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本多正信は三河一向一揆のその後にどこ行った?最後は徳川家康のもとへ帰還し亡くなった

皆さんは本多正信ほんだまさのぶを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

 

  1. 正信は、熱心な一向宗の信者だったので、家康を裏切った。または家康の待遇が悪かったため裏切ったという説もある
  2. 三河一向一揆のあと、家康から三河追放処分となった正信は、加賀一向一揆に参加したり、松永久秀につかえたりしたという
  3. 三河一向一揆から数年後、正信は家康に許されて徳川家へ帰還。参謀として家康を助けることになる

 

この記事では、本多正信が三河一向一揆のあとどこへ行ったのかを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

 

今は本多正信について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、本多正信に詳しくなれます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

本多正信が三河一向一揆で徳川家康を【裏切った理由】とは?

【1563年】から【1564年】に起こった三河一向一揆で、本多正信が家康を裏切った理由は、正信が熱心な一向宗の信者であったためと考えられます。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

当時は極楽や地獄が本当に信じられていたので、主君と信仰を天秤にかけて、正信は家康より神様や仏様を選んだのです。

 

または、家康の部下の中で不遇だったため裏切ったともいわれています。

 

本多正信はこのとき、家康の部下である酒井忠尚さかいただなおのそのまた部下だったといいます。

 

酒井忠尚は三河一向一揆で家康を裏切り敵対。

 

本多正信も主君だった酒井忠尚に従って家康と敵対したといいます。

 

ただ、本多正信の父・俊正は息子と別れて、家康に味方しています。

 

また、これはまったくの筆者の妄想でしか無いが、正信は一向宗を信仰していた力のない民衆を守るために、家康を裏切ったのかもしれません。

 

実は本多正信は、のちに大出世はしたものの、当初は低い身分の武士でしかなかったのです。

 

そのため、自分と同じ低い身分の農民たちに、親しい友人でもいたのかもしれません。

 

もしかすると正信は、一向宗の寺で、恋人や友を持っていたのかもしれませんね。


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三河一向一揆のその後、本多正信はどこへいったのか?

本多正信は、三河一向一揆のあと、家康から三河追放処分とされています。

 

三河を追放された正信は諸国を放浪。加賀国で一向宗とともに戦っていたといいます。

 

一向宗が戦国大名を追い出して、『百姓の持ちたる国』と呼ばれて支配をしていたのです。

 

この加賀一向一揆に加勢して戦ったとか。一向宗との宗教戦争として有名な【石山戦争】を行っていた信長と敵対してたたかったともいわれています。

 

また、大和国(奈良県)を支配していた松永久秀に部下としてつかえ、その頭の良さを褒められたという説もあります。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

その後、正信は家康に許されて徳川家に帰還。

 

帰還した時期は不明です。

 

【1570年】に、織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政と朝倉の連合軍と戦った【姉川あねがわの戦い】の頃ともいわれていますし

【1582年】の、織田信長が亡くなった、本能寺の変の直前ともいわれています。

 

→→→→→【三河一向一揆とは何か】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【松永久秀の子孫は、あのお笑い芸人の奥様】についてくわしくはこちら

家康のもとへ帰還!正信が帰還できた理由とは?

正信が家康のところへ帰還できた理由は、そもそも正信がそれほど重大な存在ではなかったため、家康から恨まれていなかった可能性があります。

 

また別の可能性としては、正信は体育会系の三河武士団のなかで、めずらしく頭脳派だったからという理由もあり得ます。

 

そのため家康は相談相手として、または参謀として、正信を重宝したのです。

 

家康は正信を相当に信頼していたらしく、息子・秀忠の相談相手として、正信を秀忠のそばにおいておいたといいます。

 

【1600年】の関ヶ原の戦いで、上田城の城主・真田昌幸とその子・真田信繁(幸村)を秀忠が攻撃した際、正信は攻撃に反対したといいます。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

正信の意見をきかなかった秀忠は、関ヶ原の戦いに遅刻して、一生に残る恥をかいてしまいました。

 

