「明智光秀の首塚の場所はどこにあるのだろう」と気になったことはありませんか。実は明智光秀の首塚は一つではなく、京都市東山区の梅宮町を筆頭に、粟田口・亀岡・坂本など、複数の伝承地が現在も残されています。
本能寺の変で織田信長を討った直後の山崎の戦いに敗れた光秀は、逃避行の途上、山科の小栗栖で命を落としたと伝えられます。しかし首の行方については諸説があり、それぞれの地に「これこそ光秀の首塚である」という伝承が残っているのです。この記事では、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回(2026年7月19日放送予定)で光秀の最期が描かれるとされる中、明智光秀の首塚の場所を5つの伝承地ごとに整理し、筆者が実際に京都市東山区の首塚を訪ねた体験も交えてお伝えします。
※本記事は2026年7月19日放送予定のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回に関する公式あらすじに基づく事前情報を含みます。実際の放送内容と一部異なる可能性がある点をご了承ください。
- 明智光秀の首塚の場所はどこか、京都・亀岡・坂本の5つの伝承地を整理
- 筆者が実際に訪ねた京都市東山区の首塚のアクセス・見どころレポート
- 光秀の最期の地・小栗栖から首塚までの足取りと首の行方の諸説
- 関連記事や配信ドラマで、光秀の最期をより深く追体験できるガイド
光秀が最期に残した言葉や死因の詳細については、こちらの記事で解説しています。
明智光秀の首塚とは|謀反人の首が晒された理由
そもそも「首塚」とは、討ち取られた武将の首を埋葬した塚のことを指します。明智光秀の首塚を理解するには、なぜ光秀の首が晒されるに至ったのか、そしてなぜ複数の首塚が存在するのかという背景を知る必要があります。まずは光秀の首が辿った歴史を整理していきましょう。

「Wikipediaコモンズ」より引用
首塚とは何か|戦国期の首供養の意味
戦国期において、討ち取られた敵将の首は「首実検」という儀式で本人確認された後、市中に晒されるのが慣例でした。晒された首はやがて縁者や信者、あるいは寺社によって回収され、供養のために埋葬されます。この埋葬地が「首塚」と呼ばれるものです。
首塚が建てられる目的は主に3つとされます。第一に討たれた武将の魂を鎮めるための供養、第二に怨霊化を防ぐための鎮魂、第三に地元の人々による信仰や慰霊です。特に非業の死を遂げた武将の首塚は、後の時代に至るまで祟りを恐れる人々によって手厚く祀られる傾向がありました。
明智光秀の首塚が現在も複数残されているのは、彼が「主君殺し」という汚名を背負いつつも、丹波・近江の統治で善政を敷いた名君として地元の人々から慕われていたためだと伝えられます。この二面性が、複数の首塚と信仰を生み出したのです。
本能寺の変から11日後の敗北|光秀の首が晒された経緯
明智光秀が織田信長を本能寺で討ったのは、天正10年(1582年)6月2日未明のことでした。しかしその天下はわずか13日で終わりを告げます。6月13日、山崎の戦いで羽柴秀吉軍に敗れた光秀は、勝竜寺城に一旦退却した後、その夜のうちに居城の坂本城を目指して落ち延びました。

ところが6月13日深夜から14日未明にかけて、山科の小栗栖(現在の京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民に襲われ、竹槍で刺されて重傷を負い、最期を遂げたと伝えられています。享年55(諸説あり)とされます。光秀の首は家臣の溝尾茂朝が介錯し、近くに埋めたとも、家臣が坂本城へ運ぼうとしたが果たせず捨てたとも、諸説があるのです。
いずれにせよ光秀の首は最終的に秀吉軍に発見され、6月17日に本能寺跡(当時焼失中)で信長の遺体と対面させる形で首実検された後、京の粟田口で3日間にわたって晒されたと『信長公記』や『兼見卿記』は伝えます。この粟田口が、光秀の首塚伝承の最初の起点となりました。
