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山崎の戦いで天王山はなぜ重要?光秀敗因と秀吉勝因3つの真相

「山崎の戦いで天王山はなぜあれほど重要視されたのだろう」と疑問に思ったことはありませんか。天下分け目の決戦を象徴する言葉として、現代でも「ここが天王山」という表現が使われるほど、この山は日本史に強烈な印象を残しています。

本能寺の変からわずか11日後の1582年6月13日、明智光秀と羽柴秀吉が摂津・山城国境で激突した山崎の戦い。この戦いはNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回として2026年7月19日に放送予定で、SNSでも関心が高まっています。しかし「なぜ光秀は敗れたのか」「天王山は本当に勝敗を決めたのか」という核心的な疑問に、明確に答えるのは意外と難しいものです。

この記事では、山崎の戦いで天王山がなぜ重要視されたのか、そして明智光秀の3つの敗因と秀吉の勝因を、史料と諸説を照らし合わせながら整理していきます。筆者が本能寺跡地や明智光秀の首塚を訪れた際の体感も交えつつ、初心者にもわかりやすくお伝えします。

※本記事は2026年7月19日放送予定のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回に関する公式あらすじに基づく事前情報を含みます。実際の放送内容と一部異なる可能性がある点をご了承ください。

この記事のポイント
  • 山崎の戦いで天王山がなぜ重要視されたのかの地理的・戦略的理由
  • 明智光秀が敗れた3つの敗因と秀吉勝因の真相
  • 「天王山争奪戦」は史実か、近年の再検証と諸説
  • 関連記事や配信ドラマで、本能寺の変〜山崎の戦いをさらに深く追体験できるガイド
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山崎の戦いの前提となる本能寺の変については、こちらの記事で詳しく解説しています。

>> 【本能寺の変】わかりやすく解説!光秀が裏切った真相と信長遺体の謎

目次

山崎の戦いとは|天下分け目の11日間の決戦

山崎の戦いとは、天正10年(1582年)6月13日、摂津・山城国境の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)で行われた、明智光秀軍と羽柴秀吉軍による決戦を指します。本能寺の変からわずか11日後という異例のスピードで開始されたこの戦いは、光秀の天下がわずか13日間で終わる幕引きとなりました。まずは戦いの基本情報から整理していきましょう。

日時と場所|1582年6月13日・山城摂津国境

山崎の戦いは、天正10年6月13日(新暦1582年7月2日)に開戦したとされます。場所は摂津と山城の国境にあたる山崎で、現在の京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町にかけての地域です。ここは京都から西へ約20km、大阪から北東へ約30kmという交通の要衝で、古くから山陽道と淀川水運が交わる要害の地でした。

戦場は現在の大山崎町の南、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで南北に細長く展開しました。北側には天王山(標高270m)がそびえ、南側には淀川と沼地が広がるという、地形的にきわめて狭隘な戦場だったとされています。この地形が、後述する天王山争奪戦の重要性を生み出す背景となりました。

戦いは午後4時頃に開戦し、わずか2〜3時間で明智軍の敗走が始まったと『太閤記』や『川角太閤記』は伝えています。


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両軍の総大将と主要武将|秀吉と光秀の対決

明智軍の総大将は、言うまでもなく本能寺の変で信長を討った明智光秀です。主力武将としては斎藤利三(光秀の筆頭家老)、明智秀満(光秀の娘婿)、藤田行政、明智光忠、伊勢貞興、御牧兼顕などが挙げられます。光秀は近江衆・美濃衆・丹波衆を糾合した約1万6千の兵で山崎に布陣したとされます。

対する羽柴秀吉軍は、中国大返しで備中高松城から10日間かけて230kmを走破してきた主力軍を中核とし、途中で織田信孝(信長の三男)、丹羽長秀、池田恒興、中川清秀、高山右近、堀秀政らが合流しました。総兵力は約3〜4万と、諸史料により幅があるものの、明智軍の2倍以上と伝えられています。

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

特に注目すべきは、織田信孝が総大将格として名を連ねていた点です。これにより秀吉軍は「信長の弔い合戦」という大義名分を掲げることができ、諸将の士気と結束を高めたと考えられています。

