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フランシスコ・ザビエルは何人?出身地の謎と切断された右手の行方を徹底解説

教科書で誰もが一度は目にしたことがある、あの特徴的な髪型の宣教師フランシスコ・ザビエル。

「日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人」として暗記した方も多いのではないでしょうか。

しかし、実は彼が生まれたとき、故郷は「スペイン」という国ではありませんでした。

ザビエルは一体「何人」なのかという疑問から始まり、彼の出身地の複雑な歴史、日本での本当の活動内容、そして死後に遺体から切り落とされた右手の行方など、歴史の授業では教えてくれない衝撃的な事実は数多く存在します。

なぜ彼の遺体はミイラとなり、遠く離れたローマへ右腕だけが送られることになったのでしょうか。

この記事では、フランシスコ・ザビエルに関する出身の秘密や、謎に包まれた死因、そして世界中に分散された遺体のその後について、最新の歴史研究に基づいてわかりやすく解説します。

彼の生涯を深く知ることで、戦国時代の日本と世界との知られざる繋がりが、より鮮明に見えてくるはずです。

この記事のポイント
  • ザビエルはスペイン人ではなく「ナバラ王国」の貴族だった
  • 京都での布教に失敗し外交官スタイルへ戦略転換していた
  • 死因は中国の上川島での過酷な環境による肺炎や敗血症
  • 遺体から切断された右腕は現在ローマの教会に安置されている
目次

フランシスコ・ザビエルは「何人」なのか?意外な国籍と出身地

項目事実と詳細
出身国ナバラ王国(現在のスペイン北部バスク地方)
民族バスク人
母語バスク語(公的な場ではロマンス語も使用)
よくある誤解「スペイン人」や「ポルトガル人」とされること

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「ザビエルはスペイン人ですか?」という質問に対する最も正確な答えは、「現代の地図で見ればスペイン領だが、彼が生まれた時は違う」というものになります。ザビエルが生まれた1506年当時、彼の故郷はピレネー山脈の麓にある独立した「ナバラ王国」という国でした。つまり、厳密にいえば彼はスペイン人ではなく、誇り高き「ナバラ人」としてこの世に生を受けたのです。

中世・ナバラ王国

しかし、ザビエルの運命は幼少期に大きく狂わされます。彼がまだ6歳だった1512年、隣国であるスペイン(当時はカスティリャ・アラゴン連合王国)がナバラ王国へ侵攻を開始したのです。ザビエルの父や兄たちは、ナバラ王家への忠誠を誓い、祖国を守るために必死に戦いましたが、圧倒的な軍事力を持つスペイン軍の前に敗北してしまいました。

この戦争の結果、ザビエルの実家である「ハビエル城(ザビエル城)」は、スペイン軍によって軍事拠点として使われないよう、塔の上部を破壊され、深い堀も埋め立てられてしまいました。彼にとってスペインとは、自分の故郷を奪い、家を没落させた「侵略者の国」だったという側面があるのです。彼を単に「スペイン人」と呼ぶことは、こうした複雑な歴史的背景や、彼が抱いていたかもしれない葛藤を見落としてしまうことになりかねません。

なぜ「ポルトガル宣教師」と誤解されることが多いのか

一方で、ザビエルが「ポルトガル人」だと勘違いされることもよくあります。これには当時の世界情勢と彼の活動背景が深く関係しています。結論から言えば、彼のアジアでの宣教活動が、当時のポルトガル王・ジョアン3世の公式な依頼と資金援助によって行われたからです。

当時は大航海時代の真っ只中で、スペインとポルトガルが世界を二分して勢力を広げていました(トルデシリャス条約など)。インドや日本を含む東洋への航路や貿易権を握っていたのはポルトガルだったため、ザビエルはポルトガルの首都リスボンから船出し、ポルトガル船に乗ってインドのゴアや日本の鹿児島へやってきました。

日本に到着した際も、彼は単なる宗教家としてだけでなく、ポルトガル王の外交使節としての顔を持って活動していました。そのため、当時の日本人や後世の人々が、彼の国籍をポルトガルと強く結びつけて考えるのは無理もないことなのです。

ちなみに、この時期の日本の歴史について詳しく知りたい方は、以下の記事も参考にしてみてください。ザビエルが来日した戦国時代の激動がよくわかります。

織田信長の有名な戦いを年表で一覧にして紹介!信長は戦に弱かった?


