皆さんは【金ヶ崎の戦い】を、ご存知でしょうか?1570年に起こった織田信長が朝倉義景の金ヶ崎城を攻撃した戦いのことです。
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 金ヶ崎の戦いとは、1570年に織田信長が、朝倉義景の支配する越前国・金ヶ崎城を攻撃した戦いです。
- この戦いで、信長は義弟・浅井長政に裏切られ、大敗し撤退することになる
- 長政が裏切ったのは、織田信長から軽く扱われたためだとかんがえられている
この記事では【金ヶ崎の戦い】を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は【金ヶ崎の戦い】について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、【金ヶ崎の戦い】に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
金ヶ崎の戦いとは何か?
金ヶ崎の戦いとは、1570年、織田信長と越前国(福井県東部)の朝倉義景のあいだで起こった戦いです。
結果は、浅井長政が突然織田信長を裏切ったために、信長は敗北。撤退する羽目になった戦いです。
この戦いには、織田信長のほかにも、木下秀吉(豊臣秀吉)、徳川家康、明智光秀、松永久秀など、のちの天下を揺るがす名将たちが勢揃いしており、彼らがまとめて敗走したことでも有名です。
【年】
1570年
【場所】
愛知全国敦賀郡金ヶ崎(現・福井県敦賀市金ヶ崎)
【交戦勢力】
織田・徳川連合軍 VS 朝倉・浅井連合軍
【参戦指揮官】
織田・徳川軍:織田信長、徳川家康、池田勝正、木下秀吉(豊臣秀吉)、明智光秀、松永久秀、朽木元綱
朝倉・浅井軍:朝倉義景、浅井長政、朝倉景恒(金ヶ崎城の守将)
【兵力】
織田・徳川軍:30,000
朝倉・浅井軍:20,000(金ヶ崎城の守備軍4,500)
【結果】
織田徳川連合軍の撤退!織田徳川連合軍の損害は諸説あり、0〜2000まで
この戦いで、織田信長とその義弟・浅井長政の決別は決定的となり、両者は死闘を演じることとなるのです。
金ヶ崎の戦いの背景
金ヶ崎の戦いは、1570年に織田信長が越前国(福井県東部)を支配していた戦国大名・朝倉義景を滅ぼすために開始した戦いのことです。
室町幕府15代目の征夷大将軍・足利義昭の命令によって、織田信長は征夷大将軍の命令に従わない朝倉義景を討伐することとなりました。
信長は、盟友・徳川家康の援軍を加えて30,000人の大軍団で、越前国へ侵攻。
越前国の天筒山城・金ヶ崎城を攻め落とすことに成功したのでした。
この戦いは、織田信長による天下統一への重要な一歩という意味がありました。
しかし、信長の圧勝とみられていたこの金ヶ崎の戦いは、織田信長の義弟・浅井長政による思わぬ裏切りにより、信長の敗北となったのです。
金ヶ崎の戦いへの経緯をくわしく解説
金ヶ崎の戦いが起こった経緯を、くわしく解説いたします。
開戦!織田信長が越前・金ヶ崎城を攻めた理由
信長が金ヶ崎城を攻めた理由は朝倉義景が、京都へ来るようにという命令に従わなかったためです。
1568年、織田信長は足利義昭を連れて京都を占領することに成功し、足利義昭を室町幕府15代征夷大将軍に就任させました。
その後、足利義昭の名で、全国の戦国武将に、京都へ来て臣従し挨拶をするように命令を発したのです。
ところが、朝倉義景はこの京都へ来るようにという命令を無視。
これは、武士のトップである征夷大将軍・足利義昭に対して、朝倉義景が逆らったことを意味していました。
そのため、足利義昭は朝倉義景の討伐を、織田信長に命じたのでした。(足利義昭が朝倉討伐を命じた形にはなっていたが、実際には織田信長が朝倉義景を討伐する大義名分として、足利義昭を利用したともいえる)
1570年、織田信長は、明智光秀、木下秀吉、池田勝正、松永久秀を従えて、さらには盟友・徳川家康をも連れて、合計30,000人の大軍団で、越前国へ侵攻を開始したのでした。