なぜ首塚が複数存在するのか|諸説の背景
明智光秀の首塚が現在5つ以上存在するのは、いくつかの歴史的経緯が複合的に絡み合った結果と考えられています。第一に、粟田口で晒された後の首の行方が史料上明確ではないこと、第二に光秀を慕った地元の人々が各地で供養塚を築いたこと、第三に江戸期以降に光秀ゆかりの寺院や地域が改めて首塚を整備したことが挙げられます。
筆者は実際に京都市東山区の梅宮町にある明智光秀の首塚を訪ねたことがあります。目的地までの道は、政令指定都市・京都のど真ん中とは思えないほど狭い路地でした。大人が二人肩を並べて歩けば塞がってしまうほどの細さで、昔ながらの街灯が路地を照らす様子は、都会の喧騒から切り離された別世界のようでした。この閑静な立地こそが、地元の方々に大切に守られてきた証なのだと実感しました。

光秀の首塚が複数存在するのは、彼が単なる謀反人ではなく、地元の人々から愛された名君でもあったことを物語っています。
京都市東山区の明智光秀の首塚|場所とアクセス
数ある明智光秀の首塚の中でも、最も有名で「本山」的な位置づけにあるのが、京都市東山区梅宮町の首塚です。粟田口で晒された光秀の首がこの地に移されて埋葬されたと伝えられ、400年以上にわたって地元の方々により守られてきました。ここではこの東山区首塚の場所・アクセス・見どころを詳しく紹介します。
正確な場所と住所|京都市東山区梅宮町
明智光秀の首塚は、京都市東山区梅宮町に位置しています。白川という小さな川が流れる閑静な住宅街の路地の途中、民家に囲まれるようにひっそりと佇んでいます。周辺は「白川筋」と呼ばれる情緒ある地域で、東大路通から東へ入った細道を進んだ先にあります。
この場所が首塚として整備されたのは江戸時代とされ、当時の地元有志が光秀を慕って建立したと伝えられます。狭い路地の途中にあるため、初めて訪れる方は場所を見つけるのに苦労するかもしれません。しかし、その分「知る人ぞ知る」隠れた歴史スポットとしての魅力があります。
首塚自体は高さ1メートル程度の小さな石塚で、隣には向かい合うように祠が建てられています。この祠には「明智光秀公」と記された提灯が掲げられ、光秀を敬う地元の方々の思いが今も色濃く残っている場所です。

アクセス方法|最寄り駅と徒歩ルート
最寄り駅は、京都市営地下鉄東西線の「東山駅」で、1番出口から徒歩約5分の距離にあります。駅を出て東大路通を北へ進み、白川橋を渡って東へ入る細道を辿ることで首塚に到着できます。京阪本線を利用する場合は「三条駅」から徒歩約10分となります。
周辺は住宅密集地であり、大きな駐車場はありません。車での訪問はコインパーキングの利用が必要となるでしょう。徒歩で訪れる場合は、平安神宮・青蓮院門跡・知恩院などの観光地からも徒歩圏内なので、京都観光の合間に立ち寄る形が現実的だと考えられます。
訪問時に注意したいのは、路地が非常に狭く、周辺は完全に住宅街だという点です。地元の方々の生活の場でもあるため、大声で話したり、長時間立ち止まって騒いだりすることは避けたいところです。静かに手を合わせ、写真撮影も控えめにするのが礼儀といえるでしょう。
※本記事で使用している写真は筆者が参拝時に撮影したものです。撮影に際しては周辺住民の方々への配慮を心がけ、静かに手を合わせた後、控えめに撮影させていただきました。訪問される際は、地元の方々の生活の場であることをご配慮ください。
参拝時間と料金|24時間拝観可能
京都市東山区の明智光秀首塚は、寺院や神社の境内ではなく、住宅街の路地にある小さな史跡です。そのため参拝時間の制限はなく、24時間いつでも訪れることができます。参拝料も無料で、自由に手を合わせることが可能です。
