【本能寺の変】織田信忠はなぜ逃げなかったのか?京都にいた理由とは

この記事では「本能寺の変」が起きた時、「織田信忠」が「なぜ逃げずに討ち死にしたのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信忠が逃げなかった理由」を、カンタンに理解できます。

 

「本能寺の変」が起きた時、「織田信忠」は逃げようと思えば逃げられたが、「逃げ切ったとしてもリスクがあった」ために「逃げなかった」のです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信忠」は、「本能寺の変」が起きた時、「逃亡しても明智軍に捕らえられる」可能性が高かったため逃げなかった。「逃亡に成功」したとしても、父「織田信長」からそのことを責められる可能性があったため、逃げることができなかった

 

2,信忠が「妙覚寺」から「二条御新造(二条御所)」へ移動した理由は、「二条御新造」のほうが防御に適していたから

 

3,信忠が京都にいた理由は諸説あり、ハッキリしていない。「徳川家康の案内役をつとめるため」、「羽柴秀吉の援軍として中国地方へ出陣するため」、「弟の信孝への陣中見舞いのため淡路島へ行く予定だった」など諸説ある。

「織田信忠」は、なぜ京都から逃げなかったの?

「本能寺の変」で亡くなった「織田信忠」が逃げなかったのは、「逃亡に失敗して明智軍に殺される可能性」と、「逃亡に成功しても父親の信長に罰せられる可能性」があっただと考えられます。

 

《織田信忠》
「引用元ウィキペディアより」

天正10年(1582年)6月2日早朝

 

戦国の覇者「織田信長」が、京都「本願寺」で、もっとも信頼していた部下「明智光秀」に討たれました。

 

「本能寺の変」です。

 

光秀がなぜ「織田信長」を討ったのかは、今も謎に包まれています。

 

このとき、「織田信長」とともに「明智光秀」に討たれた武将がいました。

 

織田信長の嫡男であり、後継者でもあった武将「織田信忠」です。

 

信忠は、明智光秀に討たれているのですが、1つの謎が残っています。

 

「なぜ織田信忠は、逃げなかったのか」

 

ということです。


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「明智軍に包囲されて、逃げることができなかった」

とも言われていますが、そうではありません。

 

実はこの『本能寺の変』で、逃げ延びた人は何人かいます。

  • 「前田玄以」は、織田信忠の息子「三法師」を連れて逃亡に成功しています。
  • 「織田信忠」に切腹するようにとすすめた信長の弟「織田有楽斎」も、逃亡に成功しているのです。

にもかかわらず、信忠が逃亡しなかった理由。

 

それは「逃亡をこころみて、途中で失敗し討ち取られたら、後世で笑いものとなるから」でしょう。

 

「当代記」という資料によると、信忠は家来が「安土城へ逃げるように」とすすめると

「明智光秀ほどの者が、京都からの逃げ道をふさいでいないはずがない。

 

逃げる途中で討ち果たされたら無念だ

 

今はここから撤退すべきではない」

と言ったとのことです。

 

それだけではありません。

 

もしも「信忠」が逃亡に成功したとしても、リスクがあります。

 

同時に「織田信長」も生き延びていたら、信忠はどうなるでしょうか?

「父・信長を見捨てて、一人だけ先に逃げた」

と言われて、もしかすると信長の怒りをかい、後継者から外されていたかもしれません。

 

  • 逃亡に失敗し亡くなるリスク
  • 逃亡に成功して後継者から外されるリスク

 

どちらにしてもリスクがあったのです。

 

「信忠の逃亡」が、誰からも非難されないためには、「信忠が逃亡に成功」し、かつ「信長が討ち死に」していなくてはいけないのです。

 

以上のことから、「逃亡」という選択肢は、信忠にはなかったと考えられます。


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妙覚寺から「誠仁親王」のいた「二条御新造」へ移動した理由

織田信忠は、「妙覚寺」から「二条御新造(二条御所)」へと移動し、そこで戦っています。

 

その理由は、「二条御新造」のほうが、籠城に適した施設だったからです。

 

織田信忠は、「本能寺の変」が起こったとき、「本能寺」から1kmほど離れた「妙覚寺」にいました。

 

ところが「信長が自害して亡くなった」という知らせを聞くと、「誠仁(さねひと)親王」の住居であった「二条御新造(二条御所)」という屋敷へ移動しています。

 

なぜ信忠は、「二条御新造」へと移動したのでしょうか?

