皆さんは武田信玄の出身地【甲斐国】が、何県なのかをご存知でしょうか?
【2023年】の大河ドラマ【どうする家康】で、俳優の阿部寛さんが演じた、あの名将・武田信玄のことです。
実は武田信玄の出身地について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
信玄の出身地・甲斐国とは、現在の山梨県のことです
この記事では信玄の出身地について、もっとくわしく解説いたしました。
今は武田信玄について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、信玄の出身地に詳しくなれます。
この記事を読んで、武田信玄についての疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,武田信玄の出身地は、何県なのか?
武田信玄の出身地は、甲斐という国。甲斐は、現在の山梨県のこと。
2,武田信玄は、いつ、どこで生まれたのか?
武田信玄は、【1521年12月11日】に、現在の山梨県甲府市にあった要害山城または積翠寺で誕生した。
3,山梨県にある武田信玄ゆかりの地とは?
山梨県には
- 武田神社
- 武田信玄公墓所
- 菩提寺・恵林寺
- 信玄堤
など、数々の信玄ゆかりの地が残されている。
武田信玄の出身地【甲斐国】とは、何県なのか?
名将・武田信玄の出身地は、甲斐の国です。
甲斐国とは、現在の山梨県のことです。
信玄が生まれた山梨県は、戦国時代の当時・甲斐国と呼ばれていたのです。
信玄は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市出身です。
甲斐国は、【1871年(明治4年)】の廃藩置県で、甲府県という名前に変更されています。
当時の甲斐国には、4つの郡が存在していました。
その一つに山梨郡にというものがありました。
現在の山梨県という名前は、その山梨郡に由来しています。
廃藩置県で甲府県と名前が変えられた甲斐国ですが、その後さらに山梨県と名前が変わり、現在に至っています。
【やまなし】という名前の由来は、甲府盆地の【山が無く、平らな様子】から、【やまなし】と呼ばれるようになったという説があるようです。
武田信玄は、いつどこで生まれたのか?信玄の誕生日をくわしく解説
武田信玄が生まれたのは【1521年12月11日】です。
(当時の年号と暦で表現すると【大永元年11月3日】)
生まれた場所には、2つの説があり、1つは山梨県甲府市にある要害山城。
またはその近くにあった積翠寺というお寺であると考えられています。
武田信玄の父・武田信虎は、現在の山梨県甲府市にあった躑躅ヶ崎館という屋敷を本拠地にしていました。
【1521年】、駿河国の今川氏の軍団が、武田信虎に攻撃を仕掛けてきたのです。
要害山城とは、躑躅ヶ崎館の北東に位置する城で、躑躅ヶ崎館が防御に向いていない建物だったため、緊急時の避難所として作られた城です。
武田信虎は、この要害山城へ妊娠していた妻・大井夫人を避難させ、そこで武田信玄が誕生したといわれているのです。
信玄の幼名は、太郎です。
または誕生のときに、武田が戦っていた今川家に勝利できるようにとの願いを込めて、勝千代と名付けられたという説もあります。
一説によると、生誕地は要害山城ではなく、その南西に位置している積翠寺ともいわれています。
(積翠寺には、信玄公の産湯の井戸が残されている)
武田信玄ゆかりの地について解説!山梨県にある信玄のお墓や住んでいた場所など
山梨県には、信玄ゆかりの地が数多く残されています。
- 甲府市の武田信玄公・墓所
- 甲州市の菩提寺・恵林寺
- 信玄の住居であった躑躅ヶ崎館の跡地に築かれた武田神社
- 山梨県甲斐市にある信玄堤
信玄の墓所は、各地に複数存在していますが、特に有名なものは2つ。
山梨県甲府市岩窪町にある武田信玄公・墓所。
もう一つ信玄のお墓が存在しています。
それが甲州市にある武田家の菩提寺・恵林寺の武田信玄公墓所です。
信玄は死の間際に【自分の死を3年間は秘密にするように】と遺言しています。
それが原因で、【武田信玄のご遺体がどこに埋葬されたのか】が、ハッキリとはわかっていないのです。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
この短歌は、武田信玄がつくったといわれているものです。
信玄は生涯に一度も、本拠地である甲斐国に、城をつくらなかったといいます。
織田信長は安土城という豪華な城をつくりました。
上杉謙信は春日山城という難攻不落の要塞に、生涯にわたって住み続けました。
それに対して武田信玄が本拠地として住んでいた躑躅ヶ崎館は、城というよりもお屋敷のような小さな建物だったようです。
信玄は城というものを使いこなすよりも、人を使いこなすことを重要視しており、城をつくらなかったのです。
人を大切にしていた武田信玄は、治水工事に力を注いでいました。
なぜなら甲斐は洪水が多く、稲作が難しかったからです。
甲斐国を生まれ変わらせるため、信玄は治水工事に取り組んだのです。
信玄は信玄堤と呼ばれる堤をつくって洪水を防ぎました。
そして新しい田んぼを開発し、甲斐国を豊かな地に生まれ変わらせたのです。
信玄堤は、今も山梨県甲斐市に残されており、洪水を防いでいます。
武田信玄が支配していた地域とは、一体どこなのか?
