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【豊臣兄弟】織田信長の趣味と特技が多すぎる!龍に挑んだ水泳から刀剣収集!うつけの裏に隠された素顔

信長といえば「天下布武(てんかふぶ)」の言葉とともに、戦国の世を塗り替えた革命的な武将として知られています。

ところが、信長の「人となり」をよく調べてみると、まったく別の顔が見えてきます。

相撲を観ながら鼻をほじる癖があったともいわれる剽軽な一面、甘いお菓子を心から愛した甘党の素顔、そして出陣直前にも「人間五十年」と舞い続けた情熱家の姿——。

冷酷な「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と恐れられた男は、どんな趣味と特技を持つ人物だったのでしょうか。

この記事では、信長の多彩な素顔を史実にもとづいてひもといていきます。

ぜひ最後までお読みいただければ、教科書では出会えない「人間・信長」のリアルな姿をつかんでいただけるはずです。

  • 「尾張の大うつけ」と呼ばれた幼少期には、じつは深い戦略が隠されていました。
  • 幸若舞(こうわかまい)から相撲、水泳まで、信長の趣味は驚くほど幅広いものでした。
  • 金平糖(こんぺいとう)や干し柿など、好物からも信長の革新的な人物像が見えてきます。
  • 「第六天魔王」の由来は、武田信玄へのある痛烈な皮肉から生まれたものでした。

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目次

織田信長ってどんな人?

趣味やエピソードを深く楽しむためにも、まずは信長がどんな生涯を歩んだのか、その大まかな流れと業績を整理しておきましょう。

信長の生涯を年表でサクッと振り返り

織田信長の生年月日は、天文3年5月12日ごろ(西暦1534年ごろ)とされています(諸説あり。出典:Wikipedia「織田信長」)。出生地については、長らく那古野城(現・愛知県名古屋市)とされてきましたが、近年の史料再検証や城郭考古学の進展により、尾張国海東郡の勝幡城(しょばたじょう、現・愛知県愛西市・稲沢市)で生まれたとする説が学界では有力になっています(出典:稲沢市観光協会・城郭考古学の研究成果 ※参照:2026年3月時点)。

織田信長(長興寺蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

天文15年(1546年)に古渡城で元服し「織田三郎信長」と名乗りました。その後の生涯を大まかに年表でご覧ください(出典:太田牛一著『信長公記』およびWikipedia「織田信長」)。

西暦主な出来事最新学説・ポイント
1534年誕生(諸説あり)出生地は勝幡城説が有力
1560年桶狭間の戦い迂回奇襲説は否定され、正面攻撃説が有力(新説も登場)
1568年足利義昭を奉じて上洛当初は幕府の擁護者として振る舞っていた
1575年長篠の戦い「三段撃ち」は後世の創作。実態は野戦築城(馬防柵)と鉄砲の連続射撃陣地の組み合わせ(出典:『信長公記』)
1576年安土城築城開始日本初の「天主」を持つ城。天皇行幸を想定した政治的建築
1582年本能寺の変(享年49歳・数え年)明智光秀の動機は「四国政策転換説」が現在最有力

私はこの年表を見るたびに、信長がいかに短い時間で日本を変えたかに驚かされます。49年という生涯の中で、桶狭間から安土城建設まで、まるで飛ぶように時代を駆け抜けたのです。現代の経営者でいえば、10年で複数の業界を再編してしまうようなスピード感ではないでしょうか。

信長は何をした人?簡単エピソードまとめ

「信長はいったい何をした人なのか」という問いに、歴史の専門家は近年こんな言葉で答えます。「中世の多元的な権力構造を物理的に解体し、単一の権力による合理的な広域支配システムを構築した人物」——つまり、中世と近世のあいだに橋を架けた国家建設者です。

よく知られる「天下布武(てんかふぶ)」という言葉も、実は「日本全土を武力支配する」という意味ではなかったとされています。当時の「天下」とは畿内(きない)——京都とその周辺五か国の地域——を指す言葉でした。「武(ぶ)を布(し)く」とは、武家政権による法と秩序を京都に回復させるという宣言だったのです(出典:太田牛一著『信長公記』および学術研究 ※参照:2026年3月時点)。