ただし、あくまで地元の方々が管理する場所であり、正式な観光施設ではありません。深夜や早朝の訪問は、周辺住民への配慮から避けるのが望ましいでしょう。また、首塚の維持管理は地元の方々の善意によって成り立っています。訪問の際は感謝の気持ちを込めて、賽銭箱に少額でも納めるのが礼儀とされています。
近年は2020年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の影響で参拝者が増えており、以前より人の出入りが多くなっていると伝えられます。2026年放送の『豊臣兄弟!』でも光秀は重要人物として登場することから、放送後さらに訪問者が増える可能性が高いと予想されます。
その他4つの明智光秀首塚|粟田口・亀岡・坂本・岐阜
京都市東山区の首塚が最もよく知られていますが、明智光秀の首塚と伝えられる場所は他にも複数存在します。粟田口、丹波亀岡、近江坂本、そして美濃岐阜まで、光秀ゆかりの地にそれぞれ首塚や供養塚が残されているのです。順に見ていきましょう。
粟田口の首塚|光秀の首が最初に晒された地
京都市東山区の粟田口は、光秀の首が本能寺跡での首実検の後、実際に3日間晒されたと伝えられる場所です。粟田口は当時、京の七口の一つとして東国への玄関口とされ、罪人の首を晒す刑場としても知られていました。信長の首実検の後、光秀の首はここで見せしめとして晒されたと『信長公記』は記しています。
現在この地には粟田神社があり、周辺には光秀ゆかりの旧跡が点在しています。粟田神社そのものが首塚というわけではありませんが、地元では「このあたりで光秀の首が晒された」という伝承が今も語り継がれています。前述の東山区梅宮町の首塚は、この粟田口から近い場所にあり、晒された後にこの近辺に葬られたという伝承と符合するのです。
粟田口へのアクセスは京都市営地下鉄東西線「蹴上駅」または「東山駅」から徒歩圏内で、梅宮町の首塚とセットで巡ることができる立地となっています。
亀岡・谷性寺の首塚|光秀の丹波統治の地
京都府亀岡市宮前町の谷性寺(こくしょうじ)には、明智光秀の首塚と伝えられる石塔が現存しています。亀岡は光秀が丹波亀山城を築いて長年統治した土地で、光秀は丹波の地で善政を敷いた名君として今も地元の人々から慕われています。
谷性寺の首塚は、光秀の遺臣が主君の首を密かに持ち帰り、丹波の地に埋葬したという伝承に基づくものだとされます。境内には光秀の位牌も安置されており、6月の光秀公忌には「光秀まつり」として地元の方々による供養が行われる伝統が続いています。
アクセスはJR嵯峨野線「亀岡駅」からバスで約20分、車では京都縦貫道「亀岡IC」から約10分の距離にあります。桔梗の花が咲く7月頃には特に美しい景観となり、光秀の家紋にちなんで「桔梗寺」の別名でも親しまれています。

「Wikipediaコモンズ」より引用
坂本の西教寺|光秀一族の菩提寺
滋賀県大津市坂本の西教寺は、光秀の居城・坂本城のあった地に位置する天台真盛宗の総本山です。境内には明智光秀と一族の墓所が現存し、光秀の首塚というよりは「明智一族の墓」として知られています。光秀の正室・煕子(ひろこ)の墓もここにあり、明智家の菩提寺として大切に祀られてきました。

坂本城は山崎の戦い直後に落城しましたが、西教寺は光秀と生前深い関係にあった寺院で、光秀は生前多額の寄進を行っていたと伝えられます。この縁により、光秀死後も一族の菩提が丁重に弔われることになったのです。
アクセスは京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」から徒歩約25分、または江若交通バス「西教寺」バス停下車すぐ。比叡山延暦寺への参道の途中にあり、比叡山観光と組み合わせて訪れる方が多い場所です。
光秀が最期に至る直接の原因となった山崎の戦いの詳細については、こちらで解説しています。
光秀最期の地・小栗栖から首塚までの足取り
