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石田三成の子孫の現在は?有名人は皇室の今上天皇!【家系図付き】

皆さんは【石田三成の子孫がいったい誰で、現在どこで何をしているのか】を、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 今の日本の天皇陛下は、石田三成の子孫にあたる
  2. 三成の3男3女は、関ヶ原の戦いのあと、全員が命を救われている
  3. 三成と徳川家康は、仲が悪かったどころか、とても仲が良かった

この記事では石田三成の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は石田三成の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、石田三成の子孫に詳しくなれます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

石田三成の【家系図】

石田三成の家系図をご用意いたしました。

三成の家系図

1つ目の家系図は、石田三成と現代の子孫のつながりです。

石田三成の家系図
画像の引用等ご遠慮くださいませ

石田三成のプロフィール

石田三成
引用元ウィキペディアより

【名前】石田三成いしだみつなり

【幼名】佐吉さきち

【生年】1560年

【没年月日】1600年11月6日(旧暦・慶長けいちょう5年10月1日)

【享年】41歳

【墓所】京都・大徳寺三玄院だいとくじさんげんいん
【官位】従五位下じゅごいのげ治部少輔じぶしょうゆう

【主君】豊臣秀吉とよとみひでよし→豊臣秀頼ひでより

【父】石田正継まさつぐ

【母】瑞岳院ずいがくいん

【妻】皎月院こうげついん

【兄妹】弥治郎やじろう・石田正澄まさずみ福原長堯ふくはらながたかの妻

【子】重家しげいえ重成しげなり・佐吉・山田勝重やまだかつしげの妻・小石殿こいしどの辰姫ふりひめ

【居城】佐和山城さわやまじょう(19万4000石)

【家臣】島左近しまさこん蒲生頼郷がもうよりさと

【愛刀】石田正宗いしだまさむね(別名・無銘正宗むめいまさむね)・ささのつゆ・切刃貞宗きりはさだむね

石田三成は、石田村という地を支配していた地侍の次男として生まれました。

そして、お寺へ修行に出されていたところを秀吉に見出されたのです。


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石田三成の子孫の現在は?

