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三河一向一揆をわかりやすく簡単に解説!徳川家康を裏切った家臣は誰だ?

皆さんは1563年に起こった三河一向一揆みかわいっこういっきを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 三河一向一揆は、徳川家康に税を徴収された一向宗が怒り、家康に戦いを挑んだ農民反乱のこと
  2. 三河一向一揆は、家康と一向宗のあいだで和睦(仲直り)が成立し、終息した
  3. 家康を裏切り、一向一揆に味方した本多正信は、三河を追放された後、家康に許されて帰還した

この記事では三河一向一揆を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は三河一向一揆について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、三河一向一揆に詳しくなれます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

三河一向一揆みかわいっこういっきをわかりやすく簡単に解説

三河一向一揆とは、徳川家康(松平家康)が支配した三河国(愛知県東部)で、【1563年】から【1564年】まで約半年ほど続いた、一揆(農民反乱)のことです。

三河一向一揆は、三方ヶ原みかたがはらの戦い、神君伊賀越しんくんいがごえと並び、徳川家康の三大危機とされる危機でした。

一揆の原因は家康が寺から米を徴収したこと

【1563年】に起こった三河一向一揆の原因は、松平家康(のちの徳川家康)が、一向宗いっこうしゅうという宗派の寺から無理やり米を徴収したことです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

当時の寺は治外法権ちがいほうけん、つまり法律が通用しない特別な存在でした。

さらに、一向宗のお寺は、税を免除されていたため、お米を納める義務がなかったのです。

ところが家康は、そんな特別な権利を認められたお寺から、無理やり税を奪いとったのでした。

これに一向宗の信者たちが激怒。そして一斉に決起したのです。

家康打倒に立ち上がったのは、一向宗だけではありません。

家康に敵対する吉良義昭きらよしあき松平昌久まつだいらまさひさなどの敵対勢力も一向一揆とともに家康に襲いかかり、家康は一気に危機におちいったのです。

それだけではありません。

家康の部下たちが家康を裏切り、一向一揆に味方していたため、家康はさらに追いつめられることとなるのです。


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一揆の目的は、お寺の権利を守ることだった

一向宗が一揆を起こした理由は、お寺の特権を守るためでした。

先ほども申しましたが、お寺は税金が免除されていました。

さらに、法律も適用されない特別な存在、すなわちお寺は聖地・禁断の地だったのです。

その特権を元通りにしてほしいがために、一向宗は、一揆を起こしたのでした。

一揆とは農民反乱のことです。

一向宗は、信者である農民たちに、一緒に家康と戦うことを命じます。

【進めば極楽往生ごくらくおうじょう!退けば無限地獄むげんじごく

(戦って死ねば天国へ行ける!逃げれば永遠の地獄へ落ちるぞ!)

そう信者を脅した一向宗は、家康との戦いを無理やり行わせたのでした。


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三河一向一揆の終息

【1564年】、三河一向一揆は発生してから約半年後に、家康と和睦わぼく(仲直りすること)を成立させて終息します。

一向宗との戦いに苦戦した家康は、伯父・水野信元みずののぶもとの仲介で和睦をすることにします。

一向宗の特権は復活。そして裏切った家康の部下たちの罪は許すという条件で仲直りしたのです。

こうして一向宗との戦いは終わったはずでした。

しかしこのあと、家康は三河国内での一向宗の活動をすべて禁止してしまいます。

そして、家康は三河国内から一向宗を追放していくのです。


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そもそも【一向一揆】とは何なの?

一揆とは農民反乱ことです。

では一向一揆の一向いっこうとは、何を意味しているのでしょうか?

一向一揆とは、一向宗が起こした一揆(農民反乱)

一向一揆とは、一向宗いっこうしゅうという宗派が起こした一揆(農民反乱)のことです

一向宗とは一向という僧侶が広めた仏教の宗派のことです。(現在、一向宗は浄土真宗じょうどしんしゅうに組み込まれ、浄土真宗の一派となっている)

その教えは、大金をお寺に寄付しなくても、出家して厳しい修行をしなくても、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと唱えるだけで地獄行きをまぬがれて極楽へいくことができる、というとてもお手軽な、まさに貧しい農民向けなものでした。
(当時は、お寺へ多額の寄付をするか、または出家して僧侶になるしか、極楽へいく方法がないと考えられていたのです。)