その他の伝承地として、岐阜県可児市の明智荘(あけちのしょう)にも光秀ゆかりの供養塔が残されており、光秀の出生地とされる地域の一つです。ここでは光秀の首塚というより「光秀生誕地の供養塔」として位置づけられていますが、光秀を敬う地元の思いは他の首塚と共通するものがあります。
さて、複数の首塚を紹介してきましたが、そもそも光秀の首はどのような経緯でこれらの地に辿り着いたのでしょうか。ここからは光秀最期の地・小栗栖から首塚に至るまでの足取りを、史料と伝承をもとに整理していきます。
山崎の戦い敗北から勝竜寺城への退却
天正10年6月13日午後、山崎の戦いで羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、円明寺川沿いの戦場を離れ、勝竜寺城(現・京都府長岡京市)に一旦退却したと伝えられます。勝竜寺城は光秀の娘婿である細川忠興の縁の城でしたが、この時点では明智方の拠点となっており、敗残兵の集結地となりました。
しかし勝竜寺城は小規模な城で、追撃してくる秀吉の大軍を防ぐには不十分でした。光秀は城で長く籠城することを諦め、その夜のうちに主従わずか数十名で密かに城を抜け出し、居城の坂本城(現・滋賀県大津市)を目指したとされます。目的は坂本城で再起を図ることだったと考えられています。
ルートは勝竜寺城から北東へ、伏見・山科を経由して大津へ抜けるコースでした。この道は普段なら1日で踏破できる距離ですが、追手を避けるため夜間の移動を選び、街道を外れた間道を進んだと伝えられます。
小栗栖の竹藪での最期|落ち武者狩りの悲劇
6月13日深夜から14日未明にかけて、光秀一行が山科の小栗栖(現在の京都市伏見区小栗栖)に差し掛かった際、悲劇が起こります。当時、落ち武者狩りは村々の農民たちにとって金銭や武具を得る重要な収入源であり、敗残の武将は格好の標的でした。竹藪に潜んでいた土民たちが、通りかかった光秀一行に竹槍で襲いかかったと伝えられます。
竹槍は光秀の脇腹を深く貫き、致命傷となりました。もはや助からないと悟った光秀は、家臣の溝尾茂朝に介錯を命じ、その場で自害したとも、あるいは絶命寸前で首を落とされたとも伝えられます。享年55(諸説あり)。天下人となってわずか13日後の、あまりに寂しい最期でした。
筆者は京都市東山区の首塚を夜に訪れたのですが、地元の方から教えられた道順の記憶を頼りに暗い路地を歩き続けている途中、突然ライトが輝いて筆者を照らしました。思わず声をあげるほど驚きましたが、それはセンサーライトでした。そのライトに照らされて、石が積み重なった1メートルほどの塚が姿を現した瞬間の情景は、今も鮮明に記憶に残っています。光秀の最期の壮絶さを思うと、この静かな塚にたどり着けたことがどこか運命的にすら感じられました。
光秀の首の行方|粟田口での首実検と晒し
絶命した光秀の首は、家臣の溝尾茂朝が近くに埋めたと『信長公記』は記します。しかし6月17日、この首は結局秀吉軍に発見されてしまいました。秀吉は光秀の首を京へ運ばせ、当時焼失中だった本能寺跡で信長の遺体と対面させる形で首実検を行ったとされます。「主君の仇を討った」という象徴的な儀式でした。
首実検の後、光秀の首は京の東の入口である粟田口に運ばれ、3日間にわたって晒されました。粟田口は当時、罪人の首を晒す刑場として知られており、謀反人としての見せしめの意味が込められていたと考えられています。この粟田口での晒し首こそが、後の東山区梅宮町の首塚伝承の直接的な起点となったのです。

粟田口での3日間の晒しの後、光秀の首を密かに引き取り、近くの梅宮町の地に埋葬したのが、東山区首塚の始まりだと伝えられます。
なぜ首塚が5つも存在するのか|地元信仰と光秀再評価
ここまで見てきたように、明智光秀の首塚は京都・亀岡・坂本など複数の場所に存在します。同じ人物の首塚がこれほど多く残されているのは、日本の歴史上でも珍しいケースです。ではなぜ光秀に限って、これほど多くの首塚が残されているのでしょうか。ここではその理由を、地元信仰と近年の光秀再評価の観点から掘り下げていきます。