天皇陛下

石田三成の子孫としてもっとも有名なのは現在の天皇陛下です

今上天皇陛下きんじょうてんのうへいかは、石田三成の子孫なのです。

天皇陛下は、豊臣秀吉の姉、おいちの方、浅井長政あざいながまさの子孫でもあります。

下にある家系図をご覧いただけるとわかると思いますが、石田三成の娘・小石殿こいしどのの孫娘・おふりの方が、3代将軍・徳川家光の側室なのです。

徳川家光
引用元ウィキペディアより

つまり、石田三成の曾孫ひまごが、徳川家康の孫の徳川家光の側室になったということです。

お振の方は、徳川家光の娘である千代姫ちよひめを出産。

千代姫からすると、徳川家康は曽祖父そうそふつまり父の祖父にあたります

同時に石田三成は、高祖父こうそふつまり祖父の祖父にあたるのです。

その千代姫の子孫が公家を通じて、大正天皇の皇后へ受け継がれて、昭和天皇を出産。

昭和天皇から、現在の天皇陛下に、石田三成の血筋が通じているというわけです。

同時に徳川家康の血筋も、天皇陛下につながっています。

そのため天皇陛下は、石田三成や徳川家康そして豊臣秀吉の姉の子孫でもあるです。

歴史研究家・白川亨しらかわとおる

実業家として活躍したのち、歴史研究家としても活動された白川亨さんも、石田三成の子孫として有名です。

石田三成の次男・石田重成しげなりの血を引いておられます。

残念ながら白川亨さんは、2012年にお亡くなりになられました。

石田三成について、白川亨さんは以下の通り、数多くの著書を残しておられます。

  1. 石田三成の生涯
  2. 石田三成とその一族
  3. 石田三成とその子孫
  4. 真説石田三成の生涯


石田三成の次男・重成は、関ヶ原の戦いののち、津軽藩にかくまわれています

その後は【杉山】と姓を変え、津軽藩の忍者集団・早道之者はやみちのものの棟梁となっています。

実業家・杉山丕すぎやまはじめ

石田三成の子孫である杉山家、その現在15代目の当主・杉山丕すぎやまはじめさんは、企画集団「ぷりずむ」の取締役をつとめておられます。

石田三成の次男・石田重成しげなりの子孫が、代々津軽藩の家老職かろうしょくをつとめているのです。

【弘前桜まつり】改修工事中の弘前城天守と、背後の岩木山

その石田重成の子孫は、杉山と名前をあらためたとされています。

そして杉山家は、津軽藩の忍者集団・早道之者はやみちのものの棟梁として、津軽家に貢献しています。

石田重成の子・杉山吉成すぎやまよしなりは、【1669年】に蝦夷地えぞち(北海道)で起こった【シャクシャインの戦い】に侍大将として参戦。

早道之者はその後も、蝦夷地の監視などの役割を果たして活躍したのでした。


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その他の子孫たち

以下、石田三成の血を引く子孫をまとめてご紹介いたします。

石田秀雄いしだひでおさん

のちほどご紹介いたしますが、石田秀雄さんは三成の長男である石田重家の子孫です。

石田秀雄さんは、【2017年】に公開された映画「関ヶ原」の公開イベントに登場。

そこで、徳川家康、小早川秀秋こばやかわひであき大谷吉継おおたによしつぐなど、関ヶ原の戦いで活躍した武将たちの子孫と交流しておられます。

石田館・妙高ホテルの経営者さん

また、2013年7月、新潟県妙高温泉にいがたけんみょうこうおんせんの【石田館 妙高ホテル】が破産したというニュースが流れました。

この【石田館 妙高ホテル】の経営をしていたのが、石田三成の長男・重家の子孫なのだとか。

ただし、この【石田館】の経営者が、どのようなつながりを持っているのかは、はっきりわかっていません。

しかし石田重家の長男・石田直重が、徳川家康の孫・松平忠直まつだいらただなおにつかえています。

松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康ゆうきひでやすの息子です。

この石田直重の子孫が、【石田館】の経営者さんかもしれません。

