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【藤堂高虎は何がすごい?】7人の主君に仕えた築城名人の衝撃の生涯

「藤堂高虎は何がすごいのか」と疑問に思ったことはありませんか。戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した藤堂高虎は、生涯で7人(※数え方には諸説あります)もの主君に仕え替えたことから「裏切り者」と評されることもありますが、実際には築城名人としておよそ20以上の城を手掛け、伊勢津藩32万石の基礎を築いた一流の武将でもあります。この記事では、藤堂高虎は何がすごいのかについて、出生地・主君遍歴・築城技術・徳川家康との関係といった視点から徹底解説します。2026年放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目される高虎の真の実力に、ぜひ触れてみてください。

この記事のポイント
  • 藤堂高虎の出生地と若き日の浪人時代がわかります
  • 7人の主君に仕えた高虎の処世術と評価の真相がわかります
  • 築城名人と呼ばれる理由と代表的な城20以上の業績がわかります
  • あわせて読みたい「豊臣秀長の生涯」「徳川家康の功績」の関連記事もご紹介します
目次

藤堂高虎とはどんな人物?出生地と基本プロフィール

まずは藤堂高虎が何がすごいのかを理解するために、その基本プロフィールと出生地、若き日の苦労時代について整理します。意外にも、現代まで名を残す名将の出発点は、無名の浪人としての苦難の連続だったといわれています。

今治市の今治城模造天守閣と藤堂高虎の騎馬像
Wikipediaコモンズ」より引用

藤堂高虎の出生地は近江国犬上郡藤堂村

藤堂高虎の出生地は、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士、当時の近江国犬上郡藤堂村である可能性が高いとされています(出生地には諸説あります)。

藤堂高虎は弘治2年(1556年)1月6日に、近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれたとされています(生年には諸説あります)。藤堂家は元々この地に根を張った国人領主とされており、出自としては決して名門ではなかったといわれています。父・虎高は浅井家の家臣として仕えていたと伝わり、高虎自身も最初は浅井長政に仕えることで武士としてのキャリアをスタートさせたと考えられています。出生地である近江は、京都に近く戦略的に重要な地域であり、若き高虎が早くから戦国の風雲に触れる環境にあったのは間違いないでしょう。

幼少期の記録は乏しいものの、現存する甲冑の寸法などから、高虎は身長およそ190センチメートルの大柄な体格だったと推測されており、当時としては桁外れの偉丈夫だったと伝わっています(正確な記録ではなく伝承・推定値です)。若い頃から戦場で目立つ存在だった可能性が高いといえます。


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姉川の戦いで初陣を飾った15歳の若武者

藤堂高虎は元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、わずか15歳にして初陣を飾ったといわれています(初陣の時期には諸説あります)。

姉川の戦いは織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍が激突した戦国時代有数の合戦です。高虎はこの戦いに浅井方として参加し、敵将を討ち取る武功を挙げたという逸話が伝わっています。初陣でいきなり首級を挙げるというのは、戦国武将としても極めて稀な活躍であり、後の名将としての片鱗を早くも見せていたといえるでしょう。

しかし浅井家は最終的に織田信長によって滅ぼされ、高虎は主家を失うこととなります。ここから高虎の長き浪人遍歴と、主君を次々と変えていく波乱万丈の人生が始まったのです。15歳で初陣を飾った若武者が、後に伊勢津藩32万石の大名となるまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。

浪人時代と「白餅」の逸話

高虎の有名な「白餅」の逸話は、彼の出世観と恩義の精神を象徴する伝承として語り継がれています。

浅井家を失った後、高虎は阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄など複数の主君を転々とする浪人生活を送ったと伝わります(仕官先や順序には諸説あります)。この時期、空腹のあまり三河国吉田宿の餅屋で白餅を無銭飲食してしまったところ、店主の三河屋彦兵衛が「いつか出世したら払ってくれればよい」と快く許してくれたという逸話が残されています。後に大名となった高虎は、江戸へ向かう途中で必ずこの餅屋を訪ね、当時の代金に利息を加えて手厚く礼をしたと伝わります。

この逸話の史実性については議論もありますが、高虎が「受けた恩は決して忘れない」という人物だったことを物語る象徴的なエピソードとして、現代まで語り継がれています。次は、高虎がなぜ多くの主君に仕えることになったのか、その遍歴と背景を詳しく見ていきましょう。

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高虎が初陣で戦った主君・浅井長政について詳しく知りたい方はこちら。>> 浅井長政のすべてを徹底解説!小谷城やお市の方との仲など完全網羅