本能寺の変からわずか11日後の異例のスピード

本能寺の変が6月2日未明、山崎の戦いが6月13日午後——この間わずか11日という短さは、戦国期の戦役としては異例の速度です。通常、大軍同士の衝突には情報伝達・軍勢集結・兵站確保だけで数週間から数ヶ月を要するのが常識でした。それを秀吉は10日間で230kmを踏破する「中国大返し」で成し遂げ、光秀の想定を大きく上回るスピードで京畿に迫ったのです。

本能寺跡の碑(筆者撮影)

筆者は以前、織田信長が最期を遂げた京都・本能寺の跡地を実際に訪れたことがあります。現在の本能寺は京都市役所の近くにありますが、これは信長時代の場所から移転したもので、本来の跡地には小さな石碑があるばかりで、日本屈指の英雄が劇的な最期を遂げた場所であることを感じさせる遺構はほとんど残っていません。それだけに、この静かな跡地から山崎までわずか11日で歴史が急展開したという事実に、あらためて驚きを覚えます。

京都・本能寺・現在の本能寺は変が起こったあと移築されたもの(筆者撮影)

光秀にとって最大の誤算は、この秀吉の速度でした。光秀は本来、柴田勝家(北陸方面軍)や滝川一益(関東方面軍)の動きを警戒していたと考えられ、まさか毛利氏と対陣していた秀吉が最初の敵として現れるとは想定していなかったとされます。


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山崎の戦いで天王山はなぜ重要だったのか

「天下分け目の天王山」——この表現が現代でも慣用句として使われるほど、天王山は山崎の戦いの象徴的存在です。しかし、なぜ標高わずか270mの小さな山が、これほど重要視されたのでしょうか。実は天王山の重要性は、単に「高い山を取れば有利」という単純な話ではなく、山崎という戦場そのものの地形的特殊性と深く結びついています。

天王山の地理的位置|狭隘な戦場を制する鍵

天王山は京都府乙訓郡大山崎町に位置する標高270.4mの山で、北側に西山連峰から続く尾根、南側に淀川へと落ち込む急斜面を持ちます。この地形が生み出す最大の特徴は、山崎の戦場が「北を天王山、南を淀川と沼地に挟まれた幅わずか2km程度の隘路」だったという点です。

京都から西へ抜ける山陽道は、この狭い回廊を通らざるを得ませんでした。つまり天王山を制する側は、上から下を見下ろす形で敵軍の側面を突ける一方、天王山を失った側は狭い平地に押し込められて機動力を失うという構図が生まれたのです。

この地形的優位性を、当時の武将たちは十分に理解していました。実際、秀吉は山崎到着直後に高山右近・中川清秀らの先発隊を天王山方面へ派遣し、明智軍より先に山頂・中腹の要地を確保させたと『川角太閤記』は伝えています。

天王山争奪戦|秀吉が先手を打った戦略

山崎の戦いにおける天王山争奪戦は、伝統的には「秀吉軍が先に天王山を占拠し、光秀軍を圧倒した」というシンプルな物語で語られてきました。江戸時代の軍記物『太閤記』や『川角太閤記』では、秀吉が黒田官兵衛の献策で天王山に本陣を置き、山頂から旗を振って総攻撃の合図を送ったと描写されています。

秀吉が天王山を制したことで、明智軍は北からの側面攻撃を防ぐために兵力を分散せざるを得ず、これが敗因の一つになったと伝えられています。

光秀側も天王山の重要性を認識していなかったわけではありません。松田政近・並河易家らを天王山方面に派遣したとされますが、秀吉側の先発隊の方が到着が早く、争奪戦は短時間で決着したと伝えられます。この初動の差が、後の全体戦局に大きな影響を与えたのです。

「勝敗を決した山」という象徴的な意味

「天下分け目の天王山」という言葉は、江戸時代以降に定着した表現とされ、現代では受験・スポーツ・ビジネスの場面でも「勝敗を決する最重要局面」を意味する慣用句として広く使われています。この言葉の背景には、山崎の戦いが単なる一戦役ではなく、天下人の座を決めた歴史的分岐点だったという認識があります。

