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比叡山焼き討ちをわかりやすく解説|信長が延暦寺を焼いた本当の理由

※当サイトはアフィリエイトプログラムに参加しています。この記事は【2026年4月】時点の史料・学術情報をもとに作成しています。

この記事の著者

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析

歴史学者ではありませんが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理することを得意としています。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに、史実と演出の違いを比較分析。経営者としての実務経験から、歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説も行います。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も足を運んでいます。

目次

比叡山焼き討ちをわかりやすく|冒頭まとめ

比叡山焼き討ちとは、1571年(元亀2年)9月12日、織田信長が比叡山延暦寺を主要な堂塔や僧坊を焼き払い、僧侶や寺領住民を殺害した軍事作戦のことです。背景には、延暦寺が信長の宿敵である浅井長政・朝倉義景をかくまい、僧兵という武装勢力を抱えて政治介入を続けてきたという事情がありました。一言でいえば「警告を無視して敵を匿い続けた延暦寺に、信長が本気で怒った事件」です。

織田信長(長興寺蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

この記事では、比叡山焼き討ちを「なぜ起きたか」「どこで起きたか」「実行者は誰か」「生き残りはいたか」「本当に全焼したのか」という疑問にそって、史料と諸説を整理してわかりやすく解説します。さらに大河ドラマ『麒麟がくる』『信長 KING OF ZIPANGU』『秀吉』『功名が辻』『豊臣兄弟』での描かれ方と、史実との違いも比較していきます。

  • この記事のポイント①:比叡山焼き討ちの理由を「強訴の歴史」「浅井朝倉の匿い」「信長の警告無視」の3層で整理
  • この記事のポイント②:実行部隊(明智光秀・羽柴秀吉ら)と坂本城との関係をわかりやすく図解
  • この記事のポイント③:「焼き討ちはなかった説」「規模誇張説」など近年の発掘・学説を比較整理
  • この記事のポイント④:大河ドラマ5作品の演出と史実の違いを編集者視点で比較

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比叡山焼き討ちとは、1571年9月12日に織田信長が比叡山延暦寺を全山攻撃し、堂塔・僧坊を焼き、僧侶や住民を殺害した戦国時代の大事件です。場所は現在の滋賀県大津市と京都府京都市にまたがる比叡山一帯。実行部隊は織田家の主力で、明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉らが参加したと伝わります(出典:Wikipedia日本語版「比叡山焼き討ち」)。

当時の延暦寺は、単なる宗教施設ではありません。広大な寺領を持ち、僧兵という武装集団を抱え、座主の任命や寺領争いをめぐって朝廷や武家政権に圧力をかけ続けてきた、いわば「武装した宗教国家」でした。信長はこの延暦寺が浅井長政・朝倉義景と結んで自分に敵対したことを問題視し、再三の警告を経て、ついに全山焼き討ちという最終手段に踏み切ります。

事件の規模については、ルイス・フロイスの『日本史』が「老若男女、僧俗を問わず数千人程度とされるが、その正確な規模は不明」と記す一方、近年の発掘調査では焼土層が一部にしか見られないことから、被害は局所的だったとする説も有力です。詳細は後の章で比較します。

比叡山・延暦寺・坂本はどこにあるのか

比叡山は滋賀県大津市と京都市左京区にまたがる標高848mの山で、延暦寺はその山上に広がる寺院群、坂本は山の東麓・琵琶湖畔にある門前町です。延暦寺は単独の建物ではなく、東塔・西塔・横川(よかわ)の3エリアに大小100以上の堂塔が点在する巨大な宗教都市でした(出典:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式サイト)。

比叡山からの琵琶湖の眺め

筆者は比叡山延暦寺に複数回訪問していますが、根本中堂(本堂)に立つと、山上にこれだけの伽藍を維持できる経済力と政治力の凄まじさが体感できます。坂本側から登るケーブルカーから琵琶湖を見下ろすと、なぜ信長がこの山を「放置できない」と考えたかも見えてきます。京の都を見下ろす立地は軍事的にも重要で、ここを敵が押さえることは信長にとって致命傷になりかねなかったのです。