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藤堂高虎は何をした人?7人の主君に仕えた処世術がすごい

藤堂高虎は何がすごいのかを語るうえで、外せないのが7人もの主君に仕え替えた驚異的な処世術です。一見すると節操がないように見えるこの経歴は、実は戦国時代を生き抜く高度な戦略だったといえます。

藤堂高虎が仕えた7人(諸説では11人)の主君一覧

藤堂高虎は浅井長政から豊臣秀吉、そして将軍である徳川家光まで、生涯で7人とも11人ともいわれる主君(奉公先)に仕えたとされています(数え方には諸説あります)。

浅井長政(高野山持明院蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

高虎の主君遍歴は、戦国武将の中でも群を抜く多さです。浅井長政から始まり、阿閉貞征や磯野員昌らをへて、豊臣秀長・秀保・秀吉、そして将軍である徳川家康・秀忠・家光に仕えたとされる流れは、まさに戦国から江戸初期までの権力者の変遷そのものを体現しているといえるでしょう。仕える側を変えるたびに高虎は確実に石高を増やしていった傾向があり、最終的には伊勢津藩32万石の大名にまで成り上がっています。

仕えた順主君名主な役割・石高
1浅井長政足軽として姉川の戦いに参加
2〜4阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄(※諸説あり)浪人として転々と仕官
5羽柴(豊臣)秀長3,000石〜2万石へ加増
6豊臣秀保秀長の養嗣子に仕える
7豊臣秀吉伊予国宇和島7万石
8徳川家康伊予今治20万石・伊勢津22万石
9〜10徳川秀忠・徳川家光(将軍として奉公)伊勢津藩32万石へ加増

注目すべきは、主君を変えるたびに前主君と敵対するような形にはならず、円満に新たな仕官先を見つけている点です。戦国時代の混乱期において、これほど巧みに主君を渡り歩ける能力は、現代のキャリア戦略にも通じる稀有な才能だったといえるでしょう。

運命を変えた豊臣秀長との出会い

高虎の生涯を決定づけたのは、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長との出会いだったといわれています。

天正4年(1576年)頃、長い浪人生活を送っていた高虎は、当時羽柴秀長と名乗っていた豊臣秀長に300石で召し抱えられたという説が伝わります(時期や当初の石高には諸説あります)。秀長は兄・秀吉の片腕として「豊臣兄弟」と呼ばれた名補佐役であり、人材を見抜く目に優れた人物として知られています。秀長は高虎の武勇と才覚を高く評価し、紀州攻め・四国攻め・九州征伐などの主要な合戦で重用したとされます。

筆者個人としては、高虎が真に才能を開花させたのは、秀長という名君に出会えたからこそだと感じます。それまで浪人として転々としていた高虎が、秀長のもとで3,000石から2万石へと急速に加増されていく様子は、人と人との出会いがいかに人生を変えるかを物語っているように思えます。秀長は高虎を単なる武勇の士ではなく、行政能力や築城技術まで備えた総合的な人材として育てたのです。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」の真意

高虎は「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という名言を残したと伝わります(後世の『高山公実録』などに記された伝承とされています)。

この言葉は一見すると不忠を奨励するように聞こえますが、実際には「自分を正しく評価してくれる主君を見極める眼力こそが武士の本分である」という意味だと解釈されています。江戸時代の儒教的価値観では「一君に仕える忠義」が美徳とされましたが、戦国時代の実態としては実力主義が当たり前であり、主君を変えること自体は決して恥ずべき行為ではありませんでした。

高虎の凄さは、変節漢ではなく「実力で自分を売り込み、評価される場所を選び続けた」点にあるといえます。仕えた主君が没した後も、その遺族や旧領を粗末に扱わず、義理を尽くした記録が多数残されているのも、高虎の人物像を考える上で重要なポイントでしょう。次は、高虎の最大の評価ポイントである築城技術について詳しく見ていきます。


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藤堂高虎の築城技術がすごい!20以上の名城を手掛けた築城名人

藤堂高虎は何がすごいのかを語る上で、最大の業績といえるのが築城技術です。加藤清正・黒田官兵衛と並んで「築城三名人」と称される高虎の城づくりは、戦国から江戸初期にかけての城郭史を大きく塗り替えました(三名人の組み合わせには諸説あります)。