ただ、この戦いは当初、若狭国(福井県西部)の武藤氏を攻撃するための出陣だったと言われてますが、武藤氏を庇護していた朝倉攻めこそが、本来の信長の狙いだったといわれています。
金ヶ崎城の落城
朝倉軍との交戦を開始した信長は、まず天筒山城を圧倒的な強さで攻め落とすことに成功します。
次に、朝倉義景の一族である朝倉景恒が4,500人の軍で守る金ヶ崎城を攻撃。
圧倒的な軍団で金ヶ崎城を包囲された朝倉景恒は、信長からの降伏勧告に従って開城し、金ヶ崎城は落城。
降伏した朝倉景恒は、朝倉一族からその不甲斐なさを責められ、約5ヶ月後に病死したといいます。
このとき朝倉軍は、実は内紛もあって金ヶ崎城への援軍をしぶっていました。
援軍が来ないことを知った朝倉景恒は、勝ち目なしとみなして開城した可能性もあります。
朝倉軍の援軍が来なかった理由
実はこのとき、朝倉軍のなかでは、内紛があったといわれています。
当主・朝倉義景や、金ヶ崎城の朝倉景恒、そして朝倉景鏡・朝倉景健などが、序列争いをしていたようです。
たとえば朝倉景恒は、朝倉景鏡と席次争いをしたといわれています。
そのため、朝倉景恒と金ヶ崎城は見捨てられ、木ノ芽峠という守備に適した地点で、織田徳川連合軍を防ごうと考えられたようです。
浅井長政の裏切り
戦いを有利に進めていた織田・徳川連合軍でしたが、突然の浅井長政の裏切りにより、撤退を余儀なくされます。
金ヶ崎城を落とした織田信長の元へ、不吉な報告が舞い込んできます。
越前国に接する近江国(滋賀県)の北部を支配していた信長の義弟・浅井長政が、信長を裏切って、出撃してきたというのです。
信長は、当初この知らせを『朝倉軍によるニセの情報である』と断言して、信じませんでした。
しかし、次々と飛び込んでくる【浅井長政裏切り】の知らせを聞いた信長は、長政の裏切りを信じざるを得ず、撤退を決意。
盟友である徳川家康にも知らせずに、一人で京都へ向けて撤退したといいます。
余談かもしれませんが、信長は、なぜ撤退しなくてはならなかったのでしょう。
織田軍は3万。北の朝倉軍は15000。南から迫る浅井軍は5000ほど。
素人の私からすれば、織田軍を二手に分けて、北の朝倉軍と南の浅井軍に別々に撃破すればいいと思ったのですが・・・。
歴史学者の本郷和人先生も、同じ疑問を抱いたらしく、自衛隊の幹部にこのことを質問したそうです。
すると、自衛隊幹部の方は、【挟み撃ちは危険だ】と応えたと言います。
たとえ少数の敵であっても、挟まれることが危険極まりないことであるというのは、当時も今も常識だったのでしょう。
お市の方から送られた【小豆】の伝説と意味
有名な逸話ですが、浅井長政の裏切りを、織田信長の妹であり長政の妻だったお市の方が、小豆の入った袋を暗号のように送って、危機を知らせたといわれています。
ところがこれは、後世の創作つまり作り話であると考えられています。
小豆にはそれほどの意味はなく、小豆が入った袋の両端を紐で縛っていたため、【ふくろのネズミ】という意味に読み取れ、信長は浅井が裏切り挟み撃ちにされることに気づいたというのです。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、小豆の袋ではなく、お市の方にかつて命を救われた侍女・阿月が、走って家康に危機を知らせて亡くなるという設定になっていました。
小豆を擬人化する設定は、とても斬新で話題となりました。
また、2006年の大河ドラマ『功名が辻』では、小豆の袋は、かつて織田軍団が大敗した【小豆坂の戦い】を暗示しているといわれていました。
小豆坂の戦いとは、1548年に織田信長の父・織田信秀と、徳川家康の父・松平広忠のあいだでおこった戦いです。
この戦いで、織田軍団は横から攻撃されて敗北しているのです。
実際には、お市の方から小豆が送られたわけではなく、浅井の裏切りを前もって警戒していた松永久秀らの方向があったともいわれています。
撤退戦!金ヶ崎の退き口!殿軍(しんがり)は秀吉ではなかった?