地名 現在の住所 役割
比叡山 滋賀県大津市・京都市左京区 延暦寺の所在する山
延暦寺 大津市坂本本町 天台宗総本山。東塔・西塔・横川
坂本 大津市坂本 門前町。後に明智光秀の坂本城

次の章では、いよいよ「なぜ延暦寺は焼かれたのか」という核心の理由を、平安時代までさかのぼって整理します。


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延暦寺はなぜ焼かれたのか|理由を簡単に

Q2. 延暦寺が焼かれた理由は?端的回答

延暦寺が焼かれた直接の理由は、信長の宿敵である浅井長政・朝倉義景を比叡山にかくまい、信長の再三の中立要求を無視したからです。背景には、延暦寺が長年「強訴」を繰り返し、武家政権に介入してきた腐敗した宗教権力だったという事情もあります。

浅井長政(高野山持明院蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

1570年(元亀元年)の志賀の陣で、浅井・朝倉軍は信長軍に追い詰められ、比叡山に逃げ込みました。信長は延暦寺に対し「織田に味方せよ。それが嫌なら中立を守れ。さもなくば全山を焼く」と通告したと『信長公記』にあります(出典:太田牛一『信長公記』巻四)。延暦寺はこれを無視し、浅井・朝倉を匿い続けたばかりか、信長軍への補給を遮断する役割まで果たしたとされます。

翌1571年9月、信長はその警告を実行に移しました。つまり焼き討ちは、突発的なキレ方ではなく「1年越しの最終警告」を経た計画的な軍事行動だったわけです。

【筆者考察】経営者の視点から

私が経営者として読み解くと、信長の対応は極めて合理的です。1年前に「次はないぞ」と通告し、相手に逃げ道(中立宣言)まで提示している。それでも約束を破られた以上、見せしめなしで他勢力に示しがつかない。本願寺・高野山・興福寺といった他の宗教勢力に「信長と約束を破ればこうなる」というメッセージを送る必要があった、と考えると合点がいきます。

強訴と僧兵|腐敗した宗教権力の歴史

比叡山が焼かれたもう一つの理由は、平安後期から戦国期まで続いた「強訴」と僧兵による武装の歴史にあります。強訴とは、僧兵が日吉大社の神輿を担いで朝廷や幕府に押しかけ、自らの要求を武力で通す示威行動のこと。白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)」を「天下三不如意(思い通りにならない3つ)」と嘆いた逸話は有名です(出典:『源平盛衰記』)。

鎌倉時代には強訴が100回以上、南北朝期にも40回前後行われたとされ、寺領争い・座主任命・新興宗派弾圧など、その目的は世俗的なものが大半でした。浄土宗の法然や日蓮宗の日蓮を弾圧したのも比叡山です。本来「女人禁制」のはずの聖地に遊女が出入りし、肉食・蓄財・私闘が横行していたとする記録も残ります。

【筆者考察】平家物語の重衡と信長の数奇な縁

筆者は『平家物語』を何度も読み返していますが、東大寺大仏を焼いた平重衡が、東大寺の僧兵に処刑されるシーンが強く印象に残っています。妻と最後の対面を許され、自分の髪を食いちぎって渡し、涙ながらに別れて処刑される。大仏を焼かれたとはいえ、僧侶が人間を処刑することへの違和感を、私は抱きました。

そんな南都僧兵の時代から約300年後、織田信長が比叡山焼き討ちを行います。信長は平資盛(重衡の甥)の子孫を自称していました。重衡を処刑したのは南都であって比叡山ではないのですが、武装した僧侶が武家を処刑した時代から、武家が武装僧侶を焼き討ちする時代へ。歴史は数奇に巡るものだなと思わされます。なお信長が資盛の子孫である可能性は、近年の研究では極めて低いとされています(出典:Wikipedia日本語版「織田信長」)。


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浅井長政・朝倉義景との因縁

比叡山焼き討ちの直接のきっかけは、1570年の姉川の戦いから続く浅井・朝倉との戦争です。信長は妹お市の方を浅井長政に嫁がせて同盟を結んでいましたが、長政は越前朝倉氏との旧盟を優先し、信長を裏切ります。1570年6月の姉川の戦いで信長は浅井・朝倉連合に勝利したものの、両家を滅ぼすには至りませんでした。

