源義経と武蔵坊弁慶について、どんな関係なのかを、簡単にまとめると、以下のとおりです
- 源義経と武蔵坊弁慶は、最初は敵同士だったが、義経(別名・牛若丸)との決闘に敗北した弁慶は、義経の部下となった
- 義経と弁慶は1189年、藤原泰衡という人物により、殺害され、ほぼ同時に亡くなっている(衣川の戦い)。
- 弁慶には、義経を守るために、義経を棒で殴りつけたエピソードがある。これは勧進帳という、歌舞伎の有名な演目となっている
この記事では義経と弁慶の関係や、エピソードについて、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
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源義経と武蔵坊弁慶は、いったいどんな関係なの?
源義経と武蔵坊弁慶は、主君と家来、つまり上司と部下という関係です。
もともと2人は、敵同士でした。
2人は京都・五条大橋という場所で出会っています。
そして二人は、ある勘違いから、決闘することとなったのです。
この五条大橋の決闘について、くわしくは後で解説しますが、決闘は義経の勝利に終わりました。
義経に敗北した弁慶は、義経の部下となり、その後の義経の波乱の生涯を、ともに歩むこととなります。
弁慶は、義経を守るために、壮絶な最期を遂げることとなるのです。
源義経と武蔵坊弁慶の最期の様子とは?
源義経と武蔵坊弁慶は、1189年に藤原泰衡という武将に殺害されることとなります。
このとき弁慶は、義経を守るために、全身にハリネズミのようになるまで矢を受けて、たったまま亡くなったといわれています。(弁慶の立ち往生)
義経は生まれてまもなく、父・源義朝を、平清盛という武将によって殺害されています(平治の乱)
そのため義経は、父の仇である平清盛と、その一族である平家をうらみ、父の敵討ちをしようとしていたのです。
1185年、壇ノ浦の戦いで、義経は平家軍を滅亡させることに成功し、父の敵討ちを見事に達成。
ところが義経は、その直後に兄であり主君でもあった源頼朝から裏切られ、命を狙われるようになります。
日本全国を逃げ回った義経と弁慶は、ついに奥州藤原氏が支配する平泉へ逃げ延びます。(奥州とは、現在の東北地方のこと)
そこで義経は、藤原氏のボスである藤原秀衡に保護されます。
ところが秀衡は病死し、その息子の泰衡は、源頼朝に
「義経を殺さないと攻め滅ぼすぞ」
と脅されて、やむなく義経と弁慶が住んでいた衣川の館を攻撃。(衣川の戦い)
このとき、弁慶は館にこもっていた義経を守って、圧倒的多数の泰衡の軍団を相手に奮戦します。
さすがの猛将・弁慶も、雨のようにふりそそぐ矢を防げず、ハリネズミのようになって亡くなります。
ところが亡くなったあとも、弁慶が倒れることはなく、たったまま亡くなったのでした。
このスキに、義経は館の中で切腹したといわれています。
義経の首は、兄・源頼朝のもとへ送られましたが、首は損傷が激しく、義経本人であるとは判別できなかったといいます。
実は義経と弁慶は生き延びて、北海道または大陸へと逃げたという伝説があります。
義経と弁慶のエピソード・逸話
義経と弁慶のエピソード・逸話を、かんたんに解説いたします。
五条大橋の決闘
源義経は武蔵坊弁慶と、京都の五条大橋で出会い、そこで決闘したといわれています。(京都・清水寺で決闘したという説もあります)
その五条大橋の決闘は、源義経の勝利に終わり、敗北した弁慶は、義経に死ぬまで忠実につかえたというのです。
当時、京都は平清盛をトップとした彼の家族・血縁である平家が権力を独占していました。
「平家でないものは人ではない」
という言葉を口にするほど、平家の人間は調子に乗っていたのです。
これに怒った弁慶は、平家の侍たちを次々と襲い、その刀を奪い取っていたのです。
弁慶は999本の刀を奪うことに成功。ついに目標の千本目の刀を目前にして、一人の若者と出会うのです。
彼の名前は、牛若丸。
