藤原道長の父・藤原兼家の子孫の現在は?
子孫に、芸能人・有名人がいるのかも解説!
皆さんは藤原兼家の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原兼家の【現在の子孫】九条道成、近衛忠輝(細川・元総理の実弟)など
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下、細川護煕・元内閣総理大臣。
- 歴史上の【主要な子孫達】藤原道長、一条天皇、三条天皇、白河法皇、近衛前久、近衛文麿など
この記事では「藤原兼家の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「藤原兼家の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤原兼家の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原兼家の子孫の現在
ちなみに藤原兼家は、乙巳の変や大化の改新で有名な、中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫です。
九条道成(明治神宮の宮司)
藤原兼家の直系子孫。
元公爵家の九条家35代目当主。
2021年から、明治神宮の宮司。
九条道成さんは、藤原兼家とその子・道長だけでなく、藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)と直接血が繋がった直系子孫であることで有名。
他にも、五摂家と呼ばれる藤原氏の子孫達が、現在も続いている。
藤原道長の子孫は、5つの家に分かれ、苗字が変わって現在も続いている。
これらを五摂家と呼ぶ。
ちなみに五摂家とは
- 近衛家
- 一条家
- 九条家
- 鷹司家
- 二条家
の五つの摂関家のこと。
摂関家とは、摂政と関白を輩出することができる、最高の家柄のこと。
以下に、九条家以外の4家の現在の当主は以下の通り。
- 近衛忠輝さん(元首相・細川護煕の実の弟)
- 鷹司尚武さん
- 二条基敬さん
- 一條實昭さん(吉良上野介の子孫でもある)
五名は、全員が藤原兼家の子孫。
宇都宮氏
戦国時代に北関東を支配した宇都宮氏。
兼家の子である藤原道兼のひ孫・宗円が、宇都宮氏と名乗ったことが始まりとされる。
本当に道兼の子孫かどうかは、信ぴょう性に乏しいという意見もあるという。
しかし、乱暴者で有名だったという道兼の血を引いているだけあって、宇都宮氏は、歴史上驚くほどの戦闘能力を発揮。
元寇や戦国時代に、その力を発揮して活躍。
現在も宇都宮氏は続いており、栃木県益子町に、先祖代々の墓がある。
藤原兼家の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
ここでは藤原兼家の子孫の中で、現在活躍している有名人や芸能人がいるかどうかを解説いたします。
結論から申し上げますと、子孫として芸能人はいませんでした。
しかし、藤原兼家や道長の子孫は、日本全国に広がり、数多くの子孫に枝分かれしています。
そのため、子孫ではあるが、気が付いていないだけという人も多いと思われます。
藤原氏の子孫は、斎藤や伊藤など、藤という文字を苗字につかう人が多いようです。
ちなみに、この記事を記している筆者も、兼家や道長とは別系統ながら、藤原氏の子孫の一人です。
天皇陛下
天皇陛下は、藤原兼家の子孫にあたるお方。
兼家の娘である藤原詮子が、一条天皇を出産。
現在の天皇陛下は、その一条天皇の血を引く子孫。
天皇家には、詮子からだけではなく、詮子の弟・藤原道長や、兼家の孫である藤原伊周を通じても、その血筋が引き継がれている。
細川護煕
元内閣総理大臣の細川護煕さんも、藤原兼家の子孫。
細川護煕さんは、同じく元首相・近衛文麿の孫。
近衛文麿は、近衛家の30代目当主。
藤原兼家の子孫は、五摂家と呼ばれる5つの家に分裂。
その5つの家の筆頭が、近衛家。
