【源義経】の子孫は断絶したといわれていますが、義経の息子が【中村朝定】と名乗って生き延びた伝説があるようです。
その子孫が、現代にも続いているのだとか。
この記事では【源義経の子孫】について、ひと目でわかるように家系図の画像つきで、カンタンに解説いたしました。
これを読めば、源義経の子孫について、一瞬でわかります。
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この記事を短く言うと
- 源義経の息子は生き延びて【中村朝定】と名乗り、生き延びたという伝説がある
- 義経の先祖には、名将・源義家や、9世紀の清和天皇がいる
- 義経の息子とされている中村朝定の子孫には、福井県立大学の名誉教授で農学者の中村充さんがいる
源義経の家系図
源義経の家系図は、以下のとおりです
源義経には、静御前という女性とのあいだに、男児がいました。
しかし、その男の子が生まれたとき、義経は兄・源頼朝と敵対していました。
そのため、頼朝は静御前が女子を産んだら命を助けても良いが、男子を産んだら処刑する、と言い渡したのでした。
その後、静御前は男子を産んだため、その子は由比ヶ浜(現在の鎌倉市南部の海岸)に埋められ、亡くなったのでした。
源義経のご先祖さまは誰?
源義経の先祖は、9世紀に活躍した、清和天皇というお方です。
もうひとり、義経の先祖には、源義家という名将がいます。
義経たち源氏とよばれる一族は、天皇の血を引く一族でした。
そのため義経たち源氏一族は、清和源氏とも呼ばれています。
しかし時代が流れるにつれて、天皇の末裔であった源氏はいつのまにか、武士という低い身分へ落ちていたのです。
そんな源氏の一族から、源義家という名将が誕生します。
義家は、後三年の役という戦争で活躍し、その名前を歴史に刻みつけました。
その末裔である義経もまた、兄・源頼朝とともに、宿敵であった平家を攻め滅ぼして、その名を歴史に刻みつけたのでした。
義経の先祖は、清和天皇、そして伝説の名将・源義家なのです。
源義経の子孫の現在とは?
極めて可能性が低いとは思うのですが、2021年にお亡くなりになられた農学者・中村充先生という方が、源義経の子孫かもしれません。
源義経には、1189年に、衣川の戦いで義経とともに亡くなった娘と、静御前が産んだ男の子がいました。
娘も息子も、幼くして亡くなっていますので、子孫が残っている可能性は低いです。
しかし、青森県弘前市の円明寺というお寺には、義経の息子が生き延びたという言い伝えが残されています。
それによると、千歳丸という義経の息子が、常盤入道念西という人物の養子となって生き延びたというのです。
千歳丸は、のちに中村朝定と名乗り、現代までつづいているのだとか。
その末裔が、農学者・中村充先生である可能性があります。
ただ、あくまでも伝承であり、義経の子孫が本当に続いているのかどうかは、はっきりしていません。
余談ですが、義経の叔父に、猛将と恐れられた源為朝という人物がいます。
伝説でしかありませんが、この源為朝の子孫が、西郷隆盛の妻・愛加那であるといわれています。
また、源為朝の孫娘が、鎌倉幕府2代将軍の源頼家の妻となり、公暁という息子を産んでいます。
公暁は、3代将軍・源実朝を暗殺しています。
源義経と【チンギス・ハーン】の伝説について超簡単に解説
源義経には生き延びて大陸へわたり、チンギス・ハーンと名を変えて、ユーラシア大陸に大帝国を作り上げた、という伝説があります。
結論からいえば、義経が【チンギス・ハーン】になったというのは、真実ではありません。
近年の研究では、源義経とチンギス・ハーンは、間違いなく別人なのです。
ただ、義経とチンギス・ハーンが同一人物であるという、あくまでもフィクションの物語としてならば、とても興味深くて楽しめるものであると思います。
筆者も、義経とチンギス・ハーンはまったくの別人であると思っていますが、それでも心のどこかで、この夢のある物語への期待を捨てきれないのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 源義経の息子は生き延びて【中村朝定】と名乗り、生き延びたという伝説がある
- 義経の先祖には、名将・源義家や、9世紀の清和天皇がいる
- 義経の息子とされている中村朝定の子孫には、福井県立大学の名誉教授で農学者の中村充さんがいる
以上となります。
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