皆さんはフランシスコ・ザビエルがどこの国の人なのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- フランシスコ・ザビエルは現在のスペイン人だが、当時存在していたナバラ王国の出身なので、ナバラ人と言って良いかもしれない
- 有名なフランシスコ・ザビエルの肖像画は、日本の神学校で西洋画の教育を受けた日本人が描いたものと考えられている
- ザビエルは、中国・広東省の上川島で46歳で亡くなった
この記事ではフランシスコ・ザビエルを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今はフランシスコ・ザビエルについて、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、フランシスコ・ザビエルに詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
フランシスコ・ザビエルは何人?
フランシスコ・ザビエルは、スペイン北部のナバラ人でバスク人
フランシスコ・ザビエル、現在のスペイン北部にかつて存在していた「ナバラ王国」という国の人です。
ナバラ王国とは、かつてスペインとフランスのあいだに存在していた小さな国です。
ザビエルは、そのナバラ王国の宰相(今でいう総理大臣)の息子なのです。
ですので、ザビエルが何人なのかというと、現在のスペインで生まれた人なので、スペイン人ということもできます。
しかし、もしかすると「ナバラ人」というのが正しいのかもしれません。
ナバラ王国は、1515年、ザビエルが9歳の頃にスペインへ併合されています。
民族としては、スペイン北部のバスク地方に住んでいた「バスク人」という民族です。
ただ、一部には、ザビエルはポルトガル人であるという人もいます。
ザビエルのプロフィール
【名前】フランシスコ・ザビエル
【生年月日】1506年4月7日
【没年月日】1552年12月3日
【享年】46歳
【生誕地】ナバラ王国ハビエル城
【亡くなった地】広東省上川島
【お墓】インド・ゴア州、ボム・ジェズ教会 ザビエル霊廟(廟の窓からザビエルの遺体が見えるらしい)
【崇敬教派】カトリック教会
【父】ドン・フアン・デ・ハッソ
【母】ドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタ
【兄】ミゲル
余談ですが、12月3日のザビエルの命日は、ザビエル祭とされています。
上智大学出身の編集者・山田五郎さんがいうには、上智大学はこの日を祝日としてお休みになっているようです。
フランシスコ・ザビエルの生涯と死因
フランシスコ・ザビエルの有名が肖像画や生涯について解説いたします。
死因と最後
フランシスコ・ザビエルは、熱病によって亡くなったとされています。
死因は、肺炎であると考えられます。
インドのゴア在住の神父は
「ザビエルは食事すらできないくらい胃に痛みを感じており、衰弱もひどかった。
しかし彼はそれでも働き続けていた」
と手紙に記しています。
その後、船が渡航禁止になるなどの苦難を乗り越え中国へ。
ザビエルは中国での活動をはじめてまもなく、肺炎を患い亡くなるのでした。
ザビエルの子孫の現在
フランシスコ・ザビエルには、子供がいないため子孫はいません。
しかし、ザビエルの兄の子孫が、日本に帰化しておられます。
スペイン出身のルイス・フォンテスさんは、日本に帰化して日本人になり、泉類治さんという名前になっておられます。
このルイス・フォンテスさんは、フランシスコ・ザビエルの兄であるミゲルの15代目の子孫なのです。
なんと泉類治さんは、日本へ来て司祭となり、帰化したあとになって初めて、兄からの連絡で自分がフランシスコ・ザビエルの兄の子孫であることを知ったのだといいます。
「すべてザビエルの導きだった」
とおっしゃっておられました。
2019年、泉さんは88歳で、長崎市の二十六聖人修道院の司祭をつとめておられます。
ザビエルの画像を解説
以下のフランシスコ・ザビエルの画像は、教科書にものせられているので有名でしょう。
実はこの絵、誰が描いたのかよくわかっていません。
評論家や編集者として有名な山田五郎さんが、ユーチューブチャンネルで教えてくれていました。
この絵が発見されたのは、1920年のこと。
大阪府茨木市千堤寺地区のお寺・教誓寺の住職・藤浪大超さんが、発見したのだとか。
この藤浪さんは歴史家としても活動していて、キリシタンのお墓があると東 藤次郎という人から聞きいて、お墓を発見したのだとか。
その東さんが、「うちには開かずの箱がある」と言っていたので、その箱を開けてみると、このザビエルの肖像画が出てきたのだそうです。
ザビエルが持っているのは、キリストの愛【聖心】と呼ばれるものです。
この絵をよくみると、ザビエルの口元から文字が出てくるように記されています。
これは
「神よ。満たされています。もう十分です」(神の愛で満たされました)
という意味になります。
ザビエルの聖心から伸びた十字架をはさむように描かれた『IHS』は、イエズス会のマークです。(山田五郎さん曰く、これはギリシャ文字だそうです)
その十字架の周囲にいる【頭と翼だけの天使】は、一番高いところにいる青い智天使ケルビムと赤い熾天使セラフィム。(緑の天使が何なのかは不明)
その下に書かれている漢字は当て字で
「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」漁夫環人 印・耶省可
という意味になります。
大阪府茨木市千堤地区は、戦国時代にキリシタン大名・高山右近の領地だった高槻の隣だったので、キリシタンの隠れ里となったのだとか。
山田五郎さんの推測によると、その隠れキリシタンの里で生活する人々のために、『何者か』が描いたものだろうとのこと。
漁夫環人・耶省可という署名は、一体なにを意味しているのか?