築城三名人と呼ばれる理由

藤堂高虎は生涯でおよそ20以上の城の築城・改修に関わったといわれ、戦国築城史の中でも突出した実績を誇ります。

高虎の築城技術の特徴は、高石垣・広い水堀・層塔型天守という三大要素にあるとされます。特に層塔型天守は、各階を同じ形で積み上げていく合理的な構造で、それまで主流だった望楼型天守よりも工期短縮とコスト削減が可能だったといわれています。この層塔型天守は高虎が今治城で初めて採用したとされ(諸説あり)、その後の江戸時代の城郭建築のスタンダードの普及に関与したと考えられています。

もっとも筆者は、藤堂高虎自身が築城技術を持った建築家だったわけではなく、その配下に築城のノウハウをもった建築家や現場工事の技術者がいたのだと考えています。優れたプロデューサーとして専門家集団を束ね、施主の要望と現場の技術を結びつける能力こそが、高虎の真の強みだったのではないでしょうか。これは現代の建築プロジェクトにおける総合的なディレクション能力に通じるものがあると感じます。

代表的な築城実績一覧

宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城・篠山城・二条城など、高虎が手掛けた名城は現代まで多数残されています。

城名所在地関わり方
宇和島城愛媛県宇和島市築城(現存十二天守)
今治城愛媛県今治市築城・層塔型天守の初採用
伊賀上野城三重県伊賀市大改修・日本一の高石垣
津城三重県津市大改修・居城
篠山城兵庫県丹波篠山市縄張りを担当
二条城京都府京都市大改修・徳川秀忠と共に縄張り
江戸城東京都千代田区普請手伝い
膳所城滋賀県大津市築城

これらの城の多くは現代も天守や石垣が残っており、藤堂高虎の築城技術を今に伝える貴重な歴史遺産となっています。特に伊賀上野城の高石垣は約30メートルにも及び、大坂城と並ぶ日本有数の高さを誇るとされています。

二条城改修と徳川秀忠との関係

藤堂高虎は二代将軍・徳川秀忠から二条城改修の設計図提出を命じられ、2枚の案を提出して秀忠に選ばせたという逸話が伝わります。

現在の二条城・唐門(当時の二条御所とは別のもの)

元和5年(1619年)、秀忠は二条城の縄張り、つまり基本設計を藤堂高虎とともに行ったと言われています。これは高虎が徳川幕府からどれほど信頼されていたかを示す逸話であり、外様大名でありながら将軍家の城郭建築に深く関与した稀有な事例として語り継がれています。

筆者は実際に、現在の京都・二条城に行ったことがあります。二条城は二の丸御殿が国宝に指定されるほど、庭も襖絵も唐門もとても派手で美しいお城で、戦闘用の要塞ではなく儀礼の場であると感じられる人も多いでしょう。しかし筆者が二条城の石垣を見た際には、「これはやはり戦闘を意識した要塞なのではないか」と強く感じました。あの石垣の積み方が藤堂高虎の指示によるものとは限らないかもしれませんが、今の二条城を見ると、いざという時に戦闘部隊が城の中に立てこもって戦争をすることができるものなのだと感じます。

二条城の石垣(筆者撮影)

もっとも、古の築城名人がつくったという城が、本当に実際の戦闘で役に立つのかについては、筆者は疑問に思ったこともあります。その点、加藤清正がつくった熊本城は1877年の西南戦争で谷干城らが兵を率いて立てこもり、百戦錬磨の薩摩軍を相手に落城しなかった実績があるとされます。高虎の築城した城が実戦で試された機会は限られているため、純粋な「実戦力」という観点での評価はやや難しい部分もあるかもしれません。次は、高虎の人生最大のターニングポイントとなった徳川家康への接近を見ていきましょう。

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高虎を見出した名君・豊臣秀長の凄さを知りたい方はこちら。>> 豊臣秀長の逸話15選|名補佐役の性格とエピソードを解説


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藤堂高虎と徳川家康の絆|外様大名異例の信頼関係

藤堂高虎は何がすごいかを語る三つ目の柱が、徳川家康との異例の信頼関係です。外様大名でありながら譜代格の扱いを受けた高虎の処世術は、現代のビジネスパーソンにとっても多くの示唆を含んでいるといえるでしょう。

徳川家康
Wikipediaコモンズ」より引用

関ヶ原の戦いで西軍を裏切らせた調略

関ヶ原の戦いで、高虎は西軍諸将を東軍へ寝返らせる調略で貢献したとされています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、藤堂高虎は徳川家康の東軍に属し、最前線で大谷吉継隊と激戦を繰り広げたとされます。さらに高虎は戦闘そのものよりも、戦前の調略段階で大きな貢献をしたと伝わっています。特に脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠ら西軍諸将を東軍へ寝返らせる工作に関与したとされ、これが小早川秀秋の裏切りと並んで関ヶ原の勝敗を分ける重要な要素となりました。