石田直重が越後高田へ移動し、その子である石田長成ながなりが、現在の新潟県妙高市に住みついたといいます。

新田開発に力を注いだという石田長成は、主君だった松平忠直の娘と結婚したのだとか。

岩崎弥太郎いわさきやたろうの孫たち

三菱グループの創業者である岩崎弥太郎の息子・岩崎久弥いわさきひさやが、石田三成の子孫である寧子さんと結婚。

岩崎久弥との間に6人の子供(三男三女)を儲けたといいます。

雅楽頭酒井家うたのかみさかいけ

また、石田三成の血筋は、徳川家の重臣である雅楽頭酒井家うたのかみさかいけにもつながっているといわれています。

徳川家康につかえた徳川四天王筆頭・酒井忠次は、この雅楽頭酒井家と遠縁です。

酒井忠次
引用元Wikipediaより

→→→→→【酒井忠次の子孫と家系図】についてくわしくはこちら

雅楽頭酒井家は徳川幕府の名門中の名門です。

その名門から生まれた酒井忠世さかいただよやその孫・酒井忠清さかいただきよは、江戸幕府の老中ろうじゅうとして権勢をふるっています。

石田三成の血筋が、どのようにして雅楽頭酒井家へつながったか、詳細はわかりません。

石田三成の末娘

書籍「石田三成の末裔として育った」の著者である澁谷理恵子しぶやりえこさんが、先祖からの言い伝えを残しておられます。

それによれば、【1615年】の大坂夏の陣のあと、石田三成の末娘が越後高田へ落ち延びたというのです。

これが本当ならば、おそらくその【石田三成の末娘】は、越後高田にいた三成の長男・重家の子・直重を頼ったのでしょう。

尾張徳川家7代藩主・徳川宗春とくがわむねはる

尾張徳川家7代藩主・徳川宗春とくがわむねはるも、石田三成の子孫にあたります。

徳川宗春
引用元ウィキペディアより

徳川宗春といえば、米将軍こめしょうぐんと呼ばれた8代将軍・徳川吉宗とくがわよしむねの天敵です。

徳川吉宗
引用元ウィキペディアより

吉宗は幕府の財政破綻を阻止するため、増税したうえに領民にまで質素倹約を命じて財政再建を目指しました。

宗春はこれと逆に、増税をせず、領民には派手に金を使うように指示したといいます。

名古屋の方々は、とても派手な印象がありますが、その名古屋の派手好きは徳川宗春が始まりであると思います。


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石田三成の子供たち【男3人・女3人】

石田三成には三男三女、合計で六名の子がいたといわれています。

これ以外にも、側室が産んだ子がいたといいますが、定かではありません。

三成の子供達の家系図

ここでは、先ほどの家系図とは違い、三成の子供達の家系図をご用意いたしました。

石田三成の家系図
三成の子供達について
家系図の引用等何卒ご遠慮くださいませ

長男・重家しげいえ

石田三成の長男である重家は、関ヶ原の戦い前年の【1599年】、大坂城に人質として住んでいました。

そこで重家は、徳川家康からとても可愛がられ、大切にされたといいます。

重家の【家】の文字は、徳川家康からもらったものだという説もあるようです。

【1600年】、父・石田三成が関ヶ原の戦いに敗北すると、重家は大坂城(または佐和山城)を脱出。

京都・妙心寺みょうしんじへ逃げ込んだ石田重家は、そのまま出家。

徳川家康は出家した重家を処罰することはなく、重家は100歳前後まで生きたといわれています。

重家の生年が不明なので、亡くなった際の正確な年齢は不明。

99歳または101歳という説が有力とされています。


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次男・重成しげなり

石田三成の次男・重成は、吉成という名前だったという説もあります。

【1599年】、関ヶ原の戦いの前年に豊臣秀頼とよとみひでよりに小姓として仕えたといわれています。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