もし光秀が山崎の戦いで勝っていれば、その後の日本史は大きく変わっていた可能性があります。光秀は朝廷工作を進め、細川藤孝・筒井順慶らの畿内諸将を糾合し、独自の政権を樹立していたかもしれません。しかし現実には天王山を含む山崎の地で敗れたことで、光秀の「三日天下」(実際には13日)は幕を閉じ、代わりに秀吉が天下取りの最有力候補として躍り出ることになりました。

ただし後述するように、近年の歴史研究では「天王山争奪戦が本当に勝敗を決めたのか」「江戸期の軍記物による脚色ではないか」という再検証も進んでいます。この点は本記事のH2‑5で詳しく取り上げます。


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山崎の戦いで明智光秀はなぜ敗れたのか|3つの敗因

ここからが本記事の核心です。山崎の戦いで明智光秀が敗れた理由は、天王山を失ったという単純な話に留まりません。史料と諸説を整理すると、光秀敗因は大きく3つに分けられます。順に見ていきましょう。

敗因①|兵力差2倍以上と兵の士気の低下

最も直接的な敗因は、明智軍と秀吉軍の圧倒的な兵力差です。明智軍約1万6千に対し、秀吉軍は約3〜4万と伝えられ、2倍から2.5倍の開きがありました。戦国期の野戦において兵力差2倍は決定的な不利とされ、地形や奇襲などの要素で覆すのは容易ではありません。

さらに深刻だったのは、明智軍の兵の士気です。本能寺の変の直後、光秀は畿内諸将に協力を要請しましたが、細川藤孝・忠興父子は剃髪して恭順を拒否、筒井順慶も洞ヶ峠で日和見を決め込み、期待していた援軍はほとんど得られませんでした。「主君殺し」という汚名を背負った光秀軍は、士気の面でも「信長の弔い合戦」を掲げる秀吉軍に大きく劣っていたと考えられています。

加えて、光秀軍の中核である丹波衆・近江衆は、本能寺の変以降ほとんど休息を取っていない状態で山崎に投入されたとされます。一方の秀吉軍は中国大返しで疲労していたはずですが、姫路城で1日休息し、装備を整え直したうえで進軍していました。この「準備の差」も士気に影響したと言われています。

敗因②|細川・筒井の寝返りと諸将の日和見

光秀にとって最大の誤算は、頼みにしていた畿内諸将が味方に付かなかったことです。特に痛手だったのは細川藤孝・忠興父子の離反でした。忠興の妻・玉(後の細川ガラシャ)は光秀の三女であり、細川家は光秀と婚姻関係で結ばれた最も重要な同盟者のはずでした。しかし本能寺の変を知った藤孝は、忠興と共に剃髪し、光秀からの再三の要請にも応じませんでした。

「細川幽斎(細川藤孝)」Wikipediaコモンズより引用

大和郡山城主の筒井順慶も同様です。順慶は光秀とは長年の盟友関係にありましたが、山崎の戦い直前まで態度を明確にせず、洞ヶ峠(京都府と大阪府の境)で軍を止めて日和見を決め込んだと伝えられます。「洞ヶ峠を決め込む」という慣用句はこの故事に由来し、後世まで日和見主義の代名詞として使われるようになりました。

光秀は本能寺の変を成功させれば畿内諸将が味方に付くと計算していたと考えられますが、この読みが完全に外れたことが致命傷となりました。

ちなみに秀吉は中国大返しの途中で「信長生存説」を流布し、諸将の去就を混乱させたと伝えられます。この情報戦の巧みさも、光秀を孤立させる要因になったとされています。

敗因③|秀吉の中国大返しによる時間の誤算

3つ目の敗因は、光秀が想定していた時間軸が完全に狂ってしまった点です。光秀は本能寺の変後、京都・安土・坂本を掌握し、朝廷工作を進めながら、来たるべき織田家臣団の反撃に備えて時間をかけて態勢を整えるつもりだったと考えられています。実際、変後の光秀は安土城で朝廷への献上や近江支配の再編に時間を費やしていました。

