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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
浅井長政の死因は「自害」です。1573年(天正元年)、織田信長の大軍に居城・小谷城を攻められた浅井長政は、妻のお市の方と3人の娘を信長のもとへ逃がしたのち、城内で自ら命を絶ちました。享年29歳でした。この記事では、浅井長政の死因と最期の詳細から、信長を裏切った理由、朝倉義景との関係、お市の方との結婚、そして現在の天皇陛下へとつながる子孫・家系図まで、浅井長政の生涯をわかりやすく解説します。
浅井長政の死因と最期の様子
浅井長政の死因は自害
浅井長政の死因は自害です。みずから命を絶ちました。
1573年(天正元年)9月1日(旧暦)、織田信長率いる大軍に居城・小谷城(現在の滋賀県長浜市)を包囲・攻撃され、もはや抵抗が不可能と悟った長政は、城内の赤尾屋敷にて自害したとされています(出典:Wikipedia「浅井長政」)。
亡くなった日と享年
西暦1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)、享年29歳でした。
なお、『信長公記』には8月28日(旧暦)に自害したと記されていますが、8月29日付で長政が家臣・片桐直貞に宛てた感状が発見されているため、実際の自害は9月1日だった可能性が高いとされています。このように、最期の日付にも諸説あることは押さえておきたいポイントです。
どのような最期をむかえたのか?
義兄・織田信長に居城である小谷城を攻撃されて落城。浅井長政は追いつめられて、自害しました。
小谷城の戦いでは、まず8月27日に長政の父・浅井久政が自害しています。翌日以降も織田軍の猛攻は続き、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の部隊が城の中核部分・京極丸を占拠したことで、本丸と父の籠る小丸が分断されました。完全に孤立した長政は、最後に妻・お市の方と3人の娘たち(茶々・初・江)を城外に逃がし、自ら命を絶ったのです。
筆者は、浅井長政の最期を「戦国武将として見事な最期」と考えます。家族もろとも自害する武将もいるなかで、長政は妻と娘たちだけは織田信長に預け、命を助けています。死を前にしても家族への愛情を失わなかった長政の姿には、敵味方を超えた人間的な深みを感じます。
長政の死後、その首は信長のもとへ送られました。信長が翌年の正月に長政・久政・朝倉義景の3人の頭蓋骨を薄濃にして宴席で披露したことは『信長公記』に記されていますが、それを盃にして酒を飲んだという話は『浅井三代記』などの軍記物による脚色とみられます。
戦国きっての勇将・浅井長政はなぜ信長と同盟を結び、そしてなぜ裏切りの道を選んだのでしょうか。次のセクションで長政の人物像を見ていきましょう。
浅井長政とはどんな人か|プロフィールと生涯年表

引用元「Wikipediaコモンズ」より
【名前】浅井長政(あざいながまさ)
【生年月日】生年月日不詳、1545年(天文14年)の生まれ
【死没年月日】1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)
【享年】29歳
【出身地】近江国(現在の滋賀県北部)
【父母】浅井久政・小野殿
【妻】六角氏重臣・平井定武の娘(最初の妻)→お市の方(織田信長の妹)
【義兄】織田信長
【子】万福丸・万寿丸・茶々(淀殿)・初・江
浅井長政は、戦国時代の武将で、近江国(現在の滋賀県)の北部を治めていた浅井氏の三代目当主でした。
1545年頃に生まれ、父は浅井久政、母は近江国の豪族・井口氏の娘で小野殿と呼ばれる女性です。祖父は浅井氏を戦国大名にまで押し上げた浅井亮政です。
長政は若い頃から勇敢で知られ、特に永禄3年(1560年)の野良田の戦いで、2倍以上とされる約25,000人の六角軍を約11,000人の軍勢で撃破した活躍が有名です。この勝利によって、浅井家は南近江の六角氏の支配から実質的に独立を果たしました。
その後、織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方と結婚して関係を強化しました(結婚時期は1567年頃とも1568年頃ともいわれ諸説あります)。
