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武田信玄の出身地【甲斐国】は何県?信玄の誕生日や生まれた場所も解説

皆さんは「武田信玄の出身地【甲斐国】が、何県なのか」をご存知でしょうか?

【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」で、俳優「石橋凌」さんが演じた、あの名将「武田信玄」のことです。

実は「武田信玄」の「出身地」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

「信玄」の出身地【甲斐国】とは、現在の「山梨県」のことなのですが、この記事では「信玄の出身地」について、もっとくわしく解説いたしました。

今は「武田信玄」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「信玄の出身地」に詳しくなれます。

この記事を読んで、「武田信玄」についての疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,「武田信玄」の出身地は、「何県」なのか?

武田信玄の出身地は、「甲斐(かい)」という国。「甲斐」は、現在の「山梨県」のこと。

 

2,「武田信玄」は、いつ、どこで生まれたのか?

「武田信玄」は、【1521年12月11日】に、現在の「山梨県甲府市」にあった「要害山城(ようがいやまじょう)」または「積翠寺(せきすいじ)」で誕生した。

 

3,「山梨県」にある「武田信玄ゆかりの地」とは?

「山梨県」には

  • 「武田神社」
  • 「武田信玄公墓所」
  • 「菩提寺・恵林寺」
  • 「信玄堤」

など、数々の「信玄ゆかりの地」が残されている。



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「武田信玄」の出身地「甲斐国」とは、「何県」なのか?

名将「武田信玄」の出身地は「甲斐(かい)」の国です。

「甲斐国」とは、現在の「山梨県」のことです。

信玄が生まれた「山梨県」は、戦国時代の当時「甲斐国(かいのくに)」と呼ばれていたのです。

信玄は、現在の「山梨県」の県庁所在地である「甲府市」出身です。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

「甲斐国」は、【1871年(明治4年)】の「廃藩置県」で、「甲府県」という名前に変更されています。

当時の「甲斐国」には、4つの郡が存在していました。

その一つに「山梨郡」にというものがありました。

現在の「山梨県」という名前は、その「山梨郡」に由来しています。

「廃藩置県」で「甲府県」と名前が変えられた「甲斐国」ですが、その後さらに「山梨県」と名前が変わり、現在に至っています。

「やまなし」という名前の由来は、甲府盆地の「山が無く、平らな様子」から、「やまなし」と呼ばれるようになったという説があるようです。


「武田信玄」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「武田信玄・最強説を考察!ライバル・上杉謙信とどっちが強い?」の記事はコチラ



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「武田信玄」は、いつ、どこで生まれたのか?信玄の【誕生日】をくわしく解説

「武田信玄」が生まれたのは【1521年12月11日】です。(当時の年号と暦(こよみ)で表現すると【大永元年11月3日】)

生まれた場所には、2つの説があり、一つは山梨県甲府市にある「要害山城(ようがいやまじょう)」。

またはその近くにあった「積翠寺(せきすいじ)」というお寺であると考えられています。

「武田信玄」の父親である「武田信虎」は、現在の山梨県甲府市にあった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」という屋敷を本拠地にしていました。

1521年】、駿河国の「今川」氏の軍団が、「武田信虎」に攻撃を仕掛けてきたのです。

「要害山城」とは、「躑躅ヶ崎館」の北東に位置する城で、「躑躅ヶ崎館」が防御に向いていない建物だったため、緊急時の避難所として作られた城です。

「武田信虎」は、この「要害山城」へ妊娠していた妻「大井夫人」を避難させ、そこで「武田信玄」が誕生したといわれているのです。

信玄の幼名は「太郎」。または、誕生のときに戦っていた「今川家」に勝利できるようにとの願いを込めて、「勝千代(かつちよ)」と名付けられたという説もあります。

一説によると、生誕地は「要害山城」ではなく、その南西に位置している「積翠寺」ともいわれています。(積翠寺には「信玄公産湯の井戸」が残されている)