【1600年】、関ヶ原の戦いで父・石田三成が大敗したと知ると、重成は大坂から逃亡。

このとき石田重成と同じく、豊臣秀頼の小姓として仕えていた津軽信建つがるのぶたけが、重成の逃亡に協力。

乳母の父・津山甚内つやまじんないに連れられた石田重成は、津軽家の貿易ルートを使って若狭国(福井県西部)から津軽(青森県西部)へ逃れたといわれています。

重成は、その後【杉山源吾すぎやまげんご】または【杉山八兵衛すぎやまはちべえ】と名前を変えて、津軽家につかえています。

その後、重成の長男・杉山吉成すぎやまよしなりは、弘前藩主の娘を妻として、家老に就任。

杉山吉成はその後、津軽藩の忍者集団・早道之者はやみちのものを結成し、統率していたといいます。

津軽藩・弘前城・桜まつりにおける堀の花いかだ

ちなみにこの石田三成の孫である杉山吉成は、津軽藩(弘前藩)を代表して幕府へ報告等を行っています。

つまり幕府は、杉山吉成が石田三成の孫であることを、知っていたということになります。


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三男・佐吉さきち深長坊清幽しんちょうぼうせいゆう

石田三成の三男で、本名は石田佐吉。

のちに出家して深長坊清幽と名乗っています。

【1600年】、関ヶ原の戦いで石田三成が敗北すると、三成の居城・佐和山城が徳川軍の猛攻を受けます。

このとき佐和山城は降伏して開城し、佐吉たちは命を救われる約束でした。

ところが徳川軍は約束を破り、佐和山城へ総攻撃を開始。

石田三成の父・正継まさつぐと兄・正澄まさずみとが自害してしまうのでした。

これに対して佐和山城を守っていた石田家の家臣・津田清幽つだきよふかは激怒。

なんと敵兵を人質にとって包囲を突破し、かつて仕えていた徳川家康に直接、約束違反を訴えたのです。

顔見知りだった津田清幽の話をきいた家康は、石田佐吉と石田家家臣いしだけかしんの少年11名を助命。

家康からすれば、これを無視して佐吉を討ち果たしても問題なかったはずです。

つまり、佐吉は家康によって直接命を救われたことになります。

津田清幽はその後、徳川家康の命令で11名の少年の士官先を見つけて、佐吉を高野山こうやさんへ送り届けました。

この11名の少年の士官先は、津田の佐和山城での活躍がとどろいていたため、即座に見つかったといいます。

その後、石田佐吉は出家。

師である木食応其もくじきおうごは、弟子の佐吉に対して、命の恩人である津田清幽の恩を忘れないよう【清幽せいゆう】の名を与えたのでした。

深長坊清幽しんちょうぼうせいゆうと名乗った石田佐吉は、甲斐(山梨県)の河浦山薬王寺16世住職になっています。

ちなみに津田清幽は、その後徳川家康の九男で尾張徳川家の藩主・徳川義直とくがわよしなおに仕えています。


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長女・山田勝重やまだかつしげの妻(通称・吹殿ふきどの

石田三成の長女にあたるのが、山田勝重の妻です。

残念ながら本名は不明で、通称は吹殿と呼ばれていたそうです。

【1600年】、石田三成が関ヶ原で敗北すると、居城・佐和山城も落城。

この佐和山城には、徳川家康の側室であり、家康の六男・松平忠輝まつだいらただてるの母親・茶阿局ちゃあのつぼねの兄がいました。

松平忠輝
引用元Wikipediaより

茶阿局の兄・山田上野介やまだこうずけのすけは、石田三成の部下でした。

そしてその息子の山田勝重(山田隼人正はやとのしょう)は、三成の長女を妻としていました。

山田上野介は佐和山城で自害しましたが、息子の山田勝重を逃亡させています。

叔母である茶阿局を頼った山田勝重は、いとこである松平忠輝の家老に就任。

ところが松平忠直が改易されると、山田勝重は妻の妹である辰姫たつひめの縁で、津軽藩から領地をもらいます。

その後は江戸で暮らし、山田勝重と石田三成の長女の子孫は、津軽藩士となったといわれています。


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次女・小石殿こいしどの

石田三成の次女にあたるのが、小石殿です。彼女が現在の天皇陛下のご先祖さまにあたります。

名将・蒲生氏郷がもううじさとの子・蒲生秀行がもうひでゆきの家臣・岡重政おかしげまさという人物に嫁ぎ、岡吉右衛門おかきちえもんを産んでいます。

夫・岡重政の主君である蒲生秀行は、徳川家康の娘婿むすめむこにあたります。

蒲生秀行がお家騒動いえそうどう改易かいえき(領地没収)されると、岡重政は妻の父・石田三成の親友・直江兼続なおえかねつぐから誘われ、上杉景勝うえすぎかげかつにつかえます。