しかし、浅井家は信長と敵対する朝倉氏とも古くからの同盟関係にあったといわれています。その板挟み状況から、長政は織田信長との関係が悪化していきます。
1570年、織田信長が徳川家康と協力して越前国(福井県東部)の朝倉義景を攻撃している最中に、浅井長政は突然味方であるはずの義兄・信長を裏切り、織田・徳川連合軍の背後を攻撃しました。
同年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が戦った姉川(あねがわ)の戦いでは、長政は信長をあと一歩のところまで追いつめるも敗北しています。
その後、信長の猛攻を受け、1573年に小谷城で自害したとされています。
以下に浅井長政の生涯を年表で整理します。
| 西暦(和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 1545年 | 近江国で誕生。父・浅井久政、母・小野殿 |
| 1560年 | 野良田の戦いで六角軍を撃破し、浅井家が六角氏から実質独立 |
| 1560年頃 | 六角氏重臣・平井定武の娘と結婚(のちに離縁) |
| 1567年頃(諸説あり) | 織田信長と同盟。信長の妹・お市の方と結婚 |
| 1570年(元亀元年4月) | 金ヶ崎の退き口:信長の朝倉攻めの背後を突き、裏切りが発覚 |
| 1570年(元亀元年6月) | 姉川の戦い:織田・徳川連合軍に敗北 |
| 1570年〜1573年 | 信長包囲網に参加し、朝倉氏らと共闘を続ける |
| 1573年8月 | 朝倉義景が信長に敗れ自害。浅井家は孤立 |
| 1573年9月1日 | 小谷城の戦いで敗北。お市と3人の娘を逃がし、自害。享年29歳 |
浅井長政の出身地である近江国は、京都への交通の要衝として戦国時代に極めて重要な地域でした。だからこそ信長は長政と同盟を結んだのです。次のセクションでは、その同盟の経緯とお市の方との結婚を詳しく見ていきます。
織田信長と浅井長政の同盟|お市の方との結婚
なぜ浅井長政は織田信長と同盟を締結し、お市の方と結婚したのかを解説いたします。
信長と同盟を結んだ理由
浅井長政が織田信長と同盟を結んだ理由は、お互いの戦略的利益のためでした。

「Wikipediaコモンズ」より引用
戦国時代は、日本各地で大名たちが勢力拡大を目指し争っていた時代です。そのため、有力な同盟相手を見つけることが非常に重要でした。
浅井長政は近江国(現在の滋賀県北部)を治めており、織田信長は尾張国(現在の愛知県西部)を拠点にしていました。両者は近隣の勢力で、お互いに協力すれば勢力を保ちつつ拡大できると考えたのです。
特に信長にとって、京都への上洛を実現するためには近江国を通過する必要がありました。近江国の南部を支配する六角氏と北部を支配する浅井氏のうち、浅井氏と同盟を結ぶことは信長の上洛戦略にとって不可欠だったのです。
また、浅井長政にとっても、近江国南部を支配していた敵・六角氏との戦いにおいて、信長と共闘することで自らの領土を守ることができました。
同盟はお互いに有利な状況を生み出し、信長と長政はより強固な関係を築くために、信長の妹・お市の方を長政の妻として迎えることになりました。
長政とお市の方の結婚
長政とお市の方が結婚した理由は、織田信長と浅井長政の同盟関係をより強固にするためでした。
二人が結婚したのは1567年頃とも1568年頃ともいわれていますが、諸説あり確定していません。
戦国時代には、大名同士が同盟を結ぶ際に互いの家族を結婚させることで信頼関係を築くのが一般的でした。織田信長は勢力拡大を目指していたため、浅井長政との同盟関係は重要だと考えていました。一方、浅井長政も信長との同盟により、他の敵対勢力から自分の領土を守ることができました。
信長の妹であるお市の方を浅井長政は妻として迎えることで、信長と長政の間に血縁関係ができました。これにより、両者の同盟関係はより強固なものとなり、お互いに協力し合いながら戦国時代の激動の中で生き抜く力となりました。
なお、お市の方と結婚する以前に、長政には最初の妻がいました。次のセクションで、この「最初の妻」や朝倉義景との関係など、よくある質問にお答えします。
浅井長政のよくある質問|最初の妻・浅井家と朝倉家の関係
ここでは、浅井長政に関してよく検索される疑問に一つずつお答えします。
浅井長政の最初の妻は誰ですか?