「武田信玄」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

「武田信玄の性格をカンタン解説!父親追放・長男処刑のサイコパス?」の記事はコチラ

「【武田信玄】家紋の画像と意味を解説!山口組の代紋と似てるが・・。」の記事はコチラ

「武田信玄の家臣団一覧!名臣・四天王の最期と最強の武将が誰か考察!」の記事はコチラ

「【武田信玄】子孫はモデルだが逮捕された?現在までの家系図を解説!」の記事はコチラ

「武田信玄の名言解説!一生懸命だと知恵が出る・人は城・の意味とは?」の記事はコチラ



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信玄の「お墓」や「住んでいた場所」など、山梨県にある「信玄ゆかりの地」について解説

山梨県には、信玄ゆかりの地が数多く残されています。

  • 甲府市の「武田信玄公・墓所
  • 甲州市の菩提寺「恵林寺
  • 信玄の住居であった「躑躅ヶ崎館」の跡地に築かれた「武田神社
  • 山梨県甲斐市にある「信玄堤

信玄の墓所は、各地に複数存在していますが、特に有名なものは2つ。

山梨県甲府市岩窪町にある「武田信玄公・墓所」。

もう一つ「信玄のお墓」が存在しています。

それが甲州市にある武田家の菩提寺「恵林寺」の「武田信玄公墓所」です。

信玄は死の間際に「自分の死を3年間は秘密にするように」と遺言しています。

それが原因で「ご遺体がどこに埋葬されたのか」が、ハッキリとはわかっていないのです。



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「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

この短歌は「武田信玄」がつくったといわれているものです。

信玄は生涯に一度も、本拠地である「甲斐国」に、城をつくらなかったといいます。

織田信長」は「安土城」という豪華な城をつくり、「上杉謙信」は「春日山城」という難攻不落の要塞に生涯にわたって住み続けました。

それに対して「武田信玄」が本拠地として住んでいた「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」は、城というよりも「お屋敷」のような小さな建物だったようです。

「信玄」は「城」というものを使いこなすよりも、「人」を使いこなすことを重要視しており、城をつくらなかったのです。

「人」を大切にしていた「武田信玄」は、治水工事に力を注いでいました。

洪水が多く、稲作が難しかった「甲斐国「を生まれ変わらせるために、信玄は「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれる堤をつくって洪水を防ぎ、新しい田んぼを開発し、甲斐国を豊かな地に生まれ変わらせたのです。

「信玄堤」は、今も「山梨県甲斐市」に残されており、洪水を防いでいます。


「武田信玄と城」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「武田信玄が城を持たない理由を解説!山梨県内・城跡の名前一覧!」の記事はコチラ



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「武田信玄」が支配していた地域とは、一体どこなのか?

「武田信玄」は、生誕地「甲斐(山梨県)」の他にも、「信濃(長野県)」の大半を支配していました。

「甲斐」を支配していた「武田信玄」ですが、知略の限りをつくし、「信濃」を侵略していったのです。

信玄が支配していた「甲斐」は洪水が多く、農業に向かない土地だったため、領民は貧しく、食料を必要としていました。

そのため、領民を食べさせるために、信玄は農地の豊かな隣の「信濃国(長野県)」を侵略していったのです。

「信濃」の大半を征服した信玄は、関東・東海道などを侵略していきました。

「甲斐・信濃」以外に、織田信長が支配した地域は、以下のとおりです。

  • 「上野国(群馬県)」の西側
  • 「駿河国(静岡県中央部)」
  • 「遠江国(静岡県西部)」の一部
  • 「三河国(愛知県西部)」の一部
  • 「美濃国(岐阜県東部)」の一部
  • 「飛騨国(岐阜県北部)」の一部