同年9月、浅井・朝倉軍は近江坂本まで進出し、宇佐山城を守る信長の重臣・森可成を討ち取ります(森可成は森蘭丸の父)。信長軍が反撃すると、浅井・朝倉は比叡山に逃げ込み、延暦寺の保護下に入りました。これが「志賀の陣」です。冬を迎え、両軍は朝廷の仲介で和睦しますが、信長はこのとき延暦寺に「中立を守らないなら焼く」と通告したと『信長公記』は記します。

翌1571年8月、信長は浅井方の小谷城周辺を制圧。9月には満を持して比叡山包囲に取りかかり、12日に総攻撃が行われました。お市と浅井長政の関係をさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

関連記事|お市の方と浅井家の悲劇をさらに深く

比叡山焼き討ちの引き金となった浅井長政の裏切りと、その妻お市の方の生涯を知ると、この事件の人間ドラマがもう一段深く見えてきます。

では、実際に焼き討ちを実行したのは誰だったのでしょうか。次章で詳しく見ていきます。


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比叡山を焼き討ちしたのは誰か|実行部隊の全貌

Q3. 焼き討ちの命令者と実行者

焼き討ちを命じたのは織田信長、現場で指揮を執った主力武将は明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎(羽柴秀吉)・丹羽長秀ら織田家の主力です。信長は本陣から全体を統括し、各部隊が東塔・西塔・横川と坂本の各地区を分担して制圧したと伝わります(出典:『信長公記』巻四)。

武将 役割(諸説あり) のちの動き
織田信長 総大将・最終決定 1582年本能寺の変で死去
明智光秀 主力部隊・坂本方面 翌1572年、坂本城を築城
佐久間信盛 主力部隊 1580年に追放
柴田勝家 主力部隊 賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北
木下藤吉郎 一部隊指揮 後の豊臣秀吉
丹羽長秀 一部隊指揮 越前北ノ庄で病没

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明智光秀と坂本城|焼き討ちの恩賞

焼き討ち後、信長は明智光秀に近江志賀郡を与え、光秀は1572年に坂本城を築きました。坂本は延暦寺の門前町であり、焼き討ちの「現場」そのものです。光秀がこの地を治めることになったのは、焼き討ちでの軍功が大きかったからとされます(出典:Wikipedia日本語版「坂本城」)。

明智光秀(本徳寺所蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

興味深いのは、光秀が焼き討ちに消極的だったとする俗説と、積極的だったとする史料の食い違いです。江戸時代成立の軍記物には光秀が信長を諫めたとする記述がありますが、同時代史料の『兼見卿記』『信長公記』にはそうした記述はなく、むしろ光秀が焼き討ち前から比叡山周辺の僧侶を殺害していたことを示す書状(雄琴の和田秀純宛て光秀書状)が残っています。

【史料比較】光秀消極説 vs 積極説

消極説の根拠:『明智軍記』『総見記』などの江戸期軍記。光秀が信長に思いとどまるよう進言したと記す。
積極説の根拠:『兼見卿記』『信長公記』などの同時代史料。光秀の和田秀純宛書状(元亀2年9月2日付)には、焼き討ち直前に比叡山周辺の敵を「ことごとく撫で切り」にする旨が記されている。
史料の年代と一次性を比べると、積極説の方が信頼性が高いと筆者は考えます。

羽柴秀吉ら他の武将の関与

羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)も焼き討ちに参加していたとされますが、その役割は明智光秀ほど中心的ではなかったとみられます。秀吉はこの時期、横山城を任されて浅井方への押さえを担っており、焼き討ち本隊への参加は限定的だった可能性があります(出典:Wikipedia日本語版「豊臣秀吉」)。

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

大河ドラマ『秀吉』(1996年、竹中直人主演)や『豊臣兄弟』では、焼き討ちが秀吉の出世物語の通過点として描かれることがあります。筆者は『秀吉』を視聴しましたが、渡哲也演じる信長の冷徹さと、竹中直人秀吉の人間味の対比が、焼き討ちのシーンで際立っていた印象です。仲代達矢の千利休が、静かでありながら圧倒的存在感を発揮していた素晴らしい作品でした。