上杉景勝
引用元ウィキペディアより

【1600年】、関ヶ原の戦いで上杉家が領地を削減されると、岡重政は再び蒲生秀行につかえます。

蒲生秀行の死後、【1613年】、岡重政は蒲生秀行の妻・振姫ふりひめと大地震の復興案で対立。

振姫から泣きつかれた家康は、岡重政を死罪としたのでした。

その後、小石殿と岡吉右衛門の夫婦は、おふりの方という娘を授かります。

このお振の方が、3代将軍・徳川家光の乳母で絶大な権力を握った春日局かすがのつぼねの養女となります。

春日局
引用元ウィキペディアより

実はお振の方の母親は、春日局の義理のめいだったのです。

その後、お振の方は徳川家光の側室となり、長女・千代ちよを出産。

千代姫は、尾張徳川家2代藩主である徳川光友とくがわみつともに嫁ぎます。

この千代姫の血筋が尾張徳川家から、名門公家めいもんくげである二条家にじょうけ九条家くじょうけにつながります。

そして九条家から大正天皇の皇后・貞明皇后ていめいこうごうへつながり、貞明皇后から昭和天皇が誕生。

昭和天皇から今の天皇陛下へと、つながっているのです。

つまり石田三成の次女である小石殿を通じて、天皇陛下は子孫というわけです。

徳川家光の娘を通じて、天皇陛下に血筋がつながっていることになります。

つまり天皇陛下は、三成の子孫であると同時に、徳川家康・秀忠・家光の女系子孫でもあります。


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三女・辰姫たつひめ大舘御前おおだてごぜん

石田三成の三女が、辰姫またの名を大舘御前です。

彼女は、豊臣秀吉の正室・北政所きたのまんどころの養女となっています。

その後、津軽藩第2代藩主・津軽信枚つがるのぶひらに嫁ぎ、3代藩主となる津軽信義のぶよしを産んでいます。

津軽藩・弘前城の西堀夜桜

【1600年】、関ヶ原の戦いで石田三成が敗北すると、辰姫は兄・石田重成とともに津軽へ逃亡。

【1610年】、津軽藩の初代藩主・津軽為信つがるためのぶの子・津軽信枚に正室として嫁ぎます。

ところが、徳川家康の姪であり養女でもあった満天姫まてひめが、津軽信枚の正室となると、辰姫は側室へと身分を変えられています。

そのあと辰姫は、津軽藩の領地があった上野こうずけ国(群馬県)の大舘おおだてに移り住んだ為、大舘御前と呼ばれています。

それでも夫の津軽信枚との関係は良好なままであり、側室となった辰姫の産んだ子・信義が3代藩主に就任。

1623年、大舘で死去。享年32歳。


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その他!三成の子孫が生き残った理由

津軽家が石田三成の子どもたちを匿った理由

津軽家が石田三成の子供達をかくまった理由は2つあります。

  • 津軽家の当主・津軽為信が、石田三成と親しい関係であった
  • そもそも石田三成は徳川家康と仲が良かったため、三成の子供をかくまっても問題なかった

津軽為信つがるためのぶと石田三成はとても親しかった

津軽家の当主だった津軽為信は、石田三成ととても親しい間柄でした。

実は、津軽家は石田三成にとても大きな恩があったのです。

津軽為信
引用元Wikipediaより

石田三成は、津軽為信の息子の烏帽子親えぼしおやだった

津軽為信の息子・津軽信建のぶたけは、石田三成が烏帽子親となって元服げんぷく(成人)しているのです。

津軽信建とは、石田三成の次男・重成を、大坂城から逃がしてくれた人物です。

烏帽子親とは、元服の際にかんむりを授ける仮の親のことです。

烏帽子親は、その子の指導的立場の者がつとめることとなっており、将来も庇護ひごすることになります。

石田三成の書状のやり取りから、津軽為信ととても親しいことがわかっています

三成は、以下の6名の大名たちと仲が良かったと言われています。

  1. 小西行長こにしゆきなが
  2. 寺沢広高てらさわひろたか
  3. 津軽為信
  4. 真田信幸さなだのぶゆき(真田幸村の兄)
  5. 織田秀信おだひでのぶ(信長の孫で幼名は三法師さんほうし
  6. 斎村政広さいむらまさひろ

