皆さんは浅井長政を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 浅井長政の死因は、自害。
- 長政は1573年の小谷城の戦いで、織田信長に攻撃されて敗北し、自害して亡くなった。
- 現在の天皇陛下は、浅井長政の子孫にあたられる
この記事では浅井長政を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は浅井長政について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、浅井長政に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
浅井長政の死因と最期の様子
浅井長政の死因
死因は自害です。みずから命を絶ったのです。
亡くなった日と享年
西暦1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)享年29歳
どのような最期をむかえたのか?
義理の兄・織田信長に居城である小谷城を攻撃されて落城。
浅井長政は追いつめられて、自害しているのです。
浅井長政のプロフィール
【名前】浅井長政
【生年月日】西暦1545年8月28日(天文14年)
【死没年月日】西暦1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)
【享年】29歳
【父母】浅井久政・小野殿
【妻】お市の方
【義兄】織田信長
【子】万福丸・万寿丸・茶々・初・江
浅井長政は、戦国時代の武将で、近江国(現在の滋賀県)の北部を治めていた浅井氏の当主でした。
1545年頃に生まれ、家族としては父は浅井久政、母は近江国の豪族・井口氏の娘で小野殿と呼ばれる女性です。
長政は若い頃から勇敢で知られ、特に永禄3年(1560年)の野良田の戦いで2倍以上の25000人の六角軍を11000人の軍団で撃破した活躍が有名です。
その後、織田信長と同盟を結び、1564〜1567年には信長の妹・お市の方と結婚し、関係を強化しました。
しかし、浅井家は信長と敵対する朝倉氏とも同盟関係にあったといわれています。
その板挟み状況から、長政は織田信長との関係が悪化。
1570年、織田信長が徳川家康と協力して、越前国(福井県東部)の朝倉義景を攻撃している最中に、浅井長政は突然味方であるはずの義兄・信長を裏切り、織田・徳川連合軍の背後を攻撃したのです。
同年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が戦った姉川の戦いでは、長政は信長をあと一歩のところまで追いつめるも敗北。
その後、信長の猛攻を受け、1573年に自害したとされています。
織田信長と浅井長政の同盟について
なぜ浅井長政は、織田信長と同盟を締結したのかを解説いたします。
信長と同盟を結んだ理由
浅井長政が織田信長と同盟を結んだ理由は、お互いの利益のためでした。
戦国時代は、日本各地で大名たちが勢力拡大を目指し争っていた時代です。
そのため、有力な同盟相手を見つけることが非常に重要でした。
浅井長政は近江国(現在の滋賀県)を治めており、織田信長は尾張国(現在の愛知県)を拠点にしていました。
両者は近隣で、お互いに協力すれば勢力を保ちつつ拡大できると考えたのです。
また、浅井長政は近江国南部を支配していた敵・六角氏との勢力との戦いにおいて、信長と共闘することで自らの領土を守ることができました。
同盟はお互いに有利な状況を生み出し、信長と長政はより強固な関係を築くために、信長の妹・お市の方を長政の妻として迎えることになりました。
長政とお市の方の結婚
長政とお市の方が結婚した理由は、織田信長と浅井長政の同盟関係をより強固にするためでした。
二人が結婚したのは、1564年から1567年の間であると考えられていますが、はっきりとした時期は不明です。
戦国時代には、大名同士が同盟を結ぶ際に、互いの家族を結婚させることで信頼関係を築くのが一般的でした。
織田信長は勢力拡大を目指していたため、浅井長政との同盟関係は重要だと考えていました。
一方、浅井長政も信長との同盟により、他の敵対勢力から自分の領土を守ることができました。
信長の妹であるお市の方を、浅井長政は妻として迎えることで、信長と長政の間に血縁関係ができました。
これにより、両者の同盟関係はより強固なものとなり、お互いに協力し合いながら戦国時代の激動の中で生き抜く力となりました。
織田信長との関係悪化と最期の戦い
なぜ、浅井長政は織田信長を裏切ったのか、その理由と最期の戦いを解説いたします。
信長との関係が悪化した理由