信長が実行した主な変革を整理すると、次のとおりです。

  • 楽市・楽座(らくいち・らくざ):中世の同業者組合(座)の独占特権を廃止し、誰もが自由に商売できる市場を創出しました。
  • 関所の撤廃:街道沿いの通行料徴収を廃止し、物流と経済活動を爆発的に活性化させました。
  • 兵農分離の端緒:専業の兵士(常備軍)を組織化したことで、農民と武士の境界を明確にする近世社会の土台を作りました。

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うつけのあだ名に隠された幼少期の秘密

「尾張の大うつけ(おわりのおおうつけ)」——若い日の信長につけられたこのあだ名には、単なる「馬鹿者」以上の深い意味が隠されているようです。

なぜ「尾張の大うつけ」と呼ばれた?

清洲城公園側からの清洲城
Wikipediaコモンズ」より引用

信長の「うつけ」ぶりは、第一級の同時代史料である太田牛一(おおたぎゅういち)著の『信長公記(しんちょうこうき)』首巻に克明に記録されています。その内容はこうです。

髪を、茶道でお茶を混ぜるための道具である「茶筅」のような形をした茶筅髷(ちゃせんまげ)に結い、浴衣の袖を外して半袴姿で、腰には虎や豹(ひょう)の皮を巻きつけ、火打袋や瓢箪(ひょうたん)をぶら下げて町中を闊歩(かっぽ)していた——というのです。さらに、立ったまま瓜や柿をかじり、人の肩に寄りかかって歩き、重臣たちの行列を無視して好き勝手に振る舞ったとも記されています(出典:太田牛一著『信長公記』首巻 ※参照:2026年3月時点)。

現代の感覚でいえば、超個性的なストリートファッションに身を包んだ若者といったところでしょうか。近年の歴史学では、この「うつけ」の振る舞いは単なる奇行ではなく、当時の尾張で流行していた「かぶき者」文化の最先端を信長があえて体現した結果だったと解釈されています。

当時の尾張は、津島(つしま)や熱田(あつた)という商業港を抱える経済的先進地でした。そのような豊かな都市文化のなかで、伝統的な身分秩序を笑い飛ばす若者文化がすでに根付いていたのです。

さらに注目すべきは、政治的カモフラージュの観点です。父・信秀が亡くなったあと、信長は家中での権力争いにさらされていました。礼儀正しく旧来の武士の理想を体現していた弟・信勝(信行)のまわりには、林秀貞や柴田勝家といった重臣たちが集まり、家督(かとく)の簒奪(さんだつ)を狙っていたのです。「うつけ」を演じることで敵対勢力を油断させ、同時に不満を持つ家臣を炙り出すという、若き信長の高度な戦略だったとも考えられています(出典:近年の歴史学研究 ※参照:2026年3月時点)。

私もこのエピソードには、初めて知ったとき驚きを感じました。「大馬鹿者」と笑われながら、内心では誰よりも冷静に周囲を観察していたとすれば、まさに古今東西を問わない「賢者の振る舞い」だといえるでしょう。

実は優等生だった?特技の真相

「うつけ」と呼ばれながら、信長は身体能力という面では同世代の武将のなかでも際立った人物でした。『信長公記』には、信長が特技としていた運動が複数記録されています。鷹狩(たかがり)、水練(すいれん=水泳)、馬術、弓術、相撲——いずれも武将として命を守るための必須技術です。

とりわけ水泳にまつわる逸話は、信長の豪胆な性格をよく表しています。「龍が住む池がある」という噂を聞いた信長が、短刀を口にくわえて池に潜り、龍を探し回ったという話が『信長公記』に記されています(出典:太田牛一著『信長公記』 ※参照:2026年3月時点)。信長らしい向こう見ずな行動力が目に浮かぶ逸話です。

馬術についても、ただ馬を乗りこなすだけでなく、馬上から正確に弓を射る技術や、走る馬の上で立ち上がるような高度な騎乗技術を持っていたと同史料に散見されます。これらは後世の創作ではなく、日常的に過酷な身体鍛錬を重ねていた事実として確認されているそうです。

母親から距離を置かれ、「母衣衆(ほろしゅう)」と呼ばれる歳の近い親衛隊と遊び回っていたといいますから、孤独を感じていた面もあったのかもしれません。私はそのような幼少期の孤独が、信長の内側に「認められたい」という強い衝動を生み、あの反骨精神と旺盛な好奇心に火をつけたのではないかと感じています。