武田信玄は、生誕地・甲斐(山梨県)の他にも、信濃(長野県)の大半を支配していました。
甲斐を支配していた武田信玄ですが、知略の限りをつくし、信濃を侵略していったのです。
信玄が支配していた甲斐は洪水が多く、農業に向かない土地だったため、領民は貧しく、食料を必要としていました。
そのため、領民を食べさせるために、信玄は農地の豊かな隣の信濃国(長野県)を侵略していったのです。
信濃の北の一部を除く大半を征服した信玄は、関東・東海道などを侵略していきました。
甲斐・信濃以外に、織田信長が支配した地域は、以下のとおりです。
- 上野国(群馬県)の西半分
- 駿河国(静岡県中央部)の全部
- 遠江国(静岡県西部)の一部
- 三河国(愛知県西部)の一部
- 美濃国(岐阜県東部)の一部
- 飛騨国(岐阜県北部)の一部
武田信玄は甲斐国という小さな土地の領主から、知恵をふりしぼって上野(群馬県)から美濃(岐阜県南部)まで、広大な領土を支配するまでに成長したのです。
【1572年】、武田信玄は、最大の宿敵・織田信長に戦いを挑みます。
なぜ織田信長に戦いを挑んだのかというと、比叡山焼き討ちが起こったからです。
【1571年】に織田信長がおこなった比叡山焼き討ちという虐殺行為に、出家して僧侶となっていた信玄は激怒。
【2020年11月29日】に放送された大河ドラマ【麒麟がくる】の第34話【焼き討ちの代償】に、俳優・石橋凌さんが演じる武田信玄が登場するシーンがありました。
正親町天皇の弟・覚恕から頼まれて、織田信長の討伐を決意し表明するというシーンです。
【2023年】の大河ドラマ【どうする家康】にも、俳優・阿部寛さんが演じる武田信玄が、坊主頭と僧侶のような姿でたびたび登場しています。
実際に、出家して僧侶となっていた武田信玄が織田信長との決戦を決意した理由の一つとして、織田信長が比叡山を焼き討ちしたからというものがあったと思います。
しかし信玄は、あと一歩のところまで魔王・織田信長を追いつめたものの、病死してしまうのです。
余談ですが、覚恕もまた、比叡山焼き討ちから3年後の【1574年】に病死しています。
→→→→→【武田信玄が長篠の戦いまで生きていたら】についてくわしくはこちら
信玄が亡くなった場所は、どこなのか?
武田信玄が亡くなった場所は、信濃国・駒場というところだといわれています。
信濃国の駒場とは、現在の長野県 下伊那郡 阿智村 駒場と考えられています。
三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破した武田信玄は、織田信長を寸前のところまで追いつめながらも、【1573年】に病死。
その病死した地が、信濃国(長野県)の駒場だったというのです。
ただし、駒場のどこで亡くなったのか、具体的な場所はわかっていません。
それどころか、本当に駒場で亡くなったのかどうかもハッキリしていません。
そのため武田信玄・終焉の地は、各地に複数存在しています。
信玄ゆかりの地【川中島】は、どこにあるの?