 

理由は簡単です。

 

「二条御新造」のほうが、防御力に優れた城だったからです。


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もともとこの「二条御新造」は、織田信長が自分の屋敷として建設したものでした。

 

武将「信長」の屋敷だったため、防御施設としての備えもされていたのです。

 

それを「誠仁親王」へ「住居」として献上していました。

 

「二条御新造」は、現在の「烏丸少路」と「室町少路」の間にあったと言われています。

 

この「二条御新造」に、織田信忠は約「500」の軍勢で籠城。

 

京都周辺にいた信長の親衛隊「1000」が加わり、「1500」の軍で明智軍と交戦。

 

しかし圧倒的な明智軍に、信忠の軍は全くかないませんでした。

 

信忠は激戦の末に、切腹。

 

その遺骸は畳の下の土の中に埋められ、父「信長」と同じく、「光秀」に発見されることはありませんでした。

 

一説によると、織田信忠は「二条御新造」にいた「誠仁親王」が、「本能寺の変」に関与していたことに気づいたに「二条御新造」へ移動したとも言われています。

 

「誠仁親王」が「本能寺の変」に関与して、信長暗殺を企てており、そのことに信忠は気がついたというわけです。

 

真相を「誠仁親王」に問いただすため、「信忠」は「二条御新造」に移動したのだとか。

 

この「誠仁親王黒幕説」が真実かどうかは、定かではありません。

 

しかし可能性は極めて低いと思います。


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なぜ「織田信忠」は、京都にいたのか?

信忠がこの時「京都」にいた理由は、「家康の案内をするため」「中国へ出陣するため」「淡路島へ弟の陣中見舞いをするため」など、諸説あって定かではありません。

 

信忠がこのとき「京都」にいた理由が、実のところよくわかっていないのです。

  • 「徳川家康の観光旅行に、案内役として同行するため」
  • 「中国地方で戦う羽柴秀吉への援軍として出陣する予定だった父『信長』とともに出陣するため」
  • 「四国征伐へと向かう予定だった弟『織田信孝』への陣中見舞いのため、父『信長』とともに淡路へ行く予定だった」

 

もしかすると、このすべてが真実かもしれません。

  • 「家康の案内役」
  • 「中国出陣」
  • 「信孝への陣中見舞い」

信忠は、このすべてを行う予定で、このとき京都「妙覚寺」にいたのかもしれません。

 

信忠は【5月21日】に京都へ到着し、「本能寺の変」が起こる【6月2日】まで滞在しています。


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もしも「織田信忠」が生きていたら、歴史はどうなっていた?

もしも「織田信忠」が生きていたら、織田家が天下を統一していたはずです。

 

「豊臣秀吉」の天下もなかったでしょう。

 

なぜ「秀吉」が天下を取れたかというと、「信忠」が死んだことで起こった「織田家の後継者争い」に介入したからです。

 

この混乱を上手に利用した「秀吉」は、織田家の乗っ取りに成功したのでした。

 

その「豊臣秀吉」の死後に、「徳川家康」も、同じような方法で天下を取っています。

 

「秀吉」の死後、家康はわざと「石田三成」との派閥争いを起こします。

 

その「派閥争い」によって、豊臣家の勢力が「二つ」に分かれる事となるのです。

 

「関ヶ原の戦い」で、家康は「石田三成」との派閥争いに完全勝利しました。

 

この「関ヶ原の戦い」で、「徳川家康」と「石田三成」の主君だった「豊臣秀頼」は、完全に中立をたもっていました。

 

もしこのとき、「豊臣秀頼」が「石田三成」に味方していたら、「徳川家康」に勝ち目はなかったはずです。

 

なぜなら、「豊臣秀頼」が「石田三成」の派閥に味方していたら、それはすでに「派閥争い」ではなく、「徳川家康が豊臣秀頼に謀反を起こした」という構図になっていたからです。

 

そうなったら、「本能寺の変」を起こした「明智光秀」と同じく、「徳川家康に味方するものなど、ほとんどいなくなった」と考えられます。

 

もし「織田信忠」が生きていたら、「秀吉」も「織田家乗っ取り」などできなかったはずです。付け入るスキなどなかったのですから当然です。

 

なぜなら、信長から正式に後継者指名を受けていた「信忠」が生きていたら、「後継者争い」など起こらない。

 

「派閥争い」が起こったとしても、「関ヶ原」のときにはまだ8歳だった「豊臣秀頼」とは違い、成人していた「信忠」ならば、見事に「派閥争い」を沈静化させていたでしょう。

 

「織田信忠」が生きていたら、おそらく幕府を開いて天下泰平を目指していたと思います。

 

徳川家康の「江戸幕府」ほどの安定をつくれたかどうかは疑問ですが、少なくとも「秀吉の天下」はなかったと考えられます。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信忠」は、「逃亡して明智軍に捕らえられる」可能性があったため、逃げなかった。「逃亡に成功」しても、「信長」からそのことを責められる可能性があったため、なお逃げることができなかった

 

2,信忠が「妙覚寺」から「二条御新造」へ移動した理由は、防御に適していたから

 

3,信忠が京都にいた理由は諸説ある。「家康の案内」、「中国出陣」、「淡路島へ行くため」など

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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