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信長の意外な趣味…戦国トップの遊び心

冷酷な合理主義者というイメージが先行しがちな信長ですが、近年の史料研究が明らかにしているのは、多彩な文化・芸術に深く傾倒した「文化人」としての姿です。

幸若舞や茶の湯、南蛮文化への愛

信長の趣味としてもっとも有名なのが「幸若舞(こうわかまい)」です。とくに『敦盛(あつもり)』という演目を愛し、生涯をかけて舞い続けたことが多くの史料に記されています。

人間五十年、下天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」——この一節は、信長の人生観と死生観を象徴する言葉として広く知られています。この詞章(ししょう)は、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が一の谷の戦いで若き平敦盛を討ち取った後、世の無常を痛感して出家した物語に基づいています(出典:太田牛一著『信長公記』および能楽協会の解説 ※参照:2026年3月時点)。

ここで私がみなさんにお伝えしたいのは、幸若舞と能(のう)の違いです。同じ「敦盛」でも、能の敦盛は荘重で静的な舞ですが、信長が好んだ幸若舞の敦盛は、もっと軽やかでリズミカルな踊りだったといわれています。信長が自ら舞うことを楽しんでいたのも、この軽やかさゆえかもしれません。

桶狭間の戦いの出陣直前、今川軍の大軍勢を前に覚悟を定めた信長が、湯漬けをかき込んだあとにこの『敦盛』を舞い、具足(ぐそく)を身につけて飛び出していったという逸話は有名です。自己の精神を極限まで高揚させる儀式として、幸若舞を活用していたのでしょう。

大河ドラマ「麒麟がくる」(NHK・2020年放送)では、俳優の染谷将太さんが織田信長を演じ、この桶狭間前の「敦盛」シーンを軽やかに舞い上がるような演技で表現していました(出典:NHK大河ドラマ公式サイト)。あの軽やかな舞いのリズムこそが、史実に近い幸若舞の「敦盛」の雰囲気なのかもしれない、と私は感じています。

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茶の湯への傾倒も、信長を語るうえで欠かせない趣味です。信長は「名物狩り(めいぶつがり)」と呼ばれる行為を積極的に行い、松永久秀(まつながひさひで)から献上された「九十九髪茄子(つくもなす)」などの天下の名物茶器を次々と集めました。

しかしこれは単なる収集癖ではありませんでした。信長は「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれる革新的な政治システムを構築したのです。領地という有限の土地を褒美として与える代わりに、「名物茶器の所有権」や「茶会の開催権」という無形の特権を家臣に付与することで、家臣団のヒエラルキーを統制し、恩賞のインフレーションを防ぐという経済的にも合理的な仕組みでした(出典:学術研究・茶道史研究 ※参照:2026年3月時点)。

さらに南蛮文化(なんばんぶんか)——キリスト教や西洋の文物——への関心も非常に強く、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスらと積極的に面会し、地球儀・西洋時計・ビロードの外套(がいとう)などを愛用していました。これは珍奇な舶来品への好奇心だけでなく、鉄砲の火薬(硝石)の供給ルート確保という軍事上の目的と、西洋の天文学・医学・地理学などの「実学」への知的な探求心の表れでもありました(出典:ルイス・フロイス著『日本史』 ※参照:2026年3月時点)。

南蛮屏風
Wikipediaコモンズ」より引用

ちなみにこれは余談ですが、滝川一益が茶器を欲しがったにもかかわらず、一つの国を与えられて不満を漏らしたという逸話があります。1582年、甲州征伐で武田が滅亡したときのことです。滝川一益が、上野国(群馬県)を領地として与えられました。これに対して滝川一益は「欲しかった茶器を与えられず、こんな田舎の土地を与えられて悲しい」という意味の言葉を残しています。この逸話は、よく、茶器が戦国武将にとってどれほど高価なものかを表すエピソードとして使われます。ここからは筆者独自の意見でしかありませんが、この滝川一益の発言は、「茶器がとても価値があるものであり、とても欲しかった」という意味ではなく、「上野国が遠すぎて、価値がない」ということを言いたかったのではないかと思います。滝川一益は、伊勢国(三重県)を領地として支配していました。京都という当時の日本の首都から近い伊勢国を支配していたので、その近くを褒美にもらえると思っていたら、めちゃくちゃ遠い上野をもらったことに、失望したという意味で「茶器にも劣る褒美だ」と言い放ったのではないでしょうか。滝川一益は、以前から茶器を欲しいと言っていたらしいですが、これはおそらく明智光秀や羽柴秀吉が茶器を信長に与えられたことに対抗心を燃やしていたため、茶器を欲しがったのではないでしょうか。とはいえこれはあくまで、私の予想・想像でしかありません。