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ザビエルの故郷「バスク地方」はどんな場所?

ザビエルの故郷である旧ナバラ王国があった場所は、現在でいう「バスク地方」にあたります。ここはスペインとフランスの国境地帯に位置し、独自の言語と文化を持つ非常にユニークな地域です。バスクの人々は、自分たちの文化や言語に強い誇りを持っています。

ザビエルの母語はスペイン語(カスティリャ語)ではなく、実は「バスク語」でした。バスク語は周辺のヨーロッパ言語とは全く異なる系統不明の言語として知られており、習得が非常に難しいことでも有名です。彼はパリ大学に留学した際、同じ学生寮で偶然にも同郷のバスク人であるイグナチオ・デ・ロヨラと出会います。言葉も文化も違う異国の地で、同じバスク語で語り合える仲間との出会いが、後のイエズス会創設へと繋がっていったのです。

信長さん

同郷の絆って本当に強いですよね。もしパリでロヨラと出会っていなければ、ザビエルはただの学者として一生を終えていたかもしれません。この出会いが、日本の歴史をも変えることになったのです。


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日本にキリスト教を伝えたザビエル、本当は「何をした人」?

年表出来事
1534年パリでイエズス会を創設
1549年鹿児島に上陸(日本にキリスト教伝来)
1550年平戸、山口を経て京都へ向かう
1551年大内義隆に謁見し布教許可を得る

イエズス会の創設メンバー!教科書の肖像画に隠された秘密

ザビエルは何をした人かと聞かれれば、真っ先に「日本へのキリスト教伝来」が挙がりますが、彼の功績はそれだけではありません。彼は世界的なカトリック修道会「イエズス会」の創設メンバーのひとりでもあります。パリ大学時代、ロヨラら6人の仲間と共にモンマルトルの丘で「清貧・貞潔・聖地巡礼」の誓いを立てたことが、すべての始まりでした。

フランシスコ・ザビエル
引用元「Wikipediaコモンズ」より

有名な肖像画(神戸市立博物館蔵)をよく見てみると、ザビエルが手に燃えている心臓のようなものを持っていることに気づくでしょう。これは、彼の神への「燃えるような愛と熱意」を象徴している図像学的表現です。また、肖像画によっては、彼の口元から出る言葉として「主よ、これ以上(の苦しみ)はいりません(Satis est, Domine, satis est)」といった言葉が描かれていることもあり、苦難の中でも信仰を貫いた彼の強い精神性を表しています。

なぜ日本へ?運命を変えた日本人「ヤジロウ」との出会い

インドのゴアなどで活動していたザビエルが、なぜ遠い東の果てにある日本へ行こうと思ったのでしょうか。そのきっかけは、1547年にマラッカ(現在のマレーシア)で出会った一人の日本人、「ヤジロウ(アンジロウ)」の存在でした。

ヤジロウは故郷の薩摩で殺人(または過失致死)の罪を犯して日本を逃げ出した人物でしたが、ザビエルに対して「日本人は理性的で、道理が通じれば教えを受け入れるでしょう」と語ったといわれています。ザビエルはヤジロウの知的好奇心と誠実な人柄に深く感銘を受け、「日本人は知識欲が旺盛で、教化する価値のある優れた国民だ」と確信し、困難な航海を経て渡日することを決意したのです。ヤジロウとの出会いがなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。


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日本での苦難と実績!実は京都では門前払いされていた

1549年に鹿児島に到着したザビエルは、「日本の王(天皇)」に会って許可をもらえば、日本国全体が一気にキリスト教になると考え、苦労して京都まで徒歩で向かいました。しかし、1551年1月にたどり着いた京都は、応仁の乱以降の戦乱で荒れ果てており、彼が想像していたような華やかな都ではありませんでした。

さらに、ザビエルはキリストの教えである「清貧(貧しくあること)」を実践するため、ボロボロの服を着て裸足で歩いていました。そのため、天皇(後奈良天皇)や将軍・足利義輝への謁見を求めても、御所の守衛たちに「ただの汚い乞食坊主」扱いされて門前払いされてしまったのです。謁見に必要な高額な献金を持っていなかったことも、失敗の大きな要因でした。