他にも大谷吉継おおたによしつぐ直江兼続なおえかねつぐとも仲が良かったようです。

さらには関ヶ原の戦いで、三成を生捕りにした田中吉政たなかよしまさとも親友だったといわれています。


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津軽為信は、石田三成のおかげで独立できた

なぜ津軽為信が石田三成と親しかったのかというと、為信は三成に救われたことがあるのです。

実は、津軽為信は主君を裏切った人物です。

もともと津軽為信は、現在の青森県と岩手県を支配する南部家なんぶけに部下としてつかえた人物でした。

しかし為信は南部家を裏切り、津軽地域(現在の青森県西部)を奪い取り、独立したのでした。

津軽為信は津軽地域を南部家から奪った直後、天下の支配者である豊臣秀吉に恭順きょうじゅんしました。

豊臣秀吉
引用元ウィキペディアより

ところが激怒した南部家が、秀吉に対して津軽為信を謀反人として訴えたのです。

これにより津軽為信は一時、秀吉の討伐対象になりかけます。

実はこのとき秀吉は、惣無事令そうぶじれいという戦争を禁じる法令を東日本に発令していたのです。

これに違反すると討伐されてしまうのですが、津軽為信はまさに惣無事令違反をしていたのです。

惣無事令に違反して蘆名家あしなけを滅ぼした独眼竜どくがんりゅう伊達政宗だてまさむねは、領地の半分を没収されています。

伊達政宗
引用元ウィキペディアより

この津軽家の危機を救ったのが、石田三成だったのです。

為信は、秀吉や織田信雄おだのぶかつや豊臣秀次ひでつぐなど、鷹狩たかがりを好む武将に対して、津軽名産の鷹や名馬を送っていました。

そうすることで、自分に有利となるよう、上手な外交を行なっていたのです。

さらに、【1590年】の小田原合戦おだわらかっせんに参陣した津軽為信は、駿河するが(静岡県中部)で秀吉一行に謁見えっけんしています。

その直後、南部家も参陣して秀吉に謁見しています。

しかし、そのときにはすでに、津軽為信の独立は秀吉に認められていたのです。

その後も続いた、三成と為信の緊密な連絡

津軽為信や南部家の支配地域である青森県や岩手県は、京都・大坂からかなり遠隔地です。

そのため、中央との関係が疎遠になりかねないはずが、石田三成は津軽家と連絡を密にし、良好な関係を続けてくれたのです。

三成は、津軽為信の嫡子・津軽信建のぶたけを、豊臣秀頼の小姓こしょうとして抜擢。

そんな津軽信建は、小姓だけではなく、人質としての役割も果たしていたので、為信は秀吉からの信用を勝ち取れたのです。

さらに、三成は津軽信建の元服げんぷく(成人)の際には烏帽子親えぼしおやになります。

こうして津軽家は石田三成の協力により、豊臣秀吉からの信頼を勝ち取ることに成功したのでした。

三成は、何度も何度も津軽家を守ってくれたのです。

そのため為信は、三成に恩を感じていたのです。


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石田三成と徳川家康は、仲が良かった

犬猿の仲だといわれていた石田三成と徳川家康ですが、実際にはとても親しい間柄だと、近年では考えられています。

関ヶ原の戦いをみると、石田三成が徳川家康に何かと反抗しているようにみえます。

しかし冷静に2人の関係をみると、とても険悪とはいえない、深い信頼関係があることがわかります。

2人がとても仲が良かったことは、以下のエピソードからよくわかります。

  1. 三成の嫡男・石田重家の【家】の文字は、家康の一字であり、家康は重家をかわいがっていた
  2. 三成は、福島正則ふくしままさのり加藤清正かとうきよまさからの襲撃された七将襲撃事件しちしょうしゅうげきじけんの際に、家康に救われている
  3. 石田三成はそもそも家康と戦う意思などなく、親友・大谷吉継おおたによしつぐに三日三晩説得されて参戦した
  4. 関ヶ原の首謀者とされている三成だが、本当の首謀者は毛利もうり上杉うえすぎ宇喜田うきたの三大老だった

三成の子・重家は家康にかわいがられていた

三成の嫡子・石田重家は、もともとは人質として大坂城で家康のもとにいました。

しかし関ヶ原の戦いの直前、重家は家康による会津征伐に参戦するため、父・三成のもとへ送り返されています。

このときに元服した石田三成の長男は、【重家】と名乗ることとなります。

この重家の【家】の一字を、家康の【家】の文字をもらったという説があるのです。

自分の名前の一文字をあげることは、相当に親しい間柄でないとやらない行為です。

ですので、家康と三成は良好な関係だったと思われます。

家康は、三成を【七将襲撃】から救った

【1599年】、前田利家まえだとしいえが亡くなった直後、加藤清正ら七将に襲撃されそうになった三成は、家康に助けられています。

加藤清正
引用元ウィキペディアより

七将とは、三成から讒言ざんげんつまり有りもしない罪をでっち上げられたとして、三成を恨んでいた以下の武闘派七人のことです

  1. 加藤清正かとうきよまさ
  2. 福島正則ふくしままさのり
  3. 加藤嘉明かとうよしあき
  4. 池田輝政いけだてるまさ
  5. 黒田長政くろだながまさ
  6. 浅野幸長あさのよしなが
  7. 細川忠興ほそかわただおき

七将から三成を守り通した家康は、三成を引退させて居城の佐和山城さわやまじょう謹慎きんしんするよう命じます。

佐和山城へ帰ろうとする三成の護衛に、家康は自分の子である結城秀康ゆうきひでやすをつけています。

三成はこのお礼に、結城秀康へ石田正宗いしだみつなりという刀を贈っているのです。


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三成は家康と戦う気などなく、大谷吉継に説得されていた

関ヶ原の戦いに参戦する際の逸話に隠された矛盾を解き明かすと、三成と家康が関係良好だったことがうかがえます。

その逸話とは、石田三成と大谷吉継の友情についての逸話です。

まずはこれまでの通説を解説いたします。

石田三成は関ヶ原の戦いに参戦する直前、親友だった大谷吉継おおたによしつぐを自分の居城・佐和山城へ呼びつけています。

大谷吉継
引用元ウィキペディアより

そこで三日三晩かけて、打倒家康に反対する大谷吉継にたいして、自分と一緒に家康と戦ってほしいと説得したとされています。

大谷吉継はこれを拒絶したものの、三成との友情を優先し、最後はともに死ぬ覚悟で家康打倒を決意したという逸話です。

しかしこれはおかしな話です。

味方になるよう説得する相手を、自分の城に呼びつけるなどあり得るでしょうか?