この漁夫というのは、漁師だった初代ローマ教皇・ペトロを意味しており、教皇が公認している画像であることを意味しているのではないかとのことです。
描いた人はおそらく、宣教師が日本につくったセミナリオ(神学校)で西洋画の訓練を受けた日本人だろうと推測されています。
余談ですが、セミナリオ(神学校)という教育機関の建設を許したのは、織田信長です。
安土にもセミナリオがあったといいます。
信長は、南蛮貿易が無ければ戦えない事情があったため、キリスト教の布教を手厚く保護したのです。
→→→→→【織田信長が南蛮貿易を重視した理由】についてくわしくはこちら
ザビエルの生涯年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
1506年 | 4月7日、ナバラ王国のハビエル城で誕生。 |
1515年 | ナバラ王国がスペインに併合される。 |
1525年 | パリ大学に留学。 |
1529年 | 母が死亡。(4年後に姉も亡くなる) |
1534年 | 8月15日、モンマルトルの聖堂で一生を神に捧げる「モンマルトルの誓い」を立てる。 |
1537年 | 6月、ヴェネツィアで司祭に叙階される。 |
1540年 | 3月15日、ローマを出発し、ポルトガル経由でインドに向かう。 |
1541年 | 4月7日、ポルトガルのリスボンを出発し、マラッカ、モルッカ諸島などで宣教活動を行う。 |
1547年 | マラッカで鹿児島出身の日本人「やじろう」出会う。やじろうは海賊出身で、人を殺めて逃げてきたという逸話がある |
1548年 | 11月、ゴアで宣教監督となり、翌年に日本へ向けて出発を決意。 |
1549年 | 4月15日、ジャンク船で日本へ向けて出発。8月15日、鹿児島に到着し、島津貴久に謁見。(島津貴久は、島津義久・義弘兄弟の父) |
1550年 | 8月、平戸に入り、10月下旬には京へ向けて平戸を出発。11月上旬に山口に入るが、禁教令のため周防を発つ。12月、堺に上陸。 |
1551年 |
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1551年 – 1552年 |
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1552年 |
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1552年 |
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余談ですが、フランシスコ・ザビエルを歓待した小西隆佐の息子である小西行長は、高山右近のすすめでキリシタンとなったといいます。
小西行長は、1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成とともに処刑され、亡くなっています。
石田三成はこのとき、最後の最後まで主君・豊臣秀頼を守ることをあきらめなかったといいます。
→→→→→【石田三成の最後の言葉と英雄の魂】についてくわしくはこちら
本名
フランシスコ・ザビエルの本名は【フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエルタ・イ・エチュベリーア】といいます。
エチュベリーアというのが、ザビエルという名前のバスク語での発音です。
バスク語とは、ザビエルの故郷の言語です。
彼の名前には、それぞれに意味があります。
- 「フランシスコ」は名前
- 「ジャッコア」は父親の苗字
- 「アスピルクエルタ」は母親の苗字
- 「エチュベリーア」はザビエルという名前のバスク語で発音したもの
ザビエルが日本に来た理由とは?