その近衛家出身の細川護煕さんは、当然だが藤原兼家の子孫にあたる。
藤原兼家の主要な子孫一覧
ここでは藤原兼家の、歴史上でも特に有名な子孫をご紹介いたします。
藤原道長
藤原兼家の五男。
通称・御堂関白。
兼家の孫で、道長からすると甥にあたる藤原伊周との、叔父・甥の権力争いは有名。
伊周を長徳の変で失脚させると、権力を独占。
一条天皇に入内させた娘の彰子が、後一条天皇と後朱雀天皇を出産。
一条天皇、三条天皇、後一条天皇の三人の皇后を自分の娘で独占し、一家三立后を達成。
「この世は我が世」と詠んだ、有名な望月の歌を残すほどの、権力の絶頂を築きあげた。
最期は九体の阿弥陀如来像に囲まれて、極楽往生を祈りながら亡くなったという話は有名。
一条天皇
藤原兼家の孫。
兼家の娘・藤原詮子と円融天皇の子。
花山天皇の皇太子だった。
しかし一刻も早く一条天皇を即位させたいと願った祖父・兼家は、策略で花山天皇に罠を仕掛けて無理やり出家させ、無理やり位をゆずらせてしまった。(寛和の変)
一条天皇の即位後、祖父・藤原兼家は死去。
その後、長男・道隆の娘・定子が一条天皇に入内。
さらにその後、五男・道長の娘・彰子も一条天皇に入内。
一条天皇は定子を寵愛した。
定子は三度目の出産で亡くなり、若い彰子を残して、一条天皇も崩御した。
猫好きな天皇だったことで有名。
後三条天皇
藤原兼家の孫。
兼家の娘・超子と冷泉天皇の子。
一条天皇の皇太子となり、その死後に三条天皇が即位。
兼家はその頃すでに亡くなっており、息子の藤原道長が支配する時代。
三条天皇は、道長の娘・姸子を后とするが、道長との関係はよくなかったという。
眼病を患い、位を後一条天皇にゆずることを道長から迫られたという。
失明し、やむを得ず、息子の敦明親王を皇太子とすることを条件に、道長の孫である後一条天皇に位をゆずる。
死後、敦明親王は自ら皇太子を辞退。
孫の後三条天皇が、藤原氏の時代を終わらせることとなる。
白河法皇
藤原兼家の子孫。
三条天皇の孫である後三条天皇の息子。
後三条天皇は兼家の玄孫なので、兼家から見れば白河法皇は、孫の孫の子にあたる。
院政を行い、藤原氏の摂関政治を完全に終わらせ、兼家がつくりあげた栄華を終わらせた張本人。
天皇の位を、息子にゆずり、上皇として政治をあやつる院政と呼ばれる政治体制を行なった。
「サイコロ・鴨川・山法師。この三つ以外、すべて私の思うまま」
と豪語するほどの権力を手に入れた。
自由奔放な人物で、子供が50人近くいたという。
孫である鳥羽天皇と、その妻・待賢門院璋子とのあいだに生まれた崇徳上皇は、実は白河法皇の子だという説がある。
また、寵愛した祇園女御を、妊娠したまま平忠盛に褒美として与えたところ、生まれたのが平清盛だという説もある。
のちに崇徳上皇が起こした、保元の乱の遠い原因をつくった人物。
崇徳上皇
藤原兼家の女系子孫。
鳥羽法皇の息子。一説によると、鳥羽法皇の祖父である白河法皇の子だともいわれている。
父の鳥羽法皇から、叔父子とよばれて嫌われた。(子でありながら、祖父の白河法皇の子であるため、実際には鳥羽法皇の叔父にあたるため、叔父子と呼ばれた)
鳥羽法皇の崩御の直後、弟の後白河天皇に対して、藤原頼長とともに保元の乱を起こす。
ところが保元の乱に敗北し、流罪となった。
流罪先で反省を込めて、または戦死者の供養のために写経に没頭。
自らの血または墨で記した経典を納めて欲しいと弟・後白河天皇に頼んだが、呪詛が込められているのではないかと疑われ、拒絶されて経を送り返された。
激怒した上皇は、夜叉のような姿となって、のちに天狗となったともいわれる。
亡くなった上皇の棺からは、蓋を閉めたのにもかかわらず、血が溢れたという。
しかし、流罪となったあとに詠んだ歌からは、悲しみあふれる歌はあるが、呪いや怒り・憎しみが感じられる歌は全くない。
にもかかわらず、怨霊となったといわれている悲劇の上皇。
崇徳上皇と、後述する平清盛が、本当に白河法皇の隠し子ならば、二人は異母兄弟ということになる。
平清盛?
