【継体天皇の謎】皇室は一度断絶していた?暴君・武烈天皇の逸話とは

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《継体天皇陵ではないかと考えられている今城塚古墳:wikipediaよりSaigen Jiroによる撮影》

「継体天皇」という名前は聞いたことがあっても、どういう功績を残した天皇なのか、説明できない人は多いのではないでしょうか?

実は私も大学で日本史を学ぶまで、「継体天皇」について詳しく知りませんでした。

継体天皇は「断絶しかけた皇統を、入り婿として繋いだ天皇」だったのです。

この記事では「継体天皇」についてあまり詳しくない方に向けて、分かりやすく解説していきます。

これを読んで「継体天皇ってそういう人だったのか」とスッキリ理解してくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 現在の皇室は「万世一系」つまり初代の神武天皇から「2600年」一度も断絶すること無く続いているとされているが、史学界では「応神天皇と継体天皇の代で計2度断絶している」と考えられている
  2. 「雄略天皇」は自らの後継者候補を次々と死に追いやったとされている。また「武烈天皇」にも数々の残虐な逸話が残されており、両者とも「暴君」だったと考えられている
  3. 現代の日本には皇室が「万世一系である」と主張する説と、「万世一系ではない」と主張する説がある。一時断絶しかけたが遠縁であった「継体天皇」によって皇室は繋がれたのではないか。

継体天皇の謎!継体天皇の代で、皇室は一度断絶していた?

皇室は「万世一系」ではなく、実は何度か断絶していた?

最近ベストセラーになった書籍や、週刊誌で日本史について連載を続けているとある作家が

「皇室は万世一系ではなく、武烈天皇の代で途絶え、継体天皇から新しい王朝が始まった」

と主張しています。

しかしそれは別に目新しい考えではなく、日本史学界では「日本の皇室は万世一系ではなく、実は2度、その系統が絶えた」と考えられています。

1952年】に早稲田大学教授「水野祐」は、『日本古代王朝史論序説』という著作で、皇室の万世一系を否定しています。

『日本の古代王朝は2度断絶した』と主張しました。


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これに対して東京大学の「坂本太郎」のように『皇室は万世一系である』と反論する学者もいます。

早稲田大学「水野祐」の学説は

「初代『神武天皇』から第9代『開化天皇』までの実在を疑い、第10代『祟神天皇』から古代王朝が始まる」

とするものです。

さらに「水野祐」は、

「古代王朝は、

大和の三輪に王朝を敷いた祟神天皇から始まる古王朝

河内に王朝を敷いた応神天皇から始まる中王朝

そして継体天皇から始まる新王朝の3期に分かれている」

と主張しました。

「水野祐」は第15代『応神天皇』と第16代『仁徳天皇』を同一人物と考え、「中王朝の創始者は『仁徳天皇』である」とも主張しています。


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暴君「雄略天皇」の虐殺により、天皇候補が激減

中王朝時代は、中国の「南宋」と交流があり、南宋の歴史書『宋書』には

「倭の五王が10回、南宋に使いを送った」

という記録が残されています。

使いを送った「倭の五王」のうち最期の1人「武」と記録されているのが「雄略天皇」です。

埼玉県行田市の「稲荷山古墳」から出土した「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」に賜ったという銘が入った「剣」は国宝に指定されていますが、「獲加多支鹵大王」は、『雄略天皇』の生前の名前なのです。

埼玉県から雄略天皇の名前が刻まれた「剣」が出土したということは、「雄略天皇」の時代に、奈良から遠く離れた「埼玉県」にまで中王朝の支配が行き届いていたという証ですね。

しかし雄略天皇は軍略に長け、中王朝の支配圏を広めるとともに、渡来人を重用して倭国を豊かにする政治を行う一方で、独善的で気性の荒い一面があったのです。


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雄略天皇は気性の荒さによって、自分が天皇となるために邪魔な存在となる古代天皇家の男子を、何人も殺してしまいました。