「武田信玄」は甲斐国という小さな土地の領主から、知恵をふりしぼって「上野(群馬県)」から「美濃(岐阜県)」まで、広大な領土を支配するまでに成長したのです。

1572年】、「武田信玄」は、最大の宿敵「織田信長」に戦いを挑みます。

なぜ「織田信長」に戦いを挑んだのかというと、【1571年】に織田信長がおこなった「比叡山焼き討ち」という虐殺行為に、信玄が激怒したのです。

2020年11月29日】に放送された大河ドラマ「麒麟がくる」の第34話「焼き討ちの代償」に、俳優「石橋凌」さん演じる「武田信玄」が登場するシーンがありました。

「正親町天皇」の弟「覚恕(かくじょ)」から頼まれて、「織田信長」の討伐を決意し表明する・・・というシーンです。

実際、武田信玄が「織田信長」との決戦を決意した理由の一つとして、「織田信長が比叡山を焼き討ちしたから」というものがあったと思います。

しかし信玄は、あと一歩のところまで魔王「織田信長」を追いつめたものの、「信玄」は病死してしまうのです。

余談ですが、「覚恕」もまた、「比叡山焼き討ち」から3年後の【1574年】に病死しています。


「武田信玄の死因」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「武田信玄の死因と最後の様子とは?肺結核ではなく胃がんで亡くなった」の記事はコチラ

「武田信玄の死因は織田信長による暗殺?もし長篠の戦いで生きていたら」の記事はコチラ



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「信玄」が亡くなった場所は、どこ?

「武田信玄」が亡くなった場所は、「信濃国」の「駒場」というところだといわれています。

「信濃国」の「駒場」とは、現在の「長野県 下伊那郡 阿智村 駒場」と考えられています。

「三方ヶ原の戦い」で「徳川家康」を撃破した「武田信玄」は、「織田信長」を寸前のところまで追いつめながらも、【1573年】に病死します。

その病死した地が、「信濃国(長野県)」の「駒場」だったというのです。

ただし、「駒場」のどこで亡くなったのか、具体的な場所はわかっていません。

それどころか、本当に「駒場」で亡くなったのかどうかもハッキリしておらず、そのため「武田信玄・終焉の地」は、各地に複数存在しています。


「武田信玄が患った病気」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「武田信玄が患った病気とは何か?死因はガンや結核ではなく寄生虫」の記事はコチラ



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「信玄」ゆかりの地「川中島」は、どこにあるの?

「武田信玄」と「上杉謙信」が5回も戦った「川中島の戦い」は、現在の「長野県長野市」にある「川中島」でおこなわれました

現在「川中島の戦い」がおこなわれた場所には、「八幡原史跡公園(はちまんぱらしせきこうえん)」という公園があり、「信玄」と「謙信」の像が建てられています。

《川中島の戦い》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

「川中島」とは、犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)という2つの大きな川に挟まれた、いわゆる「三角州(さんかくす)」のことです。



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「信濃国(長野県)」の完全征服を目指していた「武田信玄」と、それを阻止しようとした「上杉謙信」は、この「川中島」で激突します。

「川中島の戦い」は、【1553年】から【1564年】まで、5回も行われた戦いです。

特に【1561年】に行われた「第四次・川中島の戦い」は、戦国時代でも最大級の激戦でした。

武田軍2万人」対「上杉軍1万3千人」が激突し、両軍あわせて「7千人」もの死傷者が出たといわれています。

この戦いで「上杉謙信」を倒せなかった「信玄」は、結局「信濃国」の完全征服をすることに失敗。

そこで信玄は、矛先を南に向けて、「駿河国(静岡県中央部)」への攻撃を開始するのです。


「川中島の戦い」の勝者については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「【武田信玄と上杉謙信】川中島合戦の勝者は?塩や一騎打ちの話は嘘!」の記事はコチラ



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ライバル「上杉謙信」の出身地は、何県なのか?