武士として初めて太政大臣に登りつめた人物。
父は平忠盛だが、平家物語では、清盛は白河法皇の隠し子されている。
もしも本当に平清盛が白河法皇の血を引く息子ならば、清盛は藤原兼家の女系子孫ということになる。(しかし、おそらくその可能性は低い)
保元の乱と平治の乱に勝利し、出世を繰り返した。(保元の乱も平治の乱も、元はといえば白河法皇が遠因となっている)
武士として初めて太政大臣となり、上皇が持つ権力をも乗り越えた逸材。
「平家にあらずんば、人にあらず」
と豪語するほどの権勢を誇った。
紫式部の子孫である女性を正室とし、長男・平重盛が生まれる。
藤原頼長
藤原兼家の子孫。
通称・悪左府と呼ばれた左大臣。
平家物語に登場する。
とてつもなく優秀だったため、強いことを意味する悪の文字をつけた左大臣ということで、悪左府と呼ばれた。
藤原氏長者にのぼりつめ、一時は権力を握ったものの、絶対権力者だった治天の君・鳥羽法皇から嫌われ失脚。
鳥羽法皇が崩御した直後、同じく権力を失い失意のどん底にあった崇徳上皇とともに、保元の乱を起こす。
猛将・源為朝の夜襲案を却下し、後白河天皇・信西・平清盛・源義朝たちに敗北。
首に矢を射られたことが原因で亡くなったという。
男色家で、木曾義仲の父である源義賢と、愛人関係にあったという。
藤原頼経
藤原兼家の子孫。
兼家の子であり、道長の異母兄にあたる藤原道綱の子孫。
鎌倉幕府4代将軍。
通称・九条頼経。
源頼朝の同母妹である坊門姫のひ孫にあたる。
鎌倉幕府3代将軍・源実朝が、甥にあたる公暁に暗殺されたため、京都から将軍として招かれた。
息子の藤原頼嗣も、鎌倉幕府5代将軍となっている。
頼経は宮騒動で、息子の頼嗣は宝治合戦で失脚。
ともに北条氏によって京都へ送還され、直後に病気で亡くなっている。
頼経と頼嗣親子を、鎌倉幕府の摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍などと呼ぶ。
その後、鎌倉幕府は5代から9代まで、宮将軍・親王将軍を置いた。
宇都宮成綱
戦国時代の猛将。
藤原兼家とその息子・道兼の子孫。
奇蹟の武人と呼ばれた名将で、宇都宮氏中興の祖と呼ばれた。
蘆名・佐竹らと争い、宇都宮氏を北関東最大の戦国大名にまで成長させた。
その死後、宇都宮氏は、後北条氏に圧迫されることになる。
近衛前久
藤原兼家の子孫。
戦国時代の関白。
豊臣秀吉を猶子とした人物で、秀吉の仮の父にあたる。(猶子とは、身分などを継承するための仮の子)
織田信長や上杉謙信と親しい付き合いがあり、本能寺の変の黒幕なのではないかとも噂される人物。
お公家さんでありながら、馬術や鷹狩りなどの武芸も好む。
娘の近衛前久は、後陽成天皇に入内し、後水尾天皇を産んだ。
余談だが、後水尾天皇には、徳川家康の孫・和姫が入内し、明正天皇が生まれた。
近衛文麿
藤原兼家の子孫。
五摂家の筆頭・近衛家の30代目当主。
近衛前久の娘・近衛前子が入内した後陽成天皇の12世孫にあたる。
元首相・細川護煕の祖父。
三度にわたって首相を務め、1941年に第三次内閣を組織。
ところがわずか3ヶ月で退陣。
アメリカとの戦争は、その後、戦局が不利になっていく。
終戦後、A級戦犯として起訴される可能性があった。
ところが、1945年12月17日、近衛文麿は、自ら命を絶った。
「戦犯として裁かれることに耐えられない」
という言葉を書き残したという。
享年54歳。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原兼家の【現在の子孫】九条道成、近衛忠輝(細川・元総理の実弟)など
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下、細川護煕・元内閣総理大臣。
- 歴史上の【主要な子孫達】藤原道長、一条天皇、三条天皇、白河法皇、近衛前久、近衛文麿など
以上となります。
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