雄略天皇のこの行動は、早稲田大学教授「水野祐」が想定する中王朝最後の天皇『武烈天皇』の時代に、大変困った問題を引き起こしてしまいます。

中王朝の直系の血を引く男子が、「武烈天皇」しかいない状態になってしまったのです。しかも「武烈天皇」は大王に即位した後、子供を残さずに亡くなってしまいました。

朝廷は大王に第14代『仲哀天皇』(ヤマトタケルの父)の5世孫に当たる「倭彦王」を迎え入れようとしましたが、迎えの兵が屋敷に向かってくるのを見た「倭彦王」は、恐れおののいて山に逃げてしまいました。

「倭彦王」がなぜ逃げたのかというと、「雄略天皇」が身内の男性を情け容赦なく殺していたのを知っていて「自分の身も危うい」と思ったのかもしれません。

困った朝廷は、越前にいる「男大迹王(をほどのおおきみ)」へ大王即位を依頼したのです。


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「継体天皇」即位!しかし畿内入りに19年かかった!

男大迹王は『応神天皇』の5世孫。父「彦主人王」と母「振媛」の間に誕生。近江国(滋賀県)で生まれましたが、父「彦主人王」が若くして亡くなったため、母「振媛」の実家である越前(福井県)で育ちました。

越前はもともと干潟の多い土地でしたが、国を治めるようになった「男大迹王」は干拓を進め、越前国を豊かな穀倉地帯にしたのです。

越前国を豊かにした実績があるとはいえ、分家出身の自分が天皇位に就くには、古代天皇家の本流から外れ過ぎていることを、男大迹王は熟知していました。そのため、自分に大王即位を依頼してくる「朝廷」が何をたくらんでいるのか、その真意を疑ってしまいます。

大和国(奈良県)へ使いを出し、朝廷の重臣である大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)が真剣に自分の即位を願っていることを確認した「男大迹王」は、【507年】に即位。第26代天皇「継体天皇」となります。

早稲田大学教授「水野祐」は、継体天皇が畿内へ入るのに即位から19年もかかっていることから、

「男大迹王は古代王朝の血筋ではなく、本当は近江か越前の豪族で、皇位を武力で奪ったのだ」

と主張しました。

他の学者も

「畿内入りに時間がかかったのは、即位に反対する豪族があり、内乱状態が続いていたからではないか」

と主張しています。


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いずれにせよ、自分の生まれが天皇位には相応しくないと熟知していた「継体天皇」は、越前時代からの妃とその間に生まれた子もいたにもかかわらず、先帝「武烈天皇」の妹で第24代「仁賢天皇」の娘「手白香皇女」を皇后に迎ます。そうして生まれた皇子を「皇嗣(こうし・次の天皇候補者)」としました。

『日本書紀』と『古事記』の記述を信じれば、「応神天皇」の5世孫である「継体天皇」が、応神天皇の直系の女性に「入り婿」する形で、皇統をつないだということですね。

「継体天皇」と「手白香皇女」の間に生まれ、のちに天皇になったのが「欽明天皇」です。

欽明天皇は「敏達天皇」「用明天皇」「推古天皇」の父親ですから、「継体天皇」は現在の皇室の祖先ということになります。


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継体天皇の先代「武烈天皇」は暴君だった?その恐るべき逸話とは

暴君「雄略天皇」の直後、後継者問題にゆれた皇室

第21代天皇「雄略天皇」が、自分の即位の妨げになるからと、身内の古代天皇家の男性を何人も殺した結果、中王朝は深刻な「後継候補者の不足」に見舞われました。

「雄略天皇」は実在が疑われている天皇ですが、第25代「武烈天皇」が即位した時には、他に候補者がいない状態だったのです。

雄略天皇の子「清寧天皇」は結婚せず、子供がいませんでした。

自分に都合の悪い皇族を粛清した父親のせいで、他の皇族や豪族たちから娘を嫁がせるのを敬遠されたのかもしれませんね。

子供がなく後継がいないのを悩んでいた「清寧天皇」は、父「雄略天皇」が殺した父の従兄弟「市辺押磐皇子」の皇子2人が、播磨国(兵庫県)に隠れ住んでいるのを知ります。

そこで「清寧天皇」は、2人の皇子のうち兄「億計王(仁賢天皇)」を東宮(皇太子)、弟「弘計王(賢宗天皇)」を皇子として迎え入れました。


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「清寧天皇」は即位から5年後に崩御。

迎え入れられた2人の皇子のうち兄「億計王」は、隠れ住んでいた時に身分を明かしてしまったことを理由に即位を辞退。そのため弟「弘計王」へ天皇に即位するよう説得。弟「弘計王」は兄の説得に応じて即位し「賢宗天皇」となります。そして兄「億計王」は「皇太子」となります。