「武田信玄」のライバル「上杉謙信」の出身地は、「越後国(新潟県)」の「春日山城」です

「春日山城」は、現在の「新潟県上越市春日山町」という場所にありました

《上杉謙信》
「引用元ウィキペディアより」
画像をクリックすると拡大できます

1530年2月28日】、「上杉謙信」は「春日山城」で誕生します。

幼名は「虎千代(とらちよ)」。



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幼い頃から乱暴な性格だった「虎千代」は、父親の「長尾為景(ながお ためかげ)」に嫌われたため、「林泉寺」という寺に入れられて、「天室光育(てんしつ こういく)」という住職に修行をほどこされます。

正義感が強く、武勇に優れた武将に成長した「上杉謙信」は、父のあとを継いだ兄「長尾晴景(ながお はるかげ)」から家督を継承し、数々の戦に勝利を重ねます。

「越後国(新潟県)」を統一した「上杉謙信」は、「甲斐国(山梨県)」を支配していた「武田信玄」と激突。

両者は、それぞれの領地の間にある「信濃国(長野県)」を巡って、長いあいだ戦い続けるのです。

日経大学の教授「海上知明」氏は、著書において「上杉謙信」のことを「世界史上最強の武将」と呼んでいます。


「上杉謙信」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

「【上杉謙信】強さの秘密を逸話・エピソードで解説!世界史上最強か?」の記事はコチラ



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『武田信玄』が亡くなった「その後」に起こったこと

1521年】に誕生した「武田信玄」は、【1573年】に「織田信長」や「徳川家康」を相手に戦っていた真っ最中に、病死します。

1571年】、「織田信長」が「比叡山焼き討ち」を強行。

僧侶であり、仏教を深く信仰していた「信玄」は、「比叡山焼き討ち」をおこなった「織田信長」を討伐することを決意。

浅井長政」や「朝倉義景」そして「足利義昭」らと協力して、「西上作戦」と呼ばれる「織田信長・討伐作戦」を開始します。

ところが、信長を追いつめていたにもかかわらず、信玄は【1573年】に病死。

「浅井長政」や「朝倉義景」は、頼りだった信玄が亡くなったことで「織田信長」に追いつめられ、【1573年】に滅ぼされます。

信玄が亡くなった【9年後】の【1582年】、「武田家」は滅亡します

「信玄」は、のちに天下を取った「織田信長」や「徳川家康」という二人の名将を恐怖させた名将でした。

そのため、「信玄」が亡くなったことを知った「信長」と「家康」は、とても喜んだといわれています。

1575年】、信玄の四男で武田家の家督を継承した「武田勝頼」は、「織田信長」と「徳川家康」を相手にして、「長篠の戦い」で大敗。

この「長篠の戦い」で敗北した「武田勝頼」は、徐々に「信長」と「家康」に圧迫されて、【1582年】の「甲州征伐」でついに滅亡します。

「源義家」の弟「新羅三郎義光」から数百年続いた名門「武田家」は、こうして滅亡したのです。

「武田家」を滅ぼした「織田信長」でしたが、武田家滅亡からわずか3ヶ月後に、「本能寺の変」によって「明智光秀」に討たれて亡くなります。


「織田信長」と「本能寺の変」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

「織田信長について全てを徹底解説!本能寺の変や年表・子孫を完全網羅」の記事はコチラ

「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「武田信玄」の出身地は、「何県」なのか?

武田信玄の出身地は、「甲斐(かい)」という国。「甲斐」は、現在の「山梨県」のこと。

 

2,「武田信玄」は、いつ、どこで生まれたのか?

「武田信玄」は、【1521年12月11日】に、「山梨県甲府市」にあった「要害山城(ようがいやまじょう)」または「積翠寺(せきすいじ)」で誕生した。

 

3,「山梨県」にある「武田信玄ゆかりの地」とは?

「山梨県」には

  • 「武田神社」
  • 「武田信玄公墓所」
  • 「菩提寺・恵林寺」
  • 「信玄堤」

など、数々の「信玄ゆかりの地」が残されている。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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