諸説の背景|地元の人々の光秀への愛着
光秀の首塚が複数存在する最大の理由は、彼が統治した土地の人々から深く慕われていたことにあると考えられます。丹波亀山では領民に対する減税や治水事業を行い、近江坂本では琵琶湖水運の整備と城下町の発展に尽力したと伝えられます。「主君殺しの謀反人」という中央の評価とは対照的に、地方では光秀は名君として記憶されていたのです。
そのため光秀の死後、各地の人々が「光秀公を弔いたい」という思いから、密かに供養塚を築いたと考えられます。真の首がどこにあるかという史実的な正確さよりも、「私たちの光秀公を偲ぶ場所を持ちたい」という信仰的な動機が、複数の首塚を生み出した背景にあると言えるでしょう。

筆者が訪れた京都市東山区の首塚では、「明智光秀公」と記された提灯が綺麗に輝き、祠の扉には「防犯カメラ作動中」と記されたシールが貼られていました。首塚の周辺は綺麗に掃き清められ、参拝者が思った以上に多く訪れている様子が伝わってきます。400年以上前の武将が、今なお地元の方々にこれほど大切にされていることに、深い感銘を受けました。
大河ドラマによる光秀再評価と首塚人気
近年、明智光秀のイメージは大きく変化しつつあります。かつては「主君殺しの逆臣」として一方的に悪役とされてきた光秀ですが、2020年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で長谷川博己さんが主人公として演じたことをきっかけに、「時代に翻弄された悲運の武将」「善政を敷いた文化人」としての再評価が進んでいます。
この影響は各地の首塚訪問者数にも表れており、東山区梅宮町の首塚には『麒麟がくる』放送後から参拝者が増加したと伝えられます。かつては地元の方々だけが訪れる静かな史跡だった場所が、全国の歴史ファンや大河ドラマファンにとって「聖地」の一つとなりつつあるのです。
2026年放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、光秀は本能寺の変・山崎の戦いの重要人物として描かれる予定です。第28回(7月19日放送予定)で光秀最期の場面が放送される前後には、首塚を訪れる人がさらに増える可能性が高いと考えられます。
明智光秀の首塚を実際に訪ねるのは、京都の閑静な路地の情緒とともに戦国史の重みを体感できる貴重な体験です。ただ、現地への訪問が難しい方も多いでしょう。そんなときに便利なのが、映像作品で光秀の生涯を追体験する方法です。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では光秀最期の場面が第28回で描かれる予定で、光秀の悲劇的な結末を鮮明な映像でご覧いただけます。また2020年の『麒麟がくる』は光秀を主人公とした唯一の大河ドラマで、彼の視点で本能寺の変から山崎の戦いまでを丁寧に描写しています。1992年の『信長 KING OF ZIPANGU』では光秀の謀反と最期が古典的な演出で描かれており、光秀像の変遷を比較しながら楽しむことができます。これらの作品はU-NEXTで視聴可能で、光秀の生涯を多角的に追体験できるでしょう。個人的におすすめなのは、大河ドラマ「秀吉」で描かれた明智光秀です。尊崇する母親が織田信長によって命を落とし、領地を召し上げられ、徳川家康にそそのかされて本能寺を襲撃するというストーリーでした。狂気をその身に帯び、正気を失ったかのように本能寺を攻める明智光秀(俳優・村上弘明さん)が、とても印象的でした。
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光秀の死後、残された娘たちがどのような運命を辿ったのかについては、こちらの記事で解説しています。
明智光秀の首塚についてよくある質問
Q1. 明智光秀の首塚は京都のどこにありますか?