五条大橋で平家のサムライを待ち伏せしていた弁慶は、牛若丸を平家のサムライだと思いこんで、決闘をもうしこみます。
美しい女性を思わせる細身の牛若丸を、かんたんに倒せると思った弁慶でしたが、そうはいきませんでした。
鞍馬寺というところで、天狗から武術を学んでいた義経は、ヒラヒラと飛び回って弁慶をからかいます。
そしてついに、弁慶は牛若丸に倒されてしまうのでした。
牛若丸は、自分が平家に殺害された源氏のトップ・源義朝の息子であることを弁慶に説明します。
それを聞いた弁慶は、牛若丸の強さとその高貴な血統に惚れ込み、牛若丸の家来にしてくれと頼み込みます。
弁慶を家来とした牛若丸は、元服(成人)して源義経と改名。
そののち藤原秀衡を頼って奥州平泉へ身を隠し、平家打倒のチャンスを待ちます。
すると1180年、義経の兄・源頼朝が、平家を倒すために立ち上がったという知らせを聞きます。
これを聞いた義経は、弁慶をつれて、兄・頼朝に協力するため、奥州から伊豆へと出発。
1185年、壇ノ浦の戦いでついに平家を倒し、父のカタキをうった義経でしたが、なんと兄・頼朝に裏切られ、お尋ね者として弁慶とともに全国を逃げ回ることとなるのです。
勧進帳
兄・頼朝から裏切られた義経は、全国を逃げ回まわり、途中でさしかかった検問において、弁慶に助けられています。
このときのエピソードが、勧進帳と呼ばれて、歌舞伎でも人気になるほど有名になっているのです。
頼朝に追われて、今でいうところの全国指名手配された義経と弁慶は、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃亡しようとします。
ところが、旅の途中で関所にひっかかり、検査をされることとなります。
このとき、義経と弁慶は、修験者つまり旅の僧侶となって、身分を偽るのです。
ところが、この関所の責任者が優秀で、弁慶たちが僧侶ではなく、ニセモノではないかと疑います。
そこで弁慶は、勧進帳という、仏教の布教に使うための巻物を読んで聞かせて、自分たちが本物の僧侶であることを主張するのです。
スルスルと巻物を開く弁慶でしたが、開かれた巻物には何も書かれていませんでした。白紙です。
ところが弁慶は、スラスラと勧進帳にかかれているべき文句を口にするではありませんか。弁慶は白紙の巻物に、まるで本当に勧進帳にかかれているべき布教のための文字が記されているかのように、文章を応えていったのです。
さて、そんな弁慶の芝居に対して、関所の責任者は彼らを通そうとします。
ところが、一人の修験者の顔が義経に似ていると、関所の役人が訴えます。
絶体絶命のなかで、弁慶はとっさに義経を棒で殴りつけます。
「お前が義経に似ているせいで、疑われたではないか!」
そういって弁慶は、義経を叩き続けたのでした。
それを見た役人たちは、彼らへの疑いを晴らして、関所を通過させます。
主君であるはずの義経を、家来たちが棒で叩くなど、あり得ないことだと思ったためです。
関所を通過したあと、弁慶は義経にたいして涙ながらに謝罪し、それに対して義経もやさしく許したのでした。
その後、義経たちは無事に平泉へ到着。
しかし義経をかわいがって守ってくれた藤原秀衡はまもなく病死。
友であったはずの秀衡の息子・泰衡に裏切られた義経と弁慶は、平泉の衣川の戦いで戦死するのでした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 源義経と武蔵坊弁慶は、最初は敵同士だったが、義経(牛若丸)との決闘に敗北した弁慶は、義経の部下となった
- 義経と弁慶は1189年、藤原泰衡という人物により、殺害され、ほぼ同時に亡くなっている(衣川の戦い)。
- 弁慶には、義経を守るために、義経を棒で殴りつけたエピソードがある。これは勧進帳という、歌舞伎の有名な演目となっている
以上となります。
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