弟が「天皇」で、兄が「皇太子(次期天皇)」という逆転関係が発生したのは、この時だけでした。

即位から3年後、子供が無いまま「賢宗天皇」は崩御。兄「億計王」は弟のあとを継いで即位し「仁賢天皇」となったのです。

仁賢天皇は雄略天皇の皇女「春日大娘皇女」を皇后としました。

仁賢天皇の父は「雄略天皇」の従兄弟。中王朝王家の本流の血筋からすると、傍流の出身です。しかもその父親が天皇に即位していないため、「仁賢天皇」は父の仇である「雄略天皇」の娘を皇后することで、自らの皇位の正当性を主張する必要があったのでしょう。

この「皇后をむかえることで、自らの正当性を主張する」というやり方は、のちに「継体天皇」とその子である「欽明天皇」もやっています。

「仁賢天皇」は即位後11年生き、何人もの子供に恵まれましたが、男子は「武烈天皇」ただ1人だけだったのです。


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暴君「武烈天皇」の恐ろしい行為!実在しなかった説もあり

武烈天皇は『日本書紀』の記述によれば、かなり残虐な人物だったようです。

  • 妊婦の腹を割く
  • 人の手の爪を剥がして芋掘りをさせる
  • 髪を引っこ抜いた人を木の頂上に登らせ、その木を切り倒して殺す
  • 木に人を登らせて弓矢で射殺す、

などなど。まともな人間の所業とは思えない悪行が『日本書紀』には記載されています。

しかし不思議なことに、『古事記』には「武烈天皇」のこれらの悪逆非道が書かれていません。

『古事記』には

「(武烈天皇は)長谷の列木の宮で8年間天下を治めたが、皇嗣(あとを継ぐ天皇候補)がなく、近江から「男大迹王(のちの継体天皇)」に来てもらい、自分の妹「手白香皇女」と結婚して後を継いでもらった」

としか書かれていないのです。


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平安時代に成立した『扶桑略記』には、「(武烈天皇は)18歳で亡くなった」と書かれていますが、「在位8年」で亡くなっていることから考えると、「武烈天皇」は10歳で即位したことになります。

なんだか、おかしな話ですよね。

『日本書紀』に描かれている悪逆非道な振る舞いが『古事記』には書かれていないことから、「武烈天皇」は実在の天皇ではなく、架空の天皇だとする学説もあります。

天皇位を継ぐには血縁関係が薄かった「継体天皇」の即位を正当化するために、古代中国の「殷の紂王(ちゅうおう)」をモデルに、残虐非道な武烈天皇を創作したのだ・・・とする学説もあるのです。

武烈天皇が実在したかどうかは史料が乏しく、学界でも議論が分かれています。しかし実在したとすれば、祖父「雄略天皇」が邪魔者を殺すという残虐性をみせていたことを考えると、「武烈天皇」は祖父「雄略天皇」の残虐性を引き継いだのかもしれませんね。


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皇室の断絶は本当か?なぜ継体天皇は天皇になれたのか?

「万世一系説」と、「万世一系を否定する説」

1952年】に、早稲田大学教授「水野祐」が『日本古代王朝史論序説』で皇室の万世一系を否定する学説を発表したわけですが、当時は注目を集めはしたものの、賛同する学者は多くはありませんでした。

先述したように、東京大学の「坂本太郎」などのように、その意見に反対する学者が多かったのです。

しかしその後、「水野祐」の学説を批判的に発展させた「古代王朝交代論」を、「坂本太郎」の弟子である東京大学教授「井上光貞」が『日本国家の起源』で発表しました。

「井上光貞」の発表を皮切りに、大阪市立大学と岡山大学教授だった「直木孝次郎」、三重大学教授だった「岡田精司」、京都大学埋蔵文化財研究センター長と大阪女子大学学長を歴任した「上田正昭」らが『王朝交代論』をさらに発展させ、発表したのです。