浅井長政と織田信長との関係が悪化した理由は、浅井家と信長の敵対勢力である朝倉家との繋がりが深いことだといわれています。
信長は浅井長政と同盟を結びながら、浅井家の同盟者である朝倉義景とも戦っていました。
しかし、浅井長政と朝倉家は長く盟友関係にあり、長政は織田信長と朝倉義景のの板挟みになってしまいました。
信長は朝倉家を滅ぼすために、長政に気をつかい、織田家と共に朝倉家と戦うことを、あえて求めなかったといいます。
ところが、長政は朝倉家との関係を断ち切れず、朝倉が支配する越前国・金ヶ崎城を攻撃していた織田信長の軍団を、背後から襲ったのでした。
これが【金ヶ崎の退き口】です。
この窮地を脱した信長は、長政と完全に決別。
これが姉川の戦いへ、そして長政の最期となる小谷城の戦いへと繋がりました。
長政・最後の戦い【小谷城の戦い】
長政の最後の戦いである「小谷城の戦い」は、1573年に織田信長が浅井長政を攻撃するために行われた戦いです。
信長は浅井長政が朝倉家との関係を断ち切らず、織田家を裏切って背後から襲いかかってきたため、激怒。
小谷城は浅井長政の本拠地で、信長は大軍を率いて城を攻撃しました。
長政は城の守りを固め、激しい抵抗を見せましたが、織田軍の圧倒的な兵力に抗しきれませんでした。
最終的に浅井長政は、妻である信長の妹・お市の方と、3人の娘たちを信長のもとへ送り返し、自害して果てます。
この戦いによって浅井家は滅亡し、その領地は信長の支配下に入りました。
その後、小谷城と北近江は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に与えられています。
長政の妻であるお市の方は信長のもとへ送られ、その後は信長の弟・織田信包または叔父・織田信次のもとで暮らしたといいます。
この小谷城の戦いは、信長の天下統一への道をさらに進めるきっかけとなりました。
浅井長政の子孫と遺産
浅井長政が残した子孫と遺産について解説いたします。
浅井長政の子孫
浅井長政の子孫は、現在の天皇陛下です。
浅井長政には何人かの子供がいましたが、特に有名なのは、浅井三姉妹と呼ばれる3人の娘でしょう。
特に長女である「茶々(のちの淀殿)」が有名です。
茶々は、豊臣秀吉の側室となって淀城を与えられたことで淀殿と呼ばれ、豊臣秀頼を産んだ母親として名を知られています。
浅井長政の血筋は、茶々(淀殿)を通じて豊臣家に継がれました。
次女・初は、従兄弟である京極高次に嫁いだものの、子宝には恵まれませんでした。
そして、三女・江が産んだ子供たちの末裔が、今も続いています。
江は徳川家康の三男・徳川秀忠へ嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産んでいます。
そして、江が秀忠と結婚する前に死別した夫・羽柴秀勝とのあいだに生まれた完子姫を通じて、今の天皇陛下へ血筋がつながっています。
また、茶々以外にも長政には息子たちがいました。
浅井家滅亡後、長男・万福丸は羽柴秀吉によって処刑されていますし、次男・万寿丸も亡くなっています。
そのため、浅井家の直系子孫としては、お江の子孫が最も有名であるといえます。
なお、浅井家の血筋は茶々を通じて豊臣家に繋がりましたが、豊臣秀頼は大坂夏の陣に敗れて滅亡しました。
秀頼の息子・国松丸もこのとき処刑され、秀頼の娘は出家して神奈川県にある東慶寺で、子供を作らずに一生を終えました。
→→→→→【浅井長政の子孫】について、さらにくわしくはこちら
浅井長政が残した遺産とは?
浅井長政が残した遺産として、歴史的な遺構や文化的影響が挙げられます。
小谷城跡
浅井家の本拠地であった小谷城は、今も滋賀県長浜市に遺構が残っています。
城跡は国の史跡に指定されており、土塁や石垣・曲輪などが残っているため、訪れることで長政の時代を感じることができます。また、小谷城の跡地には、浅井長政公自刃之地という碑が残されています。
徳勝寺
長政の墓所があるお寺・徳勝寺は、現在も滋賀県長浜市に現存しています。曹洞宗の寺院です。
高野山持明院
ここには浅井長政とお市の方の肖像画が残されている。
長女・茶々が、秀吉とのあいだに第一子・鶴松を産んだ際に、秀吉に建立を頼んだといい、肖像画もそのときに描かれたものとされる。
これらの遺産を通じて、浅井長政の歴史的・文化的な影響が現代まで受け継がれています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 浅井長政の死因は、自害。
- 長政は1573年の小谷城の戦いで、織田信長に攻撃されて敗北し、自害して亡くなった。
- 現在の天皇陛下は、浅井長政の子孫にあたられる
以上となります。
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