ところが秀吉は6月4日に毛利氏と講和し、6日には備中高松を出発、13日には山崎に到着してしまいます。10日間で230kmを走破するこの中国大返しは、光秀の想定を根本から覆すものでした。おそらく光秀は「秀吉が動けるのは早くて6月末、下手をすると7月」と読んでいたと推測されます。

関連記事

秀吉がなぜこれほど早く山崎に到着できたのか、その驚異のスピードの秘密はこちらの記事で徹底解説しています。

>> 中国大返しはなぜ早いのか|秀吉230kmを10日で走破した3つの理由

時間の誤算は、単に「早く来られた」だけの問題ではありません。光秀は本能寺の変を成功させた後、朝廷工作・畿内平定・軍勢再編という3つの課題を並行して進める必要がありました。しかし秀吉の到着が想定より2〜3週間早まったことで、これらすべてが中途半端な状態で決戦を迎えざるを得なくなったのです。

まとめると、光秀の敗因は「兵力差」「同盟者の離反」「時間の誤算」の3点が複合的に作用した結果と言えます。どれか一つでも状況が違っていれば、山崎の戦いの結末は変わっていた可能性があります。


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秀吉の勝因と山崎の戦い後の展開

光秀の3つの敗因を裏返せば、そのまま秀吉の勝因になります。しかし秀吉の勝利は「相手が弱かったから」という消極的な理由だけで説明できるものではありません。中国大返しの成功、大義名分の獲得、そして戦後処理の巧みさ——秀吉の勝因は複合的に絡み合っていました。ここでは秀吉の勝因を整理しつつ、山崎の戦い後の光秀の最期についても触れていきます。

勝因①|中国大返しによる圧倒的なスピード

秀吉の最大の勝因は、やはり中国大返しによって光秀の想定を覆すスピードで畿内に戻ってきたことです。6月4日に毛利氏との講和を成立させ、6日に備中高松城を出発、7日には姫路城に帰還、そして13日には山崎に到着——この10日間で約230kmを走破する行軍は、戦国期の常識を超えた驚異的な速度でした。

秀吉はこの間、諸将への手紙を精力的に書き送り、光秀討伐への参加を呼びかけました。特に織田信孝・丹羽長秀への合流依頼は迅速で、大坂に集結していた四国征伐軍を吸収する形で兵力を3万以上に膨らませることに成功したのです。この情報伝達と軍勢集結のスピードも、秀吉の勝因の重要な一部を成しています。

秀吉の中国大返しは、単なる強行軍ではなく、外交・情報・軍事を一体化させた戦略的移動だったと近年の研究では評価されています。

勝因②|信長の三男・信孝を担いだ大義名分

秀吉の2つ目の勝因は、織田信長の三男・信孝を総大将格として担ぎ出したことです。これにより秀吉軍は「信長の弔い合戦」「織田家の正統な軍」という大義名分を得ることができ、諸将の参加を促す強力な旗印となりました。

「織田信孝」Wikipediaコモンズより引用

実際、山崎の戦いにおける秀吉軍の布陣図では、名目上の総大将は信孝であり、秀吉は事実上の指揮官として動いていたとされます。この「主君の血縁者を担ぎ出す」という戦略は、後の賤ヶ岳の戦い(三法師を擁立)でも活用されており、秀吉の政治感覚の鋭さを示すものと評価できるでしょう。

対する光秀は「主君殺し」という道義的に不利な立場に置かれ、朝廷や諸将から距離を置かれてしまいました。この大義名分の差が、諸将の去就を決定づけたと考えられています。

光秀の最期と首塚|勝竜寺城から小栗栖へ

山崎で敗れた光秀は、勝竜寺城(京都府長岡京市)に一旦退却し、その夜のうちに居城の坂本城を目指して落ち延びました。しかし6月13日深夜から14日未明にかけて、山科の小栗栖(現在の京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民に襲われ、竹槍で刺されて重傷を負い、最期を遂げたと伝えられています。享年55(諸説あり)とされます。