一揆とは、土地の支配者に対する農民たちの反乱のことです。

つまり三河一向一揆とは、三河国(愛知県東部)の一向宗の僧侶と信者が起こした一揆(農民反乱)のことなのです。


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当時のお寺は、立派な人ばかりじゃなかった

当時のお寺は税を免除され、法律も適用されない特権を使って、好き放題に振る舞う特権階級な存在でした。

人気漫画【ワンピース】で例えるならば、天竜人のようなものです。

【僧侶を怒らせたら仏様の罰が当たる】という決まり文句で権利を行使する厄介な存在でした。(もちろん当時から立派な僧侶も大勢いた)

白河法皇しらかわほうおうをご存知でしょうか?

《白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

サイコロ・鴨川かもがわ山法師やまほうし(この場合は比叡山延暦寺の僧侶のこと)、この三つ以外は私の思うがままだ

というセリフを口にした12世紀の日本を支配していた絶対権力者です。
(白河法皇が、実は平清盛たいらのきよもりの実の父親であるという説がある。また、織田信長は平清盛の子孫を自称していたので、可能性は極めて低いが、信長は白河法皇の子孫という可能性がある。ただ可能性は低い。)

→→→→→【織田信長おだのぶながの先祖と家系図と子孫】についてくわしくはこちら

サイコロは偶然に支配された物ですので、誰も思い通りになどできません。

当時としては水害が多かった京都を流れる鴨川かもがわは自然のものなので、コントロールできなくて当たり前です。

白河法皇ほどの絶対権力者でも、偶然と自然と並ぶほどに思い通りにならないのが、僧侶だったのです。

現代でいえば、お寺の僧侶は念仏を唱えて死者の供養をし、立派な説教をしてくれる存在です。

しかし当時の僧侶は、寺社・僧侶という特権を利用して金儲けや権力を振るった連中でした。(だから、織田信長は不良坊主の巣になっていた比叡山延暦寺を焼き討ちにした)

→→→→→【比叡山延暦寺焼き討ち】についてくわしくはこちら

特に一向宗は、【進めば天国に行ける!逃げれば無限地獄に落ちる】といって信者を脅し、戦いに駆り立てたのです。

まだまだ弱小勢力だった家康が、苦戦するのは当然だったのです。


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三河一揆で家康がピンチに陥った理由!裏切り者は誰?

三河一向一揆で、家康は本多正信や夏目広次・渡辺守綱など、信頼していた部下たちに裏切られています。

家康の家臣団が裏切り、敵になっていた

三河一向一揆で家康が危機におちいった理由の一つに、家康が信頼していた部下たちに裏切られたという点があげられます。

家康は、忠誠心が強いとたたえられ、信頼していた三河武士団の部下たちに裏切られていたのです。

当時の日本は、現代ほど科学が発達していなかったため、神仏や地獄・極楽の存在が信じられていたのです。

その神や仏、極楽に地獄というものは、今以上に絶対の存在だったのです。

そのため、一瞬で終わる生涯において主君・徳川家康に逆らうことよりも、永遠に続く死後の世界において地獄へ落ちることの方が、よほど恐ろしかったのです。

ただ、家康を裏切った部下ばかりではありません。

中には一向宗から宗派を変えてまで、家康に味方した部下もいたのです。


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家康を裏切った家臣たち一覧

本多正信ほんだまさのぶ
家康に友と呼ばれて信頼された名参謀。体育会系な武闘派・三河武士団のなかで、石川数正と並ぶ頭脳派だった

本多正重
本多正信の実弟。のちに織田四天王の一人である滝川一益、そして前田利家・蒲生氏郷に部下としてつかえ、そのあと徳川家へ帰還している

夏目吉信
実名は夏目広次。【1573年】の三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなり武田軍に突撃。壮絶な戦死を遂げる。明治の文豪・夏目漱石は、この夏目一族の子孫を自称していたといい、夏目吉信の子孫という説がある。

渡辺守綱
通称・槍の半蔵と呼ばれた槍の達人。のちに徳川十六神将の一人に数えられる猛将で、一向一揆での罪を許されて徳川家へもどったあと、金ヶ崎の退き口などで家康を助けた。父・渡辺高綱とともに三河一向一揆に参加した。父・高綱は、1564年の針崎一揆で戦死している。