普通は逆で、説得する相手の城に自分が出向くのがすじでしょう。

つまりこれは、石田三成が大谷吉継を説得したのではなく、三成が吉継に打倒家康に参加するよう説得されたのでしょう。

ということは三成は、家康と戦うことを三日三晩にわたって拒絶し続けたということになります。

つまり三成は、親友・大谷吉継から三日三晩説得されても拒絶するくらい、家康と戦いたくなかったのです。


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関ヶ原の戦いの首謀者は、三成ではなく三大老だった

関ヶ原の戦いは、石田三成が首謀者であり、徳川家康と雌雄しゆうを決したといわれています。

しかし実際には、石田三成は首謀者ではないという説があります。

先ほど、三成は家康と戦うつもりなどなかったと解説しましたが、そんな人が首謀者になるはずありません。

関ヶ原の戦いで家康打倒を画策したのは、三成ではなく、以下の三人の大老だと、筆者は考えています。

  • 毛利輝元もうりてるもと
  • 上杉景勝うえすぎかげかつ
  • 宇喜田秀家うきたひでいえ

五大老ごたいろうとは、秀吉亡き後の豊臣政権の最高意思決定機関のことです。

  1. 徳川家康
  2. 前田利家(利家の死後は嫡子・前田利長としなが
  3. 毛利輝元
  4. 上杉景勝
  5. 宇喜田秀家

豊臣秀吉と前田利家の死後、家康は前田利長に圧力をかけて屈服させています。

これに恐怖を感じた残りの三大老は、家康打倒を画策したのでしょう。

毛利輝元
引用元Wikipediaより

  • 上杉景勝が家康を挑発し、会津へおびき寄せる
  • その隙に毛利輝元が大坂城へ入城して、旗頭である豊臣秀頼を確保
  • 急ぎ大坂へ戻ってくる家康を、宇喜田秀家が関ヶ原で迎え撃つ

という青写真を描いたのではないでしょうか。

ではなぜ三成が首謀者とされたのかというと、関ヶ原の戦いで処刑された武将たちの中で、一番身分が高かったからでしょう。

処刑されたのは、関ヶ原の戦いの直後に生け取りにできた以下の三名です

  • 小西行長こにしゆきなが
  • 安国寺恵瓊あんこくじえけい
  • 石田三成

三成はこの中で、豊臣政権の重役である五奉行ごぶぎょうのひとりに数えられた、豊臣政権のブレーンだったのです。

処刑された人間のなかから、首謀者をでっちあげて、徳川の大勝利を印象付ける必要があったのでしょう。

だからこそ徳川家康は、三成を首謀者とするために、三成と家康の関係が悪かったという話を広めたのかもしれません。

以上のことから、家康と三成の関係は悪くなかったと考えられます。

そのため家康は、三成の子供達を誰1人殺さず、全員を生かしたのだと思います。

首謀者の濡れ衣を着せたことの後ろめたさもあって、家康は三成の子を全員見逃したのではないでしょうか。


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石田三成の孫【津軽藩(弘前藩)3代藩主】

石田三成の娘・たつ姫が、津軽藩2代藩主・津軽信枚つがるのぶひらに嫁いで息子を産んでいます。

その子が3代藩主・津軽信義つがるのぶよしです。

津軽信義
引用元Wikipediaより

津軽信義は、石田三成の孫にあたります。

津軽信枚は三成の娘である振姫を寵愛ちょうあいしていました。

しかしそこに、家康の姪であり養女でもある満天姫まてひめが、信枚のもとへ嫁いできます。

家康の養女であることから、信枚は断れずに満天姫を正室とし、それまで正室だった振姫を側室へと格下げします。

ところが、信枚の振姫への愛情は冷めることなく、その熱意によって振姫が産んだ津軽信義が3代藩主に就任。

その後の津軽藩(弘前藩)の藩主は、代々石田三成の血を引いています。

石田三成の孫にあたる3代藩主【津軽信義のぶよし】から始まり、10代【津軽信順つがるのぶゆき】までが、三成の子孫なのです。

それ以降は、藩主に引き継がれた三成の血筋は断絶します。

しかし家老である杉山家に、三成の血筋は受け継がれています。

そして、津軽藩主が代々石田三成の血を引くことを、江戸幕府は知っていましたが、それを黙認。

そのことからしても、三成と家康の関係が良好であることがわかると思います。


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石田三成の嫡男は、出家した身であったが子供をもうけていた?