フランシスコ・ザビエルが日本へ来た理由は、日本人ヤジロウにすすめられ布教するためです
1517年、マルティン・ルターにより、世界を揺るがす宗教改革が起こりました。
その結果、カトリックから新たな派閥が生まれ、彼らは「プロテスタント」と呼ばれるようになりました。
カトリックは勢いを失わないために、世界中に教えを広めるための組織を設立します。
それが「イエズス会」です。
その組織に所属する熱心な宣教師がいました。
彼の名前は「ザビエル」。
ザビエルは布教のため、東を目指して船出します。
旅の途中、東南アジアの港町で運命的な出会いを果たします。
それは、日本から海を渡ってきた青年「ヤジロウ」との出会いでした。
元海賊で、人を殺めてしまって逃げてきたというヤジロウは、罪を告白するためにザビエルを訪ね、彼の口から未知なる国「日本」の存在が明らかになります。
当時、イエズス会が最終目的地としていたのは中国でした。
しかし、中国のさらに東に、日本という高い文化を持つ国があることを知ったザビエルは、そこに布教の光を灯そうと決意します。
そして、1549年、ザビエルはついに日本に上陸。
彼の情熱と努力によって、キリスト教は日本の地に根付いていくのです。
ザビエルのミイラがインドにある理由
世界中に散らばるザビエルの身体
ザビエルのご遺体は、石灰が敷きつめられた棺におさめられて、海岸に埋葬されました。
その後、マラッカへ移送され、その後インドのゴアへと移送されたのでした。
聖人は歳を取らないとか、腐敗したりしないといわれますが、ザビエルの遺体も腐敗しなかったようです。
1554年3月16日、聖パウロ聖堂で、ザビエルのご遺体(聖遺物)が、一般に拝観がされたといいます
このとき、ある女性の信者が、なんとザビエルの右足にかみつき、指2本を持ち去ったといいます。
この指は女性が亡くなった後、返還されています。
このインド・ゴアにあるフランシスコ・ザビエルの聖遺物(ご遺体)は、10年に一度開帳され、2014年11月23日〜2015年1月4日に開帳されたようです。
聖遺物は、キリスト教ではとてつもなく価値ある代物とされています。
そのため、各地から聖遺物である「ザビエルの遺体」を分けて欲しいという要請が出されます。
1614年、ローマのイエズス会総長からの命令により、セバスチャン・ゴンザレスという人が、祝福を与える手である右手を切り落とされたといいます。
この右腕のヒジから手首までは、現在、イタリアのローマ・ジェズ教会にあります。(1949年と1999年に来日したといいます。)
右腕の二の腕部分は、マカオにあります。
耳と毛は、ポルトガル・リスボンにあります。
歯は、ボルトガル・ポルトにあるといいます。
女性が噛みついた右足の指2本のうち1本は、ザビエルの故郷であるスペイン・ハビエル城にあるといいます。
胸骨の一部が、日本の東京、カトリック神田教会にあります。(実際にそれを見た山田五郎さんは「胸骨というから肋骨一本かと思ったら、ほぼ破片だった」と言ってました)
このように、フランシスコ・ザビエルのご遺体は聖遺物とされているため、世界各地にまつられているのです。
マカオでザビエルの骨を見学できる?
マカオの中心地、セナド広場から徒歩圏内に位置する聖ヨセフ修道院聖堂は、美しい教会が点在するエリアの中でもひときわ目を引く存在です。
1758年にイエズス会によって建設されたこの聖堂は、バロック様式の華麗な装飾が特徴です。
ドーム型天井には、フランシスコ・ザビエルの肖像画にも記されているイエズス会のマーク「IHS」の文字が輝き、マカオ屈指の美しいマリア像が訪れる人々を魅了します。
そして、この聖堂に秘められたもう一つの宝が、聖フランシスコ・ザビエルの右腕の遺骨です。
1619年にゴアからマカオへ運ばれた遺骨は、一度は日本へ送られたものの、キリスト教迫害の時代を生き抜き、再びマカオの地に戻ってきました。
聖堂内は静謐な空気に包まれ、歴史の重みと信仰の深さを肌で感じることができます。
ザビエルの遺骨の前で祈りを捧げる人、美しい装飾に見とれる人、それぞれ思い思いの時間を過ごすことができます。
マカオの歴史と文化を肌で感じたいなら、ぜひ聖ヨセフ修道院聖堂を訪れてみてください。
ザビエルのエピソード・逸話
蟹の奇跡
フランシスコ・ザビエルは、祈りのために海にほうりなげた十字架を、カニに拾ってもらったというエピソード、通称「蟹の奇跡」という逸話があります。
ザビエルには、カニにまつわる伝説やエピソードがたくさんあります。
フランシスコ・ザビエルが、アンボイナ島というところから布教のために出航しようとした時、海が荒れて船出できなかったのです。