浅井長政の最初の妻は、六角氏の重臣・平井定武の娘です。名前は伝わっていません。
浅井家がまだ六角氏に従属していた時代、長政は六角義賢の偏諱を受けて「賢政」と名乗り、六角氏の家臣の娘と結婚させられていました。しかし、1560年の野良田の戦いで六角氏を破って独立を果たした長政は、六角氏との関係を断ち切る意味も込めてこの妻と離縁したとされています。その後、織田信長との同盟に際してお市の方と再婚しました(出典:Wikipedia「浅井長政」)。
浅井家と朝倉家の関係は?
浅井家と朝倉家は、長政の父・久政の代から同盟関係にあったとされています。ただし、この同盟がいつ正式に結ばれたのか、明確な史料は確認されておらず、諸説あります。
朝倉義景が治めていた越前国(現在の福井県東部)と浅井家の近江国北部は地理的に近く、南の六角氏に対抗するために浅井家は朝倉家と協力関係を築いていました。長政が織田信長を裏切った最大の理由の一つが、この朝倉家との関係にあったとされています。信長が朝倉義景を攻撃したことで、長政は「朝倉家との義」と「織田家との同盟」の板挟みに陥りました。
なお、浅井長政の裏切りの理由は朝倉家との義だけでなく、父・久政の影響や信長への不信など複数の要因が指摘されており、一つに特定することはできません。
豊臣秀吉は何歳で亡くなった?
豊臣秀吉は1598年に死去し、享年は62(数え年)でした。死因は病死とされていますが、具体的な病名については諸説あります。
浅井長政が29歳で自害した1573年は、秀吉がまだ「木下藤吉郎」として信長に仕えていた時代です。長政の死後、秀吉は小谷城と北近江の領地を与えられ、のちに天下人へと上り詰めました。長政の長女・茶々(淀殿)が秀吉の側室となったことで、浅井家と豊臣家は深く結ばれることになります。
それでは次に、浅井長政がなぜ信長を裏切ったのか、その理由と小谷城の戦いの詳細を見ていきましょう。
なぜ信長を裏切ったのか|朝倉義景との関係と小谷城の戦い
なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか、その理由と最期の戦いを解説いたします。
信長との関係が悪化した理由
浅井長政と織田信長との関係が悪化した理由は、浅井家と信長の敵対勢力である朝倉家との繋がりが深かったことだといわれています。
信長は浅井長政と同盟を結びながら、浅井家の同盟者である朝倉義景とも戦っていました。しかし、浅井長政と朝倉家は長く盟友関係にあり、長政は織田信長と朝倉義景の板挟みになってしまいました。
信長は朝倉家を攻撃するにあたって、長政に配慮し、織田家と共に朝倉家と戦うことをあえて求めなかったともいわれています。ところが、長政は朝倉家との関係を断ち切れず、朝倉が支配する越前国・金ヶ崎城を攻撃していた織田信長の軍団を、背後から襲いました。
これが1570年4月の「金ヶ崎の退き口」です。挟み撃の危機に陥った信長は、木下藤吉郎(秀吉)らに殿(しんがり)を任せて、命からがら京都へ撤退しています。
この窮地を脱した信長は、長政と完全に決別しました。これが同年6月の姉川の戦いへ、そして3年後の長政の最期となる小谷城の戦いへとつながったのです。
筆者は、長政の裏切りには「朝倉との義」だけでなく、「織田家に飲み込まれる恐怖」が大きく作用していたと考えます。経営者の視点で見ると、急成長するパートナー企業(織田家)との力の差が開き続ける焦りは、現代のビジネスにも通じるものがあります。現存する信長の書状には、長政を対等な同盟者ではなく家臣のように扱っている節がうかがえるとの指摘もあります(出典:Yahoo!知恵袋「浅井長政は織田信長と同盟したけれど」)。背後から襲えば信長を討てるという計算は、戦国武将としては合理的な判断だったのかもしれません。ただし、結果として長政は破滅への道を歩むことになりました。裏切らずに織田家に協力し続けていたら、長政はどのような未来を手にしていたのか。徳川家康のように、のちに天下を取っていた可能性さえあるかもしれないと考えると、歴史の「もしも」は尽きません。
長政・最後の戦い【小谷城の戦い】
長政の最後の戦いである「小谷城の戦い」は、1573年に織田信長が浅井長政の本拠地・小谷城を攻撃した戦いです。