内藤清長
家康の父・松平広忠や、祖父・松平清康にもつかえた人物。徳川十六神将の一人である内藤正成の伯父にあたる。余談だが、甥・内藤正成は弓の名人で、三河一向一揆で渡辺守綱の父・渡辺高綱を弓で射抜くという功績をあげている

加藤教明
猛将・加藤嘉明かとうよしあきの父。三河一向一揆のあと、加藤教明は足利義昭につかえ、続いて羽柴秀吉の部下としてつかえ、息子・加藤嘉明は賤ヶ岳しずがたけの戦いで活躍。福島正則・加藤清正と並ぶ賤ヶ岳七本槍の一人として大大名となる。賤ヶ岳の戦いから大坂の陣まで戦い抜いた歴戦の猛者・加藤嘉明はその後、家康の孫・徳川家光の具足始ぐそくはじめ介添役かいぞえやくという名誉を得ている

酒井忠尚
徳川四天王筆頭である酒井忠次の一族とされている。一向一揆のあとも家康に抵抗し逃亡。その後は消息不明

石川康正
石川数正の父。息子の石川数正は一向宗から改宗して家康に味方し、弟の石川家成も家康に味方した。一揆が始まった【1563年】にはすでに亡くなっていたという説もある


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家康を裏切らなかった家臣たち一覧

本多忠勝
徳川四天王の一人。結城秀康の御手杵おてぎね、福島正則の日本号にほんごうと並ぶ天下三名槍のひとつ【蜻蛉切とんぼぎり】の使い手で、秀吉から【西の立花宗茂たちばなむねしげ・東の本多忠勝】とたたえられた。

大久保忠世
本多正信の友であり、正信を何かと助ける武将。しかし息子の大久保忠隣ただちかは、正信とその息子・本多正純まさずみとの権力闘争に敗北して失脚している

榊原康政
徳川四天王の一人。部隊の指揮官としての能力は、四天王のひとり井伊直政と並んで優れていると言われた名将。

石川数正
酒井忠次と並んで徳川家で最上級の地位を占めることとなる智将。家康の妻子を今川氏真から取り戻し、秀吉との和睦外交を担当したが、秀吉に寝返ることとなる。家康を裏切り秀吉に寝返った理由には、諸説ある

→→→→→【石川数正の裏切りの理由】についてくわしくはこちら

酒井忠次
徳川四天王筆頭であり、徳川十六神将の筆頭でもある人物。長篠の戦いで武田勝頼の背後にある鳶が巣砦とびがすとりでを急襲する秘策を立案し、信長にその知勇を賞賛された

参謀・本多正信が家康を裏切った理由とは?

本多正信が家康を裏切った理由は、彼が熱心な一向宗の信者であったからだと考えられます。

本多正信
引用元Wikipediaより

当時は今ほど科学が発達していなかったため、極楽や地獄というものが実際に信じられていました。

そのため、一向宗や浄土宗のように、念仏を唱えるだけで極楽へいけるという手頃で簡単な方法をすすめる宗派は、お金を寄進する余裕のない貧しい農民から強烈な信仰を集めたのでした。

本多正信は、そんな一向宗の教えを、熱心に信じていたのではないでしょうか。

また、もしかすると本多正信は、一向宗を信じる力無い農民を守りたかったのかもしれません。

本多正信は、一向宗に味方して必死に戦い、極楽浄土へ行くことを願う民衆を守るために、家康を裏切ったのかもしれません。

この三河一向一揆のあと、本多正信は京都へ向かい、そこから一向宗の根城であった加賀へ向かいます。(その当時の加賀[石川県南部]は、武士ではなく一向宗によって支配され、百姓の持ちたる国と呼ばれていた)

そしてそこで、一向宗を徹底的に弾圧した魔王・織田信長を相手に死闘を繰り広げるのでした。(詳しくは後述しますが、一説によると正信は信長と戦う前に、家康のもとへ帰還している)

→→→→→【本多正信のその後】についてくわしくはこちら


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三河一向一揆のその後

三河一向一揆のあと、織田信長は一向宗(石山本願寺いしやまほんがんじ)と10年におよぶ本格的な戦争をすることになります。

織田信長が一向宗と敵対

三河一向一揆が終わった後の【1570年】から【1580年】まで、織田信長は本願寺顕如ほんがんじけんにょが率いる戦国時代最大の武装宗教勢力である石山本願寺と死闘を繰り広げることになります。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