現在「王朝交代論」は、古代史研究の戦後最大の学説と評価されています。

明治天皇の玄孫で、作家としても活動している「竹田恒泰」氏は

「継体天皇即位時に、王朝の交代の際に必ず起きるはずの戦争の記録が『日本書紀』にない。だから王朝の交代は起こっておらず、分家が本家と一緒になった・・・つまり天皇家の分家が本家を吸収したにすぎない(王朝交代ではない)」

と主張していますが、さて、どうでしょう?


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「継体天皇」の即位に反対した勢力がいた?

先述したように「継体天皇」は【507年】に即位しました。

即位したのは、河内国「樟葉宮」です。

ところが「継体天皇」は、朝廷の本拠地であった「大和盆地」になかなか入りません。

やっと大和盆地入りしたのは、即位から19年も経った【526年】のことだったのです。

河内国(大阪府東部)で即位したのに・・・・・それまで住んでいた越前国から大和盆地に入るよりも、河内という・・越前よりも大和にはるかに近い距離にいながら大和入りしなかったのは何故でしょう?

「直木孝次郎」は、この19年の間、継体天皇の即位を反対する勢力が大和にあり、戦闘状態だったのだろう・・・・と推定しています。


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『日本書紀』に戦闘の記録がないから戦闘はなかった・・・と単純に考えるのではなく、何故「継体天皇」は即位後19年も大和入りしなかったのか、その理由を具体的に考えなければなりません。

筆者個人は「水野祐」の説のように、「継体天皇」は近江や越前の豪族であり、皇位を簒奪したのではなく、『日本書紀』や『古事記』にあるように、「応神天皇(水野祐によれば仁徳天皇)の血筋」だったのだと思います。

しかし「5世孫」というのは、「孫の孫(玄孫)」ですから、すでに血はかなり薄くなっているでしょう。

分家と本家ではあっても、かなり遠い関係だったのではないでしょうか。

大和盆地の豪族たちの中にも、天皇の孫の孫を即位させることに納得せず、継体天皇の即位を推した大臣や大連に抵抗した者がいたでしょう。

その「いさかい」が戦闘状態にまで発展していたのだとすれば、19年も大和入りしなかったのも納得がいきます。

おそらく、反対勢力との闘争は実際にあったのでしょう。それをやっと平定したところで「継体天皇」は大和盆地入りしたのでしょう。


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「朝廷」が分裂していた説!「継体天皇」崩御後に内乱が起こった?

ところで何故か、継体天皇の没年が『日本書紀』と『古事記』で異なります。『日本書紀』では【531年】か【534年】、『古事記』では【527年】なのです。

『古事記』の記述を信じるなら、継体天皇は大和入りした翌年に崩御したことになりますよね。

しかし『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』では、「欽明天皇」の即位は【531年】となっているのです。

『古事記』の継体天皇の没年と『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』の「欽明天皇」の即位年を信じるなら、「4年」もの空白期間が生じます。

「継体天皇」と「欽明天皇」の間には、「安閑天皇」と「宣化天皇」が存在するので、2年ずつ在位した・・・という考えかたもできますが、『日本書紀』と『古事記』によれば、「安閑天皇」は【535年】に崩御したと書かれているのです。

これらの記述から

継体天皇が崩御した後、朝廷が「欽明天皇朝」と「安閑・宣化天皇」の2つに分裂したのではないか

と考える学者もいます。(朝廷が2つに分裂することは、「後醍醐天皇」の「南北朝時代」があったように、めずらしくはない)


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このように『日本書紀』には書かれていなくても、他の文献との比較検討から、「継体天皇」崩御後に内乱があったのではないか・・・という推測は成り立つのです。