信長は浅井長政が朝倉家との関係を断ち切らず、織田家を裏切って背後から襲いかかってきたため、激怒しました。小谷城は浅井長政の本拠地で、信長は大軍を率いて城を攻撃しています。
この戦いに先立つ1573年8月、信長はまず越前の朝倉義景を滅ぼしました。朝倉家の滅亡によって浅井家は最大の後ろ盾を失い、完全に孤立したのです。
長政は城の守りを固め、激しい抵抗を見せましたが、織田軍の圧倒的な兵力に抗しきれませんでした。木下藤吉郎(秀吉)の部隊が城の要所・京極丸を占拠したことで、本丸は分断され陥落は決定的となります。
最終的に浅井長政は、妻である信長の妹・お市の方と3人の娘たち(茶々・初・江)を信長のもとへ送り返し、自害して果てました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
この戦いによって浅井家は滅亡し、その領地は信長の支配下に入りました。その後、小谷城と北近江は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に与えられています。
長政の妻であるお市の方は織田家に保護され、通説では信長の弟・織田信包に預けられたとされてきましたが、近年の研究では叔父・織田信次に預けられたとする説も有力です。
長政の嫡男・万福丸は、小谷城落城後に捕らえられ、信長の命を受けた秀吉によって処刑されました。わずか10歳前後だったとされています。戦国時代の厳しさを象徴する出来事です。
この小谷城の戦いは、信長の天下統一への道をさらに進めるきっかけとなりました。
長政の自害の日付については、『信長公記』では8月28日としていますが、8月29日付で長政が家臣に宛てた感状の存在が確認されているため、実際の自害はそれ以降、おそらく9月1日であったと考えられています。史料によって記述が異なるのは戦国時代の記録にはよくあることで、複数の史料を読み比べて判断する必要があります。
浅井長政の死後、その血筋はどうなったのでしょうか。次のセクションでは、長政の子孫と、現在の天皇陛下へとつながる家系図について解説します。
浅井長政の子孫と家系図|天皇陛下への血筋
浅井長政が残した子孫と家系図について解説いたします。
浅井長政の子孫
浅井長政の子孫は、現在の天皇陛下へとつながっています。
浅井長政には何人かの子供がいましたが、特に有名なのは「浅井三姉妹」と呼ばれる3人の娘でしょう。
特に長女である「茶々(のちの淀殿)」が有名です。茶々は豊臣秀吉の側室となって淀城を与えられたことで淀殿と呼ばれ、豊臣秀頼を産んだ母親として名を知られています。浅井長政の血筋は、茶々(淀殿)を通じて豊臣家に継がれました。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
次女・初は、従兄弟である京極高次に嫁いだものの、子宝には恵まれませんでした。
そして三女・江が産んだ子供たちの末裔が、今も続いています。江は徳川家康の三男・徳川秀忠へ嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産んでいます。
さらに、江が秀忠と結婚する前に死別した夫・羽柴秀勝との間に生まれた完子(さだこ)は、公家の名門・九条家へ嫁ぎました。この完子の血筋が九条家を通じて皇室へとつながり、大正天皇の皇后である貞明皇后を経て、今の天皇陛下へ至っています(出典:Wikipedia「豊臣完子」)。
また、茶々以外にも長政には息子たちがいました。浅井家滅亡後、長男・万福丸は信長の命を受けた羽柴秀吉によって処刑されていますし、次男・万寿丸は出家を命じられ、その後の消息は不明です。そのため、浅井家の直系子孫としては、三女・江の子孫が最も広く知られているといえます。
なお、浅井家の血筋は茶々を通じて豊臣家に繋がりましたが、豊臣秀頼は大坂夏の陣に敗れて滅亡しました。秀頼の息子・国松丸もこのとき処刑され、秀頼の娘は出家して神奈川県にある東慶寺で、子供をつくらずに一生を終えました。
→→→→→【浅井長政の子孫】について、さらにくわしくはこちら
浅井長政が残した遺産とは?