【1570年】、織田信長が現在の大阪城にあった一向宗の総本山・石山本願寺に、その土地をあけ渡して退去するように命令。

現在の大阪城内にある石山本願寺跡地

ところがこれに激怒した石山本願寺は、信長を仏敵と呼んで徹底抗戦。

各地で織田信長を倒すために一向一揆が起こったのです。

しかし三河では一向宗が禁止となっていたので、家康に害はなかったといいます。

【1580年】ついに本願寺が信長に降伏し、石山本願寺から退去。

信長をもっとも苦しめた宗教勢力・石山本願寺は、こうして信長に屈服。

一向宗は戦国時代屈指のものだった権力を失い、衰退していくのでした。


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裏切り者【本多正信】の帰還

本多正信は三河一向一揆のあと家康のもとから家出いえで(または追放処分ついほうしょぶん)をしたものの、のちに家康のもとへ帰還しています。

帰還した時期は定かではありません。

家康が姉川あねがわの戦いで活躍した【1570年】の頃という説があります。

しかし一方で、【1582年】に織田信長が本能寺の変で亡くなる直前、家康の神君伊賀越しんくんいがごえのあたりで帰還したともいわれているのです。

帰還できた理由は、正信の盟友であった大久保忠世おおくぼただよが後押ししたからだといいます。

その後、本多正信は家康の参謀として、家康の天下取りをずっと支え続けることになるのです。

ところが、正信は恩人であるはずの大久保忠世の息子である大久保忠隣ただちかと権力闘争を開始してしまいます。

そして大久保忠隣を流罪に追い込むのです。(本多正信が大久保忠隣を追い落としたわけではないという説もある)

三河武士団のリーダーのような存在で、人望も厚かった大久保忠隣を流罪に追いつめた正信とその子・正純は、徳川家康の長女・亀姫(加納御前かのうごぜん)とその夫である奥平信昌とも敵対してしまうのです。

そして加納御前の策略によって、本多正信の死後、息子の正純は【宇都宮釣天井事件うつのみやつりてんじょうじけん】と呼ばれる徳川秀忠・暗殺未遂事件をでっちあげられて、領地没収されることとなるのでした。

ちなみに家康の死の直後、正信もそのあとを追うようにして亡くなっています。

家康から、ゆいいつ【友】と呼ばれるほどに信頼されていた本多正信は、家康を失い、その役目を終えたのでしょう。

亡くなる際に、正信は息子の正純に対して本多家の滅亡を予想して

大きな領地をもらってはいけない

と遺言したといいます。

→→→→→【本多正信のその後】についてくわしくはこちら

→→→→→【本多正信ほんだまさのぶの遺言】についてくわしくはこちら

→→→→→【本多正信と本多忠勝ほんだただかつの関係】についてくわしくはこちら


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一揆の首謀者・空誓上人は家康の協力者となる

三河一向一揆の中心人物であった本證寺の空誓くうせい上人しょうにんは、一揆のあと家康に許されて、家康の息子を補佐する立場についています。

三河一向一揆の際に、怪力を活かして鉄棒を振り回し奮戦した空誓上人でしたが、戦いに敗北。

一向一揆が和睦で終了すると、家康から追放されることとなります。

三河を追放された空誓は、一向宗の総本山であり、石山本願寺のボスである本願寺顕如ほんがんじけんにょを支援したといいます。

10年に及ぶ織田信長と石山本願寺の戦いに敗北した本願寺顕如を、空誓は支援したのです。

【1583年】、織田信長の死後、家康は三河での一向宗禁止を解禁。

【1585年】、空誓上人は、三河国の本證寺ほんしょうじ再興に成功。

家康の九男で尾張藩主の徳川義直とくがわよしなおを助けるように家康から依頼された空誓は、義直に祝辞を述べるなど親密な関係を維持するようになったのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 三河一向一揆は、徳川家康に税を徴収された一向宗が怒り、家康に戦いを挑んだ農民反乱のこと
  2. 三河一向一揆は、家康と一向宗のあいだで和睦(仲直り)が成立し、終息した
  3. 家康を裏切り、一向一揆に味方した本多正信は、三河を追放された後、家康に許されて帰還した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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