この痛恨の失敗からザビエルは学びました。「日本では外見の威厳が重要だ」と悟った彼は、一度平戸に戻り、今度は絹の服を着て、時計や眼鏡、鉄砲、ギヤマン(ガラス製品)などの豪華なプレゼントを持参する「外交官スタイル」に切り替えました。その結果、山口の大名・大内義隆に謁見することに成功し、正式な布教の許可と、廃寺(大道寺)を住居として与えられる成果を得ることができたのです。

当時の将軍・足利義輝については、彼が持っていた名刀の数々からも、当時の武士たちの価値観や文化的な背景がうかがえます。ザビエルが会えなかった将軍について知りたい方はこちらをどうぞ。

足利義輝の刀の名前一覧!義輝が使った刀剣は今どこにあるのか


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志半ばでの最期…ザビエルの死因と「ミイラ」になった遺体の謎

項目内容
没年月日1552年12月3日(享年46歳)
死亡場所上川島(中国・広東省沖の島)
直接の死因肺炎、胸膜炎による敗血症(推定)
最期の言葉「主よ、私はあなたに望みをかけました」

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日本を去り、中国を目指した理由とは

日本での布教にある程度の手応えを感じたザビエルでしたが、同時に大きな壁にもぶつかりました。日本人の知識人や僧侶たちと議論する中で、「もしキリスト教が本当の真理なら、なぜ我々が尊敬し、万物の本源と仰ぐ中国(唐)の人はそれを知らないのか?」と問われることが非常に多かったのです。

ザビエルは、日本人の精神的支柱である中国を先にキリスト教化しなければ、日本への完全な布教は難しいという戦略的結論に至りました。そこで彼は日本を離れ、当時は厳しい鎖国政策をとっていた明(中国)への潜入を決意したのです。

ちなみに、ザビエルが去ってから約30年後、日本では「本能寺の変」が起き、さらにその後の関ヶ原の戦いを経て、キリスト教は厳しい禁教の時代へと突入していきます。時代の流れを知るには以下の記事もおすすめです。

【本能寺の変とは何か】その概要を世界一詳しくわかりやすく説明


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孤独な死…46歳で彼を襲った病と本当の死因

1552年、ザビエルは中国本土への密入国を果たすため、広東沖にある小島「上川島(サンシャン島)」で待機していました。しかし、約束していた中国人の業者は前金を受け取ったまま現れず、ザビエルは粗末な藁小屋で寒風と飢えに震える日々を過ごしました。

過酷な環境と極度のストレスがたたったのか、彼は高熱を出して倒れてしまいます。当時の記録や症状(高熱、胸の痛み、意識混濁など)から、現代の医学的見地では重度の肺炎と胸膜炎を併発し、最終的に敗血症ショックに至った可能性が高いと考えられています。

当時の治療法として行われた「瀉血(血を抜くこと)」も、衰弱した彼の体力をさらに奪う結果となりました。適切な医療も受けられないまま、忠実な従者であった中国人・アントニオに見守られ、ザビエルは46歳という若さで、中国本土の土を踏むことなくその生涯を閉じました。彼の最期は、偉大な聖人とは思えないほど孤独で過酷なものでした。

なぜ遺体は腐らない?世界を巡る「聖なるミイラ」の伝説

ザビエルの死後、遺体はすぐに腐敗しないように大量の石灰と共に棺に入れられ、海岸に埋葬されました。これは、後で骨だけを持ち帰るための一般的な処置でした。しかし、数ヶ月後に掘り起こしてみると、驚くことに遺体は全く腐敗しておらず、まるで生きているかのように血色が良く、傷つけると鮮血が流れたと伝えられています。

カトリック教会では、聖人の遺体が腐敗しないことは神の恩寵による「奇跡」とみなされます。この奇跡の遺体は、マラッカを経て、彼が拠点としていたインドのゴアへと運ばれました。現在もゴアにあるボム・ジーザス教会には、ミイラ化したザビエルの遺体がガラスの棺に入れられて安置されており、数年に一度、「聖遺体」として一般公開されています。

カトリック中央協議会の公式サイトでも、ザビエルの生涯や列聖についての詳細な情報が確認できます。

聖フランシスコ・ザビエル | カトリック中央協議会


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衝撃のミステリー!切り落とされた「右手」は今どこにある?

