皆さんは、紫式部の夫である藤原宣孝の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原宣孝の【現在の子孫】甘露寺広長さん、徳大寺公英さん
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下
- 藤原宣孝の【主要な子孫】平重盛、平維盛、平資盛、待賢門院璋子、後白河法皇、藤原隆方、西園寺公望、住友友純、土御門上皇
この記事では「藤原宣孝の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「藤原宣孝の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤原宣孝の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原宣孝の子孫の現在
ここでは藤原宣孝の子孫が、現在どうなっているのかを解説いたします。
甘露寺広長さん
藤原宣孝の子孫。
甘露寺家36代目当主の息子にあたるお方。
藤原宣孝の父で、甘露寺家の初代である藤原為輔が、甘露寺というお寺を建立したため、その子孫は「甘露寺」という苗字を名乗ったという。
その後も養子をむかえるなどして、甘露寺家は続き、今に至っている。
甘露寺家は、藤原宣孝と別の妻とのあいだに生まれた子・藤原隆光によって引き継がれたため、藤原宣孝の妻だった紫式部の血筋は、引き継がれていない。
徳大寺公英さん
藤原宣孝の女系子孫。
徳大寺家32代目当主。
美術評論家。
徳大寺家は、藤原宣孝の玄孫(孫の孫)である徳大寺実能を祖とする。
その後も公家として、朝廷につかえる大臣を、何人も輩出している。
徳大寺公英さんの曽祖父(ひいおじいさん)にあたる29代目の徳大寺実則は、元内閣総理大臣・西園寺公望の実の兄にあたる。
息子さんが33代目であり、同じく美術評論家として活躍。
藤原宣孝の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
ここでは、藤原宣孝の子孫の中でも、有名人または芸能人として活動しておられる人をご紹介いたします。
天皇陛下
現在の天皇陛下は、藤原宣孝の子孫にあたるお方。
宣孝と妻の紫式部のあいだに生まれた子を通じて、子孫が皇室へとつながっている。
藤原宣孝と紫式部の子孫である源在子が、後鳥羽上皇に寵愛されて、土御門上皇を産んでいる。
後鳥羽上皇も土御門上皇も、承久の乱で敗北し、流罪となった。
しかし土御門上皇の子である後嵯峨天皇が即位し、現在の皇室へ、その血筋が引き継がれている。
そのため、現在の天皇陛下は、藤原宣孝の子孫ということになる。
当然ながら、藤原宣孝の子孫ということは、同時に紫式部の子孫でもある。
藤原宣孝の主要な子孫一覧
ここでは、藤原宣孝の子孫の中で、歴史に名を刻んだ有名な人物について解説いたします。
平重盛
藤原宣孝の子孫。
平清盛の長男。
藤原宣孝と紫式部の間に生まれた子を通じた子孫にあたる。
おごる平家一門の中で、ゆいいつの良心とされた人物。
常に後白河法皇への忠誠を忘れず、その後白河法皇と敵対しようとする父・清盛をいさめた。
ところが、実母を早くに亡くしたこともあって、後ろ盾となる母の実家を持たず、平家一門での立場が徐々に弱くなっていく。
「早く死にたい」
という言葉を口にして、父・清盛よりも先に亡くなった。
平維盛
藤原宣孝の子孫。
平重盛の長男。
紫式部の子孫であるためか、その美しさから「光源氏の再来」と呼ばれた。
平家の武将でありながら、戦の才能はなく、富士川の戦いで水鳥に驚いて逃亡したという。
倶利伽羅峠の戦いでは、猛将・木曾義仲に惨敗。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡するよりも前に、失意のうちに、紀伊国(和歌山県)那智の海で入水して亡くなったという。
平資盛
藤原宣孝の子孫。
平重盛の次男。
平清盛の孫。
幼い頃に起こした殿下乗合事件で、馬を降りなかった非礼を摂政・藤原基房にとがめられて乱暴狼藉をされた。