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刀剣コレクター?スポーツ万能の意外な一面

長篠の戦い
Wikipediaコモンズ」より引用

信長の趣味のなかで、私がとくに興味深いと感じるのが「刀剣(とうけん)コレクター」という側面です。信長は、実休光忠(じっきゅうみつただ)・薬研藤四郎(やげんとうしろう)・不動国行(ふどうくにゆき)・大般若長光(だいはんにゃながみつ)など、当代随一の名刀を数多く手元に置いていたことが知られています。「へし切長谷部(へしきりはせべ)」「義元左文字(よしもとさもんじ)」といった刀を、単なる武器としてではなく、自らの権威を象徴するレガリア(王権の象徴)として扱ったともされています(出典:太田牛一著『信長公記』 ※参照:2026年3月時点)。

私はこれを、信長の収集癖の表れではないかと推測しています。茶器、刀剣、南蛮の文物——権力を持ち、金銭的な不自由がなくなった信長は、金に糸目をつけずに逸品(いっぴん)を集め続けました。たとえば、徳川家康はとにかく金を使わずに貯め込む「倹約家」として知られています。もしかすると家康は、信長の豪快な収集癖を間近に見ながら、反面教師としていたのかもしれません。ちなみに、秀吉は信長以上に収集癖があったらしく、茶器や名刀を集めまくったようです。これはおそらく信長への対抗心というか、信長を越えようとしたのでしょう。この対照的な二人の姿を想像すると、戦国時代の人間ドラマが生き生きと浮かびあがってきます。

スポーツという面では、「相撲(すもう)」への熱中ぶりも見逃せません。信長は自ら相撲を取るのみならず、安土城などで頻繁に「上覧相撲(じょうらんずもう)」を開催しました。身分や出自を一切問わず、腕っぷしの強い力士をその場で家臣として召し抱えるという「超実力主義の人材採用」を実践していたのです(出典:太田牛一著『信長公記』 ※参照:2026年3月時点)。

ここで、筆者の桜庭が小耳に挟んだちょっとした逸話もご紹介しましょう。信長は相撲観戦に熱中すると鼻をほじる癖があった、ともいわれています。天下人にしては、なんとも剽軽(ひょうきん)な姿ですが、地元の尾張・津島(つしま)の祭りに参加したという話も残っており、人々がわいわいと賑やかに集まって騒ぐ場が好きな人物だったのかもしれません。孤独な幼少期を過ごした信長にとって、大勢の人の笑顔と熱気は、特別な癒やしだったのではないでしょうか。

信長の好物はスイーツ?好みの食べ物事情

信長の食生活は、彼の合理的な性格と多趣味な人柄を如実に映し出しています。戦場ではあくまで機能を優先しながら、宴会の席では桁外れの豪奢(ごうしゃ)をふるう——その二面性はじつに興味深いものです。


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干し柿と金平糖…甘党の素顔

「織田信長は甘党だった」というイメージは、近年の大河ドラマや歴史小説でよく描かれますが、これには確かな歴史的裏付けがあります。信長の好物として記録に残っているのは、干し柿(ほしがき)・金平糖(こんぺいとう)・湯豆腐(ゆどうふ)・焼き味噌(やきみそ)・湯漬け(ゆづけ)などです。

干し柿については、信長が若き日に美濃の実力者・斎藤道三(さいとうどうさん)と正徳寺(しょうとくじ)で会見した際のエピソードに登場し、生涯を通じて愛食したと伝わっています(出典:太田牛一著『信長公記』 ※参照:2026年3月時点)。