『日本書紀』に王朝交代にまつわる戦争が書かれていないから、分家が本家と一緒になっただけと考えるのは、短絡的ではないか・・・と思います。

「継体天皇」が天皇になったのは、おそらく早大教授「水野祐」が想定するように、「中王朝」の後継男子が絶えてしまったため、中央朝の血筋につながる遠縁で、しかも政治家として実績を上げていた「継体天皇」に対して、重臣である大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)たちが白羽の矢を立てたのでしょう。

「継体天皇」は即位するにあたり、先帝「武烈天皇」の妹「手白香皇女」と結婚し、自らの皇后とすることで、自らの即位に正当性を与えました。

皇位簒奪ではなかったにせよ、直系の男子が絶えた王家に遠縁の男性が入り婿して後を継いだのです。

「武烈天皇」の崩御によって男系が絶え、越前からやってきた遠縁の男性によって、皇統は女系で繋がれたのではないでしょうか。


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『継体天皇』について「ひとこと」言いたい!

幼い頃に父を亡くし、母の故郷である福井県で育った「継体天皇」は、福井県で今も尊敬されています。

母「振媛」の故郷と言われる福井県坂井市には、「振媛」を祀る高向神社、「継体天皇」とともに暮らした「高向宮跡」が大切に守られているのです。

成人し、越前の国を治めるようになった「継体天皇」は、九頭竜川、足羽川、日野川に大規模な治水工事を行い、干潟が大部分を占めていた土地に干拓を行いました。

その結果として、豊かで広大な農地を得た越前は、農業が盛んになります。

さらに養蚕などの産業を興隆し、道を開いたことで交易が盛んになった越前は豊かな国となったのです。


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「武烈天皇」が崩御し、天皇として即位することが決まった後も、越前を離れがたかった継体天皇は

「末長くこの国の守り神とならん」

と願い、自分の御生霊を足羽神社に自ら祀り、祭祀を娘「馬来田皇女」に任せました。

そのため継体天皇は越前開闢の御祖神として、今でも慕われているのです。

政治家として有能だと見込まれたからこそ、遠い血筋ではあっても、大臣や大連が「越前のあの方なら」と、天皇への即位を要請したのでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 現在の皇室について、史学界では「応神天皇と継体天皇の代で2度断絶している」と考えられている
  2. 「雄略天皇」と「武烈天皇」は、数々の残虐な行為を行ったとされており、暴君という説がある
  3. 皇室が「万世一系である」と主張する説と、「万世一系ではない」と主張する説が存在する。継体天皇の代で一度断絶したという説については、遠縁であった「継体天皇」によって皇室は繋がれたのではないか。

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この記事を短くまとめると、以下の通り

現代の皇室は「継体天皇」から続いていますが、歴史学界において皇室は「万世一系」とは考えられていません。

1952年】に発表された早稲田大学教授「水野祐」の論文によれば、古代王朝は「祟神天皇」から始まる「古王朝」、「応神天皇」から始まる「中王朝」、「継体天皇」から始まる「新王朝」の3期に分かれています。

水野祐の学説は、発表当時は注目されても賛同者は多くありませんでしたが、その学説に批判を与える形で、他の学者によって王朝交代論は洗練されていき、日本古代史研究の「戦後最大の学説」と評価されるようになったのです。

「武烈天皇」が崩御した後、「応神天皇」の5世孫である「継体天皇」が越前から招かれ、武烈天皇の妹を皇后として即位しました。

しかしその即位はすんなりとはいかなかったようで、継体天皇が即位してから大和盆地に入るまでに、【19年】も時間がかかったのです。

継体天皇の即位時期、『日本書紀』に王朝交代による争いは記述されていませんが、おそらく反対勢力との闘争があったと考える方が自然でしょう。

治水事業や干拓事業で、越前を豊かな国にした継体天皇は越前開闢の御祖神として、今でも福井県で慕われています。

有能な政治家として評価されていたからこそ、継体天皇は朝廷の重臣「大臣や大連」から、即位を願われたのです。

《足羽神社の継体天皇像:wikipediaより立花左近による撮影》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「後醍醐天皇の性格を分析!その政治と隠岐脱獄でわかる理想主義の素顔」の記事はコチラ
「【孝明天皇とは】生涯年表と最期!死因の謎と伊藤博文による暗殺疑惑」の記事はコチラ

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