最も有名な明智光秀の首塚は、京都市東山区梅宮町にあります。京都市営地下鉄東西線「東山駅」1番出口から徒歩約5分、白川沿いの狭い路地の途中にひっそりと佇んでいます。24時間拝観可能で参拝料も無料ですが、住宅街の路地にあるため、周辺住民への配慮が必要です。
Q2. 明智光秀の首塚はなぜ複数あるのですか?
光秀を慕った地元の人々が各地で供養塚を築いたためと考えられます。丹波亀山や近江坂本では光秀が善政を敷いた地であり、「私たちの光秀公を偲ぶ場所を持ちたい」という信仰的な動機が、京都・亀岡・坂本など複数の首塚を生み出したと伝えられています。真の首の所在よりも、地元の思いが優先された結果と言えるでしょう。
Q3. 明智光秀の最期の地はどこですか?
光秀の最期の地は、京都市伏見区の小栗栖と伝えられています。1582年6月13日深夜から14日未明にかけて、山崎の戦いで敗れた光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中、竹藪に潜んでいた土民たちの落ち武者狩りに遭い、竹槍で刺されて重傷を負い、家臣の介錯で自害したとされます。享年55(諸説あり)でした。
Q4. 明智光秀の首塚を訪ねる際の注意点はありますか?
京都市東山区梅宮町の首塚は住宅街の路地にあるため、地元の方々の生活の場でもあります。大声で話したり、長時間滞在したり、深夜早朝の訪問は避けるのが望ましいでしょう。また路地が非常に狭いため、複数人での訪問は一列で歩く配慮が必要です。写真撮影も控えめに、静かに手を合わせるのが礼儀とされています。
Q5. 亀岡・坂本の光秀ゆかりの地も訪ねられますか?
はい、両方とも訪問可能です。亀岡の谷性寺(京都府亀岡市宮前町)はJR「亀岡駅」からバスで約20分、光秀の位牌が安置され6月には「光秀まつり」も開催されます。近江坂本の西教寺(滋賀県大津市)は京阪「坂本比叡山口駅」から徒歩約25分、光秀と正室・煕子の墓所がある明智一族の菩提寺です。いずれも光秀ファンにとって聖地といえる場所となっています。
まとめ|400年の時を超えて守られる明智光秀の首塚
明智光秀の首塚の場所として、京都市東山区梅宮町を筆頭に、粟田口・亀岡・坂本・岐阜と5つの伝承地を紹介してきました。それぞれの地に光秀への深い思いが込められており、複数の首塚が現存すること自体が、光秀という武将の複雑な魅力を物語っています。
「主君殺しの逆臣」として汚名を背負いながらも、地元では名君として愛され続けた光秀。近年の大河ドラマによる再評価も相まって、各地の首塚は今も多くの参拝者を迎え入れています。2026年放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回で光秀最期の場面が描かれる前後には、さらに首塚を訪ねる方が増えると予想されます。
筆者が東山区の首塚を離れた後、路地から数分歩いて京都の街に戻ると、人の声や川の流れが響き、風になびく柳の葉が静かに揺れていました。戦国の魔王・織田信長を倒した光秀の首塚が、400年以上の時を超えて今もこの街のど真ん中に静かに佇み、地元の方々によって大切に守られている——その事実に、歴史の重みと人の思いの深さを感じた訪問でした。ぜひこの記事を参考に、光秀ゆかりの地を訪ねてみてください。

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