父・重盛はこれに激怒し、藤原基房を襲撃して髪を切り落としたという。
その後は出世が停滞。
壇ノ浦の戦いで敗北すると、平有盛・平行盛とともに入水して亡くなった。
生存説があり、織田信長は平資盛の子孫を自称していた。
待賢門院璋子
藤原宣孝の子孫。
紫式部とは異なる妻とのあいだに生まれた子を通じての子孫が、この待賢門院璋子。
鳥羽法皇の寵愛を受け、崇徳上皇と後白河法皇を産んだ。
しかし崇徳上皇は、鳥羽法皇の子ではなく、鳥羽法皇の祖父である白河法皇と待賢門院璋子のあいだに生まれた子だという説がある。
そのため鳥羽法皇は、叔父であるにも関わらず、子といわれている崇徳上皇を、「叔父子」と呼んで嫌ったという。
待賢門院璋子の死を鳥羽法皇は、異常なほどに嘆き悲しんだ。
後白河法皇
藤原宣孝の子孫。
鳥羽法皇と待賢門院璋子の息子。
崇徳上皇の弟。
父・鳥羽法皇から、中継ぎの天皇として即位させられた。
父の死後、兄である崇徳上皇とのあいだで起こった保元の乱を勝ち残り、権力を握った。
平清盛とは協力関係を築き上げたが、のちに清盛との関係が破綻し、幽閉されることとなる。
- 平清盛
- 平宗盛と平家一門
- 木曾義仲
- 源義経
などを次々と破滅へ追いやった権謀術数の達人。
源頼朝からは「日本一の大天狗」と呼ばれていた。(つまり日本一のペテン師という意味)
死ぬまで頼朝に征夷大将軍の位を与えることを拒否し続けた。
1192年、後白河法皇が亡くなると同時に、頼朝は征夷大将軍に就任した。
藤原隆方
藤原宣孝の孫。
宣孝と別の妻の孫にあたるため、紫式部の子孫ではない。
父は藤原高光。
西園寺家と徳大寺家の祖の、祖父にあたる人物。
藤原氏の栄華を終わらせた人物・後三条天皇につかえたとき、まだ皇太子だった後三条天皇を侮辱したことがあったため、憎まれたという。
後三条天皇の息子である白河天皇の時代になって、ようやく出世が進み、但馬守に任命された。
娘が藤原公実へ嫁いでいる。
その藤原公実の妻となった娘が
- 西園寺家の祖・西園寺通季
- 徳大寺家の祖・徳大寺実能
- 後白河法皇の母・待賢門院璋子
の三人を産んでいる。
西園寺公望
藤原宣孝の子孫。
幕末から昭和にかけての人物。
元内閣総理大臣。
藤原宣孝の子孫にあたる徳大寺家の出身。
のちに西園寺家へ養子となった。
桂太郎と交互に政権を担当したために、「桂園時代」と呼ばれた。
松方正義が亡くなった後は、最後の元老と呼ばれ、大正天皇や昭和天皇を輔弼した。(元老とは天皇を輔弼する役割で、輔弼とは天皇へ進言・アドバイスすること)
京都の立命館大学は、西園寺公望の私塾である立命館が基礎。
住友友純
藤原宣孝の子孫。
幕末から大正にかけての人物。
西園寺公望の弟。
藤原宣孝の子孫にあたる徳大寺家の出身。
住友財閥の創業一族である住友家へ養子となった。
銀行業や芸術面で貢献した。
ひ孫の世代が、現在各界で活躍している。
土御門上皇
藤原宣孝の子孫。
紫式部の子孫でもある。
鎌倉時代初期の人物。
藤原宣孝と紫式部の子孫である源在子と、後鳥羽上皇のあいだに生まれたのが土御門上皇。
1221年、承久の乱に敗北した後鳥羽上皇は、隠岐へ流罪となった。
土御門上皇は、承久の乱には関わっていなかったため、罪を免れた。
しかし父が流罪となったのに、自分だけが罪を負わないのは忍びないと、自ら進んで土佐(高知県)へ流罪となった。
のちに阿波(香川県)へ流刑地が変わった。
息子にあたる後嵯峨天皇が即位し、その子孫が、現在の皇室につながっている。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原宣孝の【現在の子孫】甘露寺広長さん、徳大寺公英さん
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下
- 藤原宣孝の【主要な子孫】平重盛、平維盛、平資盛、待賢門院璋子、後白河法皇、藤原隆方、西園寺公望、住友友純、土御門上皇
以上となります。
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