次に「比叡山焼き討ちは何回あったのか」という、意外と知られていない論点を整理します。


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焼き討ちは何回あった?|真実と生き残り

Q4. 比叡山延暦寺は何回焼き討ちされたか

比叡山延暦寺は歴史上少なくとも3回、大規模な焼亡を経験しています。よく知られる織田信長の1571年の焼き討ちは、その中の最大かつ最後のものです。

年代 実行者・原因 規模
1回目 1435年(永享7年) 足利義教との抗争で僧侶が根本中堂で集団焼身 根本中堂炎上
2回目 1499年(明応8年) 細川政元の軍勢による攻撃 東塔・西塔の堂宇焼失
3回目 1571年(元亀2年) 織田信長による焼き討ち 全山規模(諸説あり)

このうち最も古い1435年は、室町幕府6代将軍・足利義教との対立で、延暦寺の僧侶側が自ら根本中堂に火を放って自害した事件です。延暦寺はもともと「武家にやられる前に自焼する」ことすらあったほど、武家との関係がこじれていた寺院でした(出典:Wikipedia日本語版「延暦寺」)。

つまり「比叡山焼き討ち=信長」という図式は半分正解で半分不正確、というのが正確な理解です。信長以前にも延暦寺は何度も焼け、その都度再建されてきた歴史を持ちます。


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「比叡山焼き討ちはなかった」説と発掘調査

近年、考古学的な発掘調査により「フロイスの言うような全山殲滅はなかった」とする説が有力になっています。1980年代以降の延暦寺境内発掘で、元亀2年の焼土層が確認できたのは根本中堂周辺と一部の僧坊跡に限られ、横川エリアではほとんど焼亡の痕跡がないことが分かってきました(出典:滋賀県教育委員会発掘調査報告)。

比叡山延暦寺・根本中堂

これを根拠に「信長は政治的に重要な東塔中心部のみを焼き、横川や周辺の坊は手をつけなかった」「殺害人数も数千人ではなく数百人程度だった可能性がある」とする見解が、戦国史研究者の間で議論されています。一方で、フロイス『日本史』や『信長公記』が記す凄惨な様子を完全に否定する材料も乏しく、被害の絶対量は不明、というのが現状の妥当な理解です。

【史料比較】規模をめぐる三つの見解

誇張なし説:『信長公記』『日本史』を素直に読み、数千人規模の殺害を認める。
誇張あり説:同時代の他史料(『兼見卿記』など)の記述が比較的淡白なことから、犠牲者は数百人程度。
限定焼亡説:発掘で焼土層が局所的なため、焼かれたのは政治的中枢の東塔のみ。
筆者としては「規模は誇張されているが、事件としての衝撃は本物」という中間的な見方が、史料と考古資料を最も無理なく説明できると考えます。

生き残りはいたのか

多くの記録や伝承では、生き残った者もいたとされています。焼き討ち後、生き残った僧侶たちは比叡山を離れ、京都市中の寺や、武田信玄を頼って甲斐に逃れた者もいます。武田信玄が信長への憎悪を募らせ「天台座主沙門信玄」と署名した書状を信長に送りつけた背景には、こうした亡命僧の存在があったとされます。

1582年、信長が本能寺の変で倒れた後、豊臣秀吉と徳川家康のもとで延暦寺は段階的に再興されます。現在の根本中堂は1642年(寛永19年)に徳川家光によって再建されたもので、国宝に指定されています。筆者が訪れた根本中堂の堂内には、最澄が灯した「不滅の法灯」が今も燃え続けており、生き残った僧が分灯した火を持ち帰って再点灯したと伝わります。焼かれてもなお信仰が途絶えなかった、という事実そのものが、延暦寺の底力を物語っています。

続きでは、比叡山焼き討ちと本能寺の変をつなぐ「明智光秀の動機」を考察します。


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明智光秀はなぜ織田信長を倒したのか|比叡山との関係

Q. 光秀謀反の動機と比叡山焼き討ちのつながり

明智光秀が本能寺の変を起こした動機は今も諸説ありますが、比叡山焼き討ちが直接の引き金になったとする説は実は主流ではありません。光秀謀反の動機としては、怨恨説・野望説・四国政策説・朝廷黒幕説・足利義昭関与説など多くの仮説があり、決定的な定説は存在しないというのが学界の現状です(出典:Wikipedia日本語版「本能寺の変」)。