その後も、家康が駿府へ隠居したあと、正信は秀忠のそばにくっついて、相談相手として貢献したといいます。

 

家康は、自分の心のうちをよく知っていたという正信を、自分の代わりに秀忠のそばに置いていたのです。


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本多正信の最期

【1616年7月20日(元和2年6月7日)】、主君の徳川家康が亡くなった2ヶ月後に、正信もあとを追うようにして亡くなりました。

 

正純は、息子の正純まさずみに対して遺言として

 

3万石以上の褒美を受け取ってはならない

 

と言い残したといいます。

 

なぜなら、正信は体育会系の三河武士団のなかで、めずらしい頭脳派であったため、小ずるいやつといわれて嫌われていたのです。

 

父と同じく頭脳派だった本多正純は、父の遺言に違反してしまいます。

 

家康の息子で二代目の徳川秀忠に信頼された本多正純は、15万石をもらってしまいます。

 

そして、失脚する運命をたどることになるのです。

 

→→→→→【本多正信の遺言】についてくわしくはこちら


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正信の死後に起こった出来事!【宇都宮釣り天井事件】とは?

正信が亡くなったあと、家督は本多正純が継承しましたが、罠にハマって領地を没収されることになります。

 

本多正純を罠にはめたのは、なんと徳川家康と正室・瀬名姫(築山殿)の長女である亀姫(加納御前)だという噂です。

 

実は正純は、徳川家内部の権力闘争で、大久保忠世の息子で武闘派のリーダーだった大久保忠隣ただちかを失脚させていたのです。

 

これに激怒したのが、大久保家と縁が深かった家康の長女・亀姫です。

 

正純は、宇都宮釣り天井事件という、秀忠暗殺未遂事件をでっちあげられて失脚してしまうのでした。

 

この罠を仕掛けたのが、亀姫だという噂があったようです。

 

本多家はその後領地を没収されて失脚。子孫は明治維新まで続いたが断絶したといいます。

 

ただ、正信の次男だった本多政重は加賀百万石の前田家に家老としてつかえ、その子孫は現代まで続いているのです。


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徳川四天王・本多忠勝と本多正信の関係とは?

本多正信と本多忠勝は、先祖を同じくする同族です。つまりは血のつながった遠い親戚なのです。

 

しかし忠勝は、正信のことを毛嫌いしていたといいます。

 

  • 佐渡さどの腰抜け(佐渡とは、佐渡守さどのかみを名乗っていた本多正信のことを指す)
  • 同じ本多でも、俺とあいつは無関係

 

などと言っていたといいます。

 

本田忠勝
引用元Wikipediaより

 

ところが、そんな本多正信は主君の徳川家康から大変に気に入られていました。

 

  • 佐渡殿さどどの
  • 雁殿かりどの
  • 六殿ろくどの

 

とたたえられたほどです。

 

これは、徳川家康が好きな3つのものを指します。

 

佐渡殿とは、本多正信のことを指します。

 

雁殿かりどのとは、家康が好きだった鷹狩りの獲物であるがん、つまりはカモのことを指しており、つまり家康が鷹狩りが好きだったことを意味します。

 

お六殿とは、家康が最晩年にもっとも愛した側室のことです。大変美しかったといいます。

 

つまり家康は、生涯の趣味だった鷹狩りや、美しい側室と並ぶほど本多正信を大事にしたのでした。

 

おそらくそのことが、本多忠勝が本多正信への憎しみを増大させた理由の一つでもあったのでしょう。

 

→→→→→【本多正信と本多忠勝の関係】についてくわしくはこちら

まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 正信は、熱心な一向宗の信者だったので、家康を裏切った。または家康の待遇が悪かったため裏切ったという説もある
  2. 三河一向一揆のあと、家康から三河追放処分となった正信は、加賀一向一揆に参加したり、松永久秀につかえたりしたという
  3. 三河一向一揆から数年後、正信は家康に許されて徳川家へ帰還。参謀として家康を助けることになる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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