そしてもっとも有名なのが「金平糖(こんぺいとう)」にまつわるエピソードです。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、フラスコに入れた金平糖を信長に献上したところ、信長は非常に喜んだとフロイスの著作に記録されています。当時の日本において砂糖は国内で精製できず、南蛮貿易を通じた輸入に完全に依存する超高級品——薬品と同等の扱い——でした。つまり信長が甘いものを日常的に楽しめたという事実は、単なる「甘党」の話にとどまらず、彼が日本の海外交易網を掌握した最高権力者であったことを示す経済的な証拠でもあったのです。(出典:ルイス・フロイス著『日本史』 ※参照:2026年3月時点)

金平糖
Wikipediaコモンズ」より引用

堺(さかい)の茶人・津田宗及(つだそうきゅう)の『宗及茶湯日記(そうきゅうちゃのゆにっき)』にも、信長が壮年期以降に甘いものを好むようになったとの記録が確認されています(出典:津田宗及著『宗及茶湯日記』 ※参照:2026年3月時点)。私はこの事実が、信長の「南蛮文化への嗜好」と「茶の湯の発展」が重なり合った結果として生まれた、自然なライフスタイルの変化だと感じています。

戦場飯のリアルと合理的な食選び

信長の食事様式には、興味深い二面性がありました。日常や戦場では徹底的に機能を優先し、外交の席では規格外の豪奢を振る舞う——この使い分けは、信長の合理主義をよく表しています。

日常の食事や出陣前には「湯漬け(ご飯にお湯をかけた簡素な食事)」や「焼き味噌」を好みました。塩分と炭水化物を素早く摂取できるこれらの食事は、現代でいう「機能性食品」のような位置づけです。桶狭間の戦いへ出陣する直前に湯漬けを立ち食いし、幸若舞を舞って飛び出したというエピソードは、まさにこの合理的な食生活観の象徴です(出典:太田牛一著『信長公記』 ※参照:2026年3月時点)。

一方で、外交交渉や同盟国への宴会では、一転して規格外の豪華な饗応(きょうおう)を用意しました。天正10年(1582年)5月、武田討伐の労をねぎらうために安土城で行われた徳川家康への饗応では、全国から山海の珍味を取り寄せた数日間にわたる豪華なフルコースが用意されたと記録されています。このとき接待役を命じられたのが、ほかならぬ明智光秀でした。伝説では、この時の料理(魚の鮮度など)に信長が激怒し、光秀を足蹴にしたという逸話が本能寺の変の「怨恨説(えんこんせつ)」の一因として長らく語られてきました。しかし現在の研究では、この暴行エピソード自体が後世の軍記物による創作である可能性が高く、信長の光秀への態度が本能寺の変の直接原因だったとする見方は否定されつつあります(出典:近年の歴史学研究 ※参照:2026年3月時点)。

信長政権において「宴会での食事の豪華さ」が、大名間の序列を示す強力な政治的ツールとして機能していたことは確かです。現代のビジネスでも、取引先への接待の質がパートナーシップの深さを示すことがありますが、信長はまさにその「おもてなしの政治学」を400年以上前に実践していたわけです。


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信長の人間味あふれるエピソード集

「残虐」「冷酷」「短気」——信長についてまわるこうしたイメージは、後世の講談や小説によって作られた部分が大きいようです。史料が語る信長の実像は、もっと複雑で、人間的な温かみも持ち合わせていました。

第六天魔王の呼び名と性格のミステリー

「第六天魔王(だいろくてんまおう)」——信長が自らを名乗ったとされるこの異名は、じつは武田信玄(たけだしんげん)との書簡(しょかん)のやり取りに由来します。信玄が延暦寺焼き討ちを口実に信長を糾弾した書状の署名に「天台座主沙門信玄(てんだいざすしゃもんしんげん)=仏法の守護者たる僧侶・信玄」と記して権威を誇示したのに対し、信長は返書の署名に「第六天魔王 信長」と記したとされています(出典:織田家関連書状・軍記物等、諸説あり ※参照:2026年3月時点)。