ただし比叡山焼き討ちとの関連を指摘する見方もあります。光秀は焼き討ち後に坂本城主となり、延暦寺の旧領を直接支配することになりました。これは光秀にとって出世のチャンスであった一方、土地勘のある比叡山周辺で寺社勢力との折衝に苦労した可能性もあります。「焼き討ちで信長と一蓮托生になったがゆえに、後戻りできなくなった」という心理が、本能寺の変の遠因として作用したと見る研究者もいます。

内容 比叡山との関係
怨恨説 信長から度重なる屈辱 間接的
野望説 光秀自身の天下取り野望 間接的
四国政策説 長宗我部取次役を外された不満 無関係
朝廷黒幕説 信長の朝廷軽視への危機感 焼き討ちも要因の一つ
足利義昭関与説 旧主・義昭の指示 間接的

大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年、長谷川博己主演)では、光秀が焼き討ちに苦悩する姿が丁寧に描かれていました。本能寺の変に至る心の変化と比叡山焼き討ちを結びつける演出は、近年の歴史ドラマでも採用されることが多い解釈です。本能寺の変の全体像をさらに知りたい方は、こちらをどうぞ。

関連記事|本能寺の変の真相を深く知る

次の章では、大河ドラマ5作品の比叡山焼き討ち描写を比較していきます。


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大河ドラマで見る比叡山焼き討ち|5作品比較

『麒麟がくる』『信長』『秀吉』『功名が辻』『豊臣兄弟』

大河ドラマでの比叡山焼き討ちは、作品ごとに描写の重さも視点も大きく異なります。筆者がこれまで視聴してきた限りでは、以下のような違いが印象的でした。

作品 放送年 主人公・主演 焼き討ちの描き方
信長 KING OF ZIPANGU 1992 信長/緒形直人 信長の冷徹な革命家像を象徴する場面として演出
秀吉 1996 秀吉/竹中直人 渡哲也の信長と対比。秀吉は迷いながらも、救える命を救いながら、冷静に任務を遂行
功名が辻 2006 山内一豊/上川隆也 夫婦目線。焼き討ちの罪悪感が一豊・千代の会話に反映
麒麟がくる 2020 明智光秀/長谷川博己 光秀が苦悩する内面ドラマとして長尺で描写
豊臣兄弟 2026 豊臣秀長/仲野太賀 兄秀吉の出世過程の一場面として描写

筆者が特に印象に残っているのは『秀吉』の渡哲也信長です。比叡山焼き討ちの命令を下す瞬間の冷たい表情は、子役時代から大河を観てきた中でも屈指の信長像でした。一方『麒麟がくる』の長谷川博己光秀は、焼き討ちの現場で僧侶や女性を斬ることに激しく葛藤する姿が印象的で、近年の「光秀の人間味」を強調する潮流を象徴する演出だったと感じます。

『功名が辻』の上川隆也・仲間由紀恵夫妻が、焼き討ち後に小さな仏像を拾い上げる場面は、被害者目線を取り入れた数少ない演出として記憶に残ります。同じ事件でも、誰を主役に据えるかでまったく違う物語になる――これこそ大河ドラマの醍醐味です。

これら5作品をまとめて見直すと、比叡山焼き討ちが「信長の冷徹さ」「秀吉の出世」「光秀の苦悩」「庶民の悲しみ」のどの角度からも描ける、戦国史屈指の多面的事件であることがよく分かります。同じ歴史的事件でも視点が変わるとこれほど解釈が変わるのかと、史実と演出の違いを自分の目で確かめる楽しさがあります。31日間無料トライアルがあるため、気になる作品から試すことができます。

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【筆者考察】大河ドラマ研究家として

大河ドラマ『太平記』で真田広之が見せた流鏑馬の身体能力に圧倒された記憶があります。武士が「実戦で身体を使う存在」として描かれた作品でした。比叡山焼き討ちも、同じく身体性のある「現場の戦闘」として描くか、抽象的な「政治の決断」として描くかで作品の手触りが変わります。『麒麟がくる』はその両方を組み合わせた、近年屈指の意欲作だったと筆者は評価しています。