部位現在の所在地
全身(ミイラ)ボム・ジーザス教会(インド・ゴア)
右前腕ジェズ教会(イタリア・ローマ)
右腕上腕部聖ヨセフ修道院(マカオ)など分散

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遺体から切断された右腕…ローマへ送られた恐ろしい理由

ザビエルの遺体に関して最も衝撃的なのは、「右手が意図的に切り落とされている」という事実です。1614年、イエズス会の総長クラウディオ・アクアヴィーヴァの命令により、彼の右腕(肘から下)が切断されました。

現代の感覚からすると、遺体を損壊する恐ろしい行為に思えますが、当時のカトリック信仰においては、聖人の体の一部は「聖遺物(レリック)」として絶大な霊力を持つと考えられていました。特にザビエルの右手は、数えきれないほどの人々に洗礼を授け、祝福を与えた「奇跡の右手」として、最も神聖視されていたのです。

切断された右腕は、カトリック教会の総本山であるローマへと送られました。現在はローマにあるイエズス会の母教会、「ジェズ教会(Chiesa del Gesù)」の祭壇に安置されており、世界中から多くの巡礼者が訪れています。

実は日本にもザビエルの体の一部がある?

あまり知られていませんが、日本にもザビエルの体の一部が存在するという話があります。山口県にある「山口サビエル記念聖堂」や、神田カトリック教会など、日本国内のいくつかの教会において、ザビエルの遺骨の一部(微細な骨片)や、彼が入っていた棺の木片などが「一級聖遺物」として大切に保管されています。

これらは後にローマや海外の教会から正式に分与されたものです。彼が愛し、命がけで布教した日本の地に、数百年もの時を経て形を変えて戻ってきているというのは、なんとも感慨深い話です。山口サビエル記念聖堂では、ザビエルの功績を詳しく知ることができる資料展示も行われています。

山口サビエル記念聖堂 公式サイト

教科書には載らない「頭髪(トンスラ)」の真実

最後に、あのあまりにも有名な髪型についても触れておきましょう。頭頂部を剃るヘアスタイルはカトリックの修道士が行う「トンスラ(剃髪)」と呼ばれるもので、イエス・キリストがかぶった茨の冠を模しているとされています。

しかし、近年の歴史研究や神戸市立博物館の解説などでは、「実はザビエルはトンスラをしていなかったのではないか?」という説が有力視されています。当時のイエズス会では、社会に溶け込んで活動するために、修道士独自の服装や髪型(トンスラ)を廃止する傾向にありました。あの有名な肖像画は、彼が死後80年近く経ってから描かれたものであり、聖人として描かれる際に「カトリックの聖職者らしくはっきりとトンスラを描くべきだ」という後世の画家のイメージによって強調された可能性があります。

この肖像画に関する詳細な解説は、所蔵元である神戸市立博物館のページでも確認できます。

聖フランシスコ・ザビエル像 | 神戸市立博物館


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まとめ:ザビエルは「ナバラ王国」の誇りを胸に旅した情熱の人だった

  • ザビエルはスペイン人ではなく、バスク地方の「ナバラ王国」出身
  • 幼少期にスペイン軍に故郷を侵略され、実家は没落した過去を持つ
  • イエズス会の創設メンバーであり、肖像画の心臓は熱意の象徴
  • マラッカで出会った日本人「ヤジロウ」が来日のきっかけを作った
  • 京都での布教失敗を機に、貧しい姿から豪華な外交官姿へ変身した
  • 日本文化の根源である中国への布教を目指して日本を去った
  • 中国の上川島で、肺炎と敗血症により46歳で孤独な死を遂げた
  • 遺体は石灰に入れても腐敗せず、現在はインドのゴアに安置されている
  • 右腕は1614年に切断され、聖遺物としてローマのジェズ教会へ送られた
  • 教科書の「トンスラ」頭は、後世のイメージである可能性がある
  • 彼の遺骨の一部は、ゆかりの地である日本にも分与されている

参考文献

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