共に星を眺めながら「気が合いますな」と、二人仲良く星座を探す姿は、新しい二人の様子が描かれていました。大河ドラマでこの時代を映像で追うと、文字だけでは伝わらない武将たちの感情が生き生きと伝わってきます。
石田三成の孫・津軽藩3代藩主
石田三成の娘・辰姫が津軽藩2代藩主・津軽信枚に嫁いで産んだ子が、3代藩主・津軽信義です。三成の孫にあたるこの信義から始まり、10代・津軽信順まで、津軽藩主の血脈は石田三成に連なります。
家老・杉山家にも三成の血は受け継がれており、徳川幕府はそれを知りながら黙認していました。このことは三成と家康の関係が良好だったことをあらためて示しています。権力者が「敵の血脈」を代々黙認し続けるというのは、よほど特別な事情がなければありえないことだと私は思います。
石田三成の子孫と小早川秀秋の子孫は現代で和解した
【2017年】の映画「関ヶ原」公開に際して、三成の子孫・石田秀雄さん、小早川秀秋の子孫・小早川隆治さん、大谷吉継の子孫・大谷裕通さん、徳川家康の子孫・徳川恒孝さんらが一堂に会しました。
石田秀雄さんは小早川秀秋の子孫への遺恨などないことを伝え、小早川さんは「秀秋は最初から家康側だったという説」に言及されたといいます。子孫同士が400年越しに対話し、互いの先祖の真実を語り合う。この光景は、歴史が単なる過去の出来事ではなく、現代まで生き続けていることを実感させてくれます。
まとめ
- 石田三成の子孫には現在の天皇陛下がおられる(次女・小石殿→お振の方→徳川家光側室→千代姫の血脈)
- 三成の三男三女は関ヶ原の戦い後、全員が命を救われている
- 三成と徳川家康は犬猿の仲どころか、深い信頼関係があったと近年では考えられている
- 津軽藩(弘前藩)の藩主・家老に三成の血筋が受け継がれ、幕府も黙認していた
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