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真田丸とは何か簡単にわかりやすく解説!目的や名前に込められた意味とは?

皆さんは【真田丸さなだまる】を、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 真田丸とは、1614年の大坂冬の陣で、真田信繁さなだのぶしげ幸村ゆきむら)がつくり、立てこもった要塞のこと
  2. 真田信繁は、この真田丸をつかって、徳川軍に大打撃を与えた
  3. 大坂冬の陣が終わると、真田丸は徳川家康によって破壊された
  4. 真田丸を失った真田信繁は、大坂夏の陣で徳川家康の軍に突撃し、あと一歩まで追いつめたが敗れた

この記事では【真田丸】を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は【真田丸】について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、【真田丸】に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

真田丸さなだまるとは何か?

真田丸とは、要塞のことです。

真田丸は、【真田信繁(幸村)がつくって守った出丸でまる】なので、真田丸と呼ばれたのです。

真田丸は、大坂冬の陣でつくられた【要塞】

真田丸は、1614年の【大坂冬の陣】で、真田信繁(幸村)が大坂城の南側につくった要塞のことです。

真田信繁は、この要塞に立てこもって、徳川の大軍団を相手に大活躍したのです。

真田幸村
引用元ウィキペディアより

大坂冬の陣で、豊臣軍は難攻不落の要塞・大坂城に立てこもりました。

諸説あるものの、徳川軍は十数万。

それに対して豊臣軍は七万程度だったといわれています。

名将・真田信繁は、徳川の大軍団を倒すため、大坂城の南に真田丸という要塞をつくり、大打撃を与えたのでした。

諸説あるものの、徳川軍は一万人以上の損害を出したといわれているようです。


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真田丸という名前は、【真田の出丸でまる】という意味だった

真田丸という名前の意味は、真田信繁がつくって、真田信繁が守った出丸、という意味です。

真田信繁ではなく、例えば豊臣秀頼がつくって守ったのならば、豊臣丸と呼ばれたかもしれません。

出丸とは、城の外に出っ張った形の曲輪くるわのことです。

曲輪とは、城の区画のことです。

たとえば本丸ほんまるとか二の丸にのまる三の丸さんのまるなどと呼ばれる、堀や城壁で区分けされた部分を曲輪と呼ぶのです。

本丸は、お城の中でもっとも重要な曲輪であり、そこは城主が住み、天守閣てんしゅかくが置かれている場所です。

たとえば以下の写真は、松本城天守閣の写真ですが、この水堀に囲まれた天守閣がある場所が、松本城の本丸なのです。

松本城・天守閣

例として、以下に京都・二条城にじょうじょうの建物配置図をご用意いたしました。

この図の内側、水色の水堀みずぼりで囲まれた場所が【本丸】

そしてその【本丸】を囲むようにして、さらに水堀で囲まれた場所【二の丸】というわけです。

京都・二条城・建物配置図
引用元Wikipediaより

真田丸は、大坂城の外側に出っぱる形になっているために、出丸でまると呼ばれています。

真田信繁は、大坂城という巨大な城の南側に、【大坂冬の陣】を有利に戦うため、出丸をつくったのです。

それが、後世において、真田丸と呼ばれるようになったのです。


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真田丸の目的とは?何のためにつくられたのかを解説

真田丸は、大坂城の弱点である南側を補強するためにつくられました。

しかし実は、真田丸がつくられたことで、大坂城はかえって攻めやすくなったといわれています。

真田丸は、【大坂城の弱点を補うため】につくられた

天下無敵・難攻不落の要塞だった大坂城の南側にあった弱点をおぎなうために、真田信繁は真田丸をつくったといわれています。

以下の画像で、赤い丸で囲まれた場所が真田丸です。

大坂冬の陣布陣図
引用元Wikipediaより

真田信繁は、味方していた豊臣軍が立てこもる大坂城の南に、真田丸をつくって立てこもったのです。

なぜ大坂城の南側が弱点なのでしょうか?

真田信繁は、徳川軍団を二度も撃破した名将・真田昌幸さなだまさゆきの息子です。

真田昌幸
引用元Wikipediaより

その真田昌幸と真田信繁は、大坂城の弱点は南側だと考えていたといいます。

大坂城は、北・東・西の三方向からはとても攻めにくい、難攻不落の城でした。

しかし南側には、平らな大地が長く続き、ここに大軍団を置かれれば、天下無敵の大坂城といえども防ぎきれなかったのです。

そのため、真田信繁はその大坂城の南側の弱点を補うために、大坂城の南側の端に、真田丸をつくったのです。

ところが、真田丸がつくられたことで、かえって大坂城は攻めやすくなったという説もあります。

これこそが、名将・真田信繁の狙いだったというのです。


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真田丸のおかげで、逆に【大坂城は攻めやすくなった】?

真田丸がつくられたおかげで、大坂城の南側は攻めやすくなり、徳川軍は真田丸に殺到したといいます。

しかし真田信繁は、殺到した敵をまとめて鉄砲で撃ち倒したのでした。

実は、大坂城の南側は、弱点とはいえ崖にさえぎられた場所だったといいます。

大阪城・天守閣

真田丸は、その崖の外につくられたため、徳川軍からすれば、かえって攻撃しやすい場所にあったのです。

徳川軍は、攻撃しやすい真田丸に殺到しました。

ところが、これこそが真田信繁の狙いでした。

攻めにくい大坂城に、敵が攻撃を仕掛けて来なかったら、敵に損害を与えることはできません。

そのため真田信繁は、わざと真田丸を攻めやすいところにつくったのです。

攻めやすいところにつくられた真田丸には、真田軍の挑発もあって、徳川軍が殺到しました。

そこを真田信繁がひきいる【赤備あかぞなえ】と呼ばれる精鋭部隊によって、銃撃を受けて撃破されたのでした。

徳川軍は、真田丸で大損害を被ったのです。


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真田丸の最後とは?