武田信玄
Wikipediaコモンズ」より引用

第六天魔王(他化自在天・たけじざいてん)とは、仏教の宇宙観において、欲界(よっかい)の最高位に住み、仏道修行を妨げる最強の魔王のことです。しかし信長がこれを自称した真相は、「自分は本当に悪魔だ」と信じていたわけでは当然ありません。旧態依然とした宗教的権威にすがる信玄への、強烈な皮肉とアンチテーゼでした。「お前が仏法の守護者を気取るなら、俺はその仏法を根本から破壊する魔王にでもなってやろう」というわけです。信長がいかに既存の中世的な権威から精神的に自立していたかを示す、痛快なエピソードといえるでしょう。

ルイス・フロイスの『日本史』には、信長について「身分の低い者にも気さくに声をかけ、正義感が強く、神仏の迷信を笑い飛ばす、極めて理性的で決断力のある人物」という好意的な評価が記されています(出典:ルイス・フロイス著『日本史』 ※参照:2026年3月時点)。かつて刃を向けた柴田勝家(しばたかついえ)の罪を赦してその才能を使い続け、出自のはっきりしない浪人だった明智光秀(あけちみつひで)を異例の地位にまで引き上げるなど、「実力主義の人事」という点では家臣に対して思いのほか懐の深い一面もあったのです。


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史実とドラマの違い…知られざる裏話

信長をめぐる有名エピソードのうち、近年の歴史学によって大きく解釈が修正されているものをいくつかご紹介します。

出来事かつての通説・ドラマ描写最新学説・修正点
比叡山焼き討ち(元亀2年・1571年)全山を灰燼に帰し、数千人を無差別虐殺発掘調査で焼失範囲は根本中堂周辺など一部と判明。限定的な軍事拠点制圧作戦だった(出典:近年の考古学研究 ※参照:2026年3月時点)
長篠の戦い「三段撃ち」(天正3年・1575年)3000丁の鉄砲を三段に並べた革命的戦術武田の騎馬隊を馬防柵と鉄砲で破ったのは史実だが、「三段撃ち」は後世の創作。実態は野戦築城(馬防柵)と鉄砲の連続射撃陣地の組み合わせ(出典:太田牛一著『信長公記』)
本能寺の変・光秀の動機信長のパワハラへの「怨恨」または天下取りの野望「四国政策転換説」が現在最有力。長宗我部元親との同盟を任されていた光秀が、信長の外交方針の急変で面目を潰された(出典:近年の歴史学研究 ※参照:2026年3月時点)

こうした史実の修正を踏まえると、大河ドラマにおける信長像の変遷も非常に興味深いものがあります。昭和から平成初期にかけての大河ドラマでは「残虐で家臣を恐怖のみで支配する暴君」という描き方が多く見られました。ところが近年では、足利将軍家や朝廷との複雑な権力関係に悩み、合理主義と人間的なコンプレックスのあいだで葛藤する「人間・信長」が前面に出るようになっています。

2020年放送の大河ドラマ「麒麟がくる」(出典:NHK大河ドラマ公式サイト)では、俳優・染谷将太さんが演じた信長が、承認欲求と孤独を抱えながらも圧倒的なカリスマ性を放つという、これまでとはまったく異なる信長像を提示し、視聴者に大きな衝撃を与えました。光秀(長谷川博己さん)との共依存的で緊張感あふれる関係性は、史実の「四国政策転換説」が背景に流れているとも読み取れ、歴史ファンからの評価も高かったようです。私自身、このドラマを観て「信長のイメージがこれほど変わるのか」と驚いた一人です。染谷さんの繊細な演技と、幸若舞のシーンのあの軽やかな所作は、今でも強く印象に残っています。正直に言えば、織田信長役に染谷将太さんが決まった時には、絶対に配役ミスだと思いました。信長という苛烈な役を、染谷将太さんのような、若くてかわいらしい顔の美男子が演じられるとは、想像もできなかったからです。でも染谷将太さんは、信長の過激さと狂気を、見事に演じ切りました。完全に私の予想は裏切られ、見事としか言いようがありませんでした。

信長は2020年代の歴史学において、「狂気の天才・破壊者」から「中世と近世をつなぐ国家建設者」へと、その実像がアップデートされ続けています。多趣味で人を集めることを愛し、甘いものに目がなく、相撲を見ながら鼻をほじる——そんな親しみやすい人間の側面と、時代を数十年単位で前進させた圧倒的な実行力が同居する人物。それが信長の本当の姿なのかもしれません。


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参考資料

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