光秀の首は、家臣の手で埋められたとも、秀吉軍に発見されて京の粟田口に晒されたとも伝えられ、諸説あります。現在、京都市東山区梅宮町には「明智光秀の首塚」があり、光秀ゆかりの地として静かに保存されています。

筆者は以前、この明智光秀の首塚を実際に訪ねたことがあります。人が二、三人通ったら塞がれてしまうほど狭い路地の途中にひっそりと佇む首塚で、訪れた際は空も暗くなり始めており、少し寂しい雰囲気でした。防犯カメラとセンサー付きライトが設置されており、筆者が近寄った瞬間に突然ライトが点灯し、思わず声を出してしまったのを今でも覚えています。小さく寂しい場所にありながら、地元の方々に大切にされていることが感じられました。


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山崎の戦いの諸説と近年の再検証

ここまで伝統的な通説を中心に山崎の戦いを見てきましたが、近年の歴史研究では「天王山争奪戦は本当に勝敗を決めたのか」「江戸期の軍記物による脚色ではないか」という再検証が進んでいます。ここでは代表的な諸説を整理し、現代の視点から山崎の戦いを見直してみましょう。

天王山争奪戦は史実か|近年の再検証

「秀吉が天王山を制したことで勝敗が決した」という物語は、主に江戸時代の軍記物『太閤記』『川角太閤記』に由来します。しかし近年の研究では、この描写にはかなりの脚色が含まれている可能性が指摘されています。

本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)や藤田達生氏(三重大学教授)らの研究によれば、実際の戦闘は主に円明寺川沿いの平地で行われ、天王山の争奪戦は補助的な位置づけだった可能性があるとされています。合戦の勝敗を決めたのは兵力差と正面での押し合いであり、天王山はあくまで補助的な高地に過ぎなかったという見方です。

「天下分け目の天王山」というフレーズが定着したのは江戸時代以降のことであり、同時代史料には天王山を強調する記述は限られているという指摘もあります。とはいえ、天王山が戦場の一部として重要な役割を果たしたこと自体は疑いようがなく、完全な創作とまでは言えません。史実と脚色の中間、と捉えるのが妥当な理解でしょう。

京都市内にある明智光秀の首塚(筆者撮影)

筆者が明智光秀首塚を訪れた際、意外なほど多くの方が訪問した形跡がありました。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で光秀が主人公として取り上げられた影響で、光秀への再評価が進み、ゆかりの地を訪れる人が増えたのかもしれません。「主君殺しの逆臣」というイメージから、「時代に翻弄された悲運の武将」へと光秀像が変化していることを、現地で肌で感じました。

明智光秀・首塚(筆者撮影)

山崎の戦いのifシナリオ|光秀が勝っていたら

歴史のifを語ることは学術的には慎重を要しますが、山崎の戦いは「もしも」を想像したくなる分岐点の一つです。もし光秀が勝っていたら、日本史はどう変わっていたのでしょうか。

光秀は本能寺の変後、朝廷への献金や公家との交流を活発に行っており、朝廷の権威を後ろ盾にした政権構想を持っていたとされます。山崎で勝利していれば、光秀は細川・筒井といった畿内諸将を改めて服属させ、朝廷公認の政権を樹立していた可能性があります。ただし光秀は既に55歳前後で、後継者の明智光慶はまだ幼く、長期政権の維持は困難だったとの見方も強いのです。

また秀吉が山崎で敗れたとしても、柴田勝家・滝川一益・徳川家康ら他の織田家有力武将が光秀討伐に動いた可能性は高く、光秀の天下がそのまま安定したとは考えにくいのが実情です。いずれにせよ、山崎の戦いが日本史の大きな分岐点だったことは間違いありません。


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山崎の戦いの舞台となった天王山や勝竜寺城、明智光秀の首塚などは、実際に足を運んで確かめることで、教科書では伝わらない歴史の空気を感じることができます。ただし現地への訪問が難しい方も多いでしょう。そんなときにおすすめなのが、映像作品で山崎の戦いを追体験する方法です。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回では、まさにこの山崎の戦いが描かれる予定で、秀吉と光秀の激突を鮮明な映像でご覧いただけます。また2020年の『麒麟がくる』では光秀視点で山崎の敗北が丁寧に描写され、1996年の『秀吉』では竹中直人演じる秀吉の躍動感あふれる勝利が名場面となっています。これらの作品はU-NEXTで視聴可能で、山崎の戦いを多角的に楽しむことができます。

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山崎の戦いで明智軍の主力を率いた斎藤利三の生涯については、こちらの記事で詳しく解説しています。

>> 斎藤利三は何した人?光秀の右腕・本能寺の変の実行者と春日局の父の生涯

山崎の戦いについてよくある質問

Q1. 山崎の戦いで天王山はなぜそこまで重要視されたのですか?