真田丸は、1614年の大坂冬の陣が和睦で終わると同時に、徳川軍によって真っ先に破壊されました

真田丸は、大坂冬の陣が終わると【真っ先に壊された】

大坂冬の陣は、徳川軍と豊臣軍の和睦わぼく(仲直り)によって終わり、それと同時に真田丸は破壊されました。

徳川軍からのカルバリン砲という大砲に恐怖した淀殿よどどの茶々ちゃちゃ)が、徳川家康と和睦したのです。

淀殿(茶々)
引用元ウィキペディアより

カルバリン砲から撃たれた弾は、淀殿の目の前で侍女じじょに直撃し、地獄のような有様を生み出したといいます。

恐怖した淀殿は、家康と和睦。

この和睦の条件の一つが、もう戦をしないという証拠として、【大坂城を無力化すること】でした。

徳川軍は大坂城の曲輪くるわのうち、二の丸と三の丸を破壊してほりを埋め立てました。

そのなかでも真田丸は、徳川軍からすると厄介だったからなのか、真っ先に破壊されたといいます。

天下の名城・大坂城の防御力を恐れた徳川家康は、和睦の条件になかった大坂城の本丸の堀も、約束に違反して強引に埋め立てたといいます。

真田丸は、こうして大坂冬の陣の終了と同時に破壊され、姿を消したのです。


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真田信繁の、真田丸を失った【大坂夏の陣での戦い方】

真田丸を失った真田信繁は、大坂冬の陣の数ヶ月後に行われた【大坂夏の陣】で決死の突撃で、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめたといいます。

1615年、大坂冬の陣が終わってから半年後に、【大坂夏の陣】が起こりました。

大坂冬の陣が終わったあと、真田信繁たち浪人衆ろうにんしゅうが戦争を望んで暴走したため、家康が激怒。

こうして大坂夏の陣が始まったのでした。

大坂城という最強の防御要塞を失った豊臣軍は、もはや戦うすべを失っていました。

真田信繁は、3500人の軍をひきいて、徳川家康の首だけを狙って突撃。

真田の決死の突撃に、家康は馬印うまじるしを倒されるほど追いつめられました。(馬印とは、大将の居場所を知らせる目印。家康の馬印は金の扇子せんす

なんと二度も切腹をしようとするほどに家康は、真田信繁に追い込まれたのでした。

馬印を敵に倒されるという、武将としては最大の屈辱を家康に味わせたのは、三方ヶ原みかたがはらの戦いで家康を撃破した名将・武田信玄たけだしんげんと真田信繁だけです。

しかし、数で勝る徳川軍に押された真田信繁は、家康の孫・松平忠直まつだいらただなおに追い込まれていきます。

信繁は、安居やすい神社で休んでいたところを討ち取られたといいます。

真田信繁最期の地・大阪安井神社と真田信繁の像

その首から、真田信繁の武勇にあやかりたいと願う武将たちが髪を切って持ち去り、髪が無くなったといわれています。

安居神社・真田信繁の像

真田信繁が亡くなった直後、豊臣秀頼も淀殿も、自害して亡くなったのでした。

→→→→→【真田信繁の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら

→→→→→【豊臣秀頼の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら

→→→→→【淀殿(茶々)の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら


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真田丸の特徴とは?

真田丸は、敵に十字砲火をくらわせるための、鉄砲の能力を最大限に引きだすための要塞でした。

そして真田丸には、名将・武田信玄がつくった城の特徴があらわれているといいます。

敵を【鉄砲で狙い撃つため】の城だった

真田丸は、大坂城の南側に立てこもった鉄砲隊と連携して、鉄砲による十字砲火じゅうじほうかを浴びせるための城でした。

城とはいえ真田丸には、敵を誘い出して鉄砲で狙い撃つという、城という防御を本来の目的とする使い方とは違った目的がありました。

大坂城から出っ張った真田丸の鉄砲隊と、大坂城の南側に立てこもる鉄砲隊で、徳川軍に前と横から十字砲火をびせたといいます。

前と横から鉄砲という最新兵器で攻撃された徳川軍は、しかばねの山をつくったのでした。

騎馬軍団で有名な武田軍にゆかりのある真田信繁ですが、鉄砲の能力を余すところなく引き出すために、真田丸をつくったのでしょう。


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名将【武田信玄の城と特徴が同じ】だった

真田丸は、半円形の馬出しの形をしており、その形は武田信玄がつくった城と同じ特徴なのだとか。

信繁がつくった真田丸は、諸説あるものの、半円の形をしていたといいます。

これは、馬出しと呼ばれる形なのだとか。

特に武田信玄がつくらせた馬出しは特徴的で、半円の形をしているといいます。

真田丸も、以下の画像と同じように、半円の丸い形をしていたのだとか。

丸馬出し
引用元Wikipediaより

徳川家康を散々苦しめ、あと一歩のところまで追いつめた武田家は、1582年に滅亡しています。

その32年後の1614年、武田信玄につかえた真田昌幸の息子・真田信繁は、武田流兵法を駆使して家康を苦しめたのでした。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 真田丸とは、1614年の大坂冬の陣で、真田信繁(幸村)がつくり、立てこもった要塞のこと
  2. 真田信繁は、この真田丸をつかって、徳川軍に大打撃を与えた
  3. 大坂冬の陣が終わると、真田丸は徳川家康によって破壊された
  4. 真田丸を失った真田信繁は、大坂夏の陣で徳川家康軍に突撃し、あと一歩まで追いつめたが亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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