関ヶ原の戦い
Wikipediaコモンズ」より引用

高虎は単なる武勇の士ではなく、人脈と交渉力を駆使する政治家・外交官としての顔も持っていたといえます。この功績により、戦後には伊予今治20万石へと加増され、徳川政権下での地位を確固たるものとしました。

ここがポイント

高虎が外様大名でありながら家康の絶大な信頼を得られた理由は、武勇・築城技術・調略能力という三つの才能を兼ね備えていたからだといえます。単一の才能ではなく、複数の専門性を組み合わせた総合力こそが、戦国を生き抜く真の強さだったのではないでしょうか。


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大坂の陣での活躍と長宗我部盛親との激戦

大坂夏の陣の八尾・若江の戦いでは、高虎隊が長宗我部盛親隊と激戦を繰り広げ、多数の将兵を失ったといわれます。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、高虎は徳川方の主力として参戦しました。八尾・若江の戦いでは、豊臣方の長宗我部盛親隊と激突し、藤堂良勝・藤堂高刑をはじめ多くの一族・家臣を失ったと伝わります。それでも高虎は最後まで戦線を維持し、徳川方の勝利に貢献したとされています。

この戦いで高虎が失った兵力は甚大で、戦後に家康から特別に労いの言葉をかけられたとも伝わります。豊臣秀長に取り立ててもらった恩義を考えれば、豊臣家を滅ぼす側に立つことに葛藤があったのではないかとも想像されますが、武将としての職務を全うした姿は評価に値するでしょう。

家康臨終の枕元に呼ばれた外様大名

徳川家康は臨終の際、外様大名でありながら藤堂高虎を枕元に呼んだという逸話があり、両者の絆の深さを示す伝承とされます。

元和2年(1616年)、徳川家康が駿府城で危篤になった際、枕元には嫡子・秀忠と並んで藤堂高虎が呼ばれたと伝わります。外様大名がこのような場に立ち会うことは極めて異例で、家康がいかに高虎を信頼していたかを示す逸話として知られています。家康は高虎に「死後も秀忠を頼む」という旨の遺言を残したとされ、高虎はその後の徳川秀忠・徳川家光の代まで幕政に深く関与しました。

さらに高虎は宗派を天台宗に改めたと伝わります。これは家康個人の信仰(浄土宗)に合わせたのではなく、家康の死後、神格化された家康(東照大権現)を天台宗の形式で祀るためだったとされています。これは単なる政治的パフォーマンスを超えた個人的な敬愛の表れだったのではないかと考えられています。次は、高虎にまつわる興味深い人物像エピソードを掘り下げていきます。


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藤堂高虎のエピソードと知られざる人物像

藤堂高虎を語る上で欠かせないのが、彼の人物像を物語る数々のエピソードです。190センチを超える巨漢、満身創痍の戦傷、家臣への厚遇など、高虎の意外な素顔を見ていきましょう。

190cm超の巨漢と満身創痍の戦傷

高虎は身長およそ190センチの巨漢だったと推測されており、生涯で多くの戦傷を負い、右手の薬指と小指、左手の中指、足指数本が欠損していたと伝わります。

当時の日本人男性の平均身長が現代より低かったとされる中で、190センチ近いとされる高虎の体格は、現代に換算すれば2メートル超のような驚異的なサイズだったといえます。戦場では遠くからでもひと目で分かる存在だったでしょう。さらに高虎は生涯で何度も戦傷を負い、右手の薬指と小指、左手の中指、足指数本を失っていたと伝わります。

これほどの傷を負いながらも、74歳とされる長寿(享年には諸説あります)を全うするまで戦場と政務を駆け抜けた高虎の体力と精神力は驚異的です。家康が「歴戦の証」として高虎の傷を見たいと所望した際、高虎は満身創痍の体を見せたと伝わり、家康は感涙したとも記録されています。

家臣を大切にした藩主としての顔

高虎は家臣に対する待遇が非常に手厚く、津藩の家臣団から深く慕われた藩主だったといわれています。

自身が長く浪人生活を経験した高虎は、人材登用に独自のポリシーを持っていたとされます。特に他家を離れた牢人を積極的に召し抱え、能力と忠誠に応じて厚遇したと伝わります。「人材は宝である」という考えのもと、家臣団の構築には特別な情熱を注いだといえるでしょう。

また高虎は「寝屋を出るときから戦場と心得よ」「主人に媚びるな」など、武士としての心得を箇条書きにした家訓(一般に『高山公遺訓二百箇条』と呼ばれます)を残したとされます。この家訓は江戸期を通じて津藩士の精神的支柱となり、明治維新まで脈々と受け継がれていきました。

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高虎が最後に仕えた徳川家康の功績を網羅的に知りたい方はこちら。>> 徳川家康がしたこと一覧|天下統一から政治改革まで功績を徹底解説


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藤堂高虎に関するよくある質問【FAQ】

Q1. 藤堂高虎は何がすごいのですか?