そこでザビエルは、持っていた十字架を海に投げ込んで祈りを捧げると、嵐が止んで出航できたのでした。
セラン島というところに到着できたザビエルのもとへ、一匹のカニが近づいてきたのでした。
そのカニさんは、なんとザビエルが海へ投げ込んだ十字架を拾って、届けてくれたというのです。
さて、美術にくわしい編集者・山田五郎さんがいうには、シマイシガニという、十字架に似た模様のカニを見たザビエルが、十字架を持ってきてくれたと思ったのではないかと言っていました。
バチが当たりそうですが、以下に、茹であげられてしまった「シマイシガニ」の写真をのせておきます。
両眼のあいだにかけて、十字架のような、十字の剣のような模様があることに気がつくと思います。
このように、ザビエルはカニと関係が深い聖人なのです。
ザビエルが乗った船に穴が空いた時、カニたちが甲羅で穴をふさいで助けてくれたというエピソードもあるほどです。
切った腕から流れた血
死から50年が経過したザビエルの遺体から右腕を切り落とした際、鮮血が吹き出したといいます。
1614年、セバスチャン・ゴンザレスという人が、フランシスコ・ザビエルの右手を切り落としたともうしました。
実はこのとき、奇跡が起こったといいます。
亡くなってから50年も経過しているというのに、右腕から鮮血が飛び散ったというのです。
まるで生きたまま、腕を斬られたように、血が吹き出したのだとか。
これを人々は奇跡と呼び、のちにフランシスコ・ザビエルは、【聖人】つまり信仰の模範とするにふさわしい信者として列することになるのです。
ザビエルの頭は、禿げていない
教科書でおなじみの、頭頂部がツルツルなザビエル像。
実は、これは日本人の想像が生み出したイメージだったのです。
当時、写真技術はまだ存在せず、ザビエルの肖像画は彼の死後80年頃に描かれました。
そのため、文献や人々の記憶を頼りに、当時のカトリック修道士の一般的な髪型である「トンスラ」を参考に描かれたと考えられます。
しかし、海外にあるザビエル像を見ると、彼はフサフサとした豊かな髪をしています。
さらに、彼が所属していたイエズス会にはトンスラの習慣がなかったという説もあり、実際のザビエルはトンスラをしていない可能性が高いのです。
つまり、教科書に描かれているような「禿げ頭のザビエル」は、日本人によって作り上げられた架空のイメージだったといえるでしょう。
平戸ザビエル記念教会
長崎県平戸市、海と緑に囲まれた丘の上には、ひときわ目を引くゴシック様式の教会が佇んでいます。
その名は「平戸ザビエル記念教会」。
聖フランシスコ・ザビエルの3度の平戸訪問を記念して建てられたこの教会は、長い歴史と美しい景観で多くの人々を魅了しています。
教会の正式名称は「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」ですが、地元の人々からは親しみを込めて「ザビエル記念教会」と呼ばれています。
かつては「大天使聖ミカエル教会」という名で親しまれていたこともありましたが、ザビエルとの深い縁を後世に伝えるため、現在の名称に改められました。
教会の周辺には、光明寺や瑞雲寺などの歴史ある寺院が立ち並び、坂道を登りながら見上げる風景は「寺院と教会の見える風景」として平戸を代表する景観の一つとなっています。
鉄筋コンクリート造りの堂々とした建物は、左右非対称のアシンメトリーなデザインが特徴です。
左側には八角形の塔がそびえ立ち、独特なシルエットを描き出しています。
青い海と緑豊かな自然に包まれた平戸ザビエル記念教会は、ザビエルの足跡を辿り、歴史と文化を感じられる特別な場所です。
訪れる人々に安らぎを与え、平戸の旅の思い出を彩る貴重な存在として、これからも多くの人々に愛され続けるでしょう。
所在地
〒859-5152 長崎県平戸市鏡川町269
営業時間
-
- 6:00~17:00
電話番号
0950-22-3060
公式サイト
https://www.hirado-net.com/see/hokubu/see103/
まとめ
本日の記事をまとめますと
- フランシスコ・ザビエルは現在のスペイン人だが、当時存在していたナバラ王国の出身なので、ナバラ人と言って良いかもしれない
- 有名なフランシスコ・ザビエルの肖像画は、日本の神学校で西洋画の教育を受けた日本人が描いたものと考えられている
- ザビエルは、中国・広東省の上川島で46歳で亡くなった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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