では最後に、比叡山焼き討ちから現代の私たちが学べることをまとめましょう。


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まとめ|比叡山焼き討ちから学ぶこと

わかりやすく振り返る5つのポイント

比叡山焼き討ちは、単なる「信長の暴走」ではなく、平安時代から続く宗教権力の腐敗と、戦国の現実主義がぶつかった必然の事件でした。本記事のポイントを再整理します。

  • ①事件の概要:1571年9月12日、織田信長が比叡山延暦寺を焼き、僧侶らを殺害した戦国時代最大級の宗教弾圧事件。
  • ②理由:浅井長政・朝倉義景を匿った延暦寺への報復+強訴を繰り返した武装宗教権力への抑止。
  • ③実行者:織田信長を総大将に、明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉らが参加。光秀は積極説が史料的に有力。
  • ④規模:『信長公記』『日本史』では数千人規模。発掘調査では局所的との見方も。中間説が妥当。
  • ⑤生き残り:確実に存在し、武田信玄を頼った僧も。江戸時代に徳川家光が根本中堂を再建し、不滅の法灯は今も灯り続ける。
【筆者考察】聖地の腐敗と「天罰」

筆者は比叡山延暦寺に複数回訪問し、根本中堂の神聖な雰囲気に深く感銘を受けました。しかし450年前の延暦寺の実態は、想像以上に腐敗していたようです。聖地に住むからといって、そこにいる人間が聖人君子であるとは限らない。子供のイタズラに大人が本気で怒ったような――比叡山焼き討ちはそんな出来事だったのかもしれません。過激ではあっても、傲慢な寺社権力に対する「天罰」だったと見る視点も、私には腑に落ちるところがあります。同時に、僧侶が人間を処刑した『平家物語』の重衡の最期にも違和感を覚えてきた筆者にとって、武装した宗教者が時代に裁かれていく構造は、何度考えても考えさせられるテーマです。

歴史を学ぶ醍醐味は、同じ事件でも複数の視点から眺めると、まったく違った景色が見えてくることです。経営者の視点、被害者の視点、宗教者の視点、ドラマの視点――どれも正解で、どれもひとつの真実です。比叡山焼き討ちの背景や織田信長の決断スタイルをもっと深掘りしたい方は、関連記事もぜひご覧ください。

関連記事|比叡山焼き討ちをさらに深く理解する

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よくある質問(FAQ)

Q. 比叡山焼き討ちは「なんJ」でなぜ話題になる?

ネット掲示板の「なんJ」では、信長の冷徹さや延暦寺の腐敗ぶりが「現代に通じる組織論」として語られることが多く、ミーム化しやすいテーマになっています。歴史的事実としては本記事で解説したとおり、計画的な軍事作戦であった点を押さえておくと、ネットの議論も冷静に楽しめます。

Q. 焼き討ちの後、坂本はどうなった?

明智光秀が坂本城を築き、城下町として再整備されました。光秀の死後は丹羽長秀・浅野長政らが治め、江戸時代には日吉大社の門前町として復興。現在も滋賀県大津市坂本地区として、石垣(穴太衆積み)の美しい町並みが残っています。


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Q. 比叡山と高野山ではなぜ扱いが違った?

信長は本願寺・延暦寺・高野山にもそれぞれ対応しましたが、徹底焼き討ちに踏み切ったのは延暦寺だけです。延暦寺が浅井朝倉という具体的な敵を匿った直接行動を取った一方、高野山は本格交戦に至る前に信長が本能寺で倒れたためという指摘もあります(出典:Wikipedia日本語版「高野山」)。

Q. 焼き討ちの責任を信長以外に問う説はある?

近年では「現場部隊の判断で被害が拡大した」「光秀ら家臣が独自判断で殺戮を行った」とする説もありますが、最終責任は総大将である信長にあるというのが通説です。


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参考資料

この記事の著者(再掲)

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析。歴史学者ではなく、史料・学術書を整理する編集者として執筆。比叡山延暦寺・京都市内の関連寺社に複数回訪問。
最終更新日:2026年4月25日

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