金ヶ崎城から撤退することを決めた織田信長ですが、その殿つまりは撤退の際に敵軍の追撃を防ぐ最後尾を守って実質捨て駒になって軍団を逃す役割を、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に命じたといわれていますが、実際には違うようです。
実際のところ、殿軍を指揮したのは木下秀吉ではないとされています。
信長は、金ヶ崎城を木下秀吉に守備させて、撤退完了までの時間を稼ぐつもりだったとも言われていますが、詳細は不明。
ただ、この殿の軍には、明智光秀、徳川家康がおこなったという説もあり、真相は定かではありません。
しかし木下秀吉が単独で殿軍をつとめたというのは、可能性が低そうです。
徳川家康の活躍
この金ヶ崎の戦いで、徳川家康は木下秀吉を救うという大活躍をみせています。
家康はこのとき、三河と遠江を支配していた小さな勢力でしたが、信長からの援軍要請と、征夷大将軍・足利義昭からの命令によって、金ヶ崎攻撃に参戦していました。
家康は、織田信長が長政の裏切りを知って撤退するにあたり、何も知らせてもらえず、置いてけぼりになったといいます。
家康は明智光秀や木下秀吉とともに、撤退。
その途中で家康は、敵軍に包囲されて瀕死の状態におちいっていた秀吉部隊を救ったといわれています。
織田信長が本能寺の変で亡くなったあと、1586年、家康が豊臣秀吉に屈服し、大坂城で秀吉と再会したとき、秀吉は家康に金ヶ崎の退き口で救われた件についてお礼を言ったとのことです。
朽木越えと松永久秀の活躍
撤退する織田信長が、琵琶湖の西に位置する朽木谷という地点を通る際に、この地を支配していた朽木元綱という武将が信長の命を狙っていたが、松永久秀の説得によって信長の味方をし、信長は助かったという逸話があります。
浅井長政の裏切りを知った信長は、わずか十名ほどを連れて、徳川家康にも知らせずに撤退を開始。
このとき、撤退ルートには、朽木谷という場所がありました。
朽木谷とは、足利義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、一時的に身を隠していた場所でした。
この地を支配していたのは、朽木元綱という若い武将でした。
朽木元綱は、当初は織田信長を討ち倒して、その首を取ろうと狙っていたといいます。
ところが、信長を護衛していた武将・松永久秀が、朽木元綱を説得することに成功し、危機を脱したのでした。
松永久秀は、その後何度も信長を裏切ることになりますが、信長はこのときの恩を忘れていなかったらしく、何度も松永久秀を許しています。
無事京都へ撤退することに成功した織田信長は、その翌日には、何事もなく京都御所の改修工事を視察しています。
金ヶ崎の敗戦など、大したことではないと、天下にアピールしたのでしょう。
金ヶ崎の戦いの勝敗と影響
金ヶ崎の戦いは、織田・徳川連合軍の大敗。浅井・朝倉軍の勝利ということになると思います。
しかし、織田信長の首を取ることが出来なかったことで、浅井長政と朝倉義景は、のちに破滅することになります。
この戦いで、織田信長は浅井長政の裏切りに激怒。
しかし織田信長の軍団に、致命的な損害を与えられなかったため、浅井・朝倉軍は信長の猛反撃を喰らうことになります。
ここから織田信長の猛烈な巻き返しと、浅井・朝倉の必死の抵抗が始まるのです。
浅井長政は、なぜ裏切ったのか?
浅井長政は、対等な同盟であったはずが、織田信長から軽く扱われ、家来として扱われかねない状況に危機感を抱き、信長を裏切ったと考えられています。
これまでは浅井長政は、長年の盟友である朝倉義景を、ひとことの相談もなく勝手に攻撃した織田信長に激怒し、盟友・朝倉を救うために信長を裏切ったとされてきました。
ところが近年の研究では、朝倉と浅井の長年の盟友関係を裏付ける証拠が存在していないことが判明したのだとか。
そこで、近年では独立心の強い浅井長政が、織田信長から軽く扱われ、対等ではなく臣下としてあつかわれたことに激怒してうらぎった、という説が有力になっています。
もともと浅井家は、独立心がつよく、京極家や六角家に臣従しながらも、裏切って独立を果たしています。
浅井の裏切りの理由は、独立心が強い浅井の家風にあったのかもしれません。
→→→→→【浅井長政はなぜ裏切ったのか】についてくわしくはこちら
金ヶ崎の戦いから、姉川の戦いへ
金ヶ崎の戦いから、わずか2ヶ月後の1570年7月30日、織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉連合軍を相手に、近江国・姉川で戦うことになります。
長政の裏切りに激怒した信長は、浅井長政と朝倉を滅ぼそうとしたのです。
浅井家が支配していた近江国の横山城を攻撃した織田信長と徳川家康に対して、浅井長政と朝倉景鏡の連合軍が、姉川を挟んで対峙しました。
この戦いは、のちに血原・血川などの地名を残すほどの激戦だったといわれています。
その後、足利義昭による信長包囲網によって、武田信玄や一向宗・比叡山延暦寺などと協力した浅井長政は、信長に抵抗することになります。
3年後の1573年、浅井長政でしたが、信長に敗れて戦死。
その頭蓋骨は、盃にされたともいわれています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 金ヶ崎の戦いとは、1570年に織田信長が、朝倉義景の支配する越前国・金ヶ崎城を攻撃した戦いです。
- この戦いで、信長は義弟・浅井長政に裏切られ、大敗し撤退することになる
- 長政が裏切ったのは、織田信長から軽く扱われたためだと考えられている
以上となります。
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