浅井長政が残した遺産として、歴史的な遺構や文化的影響が挙げられます。
小谷城跡
浅井家の本拠地であった小谷城は、今も滋賀県長浜市に遺構が残っています。城跡は国の史跡に指定されており、土塁や石垣・曲輪などが残っているため、訪れることで長政の時代を感じることができます。また、小谷城の跡地には「浅井長政公自刃之地」という碑が建てられています。
徳勝寺
長政の墓所があるお寺・徳勝寺は、現在も滋賀県長浜市に現存しています。曹洞宗の寺院です。
高野山持明院
ここには浅井長政とお市の方の肖像画が残されています。長女・茶々が秀吉との間に第一子・鶴松を産んだ際に、秀吉に建立を頼んだといい、肖像画もそのときに描かれたものとされています。
これらの遺産を通じて、浅井長政の歴史的・文化的な影響が現代まで受け継がれています。
さて、2026年放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも浅井長政は重要な人物として描かれています。次のセクションでは、ドラマでの長政の描かれ方を見ていきましょう。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」での浅井長政
中島歩が演じる「本当にいい人」浅井長政
2026年放送のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、俳優の中島歩さんが浅井長政を演じています。お市の方を演じる宮﨑あおいさんとの夫婦のシーンが話題を呼びました。
ドラマでは第10回「信長上洛」で初登場した長政は、知勇に優れながらも穏やかで誠実な青年武将として描かれています。中島歩さんは役について「本当にいい人」とコメントしており、市(宮﨑あおいさん)との関係性を大切に演じているとのことです。
第12回「小谷城の再会」では、小一郎(仲野太賀さん)や藤吉郎(池松壮亮さん)が信長(小栗旬さん)とともに小谷城を訪ねるシーンが描かれ、長政と市の穏やかな夫婦生活がつかの間の幸福として印象的に映し出されました。
そして第14回「絶体絶命!」では、信長の朝倉攻め(金ヶ崎の退き口)に際して長政が裏切りを選ぶ場面が放送されています。ドラマでは長政の裏切りが「本意ではなかった」という葛藤が丁寧に描かれており、視聴者の間でも大きな反響がありました。
筆者は大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる浅井長政は、「ただ優しいだけの人」ではなかったのではないかと考えます。確かに、死の間際に妻と娘たちを信長に預けて命を助けた長政は、間違いなく愛情深い人物です。しかし、信長の朝倉攻めの背後を突くという判断は、冷徹な戦国武将の計算があってこ子のものだったのでしょう。大河ドラマ「秀吉」(1996年)で渡哲也さんが演じた信長は圧倒的な存在感で長政を圧倒していましたが、「豊臣兄弟!」の小栗旬さんの信長もまた、同盟者でありながら長政にプレッシャーを与える迫力を感じます。史実と演出の違いを意識しながら見ると、ドラマがさらに楽しめるはずです。
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、今後さらに小谷城落城のシーンが放送される予定です。中島歩さん演じる長政と宮﨑あおいさん演じるお市の方の別れのシーンがどのように描かれるのか、浅井長政の史実を知った上で視聴すると、ドラマの奥深さが一層伝わるでしょう。31日間無料トライアルがあるため、見逃した回がある方はU-NEXTでの視聴をご検討ください。
まとめ
この記事では、浅井長政の死因と最期、信長を裏切った理由、お市の方との結婚、朝倉義景との関係、そして子孫と家系図について解説してきました。
要点を整理すると、浅井長政の死因は1573年(天正元年)の小谷城の戦いにおける「自害」です。享年29歳でした。織田信長の大軍に居城を攻め落とされた長政は、妻のお市の方と3人の娘たちを信長のもとへ逃がした上で、自ら命を絶ちました。
長政が信長を裏切った理由は、朝倉家との盟約に加えて、織田家に浅井家が飲み込まれるという危機感や、信長からの家臣扱いへの不信など、複数の要因が重なったものと考えられています。
そして、長政の三女・江の娘である完子を通じて、浅井長政の血筋は現在の天皇陛下へとつながっています。29歳で散った戦国武将の血が、数百年の時を超えて今も受け継がれているのです。
参考資料
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。
最終更新日:2026年4月13日

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