石田三成の嫡男・重家は、出家していたものの、その子孫が今も残っているのです。

それが、石田秀雄ひでおさんというお方です。

三成の嫡男・重家には、【1600年】の関ヶ原の戦いが起こった以前から、妊娠中の妻がいたというのです。

その妻は、徳川家康の次男・結城秀康ゆうきひでやすによって保護され、越前北庄えちぜんきたのしょうへ移っています。

結城秀康
引用元Wikipediaより

結城秀康といえば、七将襲撃を受けた三成を佐和山城へ護衛した人物です。

その縁があたためか、結城秀康は三成の子の妻を守っているのです。

重家の妻はその後、三成の孫にあたる石田直重なおしげを出産。

石田直重は、そのまま結城秀康の子・松平忠直まつだいらただなおに仕えています。

松平忠直
引用元Wikipediaより

石田家の言い伝えによれば、石田直重は松平忠直の末の妹(結城秀康の娘)を妻としていたようです。

松平忠直の末の妹ということは、結城秀康の末娘ということになりますし、徳川家康の孫娘にもあたります。

つまり三成の孫・石田直重は、徳川家康の孫娘と結婚したということです。

松平忠直はその後、二代将軍・徳川秀忠ひでただの時代に乱行を繰り返して、流罪となります。

その後、松平忠直の息子・松平光長みつながは、越前北庄から越後高田へ領地替りょうちがえされています。

石田直重もそれに従って越後(新潟県)へ移動。

石田直重の子・長成ながなりは、新潟県妙高市みょうこうしの新田開発を命じられ、その地に定住しています。

その子孫が、現在まで続き、石田秀雄さんへと受け継がれているのです。

石田三成の曾孫である石田長成は、松平忠直の娘と結婚しているとのことです。

松平忠直は、2代将軍・徳川秀忠の三女である勝姫と結婚して、松平光長を産んでいます。

松平光長は、父が結城秀康の息子であり、母が徳川秀忠の娘なので、2人の孫にあたります。

余談ですが、秀忠の三女・勝姫は、関ヶ原の戦いに勝利した翌年【1601年】に誕生したため、勝姫と名付けられたそうです。


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石田三成の子孫と小早川秀秋の子孫は、現代で和解していた!

【2017年】に公開された、俳優・岡田准一おかだじゅんいちさん主演の映画「関ヶ原」をご存知でしょうか?


その映画の上映にあたって、関ヶ原の戦いに参戦した武将の子孫が登場するイベントが催されました。

  • 石田三成の子孫・石田秀雄さん
  • 小早川秀秋の子孫・小早川隆治さん
  • 大谷吉継の子孫・大谷裕通さん
  • 徳川家康の子孫・徳川恒孝さん

彼らはその場で親睦を深めたといわれています。

このとき三成の子孫である石田秀雄さんと、小早川秀秋の子孫である小早川隆治さんが、対話しておられたらしいです。

石田さんは、小早川さんへの遺恨いこんなど毛頭ないことを伝えておられました。

また、小早川さんは、小早川秀秋が裏切ったという説に異論を唱えておられたようです。

確かに、近年の研究では、小早川秀秋が裏切ったという説は間違いだと指摘されているようです。

小早川秀秋は最初から、徳川家康に味方していたのだとか。

その後ももしかすると、子孫同士の交流が続いているかもしれません。


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石田三成の子どもたちを、徳川家康は見逃していた!その後は?

石田三成の子孫は、誰1人として家康に処罰されていません。

そもそも石田三成と徳川家康は、決して犬猿の仲などではなく、とても良好な関係をつくっていたといいます。

そのため家康は、三成の子供達を誰1人殺さず、全員を見逃していたのでしょう。

その後、津軽藩(弘前藩)では、三成の娘を通じて、石田三成の血を引く藩主が続いています。

さらに、津軽藩の家老・杉山吉成すぎやまよしなりは、石田三成の孫でした。

実は徳川幕府は、そのことを知っていました。

幕府は石田三成の血筋が、津軽藩主および家老に代々受け継がれていることを知っていたのです。

子孫は代々徳川家や津軽家と親密な関係となり、現在までその血筋は続いているのです。

ここから先は、筆者の想像でしかありません。

家康が三成と良好な関係だったことは、その子供達を、家康が罰していないことから明らかだと思います。

家康が三成の子供達を全員救ったということは、三成が西軍の首謀者ではなかったことを意味しているのではないでしょうか。

西軍の首謀者である三人の大老も、誰1人として命を奪われていませんが、それは全員が降伏したためでしょう。

関ヶ原の戦いについては、まだまだ不明な点が多いようですが、三成が首謀者ではなかったと、筆者は思っております。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 石田三成の子孫には現在の天皇陛下がおられる
  2. 三成の3男3女は、関ヶ原の戦いのあと、全員が命を救われている
  3. 三成と徳川家康は、仲が悪かったどころか、とても仲が良かった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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