藤堂高虎がすごいのは、主に4点とされます。第一に多くの主君に仕えて石高を増やしていったとされる処世術、第二に宇和島城・今治城・伊賀上野城など20以上の名城に関わった築城名人としての技術、第三に関ヶ原の戦いで西軍諸将を寝返らせた調略への貢献、第四に外様大名でありながら徳川家康・秀忠・家光の三代に厚く信頼された人脈構築力です。

Q2. 藤堂高虎は何をした人なのですか?

藤堂高虎は戦国時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、最終的には伊勢津藩32万石の初代藩主となった人物です。豊臣秀長に仕えて頭角を現し、関ヶ原の戦いと大坂の陣で徳川方として活躍。築城名人として今治城や二条城の改修に関わり、徳川家康の側近として幕政にも深く関与したと伝わります。

Q3. 藤堂高虎の出生地はどこですか?

藤堂高虎の出生地は近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士である可能性が高いとされています。地元の土豪・藤堂虎高の次男として弘治2年(1556年)1月6日に生まれたといわれます。現在も甲良町には藤堂高虎の銅像や生誕地碑が建てられており、観光スポットとして整備されています。

Q4. 藤堂高虎の主君は何人いたのですか?

藤堂高虎が仕えた主君は、数え方によって7人から11人とされます。主な系譜は浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光という流れですが、将軍である家光らをどう数えるかなどで諸説あります。「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という名言を残したとも伝わっています。

Q5. 藤堂高虎は裏切り者なのですか?

江戸時代の儒教的価値観では「変節漢」と評されることもありますが、実際には主君が没するか家が滅びた後に次の仕官先を探したケースが多く、現代的に言えば「キャリア戦略の上手な人物」だったといえます。また旧主家への義理は欠かさなかったと伝わり、単純な裏切り者とは言えないと考えられています。


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藤堂高虎の生涯や戦国時代の名将たちの物語を映像で楽しみたい方には、動画配信サービスU-NEXTの利用が選択肢のひとつとなります。上野樹里主演の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』では、藤堂高虎が登場し関ヶ原から大坂の陣までの活躍が描かれています。また堺雅人主演の『真田丸』でも、大坂の陣における高虎隊の奮戦シーンが見どころとなっています。「葵〜徳川三代〜」では、俳優の田村亮さん演じる藤堂高虎が、家康の側近として、関ヶ原から大坂の陣まで活躍し、その後は秀忠の懐刀として、朝廷との交渉を巧みに行う様子が描かれています。2026年放送予定の大河ドラマ『豊臣兄弟!』に関連する作品もあわせて視聴できる点が魅力です。これらの作品は最新の配信状況を公式サイトにてご確認ください。

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高虎を見出した豊臣秀長がもし生きていたらどうなっていたか、考察記事はこちら。>> 【豊臣秀長が生きていたら】朝鮮出兵・秀次事件は防げたのか徹底考察

まとめ|藤堂高虎は何がすごいのか総括

藤堂高虎は何がすごいのかを改めて振り返ると、その凄さは「処世術・築城技術・調略能力・人脈構築力」という4つの総合力にあるといえます。近江国犬上郡藤堂村に生まれた一介の土豪の次男が、7人もの主君を渡り歩きながら最終的に伊勢津藩32万石の大名にまで上り詰めた生涯は、まさに戦国版サクセスストーリーと呼ぶにふさわしいものでしょう。

築城名人としては宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城・二条城などおよそ20以上の城に関与し、層塔型天守という新工法を確立して江戸時代の城郭建築のスタンダードを生み出したと伝わります。豊臣秀長に見出され、徳川家康に絶大な信頼を寄せられたその人物像は、単なる武勇ではなく総合的な才能の結晶だったといえるのではないでしょうか。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という名言が示すように、高虎の生き方は現代のキャリア観にも通じる普遍性を持っています。藤堂高虎は何がすごいのかを学ぶことは、戦国時代の歴史を知るだけでなく、自分自身の人生やキャリアを考えるヒントにもなるのではないかと、筆者は感じています。

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