武田信玄と上杉謙信が5回も戦った川中島の戦いは、現在の長野県長野市にある川中島でおこなわれました。
現在、川中島の戦いがおこなわれた場所には、八幡原史跡公園という公園があり、信玄と謙信の像が建てられています。
川中島とは、犀川と千曲川という2つの大きな川に挟まれた、いわゆる三角州のことです。
信濃国(長野県)の完全征服を目指していた武田信玄と、それを阻止しようとした上杉謙信は、この川中島で激突します。
川中島の戦いは、【1553年】から【1564年】まで、5回も行われた戦いです。
特に【1561年】に行われた第四次・川中島の戦いは、戦国時代でも最大級の激戦でした。
武田軍20,000人と上杉軍13,000人が激突。
両軍あわせて7,000人もの死傷者が出たといわれています。
この戦いで上杉謙信を倒せなかった信玄は結局、信濃国の完全征服をすることに失敗。
そこで信玄は、矛先を南に向けて、駿河国(静岡県中央部)への攻撃を開始するのです。
ライバル・上杉謙信の出身地は、何県なのか?
武田信玄のライバル・上杉謙信の出身地は、越後国(新潟県)の春日山城です。
春日山城は、現在の新潟県上越市春日山町という場所にありました。
【1530年2月28日】、上杉謙信は春日山城で誕生します。
幼名は虎千代。
幼い頃から乱暴な性格だった虎千代は、父親の長尾為景に嫌われたため、林泉寺という寺に入れられて、天室光育という住職に修行をほどこされます。
上杉謙信は正義感が強く、武勇に優れた武将に成長したといいます。
謙信は父のあとを継いだ兄・長尾晴景から家督を継承し、数々の戦に勝利を重ねます。
越後国(新潟県)を統一した上杉謙信は、甲斐国(山梨県)を支配していた武田信玄と激突。
両者は、それぞれの領地の間にある信濃国(長野県)を巡って、長いあいだ戦い続けるのです。
日経大学の教授・海上知明先生は、著書において上杉謙信のことを【世界史上最強の武将】と呼んでいます。
武田信玄が亡くなったあと何があった?その後に起こったことを解説
【1521年】に誕生した武田信玄は、【1573年】に織田信長や徳川家康を相手に戦っていたなか、病死します。
【1571年】、織田信長が比叡山焼き討ちをおこないました。
僧侶であり、仏教を深く信仰していた信玄は、比叡山焼き討ちをおこなった魔王・織田信長を討伐することを決意します。
浅井長政や朝倉義景そして足利義昭らと協力して、西上作戦と呼ばれる織田信長・討伐作戦を開始します。
ところが、信長を追いつめていたにもかかわらず、信玄は1573年に病死。
浅井長政や朝倉義景は、頼りだった信玄が亡くなったことで織田信長に追いつめられ、【1573年】に滅ぼされます。
信玄が亡くなった【9年後】の【1582年】、武田家は滅亡します。
信玄は、のちに天下を取った織田信長や徳川家康という二人の名将を恐怖させた名将でした。
そのため、信玄が亡くなったことを知った信長と家康は、とても喜んだといわれています。
【1575年】、信玄の四男で武田家の家督を継承した武田勝頼は、織田信長と徳川家康を相手にして、長篠の戦いで大敗。
この長篠の戦いで敗北した武田勝頼は、徐々に信長と家康に圧迫されて、【1582年】の甲州征伐で、ついに滅亡します。
伝説的な武将である源義家の弟・新羅三郎義光から始まり、数百年続いた名門・武田家は、こうして滅亡したのです。
武田家を滅ぼした織田信長でしたが、武田家滅亡からわずか3ヶ月後に、本能寺の変で明智光秀に討たれて亡くなります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,武田信玄の出身地は、何県なのか?
武田信玄の出身地は、甲斐という国。甲斐は、現在の山梨県のこと。
2,「武田信玄」は、いつ、どこで生まれたのか?
武田信玄は、【1521年12月11日】に、山梨県甲府市にあった要害山城または積翠寺で誕生した。
3,山梨県にある武田信玄ゆかりの地とは?
山梨県には
- 武田神社
- 武田信玄公墓所
- 菩提寺・恵林寺
- 信玄堤
など、数々の信玄ゆかりの地が残されている。
以上となります。
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