山崎の戦場は、北を天王山、南を淀川と沼地に挟まれた幅わずか2km程度の狭隘な地形でした。この地形では、標高270mの天王山を制する側が敵の側面を見下ろす形で有利に立てるため、戦略的な要衝とされたのです。ただし近年の研究では、実戦は主に平地で行われ、天王山の役割は補助的だったとの見方もあります。

Q2. 山崎の戦いで明智光秀はなぜ敗れたのですか?

光秀敗因は主に3つとされます。第一に兵力差が約2倍以上(明智軍1万6千対秀吉軍3〜4万)と圧倒的だったこと、第二に細川藤孝・筒井順慶ら畿内諸将が味方せず日和見を決め込んだこと、第三に秀吉の中国大返しが光秀の想定を大きく上回るスピードで進行し、迎撃態勢が整わないまま決戦を迎えたことです。

Q3. 山崎の戦いで秀吉軍と明智軍の兵力差はどのくらいでしたか?

諸史料によって数字に幅がありますが、一般的には秀吉軍が約3〜4万、明智軍が約1万6千とされ、秀吉軍が2倍以上の優位に立っていたと伝えられています。『太閤記』は秀吉軍4万・明智軍1万6千と記し、『川角太閤記』は3万数千対1万数千としており、いずれにせよ秀吉軍が大きく上回っていた点は共通しています。

Q4. 山崎の戦いはどこで行われたのですか?現在も見学できますか?

山崎の戦いの主戦場は、現在の京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町にかけての地域です。天王山は現在も登山道が整備されており、山頂まで約1時間で登ることができます。JR山崎駅から徒歩でアクセス可能で、途中には秀吉の本陣跡や合戦の解説板もあり、歴史ファンに人気のスポットとなっています。

Q5. 「天下分け目の天王山」という言葉はいつから使われているのですか?

「天下分け目の天王山」という表現は、江戸時代以降に定着した慣用句とされます。同時代史料である『信長公記』や『多聞院日記』には、天王山を強調する記述は限られており、この表現は主に『太閤記』などの江戸期軍記物によって広まったと考えられています。現代では受験・スポーツ・ビジネスなど、勝敗を決する重要局面全般を指す言葉として使われています。


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まとめ|山崎の戦いと天王山が刻んだ歴史の分岐点

山崎の戦いで天王山がなぜ重要視されたのか、そして明智光秀の敗因と秀吉勝因を整理してきました。天王山の重要性は、北を山・南を川と沼地に挟まれた狭隘な戦場という特殊な地形から生まれたものであり、光秀敗因は「兵力差」「同盟者の離反」「時間の誤算」の3点が複合的に作用した結果と言えます。

近年の研究では天王山争奪戦の役割については再検証が進んでいますが、山崎の戦いが日本史の大きな分岐点だったことは疑いようがありません。光秀の三日天下(実際には13日)が幕を閉じ、秀吉が天下取りの最有力候補として躍り出たこの戦いは、その後の豊臣政権・徳川幕府へと続く歴史の起点でもあります。

筆者は本能寺跡地と明智光秀首塚を訪れた際、信長と光秀が11日間というわずかな期間に、しかも同じ京都市内で相次いで命を落としたことに、不思議な縁を感じずにいられませんでした。名君と忠臣として並び立ったはずの二人が、なぜあのような結末に至ったのか——2026年7月19日放送予定の大河ドラマ『豊臣兄弟!』第28回で描かれる山崎の戦いを、この記事を手がかりに存分にお楽しみください。

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